恋の足音


「なぁ、藍沢さん」
「…ヒッ」
「悪いけど教科書忘れてしまったから見せて欲しい」

 髪の毛をピッチリと分けてひとつに縛り、お父さんが掛けるようなジジくさい眼鏡の彼に声を掛けられて思わず変な声が出た。私の声に少し眉間に皺が寄ったような気がしたけどそれはすぐに解かれてジッと私を見てくる。
 隣の席に座る場地圭介くん。私は彼が苦手だ。元々は別にそうでもなかった。真剣に板書して授業を受けている真面目な子、そんなイメージ。
 だけどそれが一変したのは、先日塾の帰りに偶然通った公園脇の道。夜なのに音がすると何気なく視線を向けた先にいたのは、暗がりでも分かる不良達だった。そのまま帰ればいいのに何故が足が止まってしまう。学校でもそういう人達はいるし見たことあったけど、実際に人を殴っているようなシーンは見たことがなく足が竦むのは恐怖からだと理解した。
 きっと数秒の出来事。だけど私はずっとその場に居るような錯覚さえ起こって、別のところから聞こえた声にハッと我に返った。

「場地さん! あっち片付きました!」
「おう…あ〜腹減ったな」
「買ってきましょうか? ペヤング」

 他愛もない会話だけど、私は見てしまった。駆け寄ったのは同じ学年の松野千冬くん。そしてさっき殴っていた不良は、場地くん。髪の毛を下ろしてるし見間違いかもしれないという淡い期待なんてもてない。なにより松野くんが彼の名前を呼んだ。
 二人から目を逸らせずにいると、ふと場地くんの視線が私に向いた。口が開いたから何かを言ったのかもしれない。でも私はそれを聞かずにその場から駆け出していた。初めて、場地くんが怖いと思った。
 私のことを見られたかもしれないと思いながらも、次の日場地くんはいつもの場地くんで、眼鏡を掛けて授業を受けていた。もしかしたらバレてないのかもしれない、私だって。彼の顔を確かめるようにジッと見ていると、「何?」と視線が飛んできて私は慌てて下を向いた。

 それから場地くんから喋りかけられれば妙に緊張してしまって変な相槌しか打てなかった。別に自分が殴られるわけでもないのに、怖い。何が怖いかも正直分からないのに、勝手にビクビクしてしまう。
 そんなある日、学校帰りに雨が降った。私は折り畳み傘を広げて塾へと向かう。あの日場地くんを見た公園を通りかかった時、小さな鳴き声がして足が止まった。
 視線を動かせばすぐに分かった。小さなダンボールにいた子猫。ミャアと鳴いている。雨に濡れてしまうと思って私は無意識に駆け寄り、猫が濡れないようにしゃがんで傘を傾けた。
 このままだと塾の時間に間に合わない。だけど子猫を放って置くことなんてできそうになくて、家に連れて帰ろうかと迷っていた矢先、私の体に当たっていた雨粒が消え、聞こえてきた別の雨音に無意識に顔を上げた。
 私を覆うビニール傘。それを持っていたのは場地くんだった。学校とは違う、あの日見た場地くん。

「何してんだ、藍沢」
「えっと……この子が濡れちゃうと思って、その…」
「お前が濡れてんだろ。あの中に入りゃ良かったじゃねーか」

 場地くんが指さすのは公園内の遊具。中が空洞になっているそこは雨宿りに最適だ。というか口調が普段と全然違うんですけど。

「…気づかなかった」
「バカなんじゃねーの」

 そう言って歯を見せて笑う場地くん。初めて見る笑顔だった。私が動けずにいると、私に傘を当てたまま片手で猫を拾い上げる。

「お前、行くとこねぇーのか。どうすっかなぁ…俺んちダメなんだよ」
「じゃあ、うちに連れてくよ!」
「本当か?! 良かったなぁお前!」

 本当に、場地くん?
 そう言いかけた言葉を飲み込んだ。あれだけ怖いと思っていたのに今はそんな気持ちどこかへ行ってしまった。私は何を恐れていたのだろう。こんな風に猫と戯れて、嬉しそうに笑って…本当は優しい人なのかもしれない。

「…あ? なに笑ってんだよ」
「ううん、何にもないよ」
「……お前さ」
「うん」
「俺のこと、怖ぇか?」
「え?」
「いやなんつーか、最近声かけるとビクビクしてたじゃねーか。なんかしちまったかなと思って…質問しまくってたのが気に食わなかったのか?」

 コメカミ辺りを指で掻きながら視線を外してゴニョゴニョと言葉を繋いでいく。一瞬私に向けられた瞳が、少しだけ寂しそうだった。
 あぁ、場地くんはこんな顔もするのか。私は彼のことなにも見てなかったんだな。どれが本物かはわからないけど、きっとどれも場地くんなんだろう。

「見ちゃったの、この公園で。普段と違うから吃驚して…ごめんなさい、変な態度取って。でも今は怖くないよ」
「そうか! それなら良かったぜ!」
「それに場地くんの隣は好き。いつも一生懸命で、教えるのも楽しいから」
「…俺が、好き?」
「え?!」
「マジか!! 藍沢、俺のことそんな風に…」

 ちょっと待って。待って待って!
 勘違いした場地くんが顔を赤くしながらも嬉しそうにずっと喋ってる。私の遮る声なんて届いてない。

「実は俺も、藍沢はなんか違ぇなって思ってたんだ。優しいしたまに目が合うと笑ってくれただろ。なんかモヤモヤすんなぁと思ってたけどやっと分かった……俺は藍沢のことが好きだったんだな!」

 一人で解決して満足した場地くんは、猫のような八重歯を見せて笑いながら私の肩に手を置いた。彼の腕の中の子猫が、ミャアと小さく鳴く。それに対して「お、お前もそう思うか?」なんて子猫に喋りかけてる。
 何だか必死になって否定しようとしてるのが馬鹿らしくなってきた。本当に違うなら私だってもっと必死になる。だけど、場地くんを見ていたら…勘違いされたままでもいいと思えた。きっとすぐに、勘違いではなくなるような気がして。

「ねぇ場地くん」
「ん?」
「その子の名前、一緒に考えようよ」

 まだ淡く色付いただけの想い。きっとこの子猫が育っていくとの同じように、私達の恋はゆっくり育っていくのかもしれない。




(ハル…って呼んでいいか?)

novel top / top