優しい温もり
◆「恋の足音」の続きとなります
黒板の文字をノートに写していると、視界にノートの切れ端が音もなく転がってきた。視線を前から隣へと向けると、目が合ったかどうかは厚い眼鏡でよく分からないけれど、クイッと眼鏡を押し上げノートを見るように指をさす場地くん。それからすぐに黒板の方を向いて板書する姿に、胸がほんのり温かくなった。
場地圭介という人は、正直言ってよく分からなかった。学校では真面目な装いをし、外に出れば髪を揺らしてバイクに跨り真面目とは正反対の所業をしているらしい。
らしい、というのは私の前では少しその様子が違うからあくまで噂と本人談、そして松野くんから聞いた話だからだ。私が唯一、彼の所業を見たのは、まだ彼の事を詳しく知る前の一度きりだったから。
あの勘違いの告白のようなやり取りのあと、私と場地くんの関係は変わった。だけどそれに名前がつくようなそんな決定的なものではない。私を好きなのだと自問自答していた彼の態度は、あまり変わらないように思う。ただ、学校ではこうして切れ端やノートに猫のイラストを添えた一言を書いてはよく渡してきた。私も、場地くんに教えるためのノートに、よくイラストを書いた。
それから一番変わった事は、場地くんが猫に会いに私の家に来るようになったことだった。もちろん、最初は戸惑った。好き、という言葉はあれきり聞いてない。付き合うとかの話もない。だけど私はあの日を境に彼を意識しているというのに、場地くんは至って普通に、さも当たり前のように「今日、ハルん家いってもいいか?」とこうしてメモで聞いてくるんだから。
無類の動物好き、というのを後で知って、なるほどと納得した。それと同時に、家に来ることも意識されていないのかと思うと場地くんの「好き」がなんだか私の想像する意味とは違って聞こえてきた。
「ほら、新しいオモチャだぞ。ほれほれ…」
ミャアと嬉しそうな声を出して場地くんの膝の上で遊んでもらっているシロ。真っ白な毛だったからそう彼が名前をつけた。
共働きで元々帰りが遅い両親だから、私は気兼ねなくこうして場地くんを部屋に招いている。私が男の子を部屋に入れてるなんて知ったら腰を抜かすかもしれない。
お茶を入れて部屋に戻ると、シロを抱き上げて頬に寄せてスリスリしたり鼻先でキスをしたりしていた。自分の頬に熱が集まるような気がして目を逸らす。いつからか、私はシロにヤキモチを妬くようになったみたいだ。
「シロは場地くんの事が好きなんだね」
「モテる男はつらいぜ」
「…モテるの?」
「あ? モテてんだろ、お前に」
「え?」
「俺のこと好きだろ?」
真顔で何言ってんだって顔するから、どうしていいのか分からなくなる。何でこんなに違和感があるんだろう。好きだけど…こんなアッサリ言われてしまうとなんか違うような気がしてならない。
「…場地くんの言う好きって、どういうの? 前に私のこと、その…好きって言ってたけど、それって人間としてってやつ? それとも、」
「あぁ? 日本語喋れよハル」
「に、日本語だよ!」
「意味が分からねぇんだよ」
場地くんは頭をポリポリと指で掻くと深い溜め息を零し、シロを抱きかかえたまま立ち上がった。怒ったのだろうか。そう思って彼を見るも、髪の毛で表情が隠れて見えない。場地くん、と声を掛けるのと同時、彼が先ほどとは違う場所…私との距離を詰めて隣に座り直した。
「好きの違いなんて俺に分かるわけねぇだろ」
その声は怒っているというよりも、拗ねているような声だった。視線はシロに向けられてたけど、髪の隙間から覗く表情は真面目な場地くんでもなく、カッコイイ場地くんでもなく、恥ずかしさを隠すようなそんな顔。
「俺は、ハルと授業中にやり取りすんのが嬉しいし、こうして一緒にいるのも楽しいし、お前笑うと可愛いし、家に来るときは毎回緊張すっし……ハルのこと好きだし大事にしてぇって思ってるけど、この好きじゃダメなのか?」
チラリと私を横目で見る場地くんの瞳に、とくんと胸が高鳴る。期待を込めて私は喉の奥に力を入れて、彼に言葉をぶつけた。
「私も、場地くんが好きだよ」
「あ? んなもん知ってるよ」
「でも付き合うとか何も言われてないし、それに簡単に家に来たりするから…女として見られてないのかなって思って」
「……はぁ?」
「え?」
「は? ハルは俺の彼女だろ? 好きだって言っただろーが」
「そ、そんなの普通言わないと分からないよ! 好きだって言っただけで付き合うとかそんなの…」
「はぁ? 普通とか知るかよ! 彼女でもねぇ女の部屋にズカズカ上がり込むかよ」
「でもずっとシロじゃん、場地くん。その……彼女だって言うなら、キスしたり、とか…」
自分でも何言ってるんだろうって思う。正直、そんな勇気もない。だけど、ずっと場地くんに抱いていたモヤモヤした気持ちが爆発してしまったのかもしれない。場地くんにとって私は何なのだろうって。
熱くて溶けてしまいそうな頬。自然と視線は床に落ちていて、だからミャアという鳴き声がしてシロが動き回っていたから不思議に思って顔を上げた。場地くんが抱っこしてるはずだったから。
でも視線の先にいた場地くんは、きっと私と同じくらい顔を赤くして固まっていた。
「ばっ、おま……キスとか軽々しく言うんじゃねぇよ。そういうのはもっと、順番があんだろ!」
「順番…」
「一緒に帰ったり、手ぇ繋いだり…俺だって色々と我慢してんだよ」
あぁそうか。ちゃんと考えてくれていたんだ。シロばかりに構うのも、ちゃんと理由があったんだ。
照れる場地くんの手にそっと自分のを重ねた。私だって緊張するし少し手が震えてる。だけど、それよりも…好きだって気持ちを伝えたかった。
「じゃあ順番に進んでいきたい、場地くんと」
そう言った私に、八重歯を見せて二カッと照れながら笑った場地くんは本当に嬉しそうな顔をしていて、だから私もその瞬間が幸せで、彼の温もりをもっともっと知りたいって思ったんだ。
この先ずっと場地くんのそばにいるんだって、信じて疑わなかった。
◇
「この前シロがね、用意してた夕飯を机に登って勝手に食べちゃったんだよ。やっぱり人間の食べ物は美味しいのかなぁ…場地くんが遊んでくれなくて拗ねてるんだと思うんだけど……」
だから早く起きて。
その言葉が喉に引っかかって声にならなかった。その代わりに目から零れ落ちる涙は拭われる事なく静かに頬を伝って落ちていく。
場地くんの顔の傷は癒えたのに、まだ管に繋がれたままでその瞼は閉ざされたままだった。
松野くんが教室に駆け込んできたのは一週間程前だったと思う。場地くんが珍しく学校に来てなくて、確か皆勤賞を狙ってるって言ってたからおかしいと思っていた。携帯に連絡しても繋がらない。ここ最近、場地くんの様子が少し違っていたから何か嫌な予感がしていたけど、まさかこんな事になってるなんて知らなかった。
「うわ言でアンタの名前、呼んでたから…」
だから私を病院へ連れてきてくれたらしい。暴走族同士の争いでナイフで負傷したと、涙ながらに話してくれた松野くん。ただの殴り合いだけなのかと思っていた私は目の前で眠る場地くんを見るのが怖かった。
あの日、彼に抱いていた恐怖とは違う。このまま目を覚まさなかったらどうしようって怖さだった。私はその日から毎日通って彼の手を握っている。
今日で、二週間が経つ――――。
「…場地くんのいない授業はつまらないよ。教科書に落書きする人もいないし猫の絵を書いてくれる人もいないし暗号みたいな漢字書く人もいないしさ」
「……」
「私のこと呼んだなら、私に答えてよ場地くん。まだ手を繋いだだけだよ? まだやりたいこといっぱいなんだから……場地くんっ…いつになったら握り返してくれるのよっ…」
手を握りしめベッドに突っ伏した。その手に温もりがあってよかったけど、でもそれだけじゃダメなの。
布団が濡れることも考えずに涙を流した。思い浮かぶ場地くんの笑顔が霞んでいく。まだ知らない場地くんの顔をもっと見たいのに。
お願いお願い神様、どうか場地くんを連れていかないで。
「……っ……ょ」
微かに聞こえた呻き声。勘違いだと思った矢先、私の頭に温かな何かが乗った。顔を上げるとそれはあるはずの無い誰かの手で、それがどういう意味を成すか理解した私は、大粒の涙と嗚咽を零した。
「…なに、泣いて…んだ……よ」
「ば……んっ……ばじぐんっ…」
「ひでぇ…顔だ、な…」
力なんて入らないはずなのに、場地くんは手を伸ばして指先で涙を拭ってくれた。酸素マスクを無理やり外して、私を真っ直ぐ見つめる。
「まだ…ハルとやること…あっからな……死んで、たまるかよっ…」
こんな時にそう言って歯を見せて笑う場地くんに、私は椅子から立ち上がりその唇に小さく触れた。私の手を握り、何度も名前を呼んだ場地くんの目からは一筋の涙が零れ落ちたけど、私はそれを見て見ぬふりしてもう一度キスをした。
ねぇ場地くん。
やっぱり私は殴り合いとか争いは好きじゃないし怖いと思う。だけど、それ以上に場地くんが傍にいない方が怖いし寂しい。その目で私を見て欲しいし笑って欲しいって思うの。
「早く元気になって、デートしよう…ね?」
まだまだ場地くんとしたいことが山ほどある。ゆっくりでいい。だから一緒に、小さな幸せをたくさん見つけていきたい。
優しい温もり
(もっと、チューしてくれたら元気になるかも)
(……バカ)