優しく愛さないで
背中に感じた温もりと鼻を掠めた甘い香りに、まだ醒めきらない脳が警告音を発していた。身体に絡まるその腕を解いて離れようとすると、腕を掴まれてその身体を戻される。
顔を動かし視線を背後へ向けると、揺れる金色の下から覗く蒼眼が私を見つめていた。視力が悪くてもそれが分かってしまう距離。
「おはよう、ハル」
「アルミン……」
自分の声が震えている。徐々に醒めてきた脳が昨夜の出来事を運んでくる。できれば思い出したくない。夢であって欲しい。でも私もアルミンも、何も服を着ていないことが事実を語っているようだった。
目が覚めた時、どうしてそばにいたんだろう。私を抱いてさっさと部屋から出てくれれば、煉獄先生と同じように夢だって思えたのに。優しさなんていらないのに。そうしたら、自分が嫌な女だと言うことから目を逸らせたかもしれないのに。
「離して」
「何で怒ってるの? まさか僕が無理矢理ハルを抱いたと思ってる?」
「……」
「ごめん、意地悪したいわけじゃないんだ。ただ……こっち向いて」
私の腕を引き、掌を頬に乗せて顔を自分の方へ向けさせたアルミン。優しい表情の奥に隠れた熱から目を背けようとした私の唇にアルミンの熱が重なる。私がアルミンを押して離れようとする前に、その温もりは離れていった。
「ハルのこと、好きになったみたい」
そんな言葉は欲しくなかった。
アルミンは私に好きな人がいる事も分かってて、それでも私と身体を重ねたんだ。そして、私がきっとその事を後悔して自己嫌悪に陥ることも分かっていたのだろう。だから、追い討ちをかけるように決定的な言葉を残したんだ。狡い人。
「僕、珈琲でも入れてこようかな。飲むでしょ?」
「……」
「待ってるね」
服を着たアルミンは、布団で顔を隠した私のことを布団越しに抱きしめると部屋から出ていった。我慢していた涙が布団に滲んで染み込んでいく。
「あれ、ジャン。ユヅキは?」
「知らねぇ。起きたらもう居なかった。つーかアルミン、その部屋ユヅキの妹の部屋じゃねぇのかよ。どうなってんだよ」
「さぁね。僕が言うわけないでしょ」
廊下から聞こえる声に更に布団を深く被った。感情が混乱している。いや、混乱というよりも自分がした事を受け入れたくないと言う方が正解だろう。
――まさか僕が無理矢理ハルを抱いたと思ってる?
アルミンの言葉が頭から離れない。彼の言う通り、アルミンが嫌がる私を無理に抱いたのなら良かった。そうじゃないから、私は自分が許せない。
アルコールの所為とはいえ、それを飲んだのは私だ。部屋に招き入れたのも、アルミンのキスを受け入れ、その行為に乱れ、彼の背中に手を回したのもすべて私。
今になって脳裏に鮮明に浮かぶ姿にまた涙が溢れてしまう。煉獄先生の温もりが欲しかったのに。煉獄先生しか私の中にはいないのに。どうしてその隙を作ってしまったんだろう。どうして煉獄先生以外の人に身体を許してしまったんだろう。こんな尻軽な女、きっと軽蔑される。
シャワーで全身を洗い流し、頭上から熱いお湯を浴び続けた。いくら身体を流しても何も変わらない。苦しくて、後悔の渦の中で溺れているようだった。
部屋を出ると、そこにはアルミンを含めた数人がまだリビングにいた。縋るようにユヅキの姿を探すも見当たらなくて、キョロキョロと見回していた私に一人の男が近づく。ソバカスのある優しそうな顔をしたその人が開口一番私に謝ってきた。
「ユヅキは仕事で呼ばれて行っちゃったよ。それなのにのんびり長居しちゃって、ごめんね?」
「……別に、大丈夫です」
「そうだ! 朝食作っておいたからどうぞ食べてください。僕達はこれで帰るから」
カウンターに目をやると美味しそうな朝食が用意されている。馬面のジャンとやらにマルコと呼ばれたその人は、「口に合うか分からないけど」と少し照れた表情を見せた。
優しい人なんだろう。最初はあまり好印象でなかった人達だけど、見る目が変わったのは昨日アルミンから色々と話を聞いていたからかもしれない。動物の為に身を粉にして研究をしている人達。最後は片付けもきっちりとやってくれた。
「ありがとう、マルコ」
「あの、ユヅキのことなんだけど……」
「え?」
「僕から言うのは変だと思うんだけど、きっと姉妹である君にも自分のことを話さない気がして。ユヅキは僕にとって大事な仲間だから、無理はして欲しくないんだ。だから頼むね、ユヅキのこと」
「……うん、分かった」
マルコは核心的なことは何も言わなかったけど、何となくそれが仕事のことじゃないような気がした。元々お互いのことを干渉はしてないし、ユヅキが海外に行ってからは連絡する頻度も少なかった。彼女がどんな生活をしていてどんな仕事をしているのかも、詳しく知ったのはアルミンの口からだ。
それでも私達はやっぱり双子だから通じるものがあったと思う。必要だと感じた時は、どちらともなく連絡を取り合っていたから。親の愛情がなく育った私達が唯一信頼しているのがお互いの存在だから。
「ハル」
ぞろぞろと帰っていくユヅキの同期達を見送っていると、最後に残っていたアルミンが背後から声をかける。玄関で靴を履いていたマルコとジャンが私達を見て、「先に言ってるね、アルミン。お邪魔しました」とマルコが丁寧な言葉を残して出ていく。
私は振り向かず、そのまま踵を返して部屋に戻ろうとした。だけど腕を掴まれ制止される。思ったよりも強い力に私はいとも簡単に廊下の壁に追いやられた。
「何するの? お願い、もう私に関わらないで。もう会うこともないし昨日の事は忘れて」
「無理だよ」
「……なんで、」
「ここに来るまでは確かに僕達は無関係でいられたかもしれない。だけどもう知ってしまっただろ? ハルだって僕と話してる時楽しそうだったじゃないか。それを今更忘れることなんて出来ないよ」
「アルミン……」
「僕の心にはもうハルがいる」
「……」
「諦めが悪いんだ、僕。悪いけどハルの言うことは聞けないや」
少し眉を下げて笑ったアルミンは、その長い睫毛を伏せると顔を近づけその唇を寄せた。咄嗟に顔を背けるも、蒼い瞳に引き寄せられて反応が遅れてしまった所為で、微かに唇が触れ合った。
触れた部分を手の甲で拭う私を、アルミンが唇を真一文字に締めて見ていた。私が悪いことをしているみたいで少し胸が痛い。
「昨日は受け入れてくれたのに、そんなに嫌?」
「うるさい! 忘れてって言ったでしょ!」
「……でも、これくらいしないとハルの心に入れないでしょ? ハルが誰を想ってるのかは知らないけど、元から僕の入る余地なんてないんだったら、それを壊すくらいしないとハルは見てくれないだろうから」
最後に私の髪の毛を指で掬い絡めると、「好きになってごめんね」と私から離れていく。閉まった玄関の扉の音が、心に重く響いた。
私がちゃんと拒んでいたら、こんな事にはならなかったのに。
◇
どれくらいそうしていたのか分からない。気づいたら晴れやかな笑顔でユヅキが帰ってきた。帰国して数日経つのに、初めて出迎えたような感覚だった。この数日、色々とあり過ぎた。
ユヅキから大事な話があると言われ、提案された猫達の観察部屋を作るというのは大賛成だった。元々ユヅキの夢はずっと応援していた。愛が分からないとよく言っていたユヅキだけど、動物に対する愛情は凄く強い。きっと自分で見えていないだけで、本当は愛情深い人だと思ってる。だから、あんな風に同僚に愛されてるんだよ。
二人で部屋の掃除をするのは楽しかった。同じことを一緒にするというのが懐かしくて、ずっとこの家で一人でいたことに慣れた気でいたけど、私はずっと寂しかったんだと改めて思い知った。これからは一緒に生活していけるんだと思うと嬉しくて自然と顔が綻ぶ。
だけど、ユヅキから「そういやデートの服、決まったの?」と質問を投げかけられて自分の置かれている立場を思い出した。
既にキャパオーバーの出来事に、私はただ頭を抱えるしかなくて、お勧めの服を貸してくれるとクローゼットに向かうユヅキの腕を掴んで引き止めた。
「実はね、私……昨日、アルミンと寝ちゃったの」
こんな話、今までした事ない。私の言葉にユヅキの表情が暫く固まり、数秒後に驚愕の声を部屋中に響かせた。
優しく愛さないで