昨日の私にさようなら

 それから煉獄先生とは殆ど顔を合わせることはなかった。意図的に避けていたわけでもなく、授業は当然ながらテストの問題作りや委員会の顧問、職員会議が目まぐるしく迫っていて、目の前の事を熟すのに精一杯だったのだ。気がつけば煉獄先生と過ごした休日から一週間以上が経とうとしていた。
 授業のない時間、図書室で本を借りてから職員室へ戻ると、ちょうど煉獄先生が別の入口から入ってきた。視線が合い、逃げるように目を逸らしてしまう。だけどもう一度顔を上げて、「お疲れ様です」と声を掛けた。


「ハル先生――」


 煉獄先生の声が届いたのと同時、ガラッと勢いよく職員室の扉が開き、そこには学校にいるはずの無いユヅキの姿があった。私は煉獄先生の横を通り過ぎ、咄嗟に駆け寄った。なんで学校に。そう思うも、理由はなんとなく分かっていた。無意識に壁に掛かっている不死川先生の予定を確認したからだ。
 ユヅキは不死川先生に会いに来たのだ。自分でケジメをつけるために。逃げずにちゃんと不死川先生と向き合うために。ユヅキの覚悟が伝わり、それが私の背中も押してくれているようだった。私も、逃げずに向き合いたい。
 不死川先生に連れられて職員室を出るユヅキの背中を目で追っていると、「ハル先生」と煉獄先生の手が私の肩をポンと叩いた。


「大丈夫か? 何だか不安そうな顔してるが」
「あ、いえ……ユヅキが心配で」
「不死川は君の姉の事を好いてるのだと宇髄が話していた。俺はてっきりハル先生が、」
「え、宇髄先生?! ど、どこまで知ってるんですか煉獄先生っ!」
「いや、不死川の片想いだと言うことしか聞いてないが……俺が知ったらいけない事があるのだな」


 少し眉を下げて寂しそうな顔をする煉獄先生に、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そんな顔して欲しくない。この場所ですべてを伝えられないのがもどかしい。
 煉獄先生、と口を開きかけた私に無情にも次の授業を知らせるチャイムが鳴る。それが鳴り終わるまで煉獄先生と視線が交わったままで、その紅い瞳に見つめられて鼓動が加速していく。このままずっと、そう思う私の気持ちなんて煉獄先生が知るはずもない。


「さて、授業だ」
「そうですね」


 後ろ髪を引かれる思いで、私達はそれぞれに職員室を後にした。
 煉獄先生とまともに話が出来たのは、もう校舎が夕陽に包まれてオレンジ色へと変わる頃だった。どうしても煉獄先生と話がしたかった私は、道場にいるであろう煉獄先生の元へと駆けるように歩いた。
 中からは数名の生徒の声が聞こえ、煉獄先生の指導する張りのある大声も混ざって聞こえてくる。さすがに練習を遮ってまでは気が引け、こっそり道場の中を覗いた。


「もっと集中!」
「はいっ!」
「そうだ、いいぞ!」


 熱心に指導を受けているのは女生徒だった。型の練習なのだろうか。防具を付けずに素振りをする女生徒の姿勢を正すようにその手を添えた。何てことない、部活動の練習風景だ。
 それなのに、どうしてだろう。心臓を握りつぶされているかのように苦しくて痛かった。相手は生徒なのに。それなのに嫉妬をするなんてどうかしている。そう思うのにそれ以上見ているのが辛くて、一旦その場を離れようと視線を外そうとした瞬間、煉獄先生の瞳が私を捉えた。
 少し待っていてくれ、と恐らく生徒に言ったであろう言葉が耳に届く。道場の扉に身を隠すようにした私の心臓が弾けるように動く。先ほどの痛みと、煉獄先生が中断してまでこちらに来てくれるのだという嬉しさが相まって、心臓がおかしくなりそうだった。


「ハル先生、どうかしたのか?」


 道場から外に出てきた煉獄先生が私の前に立つ。きっと何か急ぎの伝言でも私が賜ってきたと思っているのだろう。完全にプライベートな事なのに申し訳ない。でも、やっぱり嬉しい。先程のユヅキの言葉が私の背中を優しく押した。


「すみません、わざわざ中断させてしまって」
「構わない。生徒の自主練習に付き合っているだけだ」
「そうですか……あのっ、私…煉獄さんとお話がしたくて。聞いてもらいたい事があって!」


 自分を振った女が今更何の用だと思うだろうか。例えそうだとしても、もう逃げないって決めた。足元に落としていた視線を上げて煉獄先生を見ると、いつもの大きな瞳が更に大きく見開いていた。夕陽のオレンジが反射して肌が染まり、その瞳がキラキラと輝いてみえる。


「だ、ダメでしょうか?」
「いいや。俺も話したいと思っていたんだ……もうすぐ部活が終わる。一緒に帰らないか? 家まで送ろう」
「いいんですか!?」
「そんなに驚くことではないだろう。いいに決まってる。職員室で待っていてくれ」


 凛々しい眉を少し下げて微笑むと、最後にポンと私の頭を撫でた。私はなんて単純なんだろう。たったそれだけのことで、胸の痛みが消えていく。そして、生徒に嫉妬するくらい私は煉獄先生が好きなのだと思い知った。
 夕陽に染った頬の熱が引いた頃、着替えた煉獄先生が職員室へと戻り、「待たせたな。では行こう」と私を促した。

 煉獄先生は、また私を助手席へと乗せてくれた。あの日を思い出すシチュエーションに一人で胸を馳せていたものの、車内は静まり返りラジオの音が虚しく響いているだけだ。
 チラリと横目で運転席を見れば、真っ直ぐハンドルを握る煉獄先生の整った横顔が見れる。ずっと熱を持ちながら弾んでいる私の心音が、彼に聞こえてしまわないかとヒヤヒヤした。


「何か俺の顔についているのか?」
「え……ふふ、この前と同じですね」
「そうだな。以前はカッコイイと言ってもらえていたが、今はどうだろうか。もうハルにはそのように俺は映っていないか?」
「煉獄さん……」


 赤信号で止まるも、視線が私に向けられることはなかった。どこから話を切り出そう。そう考えあぐねいていた私は、車が私のマンションではなく違う方角へ進んでいる事に気づいたのは、車が静かに停車をしてからだった。
 そこは埠頭のような場所で、あの日の海とは違うけれど水面に反射する煌びやかなネオンが美しくみえる場所だった。
 送る前に静かな場所で話がしたかった、とシートベルトと外した煉獄さんの視線が、漸く私の元へと降りてくる。私の顔へ伸ばされた手が頬に触れる直前で止まり、ゆっくりと戻っていく。触れてはくれないのかと胸がチクリと痛んだ。
 こうして見つめ合うのはこれが最後かもしれない。すべてを話したら煉獄さんは私を軽蔑するかもしれない。それでも、向き合うと決めたから逃げない。


「煉獄さんに、お伝えしたい事があります」




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