臆病な私に勇気をください。
すっかり休んで熱も下がり、最近不規則不摂生の生活をしていた体は休養でまさしく万全の状態に回復した。朝起きた時も目覚めスッキリだしメイクノリもバッチリだったし、何よりいつもみたいに家にいる段階から帰りたいって思わなかった。やっぱり人間はふかふかお布団で睡眠を取ることと美味しいご飯を食べるのは大切なんだなと身に沁みて実感する。
仕事を代わってくれた同僚にお礼を言おうと思っていたけれど、残念ながら伊地知くんは今回京都に出張しているらしくて事務室で会うことは出来なかった。
「五条さん、今日はよろしくお願いします。」
「お疲れサマンサ〜」
伊地知くんがいないという事は、この最強と呼ばれる五条さんの世話や……補助監督が必要になる訳で。先日穴を空けてしまった私は上司からのお願いに断れずに頷くしかなかった。ミーハーな後輩の女の子達は恨めしそうにコチラを見てたけど、昔から関わってる先輩だからそんな気持ちは一切ないから安心してくれと言いたい。寧ろ今からどんな無茶振りされるかとゲンナリしてるし……とは、逆に嫌味として受け取られるかもしれないから怖くて彼女たちには言えないけど。
車の前で待っていると、遠くから手をひらひらと振りながら五条さんはやってきた。歩調はゆっくりに見えるけど、足が長い分あっという間に目の前に到着してしまう。後部座席のドアを開けると高い体を器用に丸めながらするりと入っていく。なんかその様子が猫みたいだなって、いつも一人思ってることは永遠の秘密だ。
「で、最近七海とどうなの?」
運転席に乗り込んでエンジンをかけゆっくりと走り出してから三分後。まだ今日という重大任務に心の覚悟が終わっていないうちに五条さんの声が後ろから飛んできた。バックミラー越しに後部座席を見ると、にんやりと口端を上げている五条さんが見える。
「どう、と言われましても…」
これは危険信号赤だ、と長年後輩をやってきて培った脳内サイレンが鳴る。このモードの時の五条さんは、とっても面倒だ。白状するまで永遠に問い詰めてくるし、しつこいし、本当にしつこい。別に秘密にしてる訳じゃないけど、五条さんが絡むと揶揄われて大変そうだし、何より七海さんがそれで絡まれて嫌そうな顔をしてるのが完璧に想像出来る。私のせいで嫌な思いをさせるのはどうにか避けたいし、何よりそうなると私のメンタルがズタボロになってしまう。
どう話を逸らそうかと悩んで言葉を濁していると、五条さんが勢いよく運転席の方に乗り出すように助手席の背に手をつきこちらを覗き込んできた。思わず少しだけブレーキを踏んでしまって車体が揺れると、それを見てオイオイ〜と隣の彼に煽られる。
「だってデートいったんでしょ?」
「えっ!?なんで知ってるんですか!?」
「え、まじ?本当に行ったの?七海やるね〜!」
やられた。もう終わった。心の中で同期に白旗をあげて、伊地知くんの疲労が少しだけわかった気がする。楽しそうに笑っている五条さんは何なら身を乗り出しすぎてそのまま助手席に滑り込んできそうで、誤魔化すためも含めて必死に前の道路を向いて運転に集中する事にした。でもそれが面白くないのか、横からブスブスと頬を人差し指で突かれる。普通に痛い。彼はもしかしたら事故らせたいのかもしれない。五条さんは力のお陰で無傷だろうけど、私はへなちょこだから交通事故で簡単に死んじゃう。カーナビが出す指示通り、ウィンカーを出して左折する。あともうちょっとで目的地らしい。
「それで、どこまでやったわけ?え、じゃああの飲み会の時にはもうデキてたの?それともあの夜にワンナイトしちゃった?」
「やってません!ただ、ランチとか…」
「ウケる!高校生の恋愛かよ!」
交通量が少なくなってきて道が細くなった。集中する為に前屈みになると、やっとほっぺツンツン攻撃から逃げられた。そう思ったのと同時にバシンと勢いよく背中を笑いながら叩かれて、反動で胸元でクラクションを短く鳴らしてしまった。前に車がいなかったので良かったけど、本当ヒヤヒヤものだ。それを見てまた五条さんは笑うから、もう二徹してる時くらい疲れた。
「七海さんは!えっと、気を遣ってくださってるだけで…別にそういう訳では…」
思わず声がちょっと大きくなってしまって、空咳をしてから口を開く。ちょうど目的地だと知らせるアナウンスが流れて、ゆっくりとアクセルから足を離す。
七海さんは、触れてくるけど好きとか決定的な言葉は伝えられたことはない。布団に潜り込んで一日を振り返って悶えて、私もあと一歩踏み出せない現実に一喜一憂する日はもう数えることができない。あの眼差しも、優しい言葉も、彼の紳士的な一面を感じる度に私だけじゃないんじゃないかな、と思ってしまう。だって、私強くないし補助監督だし、美人でも可愛いでもナイスバディーでもないただの普通の二十代女性って感じ。
自分でそう思って、たった今もまた自分で落ち込んでしまった。ブレーキに足を切り替えて、今度こそ車体が揺れないように停車させる。今日の運転は減点が多かったけど、今の停車は満点だと思う。
「七海はそうで、君はどうなの?」
五条さんに到着を告げる為に振り返ると、相変わらず身を乗り出してる五条さんが思ったよりも近くて息を飲んだ。そういえば、少し前に七海さんが笑ってくれた日もこれくらいの距離だった気がする。
「下心はあるの?それとも別に先輩後輩なワケ?」
でも、あの時とは現状も気持ちも全く違う。さっきまでおちゃらけていたのに、今は普段生徒たちと触れ合う教師の五条悟特級呪術師そのもので、緊張感が走り背筋を伸びた。目は特有の目隠しで合わないけど、それ越しでも彼の六眼に全て見透かされてるようで心臓がバクバク鳴り始める。
「わ、私は…」
一気に一日何も飲んでないみたいに喉がカラカラになり口を開いてもスムーズに言葉が出てきてくれなかった。こんな場面でも力の差を感じてしまって、本当私は弱いのだなと頭の片隅で思う。
七海さんは、とっても良い人だ。私と違って強くて、大人で、素敵な男性で、昔から憧れている先輩。そして、そんな昔からずっと恋焦がれてる人。
「下心は、あります。」
膝の上でギュッと拳を握りしめて、声が震えないように息をゆっくりと吸った。ここまでくれば最早ヤケクソで、真っ直ぐ五条さんを見据えて言葉を振り絞ったけれど、そんな真顔で言う内容じゃないな?と静かに自分にツッコミをを入れてしまった。その言葉に、聞いておいて少しだけ口を開けて呆けていた五条さんはすぐに口端を上げていく。
「いいじゃんいいじゃん!それくらい吹っ切れてた方がいいよ!」
「うわわっ!!」
大きな声で笑って、その大きな手でぐしゃぐしゃに頭を撫で回されて髪型は一瞬で崩れてしまった。下めの位置でお団子にした髪を直す為にゴムを解いていると、五条さんが後部座席のドアを開けて外に出てしまって慌てて私も後に続く。
「じゃ、一瞬で終わらせてくるからまた続き聞かせてね」
髪の毛を直す暇もなく五条さんが呪霊の気配がする建物にスタスタと入っていくので急いで帳を下ろしたけれど、とっぷりと闇が広がる前に彼の白髪が見えなくなってしまった。帳が下りきるまでに派手な音や爆発などはなかったので、ギリギリ反省文の可能性は回避できたのでほっと息を吐き出す。改めて髪を結び直そうとした瞬間プチンと細いゴムが切れてしまい、つくづくツイてない一日みたいだ。
□■□
結局、十分弱で鳴った電話を合図に夜が晴れた建物から埃一つ被っていない五条さんが出てきて、再度彼の最強具合を痛感した。それと同時に、高専に戻るまでの時間永遠に揶揄われて質問攻めに合うので、面倒さも追加しておいた。やっと高専に着く頃には、最早十連勤した位の気持ちな位疲れた。あんなに今朝は元気一杯だったのに…本当に日頃の伊地知くんにスタンディングオベーションしたい。
「七海を落とすコツ、教えてあげようか?」
「え…!」
後部座席のドアを開けて中から出てくる五条さんを眺めながら脳内拍手喝采してると、立ち去ると思っていたのにそのまま私の肩に腕を回して顔を覗き込まれる。彼も顔のいいジャンルに分類に入るので、不覚にもその距離にドキリとした。それ以上にその言葉に、絶賛恋する乙女状態な私は顔に熱が込み上がってくるのがわかってそれを見て五条さんは楽しそうにしてる。悔しいけれど、もし本当に知ってるのであれば是非とも教えていただきたい。きっと朝から並ばないと買えないような有名なお菓子を買ってこいなんて無茶振りされそうだろうが、それ位安いもんだ。
「それはねー…」
「五条さん、邪魔なのでどいてください」
声を潜めて密会するような距離で、尚更五条さんとの間は拳一つ分くらいになってしまった。密着よりも助言に対して続きの言葉をドキドキと待っていたけれど、肩をガッチリと掴まれると同時に凄い力で私と五条さんが引き離されて体がぐらりと傾く。後ろに傾いた重心をパンプスで支えようとする前に、腰元に回った手のお陰で体勢が支えられた。込めようとした力は絶妙なところで止まってしまい、中腰みたいな変な姿勢になってしまった。
「お、七海じゃん。そんな怒んなよ〜」
「おっ、お疲れ様です!」
仰け反り気味の背中を正しくしながら上を見上げると、正しく真上に七海さんの顔があった。下から見る顔も綺麗だなんて本当ズルい。思わず挨拶した言葉は見事に裏返ってしまって恥ずかしくなったが、七海さんはチラリと見下ろしてきただけですぐに五条さんに視線を戻してしまった。
「五条さん、こんな所で油売ってないでさっさと仕事してください。貴方がやらないと此方にまで皺寄せが来るんです。」
「あー、はいはーい。でも僕仕事終わりのオヤツの時間だから退散するね」
いつもより2割増しくらいに七海さんが低い声で目の前の先輩に息つく間もなく言葉を投げつけるが、五条さんはそんなことも気に留めることなく赤い舌をベロリと出している。まるで子供みたいなやり取りに、ピキリと七海さんのこめかみに筋が入る音が聞こえてきそうだった。五条さんは気配を察したのかまた小言を言われない内に背を向けて、あっという間に高専に向けて歩いて行ってしまわれた。
「……」
「……えっと、」
必然的に取り残されてしまった私たちに無言の時間が流れてどうにかしようと頭をフル回転させるが、腰や背中で七海さんの体温を感じているから全く働かなかった。何だか居酒屋のときのデジャブを感じる。時の流れが長く感じるけれど恐らく三分くらいしか経っていなくて、そういえば五条さんを下すために車をここで停車させたので本来の駐車場に戻さなければならない使命を思い出した。
そろりとまた七海さんを見上げてみると、いつものサングラスはまだ高い日光が反射していて上手く表情はわからない。でも眉間の皺だけは深く刻まれていて、機嫌がいいというわけではないらしい。
「七海さんは今日は任務終わられたんですか?」
「五条さんと何を話していたんですか?」
どうにか話題を振ってさり気なくお疲れ様でしたと退散しようと思っていたのに、会話のキャッチボールは成り立たずに終了してしまった。何を、と問われても当の本人には言えるわけがない。にへらと誤魔化す為に力のない笑みを浮かべてみたけれど、七海さんの眉間の皺が深くなるばかりで全く解決策にはならなかった。
「えっと、特に深い話は…」
「深い話でないのに、あんなに密着して頬を赤らめて話していたんですか?」
咎めるような鋭い言葉で、口元もへの字になってるし眉間の皺ももう元に戻らないんじゃないかという位刻まれていて不機嫌ですってあの七海さんが全面で訴えかけている。だけど、何だか五条さんの時のように恐ろしいと本能が感じることはなかった。きっとそれはサングラス越しに見える瞳が揺れているからなんだと思う。困ったような不安そうな色をしていて、こんな大の大人に使う言葉じゃないかもしれないけれど、まるで迷子の子供のようだ。腰に添えられている手に力がこもった事で触れ合う面積が増えた気がして、心臓がバクバク鳴りすぎて痛くなってきた。
「…すいません、忘れてください。少々出過ぎた真似でした。」
七海さんが瞼を閉じて一つ息を吐き出すと、ゆっくりと腰の手が離れていく。改めて体制を整えると当たり前だけど七海さんと距離が出来てしまって、先程まで近くて死にそうって思っていたのに何だか酷く寂しかった。
「あ、の…」
正面から七海さんを見上げて口を開いたけれど、いい言葉は見つからなくて結局音にならないまま喉奥に消えていってしまった。唸りながら俯くと、七海さんの革靴が視界に映る。この間お出かけした時の靴じゃなくて、いつもの七海さんの靴。そう思っていると、足元にある七海さんの足が一歩私に近付いた。
「私は、貴女の事になると余裕がないんです。」
頭上から聞こえてくる声が、言葉が、じんわりと体の隅々に一滴残らず浸透していくようだった。言葉の意味に自惚れそうになるけれど、その真意を聞くほど私は自信はない。七海さんの腕が上がったのを地面に映る影で理解した頃には、結局解けたまま結べなかった髪の毛をとかすように指が触れていた。
「次の休みは?」
「え…っと、多分土曜日です。」
「それでは、金曜の夜にどこか食事に行きましょう。」
いつもは予定を問いかけてくれるのに、今日はもう決定事項だというように言い切る七海さんの言葉は芯がある。なかなか目を合わせられなくて伏せたままでいると、さわさわと優しく髪を撫でていた手が止まって私の頬に添えられた。きっと頬が真っ赤で熱い筈なのに、いつもより七海さんの手が不思議と冷たくはなかった。ゆっくり伏せた睫毛を上げるように瞬きを数回して、少しだけ顎を上げて上を見ればこちらを見つめている七海さんがいる。
「その時に、貴女に伝えたい事があります。」
期待してしまう。七海さんのその瞳に。私なんかが浅ましいかもしれないが、淡い期待を抱いてしまっている。少し先のその日が待てなくて、今すぐ全てを吐き出したい。全部叫んで好きって伝えて、燻り続けているこの爆発しそうな想いをどうにかしたい。
「わかりました。」
でもやっぱり勇気はなくて、どうにか震えないように声を絞り出して頷いた。日の光で反射した綺麗な瞳は少し安心したように細められて、頬の手が離れていく。七海さんの手が冷たくなかったのは、珍しく七海さん自体が熱かったからだと離れてから気付いた。
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