ハートのシロップ漬け




「ちょっと早く起きすぎたかな……」



次の日に目を覚ましても何も変わらない、昨日と同じ部屋だった。夢じゃなかったな、そう思いつつベッドを出る。夢ならいいと思った。やっぱりまだ信じられない。クラピカが私達を裏切るなんて。ふと、床で眠るキルアに気が付く。そっと近付き、寝顔を見つめた。キルアは眠りながらも、微かな物音に反応して目を開けた。マヤが自分を見つめているのに気づき、一瞬驚いた表情を浮かべる。しかし、すぐに普段の冷静な表情に戻った。



「おはよう。よく眠れたか?」

「……おはよう。ごめん、起こしちゃった?」



キルアは髪を掻き上げながら立ち上がり、マヤとの距離を詰めた。彼女の瞳に映る自分の姿を見つめながら、昨夜のディナーのことを思い出す。マヤも一瞬驚いたもののすぐに気を取り直して微笑んだ。



「今日はいいもの見せてやるよ。もちろん、逃げ出さないって約束するならね」

「いいものって……? 今日は、ハンバーグの材料と、お菓子を買いにいくんでしょ?」



マヤはほんの少しだけ寝癖をつけたまま、きょとんと首を傾げた。キルアはマヤの寝癖を見て思わず笑みを浮かべた。彼女の首を傾げる仕草に胸が高鳴るのを感じる。



「ああ、買い物もするけど、その前に連れていきたいところがあるんだ。景色がいい場所。もちろん……」



手と足の鎖を見下ろし、少し悩むような表情を見せる。



「今日だけは外すよ。でも逃げたら……わかってるよな?」

「外に出てもいいの? ここから出たら危ないんでしょ?」



マヤは驚いたように目を丸くする。当分は出られないものと思っていたからだ。それから少し可笑しそうに笑う。マヤの反応に少し意外そうな表情を浮かべ、髪を掻き上げた。



「危ないのは逃げ出そうとしたときだけだよ。俺と一緒なら誰も手出しできないさ。信じてみない? 特別な場所、見せたいんだ。お前だけに」



キルアはマヤに手を差し出し、真剣な眼差しで見つめた。マヤは少し考えるようにその手を見つめて「そうなんだ……キルアと一緒になら出れるんだね」と呟いていた。



「特別な場所って? どこに行くの?」



マヤの問いに、キルアは小さく笑みを浮かべながら指先を彼女の手首に絡ませた。そのまま握りしめる。マヤはキルアに手首を取られるとかすかな緊張が走る。それも一瞬だけでそのまま手首を掴まれながら彼に問いかけた。キルアは足首の鎖を外しながら、マヤの瞳を見つめ、声を少し落とす。



「秘密。でも気に入るはずだよ。夜景が見える場所でさ..….二人きりで。用意したものもある。せっかくだからさ、たまには普通のデートってのもいいだろ? まあ、普通じゃないけどな」

「そっか……。でも今まだ早朝だよ。そんな夜まで外にいるの?」



キルアはマヤの言葉に気づいたように頭をかいて、ちょっと照れた表情を浮かべた。



「ああ、そりゃそうだな。でも準備とかもあるし...…それに、マヤと一日中過ごしたいんだよ。それとも、また部屋に戻りたい? クラピカの話でもしようか?」



キルアはマヤの足の鎖跡を確認しながら、彼女の顔を見上げて意地悪そうな笑みを浮かべた。マヤもキルアの言葉に笑みを浮かべた。



「どんな準備? ふふっ。クラピカ……。どうしちゃったんだろうね、クラピカは。心配だな……。あれから何か聞いてない? キルア」



しかしクラピカの名前を聞いた途端にマヤの瞳が揺れ、それから心配そうに外に目を向けた。キルアの表情が一瞬だけ暗くなった。マヤの瞳が揺れるのを見逃さなかった。



「心配すんな。クラピカは元気だよ。ただ...…お前に会わせるつもりはない」



キルアは少し厳しく言ったあとにマヤの手首の鎖を外しながら、声のトーンを柔らかくした。



「今日はディナーの準備。特別な場所で食事しようと思ってさ。夜景が綺麗な場所を見つけたんだ。お前、絶対喜ぶよ」

「元気なの? クラピカがおかしくなっちゃったって話は?」



マヤはキルアの表情の変化に気付かず、心配そうに問いかける。それから自由になった自分の手足をしばらく見つめていた。



「そうなの? ありがとう、キルア。じゃあハンバーグ作るのは明日だね」

「夜景を見ながらのディナー、準備は全部済んでるよ。ハンバーグは明日、お前の作ったのを食べたいからな」



マヤの心配をよそに、キルアは軽く肩をすくめる。彼はマヤの手首に残った鎖跡を確認し、首を傾けた。



「大丈夫だって。あいつ、緋の目のことでちょっと気が立ってただけさ」

「ほんと? じゃあもう会っても大丈夫そう? クラピカ元気になったんでしょ?」



マヤはぱあっと光が差したように笑い、クラピカが元気だと聞いて嬉しそうにする。それから明るい声で「いつの間にそんな準備してたんだ……でも夜まではまだまだあるよ、どうするの?」と言う。キルアは一瞬だけ目を細め、苛立ちを隠しきれない表情を見せた後、すぐに平静を装った。



「クラピカとは会わせない。それは変わらないよ。お前はもう俺のものだからな」

「えっ……?」



それからマヤの肩に手を回し、彼女を少し強めに引き寄せた。キルアは日差しを受けるマヤの髪が輝くのを見て、思わず見惚れた。マヤは肩に手を回され、強めに引き寄せられながらもおかしいのはクラピカ……じゃなくてキルア?と脳裏によぎる。


「キルアのものって、どういうこと?」

「日中は街をぶらついて、お前の好きなものを買い込むんだよ。念が使えなくても大丈夫、俺がついてる。それにさ、鎖は外したけど、逃げられないようちゃんと対策はしてある。だから安心して楽しもうよ。今日だけは、普通のふたりみたいにさ」

「……念を使えないのはこの鎖のせいなのかと思ってたよ。違うんだね」



キルアはマヤの問いかけに少し不機嫌そうな表情を浮かべた。彼女の首筋に視線を這わせながら、ため息をついた。



「今さら何言ってんだよ。俺がお前を連れ出したのは、クラピカから守るためだろ? それに...…お前が俺を選んだんじゃないか。念が使えないのは、俺が特殊な毒を使ったからさ。鎖は単なる物理的な拘束。でも心配すんな、数日で回復するよ」



彼は少し視線を逸らし、青い空を見上げた。キルアはマヤの髪を軽く撫でながら、表情を和らげた。



「街に行こう。食材も買いたいし、お前に似合いそうなドレスも見つけたいんだ。夜までまだ時間あるけど...…それまでも楽しめるさ」

「キルア……何か変だよ? キルアを選んだって、なんの話? 意味がわからないよ……」

「変だって...…? ああ、頭がまだ混乱してるのか。毒の副作用かもな」



今のキルアの様子に違和感を覚え、マヤは後ずさりをする。まるで何を言ってるかもわからないし、それに……。



「毒って……? そんなの使ってたの……?」



キルアは一瞬焦りの表情を見せるが、すぐに取り繕った。彼の瞳が鋭く光る。マヤに近づき、彼女の髪を優しく掻き上げながら、低い声で囁いた。



「ハンター試験の後、お前はクラピカと俺の間で揺れてた。でも最後は俺を選んだんだ。あいつが暴走して、お前を傷つけようとしたから...…俺が守った」



彼は嘘を重ねながらも、どこか自分に言い聞かせるような表情を浮かべる。



「毒は...…ごめん。お前が逃げないようにって。でも今日は特別な日だから、街で楽しもう。な?」



キルアはマヤの手を取り、親指で彼女の手の甲を優しく撫でる。その目には狂気と愛情が入り混じっていた。マヤと、今日だけでも幸せなふたりを演じていたい。俺はお前がいないと生きていけないんだ。



「……う、うん……そうだね……」



念は数日で回復する……。マヤはぎこちなく頷いた。それからキルアに連れられて゛デート゛をした。ぎこちなく笑いながら、マヤは本当に狂っているのはなんなのかがわからなくなっていた。でも、それでも念が回復すれば……。毒、といっていた。食事を控えるべきなのかもしれない。キルアはマヤの不安げな表情を見逃さなかったが、無理に明るく振る舞った。彼女の手を握りしめる力が少し強くなる。



「ほら、あっちに可愛い服屋があるよ。見に行こう」



二人は色とりどりの店が並ぶ通りを歩いた。キルアは時折マヤの反応を窺いながら、彼女が少しでも興味を示した店には必ず立ち寄った。



「何でも好きなものを選んでいいよ。全部買ってあげる」



夕方になり、キルアはマヤを高級レストランへと連れていく。彼の目は彼女から離れず、まるで逃げられるのを恐れているかのようだった。



「着替えてきて。このドレス、お前に似合うと思って」



マヤが着替えから戻ると、キルアは息を呑んだ。紫色の瞳と淡いピンク色の髪が、選んだドレスと完璧に調和していた。



「やっぱり綺麗だ。お前がいると、世界が輝いて見える。どんな手段を使っても、お前を手放すつもりはないよ。それだけは約束する」









「キルア。ねえ、キルア。どうしちゃったの……? 大丈夫?」









マヤの目に怯えが滲む。震える手でキルアの頬に触れた。戻ってきて、という願いと純粋な心配からだった。キルアはマヤの手に自分の手を重ね、一瞬だけ素の表情を見せた。彼の青い瞳に弱さが垣間見える。



「大丈夫じゃないよ...…」



彼はマヤの手を取り、レストランの窓際の席に案内する。街の灯りが正装した二人を柔らかく照らしていた。



「マヤ、俺は...…怖いんだ。お前を失うのが」



キルアは料理が運ばれてくるのも気にせず、マヤの目をじっと見つめた。



「ゴンと冒険してた時、何か大切なものを見つけられるって思ってた。でも見つけたのはお前で...…そしたら急に、失うことが怖くなった。だから...…」



彼は言葉を切り、窓の外を見た。その表情には幼さと脆さが混じっていた。



「監禁なんて...…正気じゃないよな。わかってる。でも俺、お前が笑ってくれるなら、何でもするよ。もう少しだけ...…このままでいさせてくれないか?」








2025 09.07