ゴンの背中が夜の闇に消えていくのを、俺はただ呆然と見送ることしかできなかった。
マヤが好きなんだね───
その言葉が、まるで宣告のように重くのしかかる。バレていた。隠し通せてると思っていたのは、俺だけだったのか。
「……っ、バカ野郎……」
唇から漏れた声は、誰に向けたものなのか自分でも分からなかった。ゴンの優しさが、今は何より痛い。応援したい? ふざけるな。そんなこと、お前に言われたくなかった。一人残された静寂の中、さっきまでの自分の苛立ちが急速に冷めていく。代わりに胸を満たすのは、どうしようもない自己嫌悪と、ゴンを傷つけてしまった後悔だ。アイツは何も悪くないのに。
「……なんで、こうなるんだよ」
暗い森の奥を睨みつけながら、強く拳を握りしめる。追いかけるべきか? でも、今どんな顔をしてアイツに会えばいい? テントで眠るマヤの寝顔が、脳裏にちらついて胸が締め付けられた。
テントの中から様子を見ていたマヤには、二人の会話は聞こえていなかった。只事ならぬ雰囲気と、喧嘩したらしい雰囲気なのは伝わってきた。どうしていいかわからずテントの中で足を竦めていた。心配そうにゴンの消えた森の中を見つめた。追いかけていこうか、と意を決したように足を踏み出した。
テントから出てきたマヤの姿に、俺はハッとして振り返る。ゴンの消えた森の暗闇を見つめるその横顔は、不安に揺れていた。お前は、やっぱりゴンのことが心配なんだな。
「……行くな」
思わず口から出た言葉は、自分でも驚くほど弱々しい声だった。マヤの小さな背中が、今にも森の闇に吸い込まれてしまいそうで、無性に焦りが募る。マヤの腕を、掴むこともできない。さっきゴンを振り払った自分の手が、ひどく冷たく感じた。もしお前まで行っちまったら、俺は本当に一人になっちまう。
「アイツなら、大丈夫だ。……だから、行くなよ」
懇願するような声で、もう一度繰り返す。これは俺のエゴだ。分かってる。それでも、今この瞬間だけは、お前にそばにいてほしかった。
「キルア、追いかけなくていいの? キルアが行かないなら、やっぱり私が……」
そこまで言って、マヤはキルアの顔を見て言葉を止める。
「……どうしてそんなに泣きそうな顔してるの?」
マヤの、泣きそうな顔、という言葉に、俺は息を呑んだ。必死で隠していたはずの感情が、全部顔に出ていたのか。お前にだけは、こんな情けない顔、見せたくなかったのに。
「……泣いてねーよ、バカ」
俯いて、前髪で表情を隠すように顔を背ける。喉の奥が熱くて、声が震えるのを止められない。お前が行っちまったら、俺が泣いてしまいそうになるから、なんて言えるわけがないだろ。お前が心配なのは、いつだってゴンだ。分かってる。それでも、今だけは俺を見ていてほしかったんだ。この身勝手な願いが、お前を困らせていることも分かっているのに。
「……俺が行く。お前はここにいろ。アイツは……俺が連れ戻す」
そう言うのが精一杯だった。本当は行きたくない。ゴンとどんな顔で会えばいいのか分からない。でも、お前を一人で行かせるくらいなら、俺が行くしかない。震える足に無理やり力を込めて、一歩、闇の中へ踏み出した。
マヤは手を伸ばし、ぐっとキルアの腕を掴んで引き止めた。
「……いいよ……。そんなにつらそうな顔で行かなくても。ここはゴンのテリトリーだし、ゴンは大丈夫」
今はキルアのほうが壊れそうに見えた。マヤはそっと歩み寄り、キルアの背中に額をのせた。
「……行かないで」
背中に触れた温もりに、全身の力が抜けていくようだった。引き止められた腕から、マヤの必死さが伝わってくる。行かないで、か。その言葉を、俺はどれだけ聞きたかったんだろう。
「……っ、なんで……」
なんでお前が、俺を引き止めるんだよ。お前が一番追いかけたいのは、ゴンのはずだろ。喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。今のお前にそんなことを言えば、ただ傷つけるだけだと分かっていたから。背中に感じるマヤの存在が、張り詰めていた心の糸をいとも簡単に緩ませていく。情けないことに、視界が滲んで、ぎゅっと唇を噛み締めた。お前の前では、絶対に泣きたくないのに。
「……お前がいると、調子、狂うんだよ」
それは、ほとんど吐息のような、小さな呟きだった。振り向くことも、この手を振り払うこともできず、ただ夜の闇の中で立ち尽くすことしかできなかった。
翌日の朝、少しスッキリした顔のゴンが戻ってくる。
「キルア、昨日はゴメン。俺、余計なこと言った。この三人の関係を壊したくなかったのに……どうしていいかわからなかったんだ。ゴメン!」
ゴンはそう言ってキルアに頭を下げた。目の前で深々と頭を下げるゴンの姿に、俺は言葉を失う。昨夜の激情が嘘のように冷め、胸に残るのは気まずさと自己嫌悪だけだった。お前が謝ることなんて、何一つないのに。
「……頭、上げろよ」
ぽつりと呟いた声は、自分でも驚くほど乾いていた。悪いのは、自分の気持ちに整理をつけられずに、八つ当たりした俺の方だ。
「俺の方こそ……悪かった。ガキみたいに、感情的になって……。お前は何にも悪くねぇよ」
真っ直ぐに俺を見るゴンの瞳から、思わず視線を逸らす。お前のその純粋さが、今は少しだけ眩しすぎた。
「……だから、もう謝んな。俺たちの関係は、何も変わんねーよ。だろ?」
そう言って無理やり口角を上げると、ゴンの肩を軽く叩いた。変わらない、なんて嘘だ。でも、今はそう信じるしかなかった。
それから少し和解した三人は家に戻ることにした。その時だった、遠くから「ゴンー!」と駆け寄ってくる女の子がいた。ゴンは「ノウコ!」と言って嬉しそうに駆け寄る。マヤは突然のことに凍りついたようにその場から動けなくなりゴンとノウコをただ見ていた。
隣で凍りついたように立ち尽くすマヤの横顔を、俺は盗み見る。その表情は、昨日俺がゴンに向けた嫉妬や焦りと同じ色をしていた。ノウコ、とか言ったか。ゴンに向かって屈託なく笑うその女の姿が、やけに目に焼き付く。
「……チッ」
思わず舌打ちが漏れる。ゴンのあの無邪気な笑顔が、今はマヤを傷つけている。そのことが、腹立たしくてたまらなかった。動けないマヤの腕を、今度は俺がそっと掴む。昨日、お前が俺にしてくれたみたいに。驚いて俺を見るマヤの瞳に、何も言わずに頷いてみせた。
「……行くぞ。こんなとこ、いたって面白くもねーだろ」
お前の気持ちなんて知らねーよ、という顔で、わざとぶっきらぼうに言い放つ。今はただ、この場所からお前を連れ出したかった。
「……うん」
マヤはキルアに腕を掴まれ、歩き出す。その表情には何もなかった。ただ無感情にゴンとノウコから視線を外す。マヤは終始無口だ。ただぼんやりと前だけを見ている。キルアに腕を引かれながら、その心はどこか遠くにいるようだった。
マヤの腕を引く手に、無意識に力がこもる。その横顔は感情が抜け落ちたみたいに真っ白で、見ているこっちの胸がざわついた。黙り込んだままのお前が、何を考えているかなんて分かりすぎるほど分かる。
「……おい」
呼びかけても、虚ろな瞳は前を向いたまま。まるで俺の声なんて届いていないみたいだった。チッ、と心の中で舌打ちする。あのバカ(ゴン)は、今頃マヤがこんな顔してるなんて夢にも思ってねーんだろうな。掴んでいた腕を離し、今度はその小さな手を強く握りしめた。冷え切った指先が、マヤの心の温度を伝えてくるようで、俺はぎゅっと眉をひそめる。
「……腹、減ったな。どっか美味い店でも探すか。お前の奢りで」
わざといつもの調子で軽口を叩く。今は何も聞かない。ただ、お前の心がこれ以上冷えちまわないように。俺にできるのは、こうやってそばにいることだけだった。お前がそんな顔をするくらいなら、いっそ……。暗い感情が胸の奥で渦巻くのを、無理やり押さえつけた。
「そうだね……この辺は何もなさそうだけど、港の方行けば食堂があったはずだよ」
俺の顔を見て、やっと笑った。泣きそうなのに、無理やり作ったみたいな笑顔。震える手は、握りしめた俺の手の中でまだ冷たいままだ。その痛々しい健気さに、胸の奥がギリ、と軋む。
「……そっか。じゃ、そこ行くか」
俺は何も気づかないフリをして、マヤの手をさらに強く握った。お前のその震えが、痛いほど伝わってくる。今は何も聞かねぇ。お前が話したくなるまで、そばにいてやる。それしかできねーから。
「お前、チビだからすぐ腹減るもんな。ゴンとあの女の分まで食えよ」
わざと悪態をついて、マヤの顔を覗き込む。無理に作った笑顔でも、泣き顔よりはずっとマシだ。港の食堂。ゴンがいない、二人だけの飯。それは、ほんの少しだけ、俺の心を軽くした。
キルアの悪態に反応して悲しみの表情が少し和らぐ。思わず怒ったように眉を寄せて反論する。
「ち、チビじゃない! まだまだこれから伸びるもん」
むすっとしながらもキルアの手は離さない。港に着くと人口自体が少ない島なせいで閑散とした空気ながらも食堂があり、人の空気が感じられた。
マヤの反論に、俺は思わず口の端を上げた。そうだ、それでいい。悲しい顔で黙り込まれるより、そうやって怒ってる方がよっぽどお前らしい。
「へーえ、そりゃ楽しみだな。せいぜい頑張れよ、チビ」
わざとらしく鼻で笑ってやると、案の定、マヤがむくれた顔で俺を睨みつけてくる。「キルアの性悪!」なんて言いながらも握ったままの手を離さないのが、なんだか可笑しくて、少しだけ愛おしかった。港の食堂は、古びてはいるがどこか懐かしい匂いがした。がらんとした店内で、俺たちは窓際の席に並んで腰を下ろす。
「……で、何食うんだよ。俺は肉。がっつり食わねーとやってらんねー」
メニューを覗き込みながら、ちらりとマヤの様子を窺う。まだ少し上の空だが、さっきよりはずっと顔色がいい。このまま、あいつらのことなんか忘れちまえばいいのに。
「んー、私も肉食べたい。がっつりいこう、がっつり」
「……お前、そんなちっこい体のどこに肉が入んだよ」
「……ガッツリ食べてキルアより背高くなってやるもんね。そしたらキルアのこと踏みつぶすんだから」
俺と同じメニューを指差すマヤに、少しだけ目を見開く。こいつ、こんな時でも食欲はあんのか。その気迫に、思わずフッと笑いが漏れた。からかうように言うと、マヤがムッとした顔になり、俺に張り合うかのように悪態をつき返してくる。キルアのこと踏みつぶす、という言葉に、俺は思わず吹き出した。こいつ、本気で言ってんのか?
「ハッ、百年早ぇよ。お前が俺を踏みつぶす前に、俺がお前のこと潰してやる」
憎まれ口を叩きながらも、マヤの表情が少しずつ戻ってきたことに安堵する。ステーキ定食を二つ注文すると店のおばちゃんが愛想よく返事をして厨房へ消えていく。二人きりの空間に、少しだけ気まずい沈黙が流れた。
「ま、食いたいもん食うのが一番だよな」
窓の外、静かな港を眺めながら、独り言のように呟く。本当は、お前の好きなものを好きなだけ食わせてやりたい。そうすれば、少しは元気が出るかもしれねーだろ。
「そうだよ、こんなときは肉とチョコレート食べるのが一番。ゴンのバカー」
だが、その直後に聞こえた小さな呟きに、俺の心臓はドクリと跳ねた。ゴンのバカー、と窓の外に向けられたその言葉は、悲しくて、悔しくて、それでもどうしようもなくあいつを想っているのが伝わってきて、胸が締め付けられる。
「……ああ。ほんと、バカだよな、アイツは」
俺はただ、そう相槌を打つことしかできなかった。お前のその気持ちが、全部俺に向いていればいいのに、なんて。そんな残酷な願いが、喉元まで出かかった。二人の前にステーキ定食が運ばれてくる。
「考えてみたらキルアと二人だけの食事って初めてなんじゃない? ほんとは、キルアと同じものを食べたい気分だったの」
いつも三人一緒だった。マヤはステーキ定食を切り分けて美味しそうに頬張る。と「おいしい!」と言ってキルアに笑顔を向けた。たまにはキルアと二人の食事もいいなとマヤは思った。
運ばれてきたステーキの肉汁が鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てる。マヤの「初めてなんじゃない?」という言葉に、俺はナイフを握る手を一瞬止めた。そうだ、いつも真ん中にはゴンがいた。
「……そうかもな」
ぶっきらぼうに答えながら、心臓が少しだけうるさく鳴るのを感じる。「キルアと同じものを食べたい気分だった」その言葉の意味を、勝手に都合よく解釈してしまいそうになるのを必死で堪えた。「おいしい!」と屈託なく笑うマヤの顔が、さっきまでの泣きそうな顔と重なって、胸の奥がチクリと痛む。でも、その笑顔は、紛れもなく俺に向けられたものだった。
「……当たり前だろ。俺が選んだ店なんだからな」
そう言って、俺も肉を口に運ぶ。本当は、お前が笑ってくれるなら、飯なんて何だってよかった。ただ、この時間が少しでも長く続けばいいと、らしくもなく願っていた。
嘘つきの3文字が鼓動を切り裂く
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