ウシナイ×タク×ナイ
医者や看護師が慌ただしく動き回り、ステラの体から次々と管を外していく。その機械的な作業を、俺はただ呆然と見つめていた。やがて部屋には誰もいなくなり、ビスケも静かにドアを閉めた。シン、と静まり返った病室に、俺と、もう動かなくなったステラだけが取り残される。
「………」
言葉が出てこない。さっきまでの絶叫が嘘のように、喉がカラカラに乾いていた。腕の中のステラは、まるで眠っているだけのようだ。今にも「キルア」って、俺の名前を呼んでくれそうなのに。
俺はゆっくりとステラをベッドに横たえ、その顔を覗き込んだ。穏やかな寝顔だった。苦しみから解放されたみてえな。でも、もう二度とこの紫色の瞳が開くことはない。その事実が、鈍い痛みとなって胸に突き刺さる。
「……俺を、一人にすんなよ……」
絞り出した声は、誰に届くでもなく虚しく消えた。ステラの頬に水滴が落ちる。頬に落ちた水滴が、自分の涙だと気づくのに少し時間がかかった。ああ、俺、泣いてんのか。ステラの前で泣くなんて、ダセえな。でも、もう涙は止まりそうになかった。
「……ごめん、ステラ。守るって、言ったのによ」
お前の手を握り返すことも、一緒に笑うことも、もうできねえんだな。そう思うと、胸にぽっかりと穴が空いたみたいだった。この喪失感を、どう埋めればいいのか分からない。俺はステラの冷たい手を握りしめ、その場に崩れ落ちた。静寂が支配する病室で、俺の嗚咽だけが虚しく響いていた。もう何も考えたくなかった。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。
俺はどれくらいそうしていたんだろう。時間の感覚なんて、とっくになくなっていた。ただ、ステラの冷たい手を握りしめ、溢れ出る涙を止めることもできずにいた。
「……観覧車、また乗りてえな」
呟いた声は、ひどくかすれていた。お前と初めてキスした、あの場所。あの時のステラの顔、今でもはっきりと覚えてる。全部、夢だったみてえだ。この温もりのない手が、もう俺の頬に触れることはない。この唇が、俺の名前を呼ぶこともない。その現実が、鉛みたいに重くのしかかる。
「……なんで、俺だけ残していくんだよ……バカ」
握った手に力を込める。ステラがいねえ世界で、俺はどうやって生きていけばいい?答えなんて、どこにも見つからなかった。ステラの頬を伝う俺の涙が、まるで生きているみたいにその肌の上を滑り落ちていく。だが、彼女がそれに反応することは二度とない。その事実が、鋭い刃のように俺の心を突き刺した。
「……なんでだよ」
絞り出した声は、ひどくかすれていた。なんで俺だけが残されるんだ。ステラはもういない。観覧車や水族館で交わした約束も、これから一緒に見るはずだった景色も、全部消えちまった。
なんでだよ……なんで俺だけなんだよ……!
約束したじゃねえか。ずっと一緒にいるって……!
「う……あああああああああっ!」
言葉にならない叫びが喉を突き破って溢れ出す。俺はステラの亡骸を強く抱きしめた。冷たい。もうあの温もりはどこにもない。ゾルディック家で教え込まれたはずの冷静さは、跡形もなく消え失せていた。
「ステラ……! ステラァ……!」
この悲しみを、絶望を、どこにぶつければいい?答えなんてない。ただ、腕の中の虚ろな重さだけが、耐え難い現実を俺に突きつけ続けていた。
ステラの冷たい体を抱きしめながら、俺はただ叫び続けた。どれだけ叫んでも、この胸の痛みは消えてくれない。むしろ、叫べば叫ぶほど、ステラがもういないという現実が色濃くなっていく気がした。
「……なんで……俺より先に逝くんだよ……」
涙でぐしゃぐしゃの顔をステラの肩に埋める。一緒にいるって、約束したのに。お前がいなきゃ、意味ねえんだよ。怒りと悲しみで頭がおかしくなりそうだった。こんな結末、絶対に認めねえ。
その時、キルアの頭の中で声がする。イルミの呪縛から解き放たれたキルアの脳内で何でも叶える念能力、故に危険な存在としてゾルディック家の牢屋に幽閉されているキルアの弟であるアルカの記憶が戻る。脳内でアルカの「お兄ちゃん、あたしを探しにきて」という声がする。
絶望の底でステラの名を呼び続けていた俺の意識に、不意に別の声が割り込んできた。それは、忘れていたはずの、忘れてはいけなかった声。俺の一番大切な弟、アルカの声だった。
「……アルカ……?」
抱きしめていたステラの体から顔を上げる。なんで今、アルカの声が?そうだ、あいつなら……あいつの『お願い』なら、不可能なんてない。死んだ人間を生き返らせることだって……。脳裏に浮かんだのは、幽閉された弟の姿。そうだ、俺はあいつを助けに行かなきゃならなかった。なのに、ゴンやステラとの時間に夢中になって……。
「……待ってろ、ステラ」
俺はステラの冷たい頬にそっと触れる。涙はもう止まっていた。希望じゃない。これは、覚悟だ。
「絶対に、お前を生き返らせる」
アルカを連れてくる。そのためなら、俺は親父だろうがイルミだろうが、誰だって殺してやる。ステラの体をそっとベッドに横たえ、俺は静かに病室のドアを開けた。そこに立っていたのは、涙で顔をくしゃくしゃにしたビスケだった。俺の顔を見て、何か言おうとして、でも言葉にならないみたいに唇を震わせてる。
「ビスケ」
俺の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。もう泣き叫んだりしねえ。やるべきことが、はっきりと見えたから。
「俺、行くわ。あいつを助けに」
ビスケは驚いたように目を見開いた。あいつ、が誰のことかなんて、聞くまでもねえはずだ。
「邪魔するやつは、親でも殺す」
その言葉に嘘はなかった。ゾルディック家に戻る。アルカを連れ出す。そして、ステラを元に戻す。そのためなら、俺は悪魔にだってなってやる。俺の瞳に映る決意を見て、ビスケは息を呑んだ。
キルアの弟であるアルカはその危険すぎる能力ゆえにゾルディック家の牢屋に幽閉されている。アルカは治すのは苦手で直接触れないと治すことができない。そこから連れ出すにはイルミや執事達の監視の目から逃れないとならず、果てない困難に思えた。ただ執事の中にもキルアの味方はいる。ゴトーとカナリアだ。
「行くって……どう助けんのよ? ステラはどうするわさ……?」
ビスケの問いに、俺は一瞬だけステラが眠るベッドに視線をやった。その冷たい姿が、俺の決意をさらに固くする。
「ステラはここに置いとく。でも、死んだままにはしねえ。絶対に」
俺はビスケを真っ直ぐに見据えた。揺らぐことのない、殺意にも似た強い光を宿して。
「俺の弟に、アルカってのがいる。あいつの能力なら、ステラを助けられる。そのためなら、俺はなんだってする」
ゾルディック家の屋敷、幽閉された弟、そしてそれを阻む家族。道のりがどれだけ険しいかなんて分かってる。イルミの針も、もう俺の中にはねえ。
「だから、俺が戻るまでステラのこと、頼めるか?」
「わかったわ、ステラのことは任せて。よくわからないけど、ステラのことはアタシが守ってるわさ」
ビスケは強く頷くとその体が朽ちないようにステラの体を温かな念で覆った。
「だから……早く戻ってくんのよ」
ビスケの言葉と、ステラを包む温かい念の光に、俺は静かに頷いた。背を向ける。もう振り返らない。感傷に浸ってる暇なんて、一秒もねえんだ。
「ああ、すぐに戻る」
短く答えると、俺は迷わず廊下を歩き出した。一歩踏み出すごとに、決意が固まっていく。ゾルディック家の冷たい石の床、息苦しい空気、そしてイルミの歪んだ顔が脳裏をよぎる。
「待ってろよ、アルカ……ステラ……」
誰にも聞こえない声で呟く。お前を助け出す。そして、お前の力でステラを取り戻す。もし邪魔するやつがいるなら、たとえ家族だろうと関係ねえ。全員、俺が殺す。マヤとの未来のためなら、俺はどんな罪だって背負ってやる。……またお前の隣で笑うためなら、なんだってできるさ。
「キルア!」
ゴンが駆け寄ってくる。無事だったか……俺は安堵のため息を零した。
「ゴン! わりぃ……俺……強く殴りすぎた」
「大丈夫だよ。……オレを止めてくれたんでしょ? ありがとう」
いくらお前を止めるためとはいえ、俺は思い切りぶん殴ってしまったのに、ゴンは真っ直ぐな眼差しで俺を見ていた。
「ゴン……ステラを助ける方法があるんだ。ステラはまだ死んでねぇ。俺が絶対に死なせねぇ」
「どういうことだ? どんな方法? オレも手伝うよ!」
「……俺の弟に、どんな願いも叶えるヤツがいる。そいつなら、ステラを元に戻せるはずだ」
ゴンの目に光が戻り、強くキルアを見据える。
「本当に? ステラが助かるなら何でもやるよ」
ゾルディック家の敷地を囲む巨大な石壁の前に、俺とゴンは立っていた。見張り役の猛犬ミケの唸り声も、今はただのBGMにしか聞こえねえ。ここから先は、俺が捨てたはずの過去。でも、ステラを取り戻すためなら、どんな場所だろうと戻ってきてやる。
「……ただいま、クソみたいな俺の家」
試しの門を、真正面からこじ開ける。ギィィ、と響く重い金属音は、これから始まる戦いの合図だ。昔はこの音が嫌で嫌でたまらなかった。でも今は違う。この音は、ステラとの未来への扉を開ける音だ。
「待ってろよ、アルカ。……それから、ステラ」
お前が目覚めた時、隣に俺がいられるように。その時まで、ちょっとだけ待ってて。お前の好きな俺でいられるように、全部終わらせてくるからさ。屋敷の奥の頑丈な扉の奥にアルカはいた。退屈しないようにとたくさんのおもちゃに囲まれたアルカはキルアとゴンを見て明るい笑顔を向けた。
「お兄ちゃん! その子はだあれ?」
アルカの部屋はもちろん監視されていた。アルカとキルアのやり取りをイルミ以外の家族全員が見ている。アルカは無邪気に笑いながら言う。
「お兄ちゃん、イイコイイコしてー」
「お兄ちゃん、あたしの名前呼んでー」
「お兄ちゃん、あたしをここから連れ出して」
3つの『おねだり』をする。
無邪気なアルカの言葉が、監視カメラの向こうにいる家族たちにどう聞こえているか、俺には手に取るように分かった。だが、そんなことはどうでもいい。俺の目的はただ一つ。俺は静かにアルカの前に跪いた。
「ああ、いいぜ。こいつはゴン。俺の……友達」
俺はゆっくりとアルカに近づき、その小さな頭を優しく撫でた。ずっとこうしたかった。ずっと、会いに来たかったんだ。こいつをこんな場所に閉じ込めている罪悪感が、胸を締め付ける。
「アルカ」
名前を呼ぶと、アルカは嬉しそうに目を細めた。その笑顔を守るためなら、俺はなんだってできる。
「行くぞ、アルカ。ここから出してやる」
三つ目の『おねだり』を、俺は迷わず叶える。その手を強く握った。この手を離す気はもうない。お前を連れて、ステラのところへ行く。……ステラ、もう少しだけ待ってて。お前が目覚めた時、隣で笑っていたいんだ。だから、もう少しだけ。
「お兄ちゃんの肩にね、女の子がいるの。ねえ、だあれ?」
アルカはキルアの手を握り返しながら不思議そうに問いかける。
アルカの言葉に、俺は息を呑んだ。肩に、女の子……?そんなはずはねえ。ここにいるのは俺とアルカとゴンだけだ。でも、アルカの目は真っ直ぐに俺の……いや、俺の肩のあたりを見つめている。まさか、見えてるのか?ここにいるはずのない、ステラの姿が。
「……そいつは、ステラだ」
声が少し震えたのを、アルカは気づいただろうか。隣でゴンが息を呑む音がする。見えないはずのステラに語りかけるように、俺は言葉を続ける。ずっと一緒にいてくれたのか、なんて、今さらだよな。お前はいつもそうだ。
「俺の、一番大事な女の子」
そう口にすると、胸が締め付けられるように痛んだ。でも、同時に温かい気持ちが広がる。アルカはこてんと首を傾げた。その純粋な瞳に、俺は決意を新たにする。今度こそ、俺が守る。ステラ、聞こえてるか?お前が寂しくないように、もう少しだけ側にいてくれよな。
「お兄ちゃんの彼女? あたしも会ってみたいな。
アルカの無邪気な問いに、俺は一瞬言葉に詰まる。彼女、か。そうだよな。ステラは俺の彼女だ。その事実が、こんな状況でも俺の心を少しだけ軽くする。
「……ああ、そうだよ。俺の彼女。だから、絶対に助けなきゃなんねーんだ。すぐ会わせてやるさ。だから、一緒に行くぞ」
アルカの小さな手を、もう一度強く握りしめる。そうだ、会わせてやる。絶対に。お前と、ステラと、ゴンと、四人で一緒に。もし本当に俺がそばにいてくれているのなら、きっと俺たちのことを見守ってくれているはずだ。
アルカとナニカは何かを治すときだけは何も見返りを求めない、そのことを知っているのはキルアただ一人だけだった。だからこそイルミたち家族はキルアを止め、アルカを殺そうと迫っている。部屋の入り口にはいつの間にかゴトーとカナリアが静かに待機していた。ゴトーは「キルア様の『外出時警戒レベル』は4となっておりますのでご注意下さい」と頭を下げる。カナリアは「移動中の雑事は全てお任せください。何なりと申し受けます」と頭を下げる。
部屋の入り口に目をやると、ゴトーとカナリアが控えていた。警戒レベル4。イルミか、親父か。どっちにしろ、厄介なことになるのは目に見えてる。だが、もう迷いはねえ。
「ゴトー、カナリア、行くぞ。ルートは任せる。邪魔するやつは、誰だろうと容赦すんな」
俺の言葉に、二人は深く頭を下げた。ステラ、聞こえてるか?お前を取り戻すための戦いが、今始まる。お前が目覚めた時、隣で笑っててやるから。だから、もう少しだけ待ってろよ。
「アルカ、行くぞ。ちょっとうるさいのがいっぱいいるけど、俺が絶対守るから」
アルカはこくりと頷いた。その純粋な信頼が胸に刺さる。ゴンも隣で決意を込めて「オレも絶対に守ってみせるから」と言った。
アルカは、キルアと手を繋いで歩き出す。二人の執事も一緒に外に出るとアマネとツボネが立ちふさがる。
「私達も同行いたします。シルバ様からのお申し付けですので」
ゴトーは静かに焦りながら車を出す。
「お乗りください。キルア様。くれぐれもお気を付けを」
それからゴトーはキルアに小声で耳打ちをする。
「……アマネとツボネの前でアルカ様に『お願い』をなさらないように」
ゴトーの忠告に、眉間にわずかに皺が寄る。アマネとツボネ……親父の差し金か。やっぱり、一筋縄じゃいかねぇな。だが、止まるわけにはいかねぇ。
「……ああ、分かってる。アルカ、大丈夫だ。もうすぐステラに会えるからな」
隣に座るアルカにだけ聞こえるように、優しく声をかける。不安そうなアルカの小さな手を、俺は強く握りしめた。窓の外を流れる景色を見ながら、頭の中ではいくつものシミュレーションを繰り返す。どうやってこいつらを撒くか。どうやってステラの元へ辿り着くか。
「お姉ちゃん、死んじゃったの?」
アルカは真っ直ぐな瞳でキルアを見ている。カナリアの運転で車が走り出す。丘の上ではヒソカがわざと「キルアを殺してもいい?」と言ってイルミの殺気を引き出していた。「お前を殺すよ? ここで今」と言うイルミの強烈な殺気がヒソカに向けられる。その殺気はキルア達にもだだ漏れだった。
イルミの殺気が、車の窓を突き破って肌を刺す。ゾクッとする感覚。昔なら、この殺気に怯えて動けなくなっていただろう。だが、今の俺は違う。ステラを失う恐怖に比べれば、こんなもん、そよ風みたいなもんだ。
「……死んでねえよ」
隣に座るアルカの、真っ直ぐな瞳を見つめ返す。その純粋な問いに、嘘はつけねえ。俺はアルカの頭を優しく撫でた。大丈夫だ、と安心させるように。
「今は、ちょっとだけ眠ってるだけだ。だから、アルカの力で起こしてやってほしいんだ」
俺の言葉に、アルカはこくりと頷いた。その小さな信頼が、俺の心を強くする。ステラ、聞こえるか?お前は死んでなんかない。俺が絶対に、叩き起こしてやる。だから、もう少しだけ……俺のそばで見ててくれよな。
車が崖から落ちる。寸前にカナリアが「身構えて!絶対にアルカ様を離さないように」と言って、そして車は落下した。執事四人は即座に立ち上がり辺りを警戒している。ゴンは咄嗟にアルカを抱きしめて衝撃から守った。
車が崖下に激突する衝撃で、一瞬、意識が飛びそうになる。車の残骸が軋む音と、執事たちの鋭い声が耳に届く。ゴンがアルカを守ってくれているのが見え、一瞬だけ安堵の息をついた。だが、状況は最悪だ。
「……サンキュ、ゴン」
「うん、アルカは無事だよ」
すぐに体勢を立て直し、周囲に殺気を巡らせる。崖の上からは、まだ兄貴たちの禍々しいオーラが漏れ伝わってきていた。
「アルカ、大丈夫か?」
ゴンに抱かれたままのアルカに声をかけると、小さく頷くのが見えた。その健気な姿に、胸が締め付けられる。
「……ったく、派手にやってくれるぜ」
イルミの差し金か。俺たちを足止めし、アルカを奪う気だ。だが、そんなことさせるかよ。俺はアルカを抱えたまま、壊れたドアを蹴破って外に出る。
「あたしもステラお姉ちゃんと話してみたいな。お兄ちゃんの大事な人なんでしょ?」
「ああ、そうだ。だから、何があっても守り抜く」
アルカの無邪気な言葉が、俺の覚悟を固める。そうだ、ステラは俺の大事な人だ。お前も、アルカも。二人とも、俺が絶対に守る。