Walkure








Not easy Teenage


 最後の一音がカーペットに溶ける。
 息を呑む音が聞こえる。
 ほんの少しの沈黙の後、ぽつりぽつりと鳴り始めた拍手は思い出したように次第に大きくなり、やがて部屋中を覆い尽くした。
葉子が一礼し、自席に戻る。通り過ぎると、少しの間を置いて風が追いかけた。

 勝てない、何もかも。
 葉子が弾いたのはショパンの革命のエチュード。私がどれだけ練習しても上手く弾くことのできなかった、あの曲。それを彼女はさらりと弾き、音楽の授業でクラス中の注目を全て攫っていったのだ。
彼女の方を振り返ると、つまらなそうな顔をして爪を弄っている。先ほどの覇気とは程遠い。覇気はあるのに、リズムは驚くほど正確。冷たく感じられる音色が曲調にマッチして、当たり前のように暗譜で弾いた。その癖普段は飄々としていて、それが私を腹立たせた。

 私の方が練習しているのに。
 思わず浮かんだ言葉は、先の演奏によってかき消される。どれだけ努力しようとも、聴き手が納得しない限りは下手なままだ。私は下手な側の人間だった。
 もう一度彼女の方を見てみると、今度はあくびをしながらプログラムを覗いている。この後は楽器未経験者によるリコーダーの発表が続くから、さぞ退屈だろう。顔からよく伝わってくる。

 時々彼女は本当にB級レベルの隊長なのか、信じられない時がある。
わがままで、感覚で動いて、努力をしているところも見受けられない。それだというのに、成績は私よりも遥かに良い。それが許せなかった。天才と言えばそれで済む話ではあるけれど、私は彼女が天才であることを認めたくなかった。だって、私が悔しいから。それはボーダーの中だけではなく、テストの点数でも、もちろん音楽に於いても。

 本番で上手く弾けなかった曲を、授業終わりにもう一度弾いてみる。シューベルトの即興曲。どうして本番以外の場面では弾けるのだろう。所詮私は楽しみの範囲でしか弾けないただの素人だった。
 「ちょっと耳障りなんだけど」
 葉子がどいてと言わんばかりに私に圧をかけるので、そそくさと席を譲った。戻ろう。これ以上彼女の前で弾いたってただの恥だから。楽譜を持って一目散に歩き始めると、聞き慣れたメロディが私の耳を劈いた。
 数秒前まで私が弾いていたはずのそれに、鮮やかな色がつく。全く同じフレーズであることは間違いないのに、私の演奏が幼稚なものに感じられた。足が動かず、けれど思わず彼女の方を振り向いてしまう。葉子が弾くと、魔法がかかったように目が離せない。音色はベタ過ぎず、かと言って無機質でない響きで自然と耳へ入ってくる。

 その時窓から風がふわりと入り、カーテンが膨らんだ。差し込んだ光が葉子の髪を照らし、表情を映し出す。授業の時とは打って変わって、幼子のように無邪気で得意気なはにかみが覗いた。
彼女はピアノと遊んでいる。様々な表情を見せる彼女に今度こそ耐え切れず、駆け出していた。音はどんどん遠くなるはずなのに、耳にこびりついて離れない。

 折ってやりたい。葉子の白くて細い腕を。長くて綺麗な指を。そうすればほんの一瞬、彼女を奪える気がしたから。日に晒された彼女の腕が悔しいほどに眩しかった。

 それからというものの、おかしな思考が胸を巣食った。例えば体育の授業中。バスケの時はパスしながら彼女が突き指するのを期待した。放課後、自転車で帰るところを見かけた時は転ぶように念じた。そして何よりも、演奏中にピアノの蓋が一気に落ちた時のことを考えた。黒くて重い蓋が、ピアノ弾きの命である手を目掛けて勢いよく落ちる。演奏が止まる。一歩も動けず、絶叫に近い悲鳴を上げる葉子。想像の世界でしかないのに、私の手首が冷えた。

 両手を負傷した彼女はまず、ピアノが弾けなくなる。一日も弾かなくなると感覚が鈍るそれは拷問に等しい。更に、シャープペンシルを持って勉強ができなくなる。包帯を着けた両手で教科書を持ち音読する彼女を想像してみる。それでもやはり彼女は周囲からの同情を買うのだろうか。

 毎日毎日、不毛なことを考えていた。気になって仕方がなかった。あれだけ妬んでいる彼女のことを考えているのは、それほど魅入られている証明なのだろうけれど、それも含めて認めたくなかった。

 しかしその日常は、突然終わりを告げた。
 ある朝学校へ向かうと、土手の通りに見慣れない人だかりが見えた。パトカーや救急車までもがいる。
 「葉子の腕が――」
 誰かが言う。人混みをかき分けて先頭に進むと、腕を真っ赤に染めた葉子がいた。
 その横にある軽トラックから察するに、荷台から落ちた何かが葉子の腕を直撃したのだろう。その隣では運転手であろう中肉中背の男が慌てた様子で何か話しかけている。野次馬たちの喧騒の中、葉子は一人青ざめていた。

 その時私は、怖くなって駆け出した。私のせいだ。毎日のように念じたから葉子は事故に遭った。葉子は悪くない。悪いのは、全部私だ。
 葉子の腕を見た時に、彼女がこちらを見た気がした。彼女は私の思惑に気付いていたのだろうか。知った目で見られた気がして気味が悪かった。その一方で、彼女の困惑した顔を見て安心している自分がいた。



 チョークの粉が空になった黒板消しクリーナー。からっぽの教壇。がたがたと椅子を机の中に仕舞う音。放課後の廊下は風通しが良すぎる。良すぎてなんだか心細くなるくらいだ。今にも雨が降り出しそうなこの時間帯は、学校全体をより不穏なものにした。廊下から外を見下ろすと、外で生徒が花壇に水やりをしている。花は遠目から見てもはっきりと分かるくらい鮮やかな黄色で、凛々しく存在を主張していた。ねずみ色の空の下、それは毒々しいほどに私の目に焼き付いた。真っ直ぐ天に向かって咲くそれは、これから自身を打つであろう雨すらも恐れていない。私はこの時初めて、その鮮やかさが彼女とよく似ていることを思い出した。

 強い瞳。曲げない姿勢。私は強かな彼女と、彼女によって生み出される音に、やはり焦がれていたのだ。焦がれずにはいられなかった。持って生まれたその才能を。見ている世界が違う。それだけ魅入っていた。

 静かな気付きは確信を求める。
 「ごめん、音楽室寄ってくる」
 中途半端に開いた引き戸を開け、教室にいる友人に声をかける。友人たちはスカートの埃を取りながら「あ、そう」と返した。のんびりと流れる時間の中で私だけが、急いていた。いるかどうかは、分からない。けれど向かえば何かを得られるような気がしたのは、私も音楽に生きていたいと切実に願うからだ。

 音楽室の前の廊下はやけに静かだ。普段は吹奏楽部の練習の音がするそこは、テスト期間のせいで人の気配を感じない。しかし明かりは点いているので、先客はいるようだ。近付き、足が止まる。頭からすうっと血の気が引く音がする。いつか想像した悲鳴に近い絶叫が私の耳を直撃したからだ。

 「あたしが何か悪いことでもしたっていうの! なんであたしがこんな目に遭わなくちゃいけないの!」
 確かに葉子の絶叫だった。苛立っているような、救いを求めるような、どうしようもないほどの鬱憤を吐き出すようなそれは、放課後の空間を切り裂くほどのエネルギーを放っている。
 葉子以外の声は聞こえないので、電話で誰かと会話をしているのだろうか。少しの間を置いて、続く。
 「ねえ華どうすればいいの、分かんないよ、これからどうすればいいの」
 普段の様子から全く想像できないほど、葉子は乱れ切っていた。気が遠くなるまで泣いていた。

 へえ、そうなんだ。
 葉子も泣くんだ。

 その時私は、言葉にできないほどの愉悦の味を知った。心が浮き立つような、今までの重罪が晴れたような、優越感。
 ヒステリックな彼女の叫びが遅効性の毒のように入り込む。

 勝てない相手に勝てた時の快楽はこのことを言うのだろう。実際には負けているけれど、錯覚するには都合が良い。怪我が完治するまでの期間だけで構わない。私はこの甘やかな感覚に浸っていたい。泣きじゃくる声が私の加虐心を擽った。

 どれだけの時間が経ったのだろうか。暫くするとドアに近付く気配を感じたので、階段の影に隠れた。出てきたのは楽譜を抱えた葉子だった。腕には包帯が巻かれている。

 私は一つ、彼女の弱みを知ってしまった。
 だから目が離せないのだ。
 きっとこれからも、彼女を見つめていくのだろう。羨望も憧憬も全て抱えて。それでも私はこの感情を愛している。激情を乗せた音色に呑まれるように、感傷に溺れていく。その根源が葉子であるのなら、喜んで受けよう。私は愉悦と激情の間を彷徨いながら、狂い、堕ち、限界を知る。きっとそんな未来が待っている。
 「今は無理みたい」
 ぽつりと出た言葉が、乾いた空間に溶けた。







- 2 -

*前次#


ページ: