
低温火傷
お人形さんみたいだと、その時私は思った。
金色の髪を垂らし無防備に机に身を預けている彼女は、深い眠りの中にいる。自慢の髪はくびれに沿いなだらかな曲線を描いており、微かに上下する背中が、辛うじて生身の人間であることを証明している。
呼気から伝わる肌の熱が私を招いているようで、目の前にあるノートの内容が頭に入らない。何度も何度も、吸い寄せられるように視線が移る。手を着けたばかりの丸付けなんて、後回しにしてしまおうか。丸付けはいつだってできるけれど、加古さんの隣を独占できる機会は滅多にないのだから。それに私の真横で寝ることも、今後二度とないかもしれない。だから私はこの状況に甘んじて、そっと彼女の髪に触れた。すうっと指で梳くと、シャンプーのような甘い香りが空気に舞う。それでも彼女はぴくりともしないので、相当疲れているのだろう。そのくせ週末には太刀川さんや二宮さん達とスノーボードに行くという。大学生って、身軽でいいな。私も早くなれたらいいのに。目の前の赤点すれすれの答案用紙を見て、ため息が漏れる。「A級たるもの、勉強もできなきゃね」 そう言って作戦室に呼び出したのは貴女なのに、どうして夢の中にいるの。ねえ、約束通り英語教えてくれるんでしょう?
ならもういいやと、頬をつねってみる。白くて陶器のように整った肌は柔らかく、あたたかい。一度指を離し、また確かめるようにやわこく弄った。顔周りのさらさらの髪を耳に掛けると、寝顔まで綺麗。長い睫毛にすっとした鼻筋、小ぶりな唇。盗み見をしているようで申し訳ないけれど、起きないことを言い訳に、しっとりした感触を堪能する。
雪のように白い肌に私の爪の藤色が映える。普段は塗らないマニキュア。私の目に映ったところで無意味なそれを塗っておきたかったのは、少しでも変化に気付いて欲しかったから。初めておろしたセーターも、ぴかぴかに磨いたローファーも、この日のためだったのに。
髪を梳き、頬をつねり、そして唇に触れようとした時だった。
「これ、あなたの手?」
手のひらが被さり姿勢はそのままに、くたりと笑う彼女と目が合った。全てを見透かすような、そんな目だった。彼女の前では嘘は吐けない。お願い、見ないで。耳の裏がかっと熱くなる。
「加古さん、いつから――」
「あなたの手、こんなに大きかったかしら。ここに入ったばかりの頃はよく私に手を引かれていたわよね。私がいないと迷子になったから」
彼女はにこにこしながら平然と、昔の思い出話を始めた。手はまだ、重なったままだ。
予想外の言葉にうろたえながらも視線を落とすと、確かに互いの指の長さに大差はない。加古さんの指先にはベージュのネイルが施されていて、不器用に塗られた私の爪とは大違いだ。
手を繋がなくなったのはいつのことだろうか。もう何年も前だろうけど、彼女を姉のような存在ではなく一人の女性として意識し始めた頃からだと思う。
「私、あなたの手を引くの結構好きだったのよ。まあ仕方ないわね。もう大人だもの」
そうじゃない。私はただ、触れるのが怖いだけなのだ。触れることによって全てが壊れてしまうことが。私の中の何かが崩れてしまうことが。だけどもう手遅れだ。いつの間にか芽生えた気持ちは、私の知らぬ間に肥大して侵食していたから。その証拠に、私は唇に触れようとしたのだから。今だって指を絡めたい衝動を、ぐっと堪えている。私の気持ちに気付いて欲しい。でも加古さんの気持ちを知るのは怖い。知りたくもない。だから私は彼女にこう返すのだ。
「私はまだ、大人になりきれていません」
♪低温火傷/つばきファクトリー