水でいっぱいになった銀のボウルに、白い泡が浮かんでいる。泡はシンクの至る所に跳ねていて、蛇口の脇に置かれた洗剤の蓋は開きっぱなしになっている。洗剤の本体であるプラスチックの表面は、中から溢れた液でべたべたに汚れている。
 皿を片手にシンクに立ち尽くしている文男(ふみお)は、蝶でも浮いているかのように空中を見つめている。蛇口から出しっぱなしの水とボウルが触れ合う音が身体の奥から響いてくる。蛇口を閉めがてら、文男の横に立った。文男の両肩にふれ、右肩にだけもう一度ふれ、水でぐしょぐしょに濡れたトレーナーの袖を肘までたくし上げる。左も同じ手順で。そのまま皿を自分の手に移して、ボウルに潜らせる。
「あ、ごめん」
「いいよ」
「水が無駄になったね」
「いいよ」
皿もボウルも水を切って、食器立てに伏せた。

 朝になる。
 朝になると、僕は仕事に出かける。大きな麻袋にゴム手袋、錆びたハサミ、陽に灼けたノートを詰める。冷蔵庫を開けて、バナナと水の入ったびんも一緒に入れた。家を出るときの麻袋は軽い。帰る頃に、たくさん詰められるようにするためだ。
「青」
 振り返ると、寝間着の裾を引きずった文男が眠たそうな顔で立っている。
「青?」
 そう聞き返すと、文男はにっこりと笑った。やわらかい髪が窓から差す街灯に照らされている。僕はその髪にふれて、自分の胸に引き寄せた。
「楽しい夢を見たよ」
「そうか。でも、帰ってから聞くよ」
「帰ったころには忘れてるよ」
「なら、絵にして残しておいて」
 僕がそう提案すると、文男はまたにっこり笑って寝室のほうに消えていった。帽子をかぶって、僕は家を出た。

 夜明け前の街は、最も空気が澄んでいると思う。白い壁に沿ってできた、石畳を降りる。そこから臨む海は、町を眠らせる毛布みたいに広がっている。船を出すには問題のないほどの風だが、あまり吹かれると海鳥たちが怒る。気性の荒くなった奴らに船で暴れられないといいけど。
 白くて脆そうな壁の家々をいくつも通り過ぎ、僕は港へ向かった。新聞屋が家の扉に新聞をはさんで回っている。目が合って声をかけられそうになったので、会釈して足を速めた。
 海のほうから、航笛が聞こえる。反射的に目をやると、黒く塗られた大きな貿易船が港へ着くところだった。目を細めると、船体に書かれた数字が見える。330−90。今から80年前ぐらいに造られた客船を貿易のためにやりかえられたものだとわかる。
 高くなっていく空を背に、僕は仕事場へ急いだ。

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