何度目かの世界旅行

 自分が持つ宝石眼は特別≠セと、嫌というほどに理解した。
 闇を纏う艶やかな長い黒髪に、水色の宝石を嵌めたような虹彩を秘めた瞳の少女──カノンは、息を切らしながら駆けていた。
 おそらく、これまでの自分は恵まれていたのだろう。運がよかった、と表現すればいいか。宝石眼に魅せられ、迫ってくる男はいたものの、今ほどまでに暴力的に求められることはなかった。
 それに――仲間たちが、守ってくれていた。
 最初は気付かなかったけれど、仲間たちは、宝石眼が原因でカノンが酷い目に遭わないよう、目を光らせていた。それがどんなに、幸せなことだったか。
 今は、優しくて頼もしい仲間たちが、いない。頼れる人は存在せず、カノンは一人きりで逃げるしかなかった。
 寂しくて、悲しくて、苦しい。カノンは、自分がひとりぼっち≠セと、いよいよ自覚した。
 一人になったのは、突然だった。相棒≠ニ呼ぶに相応しい女性――しいなと共に訪れた遺跡で、何の前触れもなく眩い光に包まれた。光が収まり、おそるおそる瞼を上げると、カノンは見知らぬ森にぽつねんと立っていた。
 仲間たちと共に旅をする中で、摩訶不思議な現象を経験したことは、何度もあった。けれど、いつだって仲間たちと一緒だったから、不可解な現象であれ、乗り越えられたし、今ではいい思い出となっている。
 しかし、一人となれば、胸に渦巻くのは不安と恐怖だった。辺りを見回しても、人らしい気配もなく、どうにか森を抜けようとすれば、見覚えのない魔物たちに出会った。戦う術も、怪我を治す術も持ってはいたが、見知らぬ場所で、未知の魔物(それも、出会う魔物すべてを知らない)が襲ってくる状況は、カノンを確実に疲弊させた。
 それでも、どうにか辿り着いた港町――ダーハルーネで情報収集に励むと、この世界は自分がいた世界とは異なると気付いた。異世界だろうとは、薄々予感していたが、確信を持った瞬間、一気に胃が重くなった。
 元いた世界で、異なる世界に渡った経験はあるが、それともまた、毛色が違う。しいなと共に世界を渡った先は、自分たちの世界とは様子が違ったものの、共通点が多数あり、彼らもまた、自分たちと繋がりのある同じ人間だと思えた。
 けれど、この世界は、まるで異なるもので。元いた世界との繋がりは感じられず、カノンは人知れず絶望した。心に落ちた影は、すぐに払拭できるものではない。常に冷静な少女だと評されていたカノンだが、動揺は隠せず、落ち着いた判断など到底不可能だった。
 その状況を狙い澄ましたように、カノンの宝石眼に気付いた怪しい男たち(おそらく、盗賊の類だ)が、カノンを捕まえようとした。間一髪で男たちから逃れたカノンは、必死に逃げた。入り組んだ町の構造を利用し、男たちを撒いた。しかし、同じ町にいるとあれば、見つかるのも時間の問題で、やがて男たちに見つかってしまった。
 男たちに捕まれば、きっと、過酷な環境に放り込まれてしまう。最悪――宝石眼だけを奪われ、自身は殺される可能性もある。カノンは、疲労で重くなる足を懸命に動かした。
 町をぐるりと囲むように造られた暗い道を駆け、弧を描く道に差し掛かった時、カノンは身体を襲った衝撃に尻もちを着いた。

「あら! アナタ、大丈夫? ぶつかってしまって、ごめんなさいね」

 頭上から降ってきた声は、優しいテノールだった。カノンが顔を上げると、いつぞや見掛けた道化師に似た服を着た、端正な顔立ちの男が立っていた。左右に跳ねた短い黒髪を揺らして、男はカノンを気遣う。

「いえ、こちらこそ、ごめんなさい……わたし、急いでいて」

 カノンの口からは、しどろもどろな言葉しか出なかった。心做しか、声も震えている。自覚している以上に、今の状況に恐怖していたのだと突き付けられた。

「アナタ……」

 男の嘆声が耳に届き、カノンはぎくりと肩を揺らした。宝石眼に気付かれたのだと遅れて察し、サッと顔を伏せ、急ぎ立ち上がる。
 と、男たちの荒れた声が、カノンの背中を叩いた。焦燥感が身体を焼き、感覚がわからなくなってきた足を、何とか前に動かす。

「すみません、わたしはこれで……!」

 目の前の男の脇を通り過ぎようとした瞬間、腕を掴まれた。ぞくり、とカノンの胸が恐怖に震える。

「話は後ね。こっちに逃げましょう」

 男はカノンの手を引いて走り出した。思いも寄らぬ展開に、カノンは戸惑いながらも、手を引かれるままに男を追った。
 まさか、助けてくれるのか。
 それとも、親切を装った誘拐犯だろうか。
 どちらにせよ、もう、疲れてしまった。
 カノンは目を伏せた。哀愁を漂わせた長い睫毛は、宝石眼に影を落としている。
 どれほど走っただろうか。いつの間にか、カノンと男は町の外に出ていた。息切れと動悸が激しい。カノンは短い呼吸を繰り返した。

「落ち着いて話をしたいところだけれど、確実に振り切ったとは言えないから、我慢してちょうだいね。まだ歩けるかしら?」

 男は女らしい口調で訊ねた。カノンは頷き、男と共に歩き続ける。

「アタシはシルビアっていうの。アナタは?」
「……わたしはカノンです。シルビアさん」

 カノンの声には警戒心が滲んでいた。シルビアはにこりと笑い、カノンを安心させられたらと、握る手に柔く力を込める。

「アタシね、旅芸人なの。これからサマディー地方に行って、サーカスに出る予定なんだけど……カノンちゃんさえよければ、一緒に行かない?」
「でも、ご迷惑じゃ」
「全然! むしろ、カノンちゃんみたいな可愛い女の子と旅ができるなんて、とっても素敵だわ。ね? 一緒に行きましょうよ!」

 カノンの目に映るシルビアは、楽しげに笑った。嘘を吐いているようにも思えず、カノンは言葉を詰まらせる。
 信じても、いいのだろうか。

「……大変だったわね。もう大丈夫よ。アタシが守ってあげるわ」

 酷く、優しい声だった。カノンの右手を包み込むシルビアの手のぬくもりも、カノンの強ばった心を溶かすように、優しい熱を帯びている。
 じわり。カノンの宝石眼に膜が張った。光に煌めいていた宝石眼の輝きが増す。あまりの美しさに、シルビアはそっと息を呑んだ。
 なるほど、これは悪い人たちに狙われるわけだ。宝石眼に加え、カノン自身の未熟な美しさ──可愛らしさも相まって、カノンの価値は計り知れないものとなる。……趣味の悪い者共にとっては。要は、金銭的価値が高いということだ。一攫千金を狙う者にとっては、カノンは黄金の宝に見えて仕方がないだろう。
 こんな可愛らしい子の笑顔を奪うなんて、許せないわ。
 シルビアは静かに憤った。カノンはまだ、魔の手に囚われてはいないが、シルビアが助けなければ、時間の問題だっただろう。カノンと出会うことができて、本当に良かったと安堵する。
 ふと、カノンがシルビアの手を握り返した。たったそれだけなのに、シルビアの胸の奥がじわりと温かくなる。警戒はされているけれど、受け入れてくれたらしい。

「サマディー地方に行くには、湿原を抜けなければいけないの。大変だと思うけど、一緒に頑張りましょうね」

 シルビアはカノンから視線を外すと、顔を正面に戻した。サマディーに着いたら、顔を隠すためにフードを買ってあげなくては。シルビアが思案していると、背後から「ありがとう、ございます」と遠慮がちな礼が聞こえ、小さく笑みを浮かべた。

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