私はずっと、照準のなか


「だからね、もうほんとに最悪なの!別れてすぐ結婚とか普通あり得なくない?……ねえ、私の話聞いてる?」

 ジョッキになみなみ注がれた黄金色の発泡酒は、私の手によってあっという間に飲み干された。目の前に座る男はその様子を眉一つ動かさず見ている。

 喧騒にまみれた居酒屋のテーブルの一角で、目の前の彼――赤葦京治だけがその浮ついた騒がしさに馴染まない雰囲気を醸し出していた。

袖の捲られた白いワイシャツにはきっちりとアイロンがかけられた痕跡がある。黒縁の眼鏡はレンズに一点の汚れもなくその鼻梁に掛かり、奥に潜む鋭い双眸は私の理不尽かつ乱暴な問いにも動じることはない。「ちゃんと、聞いてます」

「……わたし、どこまで話したっけ?」
「先月別れたばかりの交際相手が今月突然知らない女と結婚するというインスタグラムの投稿を見て先輩が憤っている、というところまで」
「もう全部話してるじゃん」
「恐らく全部ですね」

 涼しい顔で梅酒のグラスを傾けるこの男は、私がいた大学の研究室の後輩である。

 文学部という性質上オタク気質な人間ばかりが集まる学部内で、赤葦という存在はやや異質でもあった。一八〇を超える体躯は目立つ方で、何よりも細身な体ながらその内側にしなやかな筋肉を抱え込んでいた。どう見てもインドア派が陥りがちな薄い体つきからは縁遠いようだった。

彼は周囲に聞かれても高校の頃少しバレーボールを、としか答えなかったが、少し≠ナこの体格にはならないだろうと私は狭いテーブルに収まる赤葦の体を見ては常々思い返す。

「二年付き合った女より一か月前に現れたぽっと出の女に天秤が傾くの意味わかんないんだけど!?」
「先輩、ポテサラこぼしてます」

 この変に律儀な後輩は何かにつけて私が一人の時に呼び出すと、必ず目の前に現れた。

 先輩は何だか危なっかしいから放っておけないんです。
 面倒ならば断ればよいものを、そう言って顔色一つ変えず私のとりとめのない話に耳を傾けてくれる。

 この関係は大学を卒業してからも細々と続いていて、出版社の編集という誰が見ても明らかな激務を淡々とこなしながらも彼はよく私に連絡をくれた。

 当の私も色んな口実で赤葦を呼んでは、今日のように毎度恒例になりつつある失恋のヤケ酒につき合わせたりしている。

 懲りない私もそうだが、一度も断らない赤葦も律儀の枠を超えて少々変わり者な気がする。

「やっぱり1ヶ月で結婚するってことはあの女が運命の相手だったのかなあ?」
「その彼にとっては、そうなのかもしれませんね」
「きゅ、急に現実突きつけないでよ」
「え? なんかすみません……」

 私が小皿から溢したテーブルの上のポテトサラダをおしぼりで丁寧に拭いていた彼は、驚いたように眉を下げると私に謝罪の言葉を述べた。

 こういうところが赤葦のいいところである実直さなのだろう。実際に私は人生で出会った人間の中で三本指に入るくらいには彼のことを信用していた。この嘘をつかない男は、それだけの信頼を置くに値するのだ。

「運命なんていくつかの偶然を点と点で勝手に繋いでカスの星座作ってそう呼んでるだけじゃん!」
「カスの星座?」
「そんなものに私が劣るっていうわけなんだ? クソくらえ! 運命論者死すべし……!」

 一人でべらべらと卑屈かつ意味不明なことを勢いに任せて口走っていると、途端に気分はしぼんだ風船のように虚しくなってきた。文句ひとつ言わずにいてくれる可愛い後輩にこんな愚痴ばかり聞かせて先輩として失格ではないか。目尻にじわりと熱いものが浮かんだ。そこそこ酔いが回っているとはいえあまりに情けなさすぎる。

「……わたしのこと、めんどくさいと思ってるでしょ」

 これ以上ない面倒くさい質問を投げかけて、私はテーブルに突っ伏した。こんなことを聞いてもどうしようもないのに。彼氏も失って理解ある後輩も失ってしまっては元も子もない。

 そんな赤葦は黙って私の目の前に置かれたまだまだ中身の残っているハイボールジョッキに目をやって、それからおもむろに口を開いた。「思ったことないですけどね。そういうところが先輩のいいところでもありますから。……そろそろお水頼みましょうか」
「おねがいします……」
 

 ▽

 
「先輩にはもっといい男、他にいると思いますよ」
 店員を捕まえてお冷二つと追加のおしぼりを注文すると、赤葦は私に向き直ってそう諭した。このセリフも何度聞いたことだろう。毎度こんなことをやられていては真面目な彼も心底呆れているに違いない。

「……毎回それ言うね」
「次があるならさらに上を目指す方がいいじゃないですか」
「上〜? いるかなあ……」

 上、上……と天井の木目板を見上げながら、私は思案した。元カレだって決して悪い人ではなかった。それ以上というと、よほど私のことを理解してくれそうな——

「あ、」

 ふと、私の脳裏には一人の男の顔が浮かんでいた。現状最も私という人間を知り得る男の顔。

 私がここで魔が差していなければ、その後の人生はもっと違うものになっていただろう。


「……例えば、赤葦とか?」

 この時私は油断していた。
 時折朴訥とさえ思えるこの男にとって私などという人の風上にも置けぬような人間は恋愛対象の埒外であると、思い込んでいたのだ。赤葦京治に限って、そんなはずはないと。


「――じゃあ試してみます? 俺と」


 赤葦は怒るでも、不快そうな顔をするでもなく。いつもの生真面目そうな顔でそう言うと、ごつごつとして少し骨張った自分の左手で覆うように私の手を握った。

 言葉の意味を理解した一瞬で、脳内を心地よく循環していたアルコールが全て蒸発した。突然素面を取り戻した頭と引き換えに、今度は心臓がばくばくと跳ね上がる。身体中の全神経が握られた手に集中している。

 視界の端で卓上のジョッキの結露がつー、とガラスの肌を伝っていき、テーブルに水滴の輪を作った。

「こ、こういう冗談はよくないんじゃないかなあ?」

 冗談じゃないですよ。俺は好きですから。言い逃れを試みた私に、飾り気のないド直球の告白がクリーンヒットする。騒然とした店内の音は全て遠くに掻き消えた。もう私の耳には彼の言葉だけが響いている。

「ずっと、先輩が俺を選んでくれるまで待ってましたし」
「待ってた?……いつから?」
「五年前ですかね」

 五年。遡れば私と赤葦が研究室でちょうど知り合った頃合いではないか。

「俺、家にいてもサークルの飲み会にいても誘われたデートの途中でも、どこにいても呼ばれたら必ず先輩のところに行ってましたから。俺の方がもっといい男って気づいて、選んでもらえるように」

 五年の月日の中でこの男は恋人を作っては破局する意中の相手を隣でずっと見ていたというのか。自分はいつか選ばれるという未知の可能性に賭けて。
 どんな気持ちで彼は私に励ましの言葉を投げかけたのだろう。
 

「だから先輩こそ、今のは冗談なんて当然言わないでくださいね」
 

 握られた手には決して力は込められていない。振り解こうとすればできるはずなのに、どうしてもそれができない。
 赤葦京治という男の、腹の底に積み重なった執着≠ニ名のつく澱の一欠片を見せられて、首を横に振るなんてことは私にはできそうもなかった。





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