ネーミング・ライツ


「ハッピー、バレンタイーン!」

そう叫んで帰宅早々二人で住む1LDKの暖房の利いたリビングに飛び込んだ私を、ダイニングテーブルに座って業界誌を読んでいた私の恋人——月島蛍は一瞥して、再び紙面に視線を戻した。「そういう掛け声のあるイベントじゃないデショ」

「こういうのはね、ノリが大事だから」
「あ、僕は乗らないので大丈夫です」

つれない返事を聞き流して、私は着ていたコートとマフラーをハンガーラックに素早く引っ掛けた。
大学を卒業して三回目の冬がやってきていた。二月の仙台はひどく冷えて、慣れ親しんだ土地でも一年が巡れば体はその痛みさえ生じさせる感覚を忘れ、再び零度を下回る凍てつく風に圧倒されるばかりになる。

「というわけで」
「どういうわけ」
「バレンタインだからね、蛍くんにチョコを買ってきたよ」

私は彼の向かいに座って、デパートのロゴが入った小ぶりな紙袋を差し出した。今日は二月のちょうど折り返しの土曜日だった。

「本命はまだ誰からももらってないだろうからね」「ああこれ本命なんだ」「義理なわけないでしょ、本命だって証拠にキスしとこうか?」「エンリョします」
お決まりの軽口の応酬を終えて、蛍くんは雑誌を閉じると紙袋の中を見た。

「……何これ」
「三越行ったら蛍くんの好きそうなのがあったから、今年はそれにしたんだ」

恐る恐る彼が取りだした中身の箱には、バレンタインには似つかわしくないシダ植物の生い茂る熱帯雨林のような光景と、白亜紀の覇者——恐竜の巨躯がこれでもかと大きく描かれたイラストのラッピングが施されていた。”ダイナソー・チョコレート”と英語の筆記体で書かれている。

「本当にこれチョコレートなの?」
「まあまあ、開けてみてよ」
「変なものだったら僕食べないからね」

蛍くんは怪訝そうな表情で包装紙に手をかける。

「ひどいな蛍くん、私が食べ物で騙し討ちしたことなんて一度もなかったのに」
私がそうぼやけば、
「いや、前にイナゴの佃煮出してきたことあったから」
と即座に反論が飛んできた。二年も前のことなのに、いまだに根に持たれている。

「おいしいじゃん。イナゴの佃煮」
「虫は平気だけど、食べ物じゃないし……あ、」
話をしているうちに蓋を開けた彼が、僅かに感嘆の声を漏らした。私もテーブルに身を乗り出して、中身を覗き込む。

「おおー、結構本格的」

箱の中には、恐竜の体を模った大小さまざまなチョコレートが詰められていた。形もデフォルメのない、化石から再現された姿をそのまま反映した精緻な造形をしている。
蛍くんは眼鏡のブリッジを押し上げて、じっとそのチョコレートたちを見つめていた。にわかにぐっと眉根が寄る。怒っているようにも見えるその姿を見て、私は気が付く。

ああ、これ食べるの少しもったいないと思ってる顔だ。
思い悩むその表情の真意まで見抜くことができたなら、彼のパートナーとしては及第点といったところだろうか。

「食べないなら私食べちゃおっかなー……」

ちょっかいを出そうと手を伸ばしたら、素早く箱を手前に引かれて阻止された。
「怒んないでよ。あ、こいつ知ってるよ。ステゴサウルスでしょ」

私は彼の気を逸らそうと、中のチョコレートのうち、四足歩行のイグアナに似た恐竜を指さして尋ねた。

「違う。……これはスピノサウルス」
「なんかこいつ、背中にカジキマグロみたいなひれがついてるね」
「神経椎による帆ね。水面にこの帆だけを出して体温を調整してたって言われてる。ずっと水辺に棲んでると考えられてたけど、近年の研究で完全水棲じゃないかって新説が出てる」
「へえー。じゃあこっちのワニとクジラのハイブリッドみたいなやつは?」
「モササウルス。後期白亜紀にいた大型海棲爬虫類だから、厳密に言えば分類は恐竜じゃなくて、トカゲの方が近い。天敵のいない頂点捕食者だったし、ジュラシックワールドシリーズの影響で子供ウケがいいから入れてるんだろうね」

蛍くんは、自分の好きなものの話になると少し口数が多くなる。普段喋っている時とそんなに声のトーンは変わらないはずなのに、心なしか楽しそうな気もする。彼は昔から人の神経を獣の毛のように逆撫でしている時の方が感情豊かだったと思うけれど、大人になってそれも鳴りを潜めてきた。

かと言って、楽しそうだからとここで蛍くんに「楽しそうだね」とか「いつもより饒舌だね」、などと茶化してはならない。彼はその事実に気が付いた途端、唇をきゅっと真一文字に結んで、固く口と心の扉を閉ざしてしまう。プライドが許さないのだろう。拗ねないでととりなすと、最終的に“ハァ?僕拗ねてないんですけど”と怒り出すので、この手のワードは禁句だ。

私に許されているのは、彼の話に相槌を打つことと、話をさらに引き出すように質問をすること、それだけだ。彼の兄、明光さんは“コイツ、気難しい奴だけど大丈夫ですか。悪い奴じゃないんですけど、ホント〜に勘違いされやすいんで”、以前そんなことを言っていた。けれど慣れとは恐ろしいもので、十年近い長い付き合いになればどれが愛情の裏返しで、どれが蛍くんの本心なのか、勘で——彼が最も非科学的と軽蔑する第六感で——なんとなく察することができるようになってきた。

「んー、じゃあこのネッシーみたいなのは?」
「フタバスズキリュウ」
「スズキ? 人の名前みたい」
「鈴木って人が発見したから、フタバスズキリュウ」
「恐竜って自分の名前、つけられるの!?」
「学会に論文提出したり、手順が超めんどくさいけど、一応新種と認められれば学名に入れることはできる」
「えーいいな。蛍くんが発見したらツキシマザウルスになるってこと?」
「まあ、そうだね」
「いいなあ。私も自分の名前残したいな……」

歴史に名を残すのって、こういう形でも体現できるんだ。
教科書に載るような偉人でなくても、連綿と続く時間の中で、種として名を刻む。誰かがその恐竜の骨格標本を博物館で見つけた時、紹介パネルの学名には自らの名が記されている。それもまた、自分が生きた証を残す術なのだろう。

「今から化石ハンターとかになればまだ間に合うかな?」
「何そのバカそうな響きの職業」

私の冗談めかした言葉を鼻で笑って、靉靆の奥から蛍くんは私の顔を見た。そして日が傾き始め、少し赤みがかった光を透過するサッシ窓の向こうに目を移す。

「やめときなよ」

銀行員の君より僕の方が新種見つける確率は高いし、と彼は続ける。

「仮に恐竜の学名に僕の苗字が付くことがあれば、そのうち君の苗字にもなるデショ」
「……えっ」

チョコどうも。私が言葉の意味を理解した時には、そう言い残してチョコレートの箱を手に蛍くんは席を立っていた。

彼の放つ言葉は、夢想を含まない。いつも現実という確固たる土台が敷かれていて、地に足がついている。彼はどこか期待することもされることも厭う節があった。

そんな不確定要素を語ることを嫌う蛍くんがそう言ったということは、今のは彼自身の中では確定事項、約束された未来なのだろう。

私は慌てて立ち上がった。追いかけようと勢い余って、つま先をしたたかにテーブルの脚にぶつけてしまい、激痛が走る。顔を顰めながらも私はリビングを出ていく彼の背中に向かって叫ぶ。

「ちょ、い、今の! もっかい言ってよ! 蛍くん!」

「ヤダ」
廊下から返ってきた声は、照れ隠しそのものだった。





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