ありとあらゆる出来レース
春高バレーの決勝は、テレビ中継がある。だから別に足を運ばなくてもよかった。センター試験まで残り一週間。そして私立大学の一般試験は三週間後。残された時間は少ない。けれどそれを押して私が東京体育館にやってきたのは、他ならぬクラスメイトの活躍を見届けるためだった。
「意外とみんな来てるね」
ライトに眩く照らされたアリーナに目を細めて、私は同じく現地観戦を選んだ友人の隣に座った。
「まあ最後の大会で全国の決勝でしょ? クラスメイトが出るって聞いたらなんか現地で見たくない?」
「それはそうかも。ぶっちゃけ今から一生懸命勉強してもいきなり成績が上がるわけじゃないしね」
出場校名鑑をめくって、自分の学校のページを探す。東京出場校の中に梟谷学園の文字を見つけた。そして同時にクラスメイトの名前も。木葉秋紀。1994年9月30日生まれ。身長178センチ。最高到達点322センチ。名前がこんな風に載るんだ、全国大会ってすごいんだなと紙面をまじまじと眺めた。隣から友人も覗き込む。
「うちは木葉だけ?」
「スタメンはそうみたいだね。あとは……」
「あー、一組の木兎ね」
「あれ、クラス一緒だったことある?」
「去年一緒ー」
集合写真の真ん中で満面の笑みを浮かべる梟谷のエース——木兎光太郎を見て、友人はため息をついた。
「あいつ、スポ薦で大学もう決まってんでしょ?いいねえ推薦は。進路決まってたら存分に打ち込めるし」
「それだけ実力あるってことでしょ。……そう言いつつそっちも第一志望校ボーダー結構余裕なんじゃないの」
試験前でピリついた友人の嫌味を聞き流す。夏のインターハイにも出場してベスト8入り、なおかつエース級の活躍を見せていれば、当然引く手数多だろう。それは友人自身もよく分かっているはずだが。一般受験組はこの時期が要だ。皆張り詰めた糸のような緊張を巡らせて、他人の動向を気にしたがる。すでに進路が決まって余裕のある推薦入試の彼らとは、こういう時期はどうしても溝ができやすい。
「B判定が一番安心できないんだけど。んで、うちのクラスのエースはもう大学決まってんの?」
「秋紀くん、普通に一般組だよ。自習室とかでよく見かけるし」
梟谷学園の図書館はかなり広い。併設された自習室もブースが多く、定期考査前は人で溢れるほどだ。
それも冬休みに入って下級生は登校しないため、図書館は閑散としている。私は家でなかなか集中できずその自習室をよく使っていたが、クラスメイトの秋紀くんもその数少ない常連の仲間入りをしていた。
そんな彼と顔を合わせれば、“学食行かね? 飯食おうぜ”と誘われて、よく二人で誰もいないがらんとした食堂の端で、購買で買ったおにぎりを食べた。
大学受験は、孤独の戦いだ。
両親や先生のサポートこそあれど、最後は一人で挑まなくてはならない。時にはクラスメイトですらライバルになりうる。そんな中一日何時間も机にかじりついていたから、秋紀くんと話す時間はいい息抜きになっていた。私はそれを楽しみに勉強ができていたし、彼もそれは同じだと、そう思いたかった。
『来月全国大会あってさー、部活も出つつ勉強してるからなんか全部中途半端になってるかも』
部活動の前後で自習室に勉強しに来ているのだ、と彼は言っていた。もう大半の三年生はすでに部活を引退して受験勉強に打ち込む中、休日もバレーボール部の練習に参加しながら並行して勉強をするというのは並大抵の体力では成し得ないだろう。
『秋紀くん器用だから大丈夫じゃない?』
彼が定期考査で平均点を割った成績をとったところを一度も見たことがなかった。朝練も放課後も練習しているのに、どこで勉強時間を捻出しているのだろう。
『今器用貧乏って言ったか?』
『言ってない。幻聴だよ』
『言うほど器用じゃねえよ。ここんとこ毎日死に物狂いで全部やってるだけだからな』
『全部やるって選択肢がそもそも普通ないんだけど……』
『だからモチベ? みたいなのがさー、イマイチなんだよな』
机に頬杖をついて、秋紀くんはぼやく。
『モチベ?』
『今、多分二兎を追う者状態になってる気がする……』
『部活の大会と、受験とってこと?』
『そうなんだよ。将来のこと考えたら絶対受験なんだけどさ、春高だってユニフォームもらってる以上は手抜きたくねえし』
ここ数年で一番強いチームメンバーだと思うし。まあ贅沢な悩みだよな。ブロック状の栄養バーにかじりついた秋紀くんは、椅子の背に体を預けて天を仰いだ。
『モチベ上げるためには、小さいご褒美作るのがいいって聞いたよ』
『……例えば?』
『うーん、そうだな……』
手にしていたしゃけおにぎりが視界に入った。これはほんの思いつき。あくまで例え話。おそるおそる私は口を開く。
『……春高決勝までいったら、私がご飯奢るとか』
『マジで!?』
がたがたと音を立てて、秋紀くんは椅子から立ち上がった。
冗談のつもりなのにそんなに驚くことかな、と慌てて座り直す彼を見て首を傾げる。
『これ、ご褒美になってる?』
『全然なるだろ』
『そう……? ちなみに叙々苑とか奢れないよ? 駅前のジョリーパスタとかが限界だけどいいの?』
『全然いい。パスタ毎日食べるぐらい好き』
『それは嘘でしょ』
『悪ぃ、今のは結構盛った。でも、』
なんかすげえやる気出てきたわ。秋紀くんは機嫌を良くしたのか、鼻歌混じりで図書館に戻っていた。今にもスキップで廊下を駆け出してもおかしくないほどには上機嫌になっていた。
千円のパスタでそんなモチベーション上がるかなあ。まあいいか。そう思い直して私も彼の後を追って自習室に戻ったのだった。
それが、冬休みの底冷えするような学校での記憶。
ぼんやりとそれを思い出していると、アリーナでは選手出場が始まっていた。
まさか、本当に行くとは思わなかった。大会に出るからには目指すところは優勝、というのは誰しもが口にする到達点ではある。けれどそこに実際に行けるのはほんの一握り。全国から選ばれた五十二校のトーナメントで決勝まで登り詰めるとは、正直なところ、思っていなかったのだ。実感が湧かなかった、というのが正しい。
センターコートに現れた彼らを見た時、その姿の小ささに目を凝らすしかなかった。箱庭の中のミニチュアの人形みたいだと思った。アリーナの内側だけ、テレビの画面の中みたいに遠い現実のようだった。入れ替わり立ち替わり、忙しなく動く彼らの中から秋紀くんを探すのは少し骨が折れた。
「望遠鏡持ってくればよかったかも」
「ライブじゃないんだから……あ、」
ウォーミングアップする選手の中に、彼を見つけた。七番の背番号を背負ったユニフォームを着て、確かにそこにいる。
クラスメイトで、隣の席の彼。普段は一メートルも離れていないはずなのに、今は何十メートルも離れている。そう思うと途端に、秋紀くんが別世界の住人のように映った。コートの中で歓声を浴びる姿を見て、まるでインディーズバンドがメジャーになって売れてしまった時みたいな寂しさによく似ている、とすら思えた。私だけじゃない。今この瞬間、皆が彼らを見ている。
でもコートの中を自由に走り回って、仲間とガッツポーズを交わして笑顔を浮かべるその姿は、普段教室で見ている彼じゃない。初めて見るその背中が、
——どうしよう、カッコいいかも。
一度自覚してしまったら、おしまいだった。
感情のバケツに並々注がれたそれは、突如として私の中でひっくり返ってしまった。見ないフリをしていた、隠せない気持ちが、のたうち回る心臓の鼓動と共に私の中で氾濫を起こしている。
「なんで、そんな顔真っ赤なの?」
困惑した表情で流行病を疑う友人に、
「私にも、よくわかんないかも……」
頬を押さえて、私は俯く他なかった。コートを直視できなかった。気づかなきゃよかったとすら思えた。三年生の一月というこんな時期に、クラスメイトなんか好きになるんじゃなかった、なんて。
▽
「お! 有名人が来たぞー」
「有名人ってなんだよ!」
「ニュース見たよ、すごかったね」
「お前らよってたかって恥ずかしーなもう!」
二月、久々の登校日。秋紀くんは一躍クラスの有名人みたいな扱いを受けていた。彼の周りには人だかりができている。
あれから、彼とは一度も顔を合わせぬまま、あっという間にひと月が過ぎた。志望校は一通り受け終わって、あとは合否判定を待つだけになった。
あの試合を見た後、私は激しく後悔していた。適当に交わした口約束は、優勝できなかったとはいえ対価としてはとんでもなくチープすぎた。けれど二ヶ月も経っているし、向こうも流石に忘れているだろう。そうであってほしいという羞恥と、近づくチャンスを失った悔悟が綯い交ぜになって靄みたいに私の中で渦巻いていた。
けど、彼らの輪に入ることもなんだか違う気がして、私は教室の外——乾き切って雲一つない冬空を眺めた。どこか浮き足立っている。
しばらくぼーっとしていると、私の机に影が落ちた。顔を上げれば、傍に秋紀くんが立っていた。
「久しぶり」
「あ……久しぶり。試験終わった?」
「大体な。全落ちしてなきゃいいけど」
なんだか気まずい時間が続いた。しばらくお互い何から話そうかと目を泳がせていたが、それを破ったのは秋紀くんだった。
「あのさ……約束、まだ有効?」
「え、覚えてたの? ご飯奢るやつだよね?」
約束、と言われてどのことかは当然分かっている。けれどまさかあんな口約束を覚えているなんて。私の驚きに対して、彼は気恥ずかしそうに頸を掻いた。
「俺は、結構……楽しみにしてたっつーか……」
「えっ」
「全部そのためじゃねえけど、それも含めてめっちゃ頑張ったっつーか……」
「い、行こう。いつ行く?」
これはチャンスだ。逃してはならない。焦って立ち上がったら、椅子を蹴り倒してしまった。周りの視線が一気に集まる。
「……今日?」
秋紀くんの返事に、準備してくると告げて私は慌ててトイレにリップを塗り直しに走った。こんな私に都合のいい出来レース、あるわけない。頭では分かっているのに、どうにも止められない。
私の頭の中にだけ、生ぬるい春が来ているようだった。
ARCATRAZ