君の呪いになりたい


アルコールは禁止です。このままだと病気になりますよ。医者がそんなことを言ったので、私の部屋からありとあらゆるアルコール飲料が片付けられてしまった。

「体が良くなったら飲めるから、な?ちょっとだけ我慢しようなー……」

私の恋人——黒尾鉄朗はそう私を嗜めて、台所のシンクへ彼のお気に入りのウィスキーを全て流して捨てた。
自暴自棄を起こして毎日のように酒ばかり飲んでいたのに、鉄朗は私を叱ったことがなかった。

「あんまり叱ると、お前どっか飛んでっちゃうだろ?」
「……よく、分かってるね」
「お前さんはねー、叱って伸びる子じゃないからねえ」

大学を卒業してから、黒尾鉄朗という男はその献身性を遺憾無く発揮し、自分がバレーボールという競技を裏側から支えたいとバレーボール協会に入った。

一方私はどうしていたかと言うと、そんな志とは裏腹に就職後に苛烈なパワーハラスメントを受け続けた結果、二年で精神がポッキリと折れた。そのまま休職からの退職。
転がり落ちるのは、あっという間だった。

それからと言うものの、恋人は話を聞くなり「俺の家で面倒を見るから今の部屋は引き払おう」と言い出し、一週間もしないうちに引っ越しが終わっていた。

煙草を燻らせて、灰皿の縁に置いた。ピースの少しのバニラと、ほろ苦い芳ばしいにおい。頭上の換気扇のモーター音だけが、私の他に誰もいない台所に響いている。
毎日毎日特に何かをするでもなく、社会から落ちこぼれて恋人の部屋で一日中ぼんやりしている。

働きもしていないし、家事が大してできているわけでもない。鉄朗はしなくてもいいと言うけれど、ただ家にいるだけの人間になんの価値もない。

自己嫌悪はまるで巨大な芋虫のように、気味悪く背中にのしかかり私を圧迫する。蛹にもならない、肥大化するだけの芋虫。頸が重くて、いつも下ばかり向かされる。
がちゃり、と玄関から鍵の開く音がした。

鉄朗はいつも十九時くらいには帰ってくる。飲み会はあまりないと言うけれど、おそらくそれは嘘だ。多分断って帰ってきているのだろう。それもまた罪悪感の天秤に錘を置く。

「まーたこんな灰皿に貯めて……何本吸った?」
「一箱……」
「はい、俺が帰ってきたからこれももうおしまいね」

手にしていたタバコは、取り上げられて揉み消された。腕を広げられて、私も真似をすると体が抱き寄せられる。
彼に抱きしめられると背の高い彼の体の中にすっぽり収まるようで、このまま私のことを取り込んで丸呑みしてくれないかな、などと邪な想像が脳裏をよぎる。

「……おかえり」
「ただいま」
「タバコなくて口がさみしいから、ちゅーして」
「はいはい」

唇を重ね合わせることに、誰が神聖な意味を持たせたのだろう?

けれど、それがどうにも彼からの憐憫に似た愛情を感じて、私はそれにばかり縋って生きている。

「さて、晩飯にするかー」

私から解放されれば、鉄朗はもっと幸せかも。

「今、変なこと考えたろ?」
「……ううん」
「お前を置いてくことはしないから、安心しな」

そう言って私の頭を撫でて、また一つ、鉄朗は私の足枷を増やした。

ああ、私もきみの呪いになりたい。



◆日向ぼっこしよ?

朝は、絶望の時間。
仕事を辞めてからしばらくは、朝五時に起きていた。目覚ましをかけていないのに、体がすでに仕組まれていて、薄暗い部屋の中で目を覚ましては朝が来たことに落胆していた。

頭の中で今日の仕事のことと、怒鳴られた記憶がフラッシュバックして動悸がする。あれは納期が近いから先方に電話して、欠員が出たから非番の人に電話をして休日出勤を頼んで——ベッドから起き上がれず、一時間は震えでかちかちと歯が鳴るのが止むのを、布団の中でじっとして待つ。自力で起き上がれないので、這いずってずり落ちるようにベッドから下りる。眼球がつつつ……と自分の意思と関係なく左に動く。視界が揺れて気持ち悪い。そんな日が続いていた。

朝が来るのが怖くて、眠れなくなった。
オーバードーズはやめましょうね、と医者に言われて渡された睡眠導入剤は、鉄朗に管理されている。言えば出してくれるけど、鍵のかかった引き出しの中だ。まるで信用されていない。

『風邪薬の飲み過ぎで大変な目に遭っただろ?』

ハイになってやらかした“前科”のことを、彼はずっと気にしているようだった。
お前が目の前で床にぶっ倒れた時生きた心地がしなかったぞ——そう言われてしまうと私には立つ瀬がない。鉄朗にずっと、子供みたいに面倒を見られている。

二人で暮らし始めてから、あまり動悸はしなくなった。
「お医者さんが日に当たるといいって言ってたぞ」
鉄朗の提案で、朝は十五分ほど一緒に日光浴をすることになった。ベランダに大きいウッドチェアを買ってきて置いた彼は、部屋が東向きでよかったと思ったのはこれが初めてだと言った。

彼はいつもダブルベッドの右側で、変な寝方をする。やめたくてもやめられないと嘆く彼と、同じ布団で眠る。温かい体温の共有で、私も眠気に誘われる。彼にとってはなんてことはない日常のひとつなぎ。私にとっては、これ以上ない幸福。

土曜日の朝、目が覚めた時鉄朗はまだ寝息を立てているようだった。
年度末で忙しいらしく、昨日は遅くまで帰ってこなかったからまだ寝かせてあげたほうがいいだろう。あくびを噛み殺して、音を立てないようにベッドを出る。じわりと浮かぶ目尻の涙を拭って、ベランダのサッシを開ける。

三月の風は少しだけ冷たくて、でもそれを昇った太陽光が中和する。ウッドチェアに一人で腰掛けて、ぼんやりとそれを享受した。開けっぱなしの窓から吹き込んだ風で、ひらひらとレースカーテンが揺れている。

ぽかぽかと体が温まってきたのか、また睡魔が私を襲う。背もたれに体を預けて、おもむろに目を閉じた。

微睡と浅い夢。うとうとと二度目の夢路を辿る。

するとにわかにリビングからバタバタと騒がしい足音がして、レースカーテンがシャッと勢いよく開けられた。意識がジェットコースターのように現実へ急浮上して、目を開けるとそこには立ち尽くす鉄朗の姿があった。私と視線が交わるなりずるずるとその場にうずくまる。

「……?」
「焦ったー……!起きたら隣いねえし、窓は開けっ放しだしでお前さんが変な気を起こしたかと……」

どうやら飛び降りたかと思ったらしい。この部屋は四階にあるから、それを完遂すれば最悪死に至るだろう。
私は立ち上がると、鉄朗のそばに歩み寄る。

「死んだと思った?」
こくり、と彼は首を縦に振る。
「死んだら悲しい?」
当たり前だろ、という言葉と共にぎゅう、と抱きしめられて、私は後ろにつんのめりそうになった。

こんな鬱陶しい質問に、なんであれちゃんと答えてくれる彼が嬉しかった。お世辞だって構わない。

こんな私を、彼だけが心配してくれている。
それは仄暗くて、薄汚い、私だけの悦びだった。

「ね、一緒に日向ぼっこしよ」
彼の手を引いて、少し狭くなったウッドチェアに二人で座った。

「お前が死んだら、俺生きていけねえよ……」
その言葉、ずっと信じてるからね。

「……やっぱりもうちょっと低層階の部屋、探すか……」


◆贖罪

恋人が壊れたことに気がついたのは、一体いつだったのだろう。普段週に何回か会っていたその間隔が徐々に長くなっていって、『仕事 おわんない。今日無理だ。ごめん』と立て続けにデートの約束をチャットアプリで断られた時だろうか。

お互い仕事が忙しい時期もあるんだから、落ち着いたらまた会おうな。と返信をして理解をしていたつもりだった怠慢の果ての罪なのだと、今なら分かる。

家に行けばよかったのだ。休日だってあったはず。アハ体験みたいにちょっとずつ日常からズレていく彼女を見過ごして、ふと気がついた時にはすでに手遅れだった。 

「仕事辞めた。ごめん」

一ヶ月ぶりの電話越しの声は掠れていて、時折鼻を啜る音が聞こえて、想像以上の事の重大さに自分自身が冷静を失っていく。

「今家だな?……そこにいろよ、今行くから」
諭すように最大限やさしい声を絞り出して電話を切った。

今行かなければ、彼女は二度と戻ってこない予感があった。平日の真っ昼間で仕事が山のように積まれていても、こんなことをしている場合ではないと慌てて上司に事情をかいつまんで説明して、職場を飛び出した。
そこからはもう死に物狂いというか、必死すぎたばかりに正直あまり覚えていない。

「鉄朗、別れよう」

荒れ放題のワンルームの中で、泣き腫らした目をした恋人の第一声はそれだった。それだけはよく覚えている。なんでだよ、俺が悪かったんだよな、ごめんな--必死に謝罪の台詞を吐いて、許しを乞おうとした。今更そんなことしたって、割れたグラスは元に戻らないのに。

「……このままだと鉄朗の足、ずっと引っ張っちゃうから。わたし、絶対どっかで邪魔になるよ」

淡々と言葉を紡いでいるようで、その実声はずっと上擦っている。そんなわけねえだろ、と随分痩せ細ってしまったそのちいさな体を抱き寄せた。ヘリウムガスの入った風船みたいに、掴んでいないと空に向かって飛んでいってしまうような、そんな不安に駆られるからだになってしまった。

「俺の家で面倒見るよ」

錨を下ろして、流されて漂泊しないように。彼女を自分の家に連れて帰った。犬に首輪で繋ぐような罪悪感に苛まれながら、俺はまだ愛した女の足枷を解かないでいる。

「ほら、起きろ。昼夜逆転生活は体によくないぞ」

朝日がベランダの窓から差し込む時間になって、まだ布団の中でもぞもぞと身悶えしている彼女を起こす。瞼が閉じ切ったまま、よたよたと日課になった日光浴をしにベランダに出る後ろ姿を追った。

こういうのは一緒にやってやらないと、体が動かなくて続かないだろう、という腹づもりもあったが、一人で外に出すのはまだ少し気がかりがあった。

朝起きて、彼女が隣にいないと飛び起きる癖がついてしまった。

大抵キッチンの換気扇の下にいたり、先にベランダで一人で日光浴をしていたりと危なかったことなど一度もなかったのだが、それでも万が一の最悪の事態のことがいつも頭を擡げて、全身から冷や汗が噴き出るような、嫌な感覚に襲われるのだった。

「てつろー、わたしまだ生きててもいいー?」

五月の心地よくて涼しい風の中で、ウッドチェアに座って俺の肩にもたれかかっている彼女は微睡みながらそう尋ねた。

いつもこのいじらしい恋人は、生きることさえ他人の許可を欲するようになってしまった。

もっと早く気づいていれば。こんなことになる前に助けることだってできたはず。俺が何もしなかったから。何もできなかったから。

だからこれは多分——俺の贖罪で、罰だ。
「まだじゃなくて、ずっとでいいんだからな」

ああ、君のお呪いまじないになりたい。







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