CUT(E)
十一月の身震いするような風が空いた首元に掠めて、私はコートの襟を寄せた。家に着いた頃にはすっかり日は傾き、ブロックレンガの上には夕焼け色と逆光にたなった私の影が落ちた。早足でマンションのエントランスに体を滑り込ませる。
倫太郎、びっくりするかな。
乗り込んだエレベーターの中で気持ちが逸るのを、私は足踏みして抑えた。上部に光る階数表示がじりじりと上がっていくのが焦ったい。
肩甲骨の下あたりまで伸ばしていた髪を、ばっさりと肩口ギリギリまで短く切ってしまった。
ヘアサロンに行った時はそんなつもりは全くなく、いつも通り毛先だけ整えてトリートメントをしてもらうつもりだった、のだけど。
付き合って一年経つ恋人と、最近関係がマンネリ化しているのではないか、と私が美容師へふと漏らしたことがことの発端だった。
『イメチェンとかしてみたら?』
『イメチェン? 服の系統変えるとかですか?』
『そうそう、ヘアスタイルも思いっきり短くして変えちゃって〜……とかさ』
何を言ってもあまり感情に大きな荒波を立てないわたしの恋人——角名倫太郎は、最近少し反応が薄い……気がする。喧嘩は滅多にしないし、大事にしてもらえている自覚はある。けれど、プロ選手としての活動が軌道に乗ってきた彼は遠征に出てしばらく帰ってこないことも増えた。付き合いたての燃え上がるような恋情は段々落ち着いてきて、一緒にいることが日常になると、恋人との生活には新鮮味が薄れてくる。犬が毎日食べる同じドッグフードに飽きるのと同じだ。
だから、これは天啓にも似た、ほんの気まぐれみたいなものだった。
『……じゃあ、思い切って短くしちゃおうかな』
彼の驚いた顔が見たい、ただそれだけの。
エレベーターを降りて玄関ドアの前に立つと、慎重に鍵をシリンダー錠に差し込む。ひんやりとした感触を伝えるドアノブを握る掌には、汗がうっすらにじんでいた。
「ただいまー……」
ドアをそっと開けて、中の様子を伺う。廊下の向こうにあるリビングには照明が点いていた。同居人の彼はすでに帰ってきているらしい。
抜き足差し足、足音を立てないように靴を脱いで上がる。リビングでは練習から先に帰ってきていた倫太郎が、ソファの上で寝そべってスマートフォンを手に日課のSNSチェックに勤しんでいるようだった。
「りんたろ、ただいま」
背後に忍び寄って、小さく声をかける。
「んー?」
「みてみて」
私の言葉に彼は視線を上げて、私の姿を見るなり持っていたスマートフォンを顔の上に落とした。痛っ、と小さな呻き声と共にそのまま床へ固い音を立てて滑り落ちる。
倫太郎はしばらく目を見開いて顔をじっと見つめていたが、やがて、
「……髪、どこやったの」
と不思議そうな声でそう尋ねた。
私は心の中でひそかにガッツポーズをする。
……ドッキリ大成功。
「その聞き方は語弊を生むよ?」
「だって聞いてないし」
「朝美容室行くって言ったんだけど」
「それは聞いたよ。でもいつも二ミリくらいしか切らないじゃん」
「いやいや、毛先揃えてるから毎回五、六センチは切ってるよ」
「どう見ても五センチ切った後の長さには見えないんだけど」
「そうかな? 今日外寒かったなー、先お風呂入るね!」
「ああ……うん」
怪訝そうな倫太郎の追及を半ば無理やり躱して、私は浴室に駆け込んだ。あんな呆気に取られた倫太郎の顔、久しぶりに見たかも。その表情が見られただけで切った甲斐があるというものだ。私の上機嫌な鼻歌が、浴室の濡れたタイル床に心地よく響いた。
「倫太郎、髪乾かしてー」
風呂から出てきた私が差し出したヘアミルクとドライヤーを、なぜか複雑そうな顔ですんなり受け取った。いつもはどれくらい分からないし塗るのは自分でやってよ、と渋るのに。
私がソファに座ると、無言で彼は私の後ろに回り込んだ。倫太郎の指が髪を梳くように入り込み、毛先にヘアミルクを馴染ませようとする感覚が伝わる。長かった頃は触れるはずもないその指が、うなじを掠めてこそばゆい。
「動かないでよ。服についちゃうって」
「くすぐったいもん」
「……本当に、短くしたんだね」
熱くない?と私に尋ねて、いつもよりドライヤーを慎重に当てていた倫太郎は、聞こえるか聞こえないかの声量で呟いた。
「うん、結構スッキリしたかも」
軽くなった髪がふわふわと熱風で視界の端を靡く。
鼻腔をヘアミルクの甘い匂いがくすぐった。
倫太郎に髪を乾かしてもらうのが好きだった。
右手でドライヤーを持って、左手には櫛があれば、乾かす間はその作業にかかりきりになる。その間は私だけを見ていてくれるような気がしたから。
髪を短くしたからその分乾くのが早くなって、その至福の時間は短くなってしまったのだけど。
「——俺のこと、嫌いになった?」
倫太郎は乾かし終えたドライヤーのスイッチを切ると、私の顔を覗き込んだ。彼の細いくすんだ緑黄色の目が、かすかに揺れている。
「……どうしてそんなこと聞くの」
「なんか、心境の変化でもあったかなって」
「?」
「髪を切るってその……失恋とか、そういう俗説もあるでしょ」
珍しく歯切れの悪い倫太郎の言葉に、私は目を丸くした。
「わたしが、失恋?」
「そう」
「心配したの?」
「だって髪、綺麗に伸ばしてたじゃん」
私はそこで初めて、彼の驚きの中に当惑と不安が綯い交ぜになっていることに気がついた。
これでは本末転倒だ。テコ入れどころか関係に亀裂が入ってしまう。
「大した理由じゃないよ。倫太郎が髪切ったらびっくりするかなって……そう思っただけだし」
隣に座りその顔に狼狽の色を見せる倫太郎に、私は弁明を試みた。
「本当に?」
「うん。……長い方が良かった?」
「そういうわけじゃないけど……いつもケアしてたし、大事にしてると思ってたから。最近一緒にいる時間もあんまりないし、心変わりしてないかなとか、さっき色々考えて」
私の切り揃えられた髪の先を指で弄りながら、慎重に言葉を選ぶように彼はぽつぽつとそう話した。
不安に思っているのは、お互い同じだったみたいだ。
でも、私たちはきっと大丈夫だろう。倫太郎の顔を見れば、私の中には妙な確信があった。
変わっていくものがあっても、変わらないものがちゃんと残っている。
「びっくりした?」
「……うん、結構。でも短いのもちゃんと似合ってるよ」
短くなった髪を撫でる彼の手は、前より少しだけやさしかった。
「倫太郎こそさ、試合に観に来るかわいい女の子見たりして心変わりしてないのー?」
私の自虐に似た底意地の悪い問いを今度はうまくかわして、倫太郎はゆるやかに口角を上げるといつもの少し不遜ささえ感じさせるその笑みでこうささめくのだった。
「大丈夫だよ。俺、思われてる以上に一途だから」
ARCATRAZ