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「秋紀くん」
「はい、秋紀くんです。なんですか」
「期末試験に出すレポートを一文字も書いていません」
「知ってる」
目の前の男——木葉秋紀は私の言葉を聞いてはあ、と大仰なため息を吐いた。ため息だなんて大袈裟な、と反論するが締切は今日だぞと呆れた声が返ってくる。
時は七月中旬。二ヶ月以上にわたる夏休みを直前に控えキャンパス内はどこか皆浮き足立っている。私もそんな空気の一部に違いなかった。大学生の夏休みほど美しく形作られたモラトリアムは存在し得ないだろう。一体あと何日でやってくるのかと指折り数えては来たるイベントたちに期待に胸を膨らませ、思いを馳せるのだ。
が、そんな学生たちの前に壁の如く立ちはだかるのは前期の期末試験期間である。
受けている授業の数だけ当然テストやレポートが存在するわけで、夏休み前の二週間は地獄のような日々が続く。それを味わうのは三回目だというのに、毎回懲りることなく私はギリギリまでそれを引き延ばす。頭の中ではやらなくてはいけないと分かっているのについつい後回しにして次の日の自分に期待してしまうのはヒトの悲しき性である。今回も必修授業のレポートの締切が今日の日付が変わるまでだというのに、私のワードファイルはまるで誰にも踏み荒らされていない新雪に覆われた美しき雪原のように真っ白なままだ。さすがに再履修は避けなくてはならなかった。下手をすれば留年コースである。
そこで私は例の如く最後の切り札を使う。同じ学科の友人・秋紀くんに泣きつくわけである。
授業中『秋紀くんたすけて♡再履の危機♡』と冗談めかしたふうに講義机の下に隠したスマートフォンでこっそりSOSのメッセージを送ると、程なくして『四限終わったら図書館集合』と簡素な返信が返ってきた。とりあえず話は通じたようだ。授業が終わり、いそいそと図書館の入口に向かうとすでに彼はノートパソコンを小脇に抱え、バックパックを背負って待っていた。
「遅いぞー」
「ごめーん、三号館地味に遠くてさ」
そして冒頭のやりとりに至るわけである。
秋紀くんは初めこそなんでこんな時間まで放っておくんだとかちゃんとやれよとひとしきりお説教が始まるが、最終的にはなんだかんだ面倒を見てくれる。彼の大きな数あるうちの美点の一つに違いなかった。
「とりあえずあちーから中入ろうぜ。……空いてっかな」
秋紀くんに続いて図書館に入る。蒸し暑さを多分に含んだ廊下から冷房がこれでもかと効いた館内に足を踏み入れると、引き潮のように肌に張り付いていた汗が引いていく。
試験期間中だからか、図書館の自習スペースは妙に混み合っている。書架の隙間を縫うように歩いて、『会話可』と貼り出されたスペースの一角にようやく空席を見つけた。
秋紀くんは向かい側に座るとシルバーメタリックのノートパソコンを開いた。どれどれ……とマウスを動かして何かをクリックすると、顔を上げて尋ねてくる。
「で、社会思想史のレポートだろ? どれがヤバいんだ?」
彼の質問に私は意を決して答える。
「まず、授業のレジュメが何もない」
「俺もう帰っていい?」
着席して早々立ち上がりかけた彼をどうどうと押し留める。
「え、本当に何もねえの?」
「ない」
「何で?」
「全部どっかいった」
聞くなりにわかに秋紀くんの顔からすん……と表情が抜け落ちる。
「落単した方がお前のためになるような気がしてきたぞ俺は」
正直に答えたら秋紀くんが見捨てることもやむなしモードに入ってしまった。これはまずい。せっかく来てくれた救世主を逃すわけにはいかない。こうなっては仕方あるまい。私は肺の隅々まで酸素を吸い込むと、
「そんなこと言わないでよ!必修の授業だよ!? 落としたら進級要件に響くんだよ!? 秋紀くんは私と進級したくないの? あーあいつ落単したまま夏休み迎えちゃって可哀想だなーとか罪悪感抱えて夏エンジョイできないでしょ!?」
「あーもう分かったから! 声がでけえって!」
私の秘技・マシンガン泣き落としトークは彼が折れるまで続いた。あわや三日三晩続くと思われたそれが数十秒で終わったことは非常に幸いなことであったが、レポート課題が終わったわけではない。
私ものろのろとノートパソコンを開く。やはり何度見てもパソコンを開いた先は雪国であった。
何分かぶりに成人男性の一日の二酸化炭素排出量レベルの長いため息を再び吐いた秋紀くんは、バックパックから分厚いクリアファイルを取り出すと私に差し出した。
「これの第十一回から先を読め。そして書け」
受け取ったファイルの中には、授業の各回で配られたと思しきプリントが、順番に詰められていた。
「さっすが! ついでに秋紀くんのレポートも見してよ」
「お前コピペする気だろ。ダメ」
締切まであと七時間あるんだから、自分でちょっとは書け。文献はここの図書館で集められるんだし。お前それくらいはできるだろ。
言い方は少しぶっきらぼうだけど、秋紀くんはこの手のお願いで私を見捨てたことはない。私はいい友人を持ったと思う。彼本人はどう思っているか分からないけれど。
「持つべきものは秋紀くんだよね、人生って……」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味。これ借りてていいの?」
「いいよ。俺も別の課題あるからしばらくここで作業するし」
そう言って秋紀くんはいくつかテキストとプリントを机の上に並べ始めた。私もそれに倣ってパソコンの画面に視線を落とすと、いつしかお互い無言になった。
キーボードを叩く音と、プリントを捲る音。ボールペンのかちかちとノックされる音。
隣の窓からは時折眼下のグラウンドでサークル活動をしていると思しき運動部の掛け声が、ガラス越しに犬の遠吠えのようにぼやけて響いている。
いつも課題や試験対策に詰まった時、図書館に行くと全くの無音の世界とは存在しないのだと思う。
「このプリントさ——」
私は不意に顔を上げて、目の前の光景に思わず固まった。
「眼鏡だ……」
「なんだよ。眼鏡だよ」
目の前の秋紀くんがなんと、眼鏡をかけているではないか。
「え、目悪かったっけ」
「いや。最近パソコンとにらめっこしてたら眼精疲労ヤバくて買った。ブルーライトカットの度なしのやつ」
秋紀くんは眼鏡を外すと、こちらに渡してきた。クリアな質感のフレームの中を覗き込んでみると確かにレンズの向こうの光景は歪まない。ブルーライトを遮断して目が疲れにくくなると謳っているらしいが、目を凝らして見ても普通の伊達眼鏡との違いはよく分からなかった。
「どう?それ効く?」
「まだかけ始めたばっかだけど気持ち効果あるかも」
「へえー……」
メガネを顔に戻した秋紀くんは、こちらに身を乗り出した。
「で、さっきの話。どれ」
覗き込んできた彼の、レンズの奥の切れ長な瞳と視線が交錯する。私はついまじまじと彼の瞼がやや伏せられた顔を見つめた。秋紀くんって、こんな感じだっけ。いつもより少しだけ知的に見えるその瞳にまっすぐ見つめられると、なんだか調子が狂う。
「な、なんだよ。恥ずかしいからあんま見るなよ」
「いいじゃん。似合ってるよ」
「褒めても何も出ねえよ」
私の言葉に彼は俯いて手元の資料に視線を落とした。耳朶の端がほんのりと赤い。
えっ、かわいい。
かわいいという感情を彼に抱いたことは今まで一度もなかった、と思う。多分。異性にそういう感覚を想起させられたこともない、と思う。胸の辺りが、なんだかそわそわする。そわそわという感覚を、うまく説明できないのだけれど、レポートに視線を戻そうとしても、画面の文字がまるで頭に入ってこなかった。
ちょっと休憩しよう、と誘われて、私たちは図書館の外に設けられた休憩スペース——と言っても廊下に自販機とベンチが置いているだけだが——に足を運んだ。付き合ってくれたお礼にと飲み物を奢る。
秋紀くんはブラックコーヒーのボタンを押した。がこん、と小さな缶が勢いよく落ちてくる。
私は紙パックのジュースを選んで、秋紀くんの隣に座る。
「秋紀くんはさー、夏休み予定あんのー?」
「普通に部活と、あと合宿と、その合間にバイトって感じ。お前は?」
「ってかその件なんだけど聞いて!」
「何」
「ミッチーいるじゃん?」
「誰だよ」
「探検部のさー、ほら、背の高くていっつも髪の毛ポニーテールにしてるあの」
「ああ、あいつか」
「来月の花火大会一緒に行こ! って話してたのに彼氏できたからそっちと行くって言い出したの。ひどくない!?」
私の窮状を聞いて、秋紀くんは片眉を上げた。
「普通先約優先じゃねえの」
「そうだよね!? いくら彼氏できて浮かれてるからって流石にナシだと思うんだけどさー」
「夏休み前とクリスマス前はそういうの起きがちだからな」
はは、と秋紀くんは苦笑いを浮かべた。どうやら思い当たる節があるらしい。
「有料の観覧席までチケット買ってたのにあり得ないよね!」
「気合い入ってんじゃん」
「でもさー、一人で行っても楽しくないじゃん? あ、秋紀くん行く? チケットあげるよ。女の子と行って来たら」
彼女いねえの知ってて言うのかよそれ、と言ってコーヒーを啜った秋紀くんは、「あ」と何かを思いついたように窓の外を見た。日没をすでに迎えた空は徐々に夕闇が染み出し始めている。
「それなら俺とお前でいいじゃん」
おれと、おまえ。
その言葉と意味を嚥下しようとして、喉に詰まった。いま、なんて。
「何で黙るんだよ」
「あなたと、わたしってこと?」
おうむ返しになってしまった私に、彼は呆れた顔つきになる。
「それ以外に何の意味もなかったろ今」
「えー、一緒に行くー? いいけどさ、なんだよー! 一夏の思い出だからって下心出しちゃだめだよー?」
茶化すように私は秋紀くんの脇腹を肘で小突いた。何か、空気がじわりと重みを増したような気がしたからだ。これ以上この話を続けてはいけないと直感が囁いていた。友達という互いが勝手に引いた境界線の、今ギリギリにいる。どちらかが一歩でも動いてしまえば、簡単に踏み越えられてしまうくらいの。
「……下心あったら、悪いのかよ」
言葉が出なかった。
冗談だよ、と笑い飛ばしてくれるのを待ったのに、秋紀くんはただ、自分の言った言葉の重さを確かめるように私をじっと真剣な目で見つめていた。そして彼は空き缶を自動販売機の横に置かれたゴミ箱に放り込むと、ふいっと顔を背けた。カラン、と静かな空間に缶コーヒーの落ちる高い音が響く。
「ま、花火大会行けるかもレポート次第だな」
そして振り返るとさっさと終わらせて早く帰ろうぜ、と私に言った。うん、と首を縦に振ることしかできなかった。今の、何だったんだろう。
……心臓、なんだかうるさくない?
「おわったー!」
「おー、お疲れ」
提出フォームの送信ボタンを押して、『送信完了』の四文字を見届けた私は、思いっきり伸びをした。縮こまった関節が心地よい悲鳴をあげて、体に解放感をもたらしてくれる。
「夏休みへの一歩前進だな」
「おかげさまで。ありがとね」
借りていたプリントの束を返す頃には、すでに図書館は閉館時間が目前に迫って来ていた。
慌ててカバンにパソコンを突っ込んで帰り支度をしていると、秋紀くんは何かを思い出したように口を開く。
「っつかさ、」
「んー?」
「必修一限でお前のことあんまり見ないけど、出席足りてんの?」
「…………」
「…………」
長い、長い沈黙だった。私の耳の中で、世界は無音になる。
授業って、何割出ないとダメなんだっけ。
私は恐る恐る秋紀くんの顔を見上げた。目が合った途端彼の表情が何かを察したように渋くなる。
「秋紀くん、モーニングコールとかってお願いでき……」
「絶ッッッッ対ヤダ」
「そ、そこを何とか」
「大学くらい自力でたどり着けよ!」
夏休みは、まだ遠い。
ARCATRAZ