レモンスカッシュと葬列
「なーなみ、」
高専の建物の入り口の前で、後ろから呼び止められる。声の主は分かっている。軽妙で鈴を転がしたように笑う、あの人であることを。
蝉のけたたましさが耳裏に残り続けている。
「…………久しぶりですね」
振り返ると、やはり彼女が烏のように黒い高専の制服を纏って立っていた。軽い足取りで自分の隣に並ぶ。
「相変わらず敬語癖?距離感感じるなあ」
「同級生であっても敬意を払い一定の距離感を保たなければならないでしょう」
彼女は同級生で、時たま任務に同行することもある仲だった。別段仲が良かったわけではない。七海自身が人を避けがちであったという事実もあるが。
人はそういうものだ。深入りすればトラバサミを踏んで自分が傷つくだけ。
この世界では、善人から死ぬ。七海建人はそれを二年前に痛感した。
だからもう、誰かが死ぬのを見るのは嫌だった。いや、誰かが死んで自分が傷つくのが怖かった。
「ふうん、それ暑くない?」
七海の答えを無視して、彼女は七海の着ているリクルートスーツを指差した。
七海は、呪術師にならずに人の世に還ることを選んだ。就活を始める七海に対して、周囲の人々は初めのうちこそ引き留めたりしていたが、次第に諦めて何もしなくなった。
「特に。通気性が良いので」
七海はそう答えながら、目の前の彼女も高専の少し厚いジャケットを着ていることに気がついた。彼女の方こそ暑いのではないか。汗一つ浮かべない彼女を見てそう考える。
「シューカツってめんどくさいんでしょ?よくやろうと思うね」
「そちらこそ、よく呪術師続けようと思いますね」
そこまで自棄気味に言って、七海は己の発言を少し後悔した。
彼女は由緒正しい術師系の家の出身で、たった一人の術式を継いだ子供だった。そんな話を小耳に挟んだことがある。
「私シューショクしても多分上手くやっていけないもん。呪術以外のこと全然教わらなかった。戦うことにしか才能がないからさ。向き不向き的な?七海はその点器用だから私羨ましいなあ」
しかし彼女は気にすることなくひらひらと手を振ってそう答えた。器用だから、というがそうだろうか。彼女だって逃げ出そうと思えばできるはずだ。それをしないのは、
「一級査定中の貴女に言われると説得力があるかもしれませんね」
「あっ本当?いやあ私ってば天才だから仕方ないねえ」
「……前言撤回します」
「酷い!女の子には優しくしないと嫌われちゃうよ〜!」
「嫌われる要素ありました?今」
「そりゃもう、ジュース奢ってくれないと許されないくらいのことしたよ七海」
七海はため息を長々と吐いた。そして入り口のそばに置いてある自動販売機に財布から小銭を取り出して適当に放り込む。
「…………何がいいですか」
「えっ奢ってくれんの」
「ジュース奢らないと許されないんでしょう。どうせしばらく会うことないんでしょうし、餞別です」
「どうしようかな、じゃあ――」
ガコン、と鈍い音を立てて缶が落ちてくる。
レモンスカッシュ。黒地に黄色のポップな水玉が映えるパッケージの缶を渡すと、彼女は少し複雑そうな顔をしてそれを受け取った。
「…………青春の味だよねえ」
「自分で選んどいてその顔は何ですか」
「これ思ったより酸っぱいから好きじゃないの今思い出した」
「じゃあ私が飲むので返してください」
七海が手を出すと、彼女は首を振ってレモンスカッシュを庇うように抱えた。
「いやいい!七海から初めて奢ってもらったから高専中に報告して回らないと」
「五条さんあたりに弄られるのでやめてください。……奢ったこと、後悔させないでくださいよ」
「うん、ありがとね。七海」
彼女がその時柔らかく笑って、七海は初めて彼女の“本物の笑顔”に近しいものを見た気がした。
高専の門の前まで結局彼女は見送りだと言ってついて来た。スーツの内側で汗が滲み始めている。葉月の終わりとはいえ、まだこの残暑は引きそうにない。
「七海、じゃあね。ここには“うっかり”戻ってこないほうがいいよ」
立ち止まって、彼女はまたいつものおちゃらけた表情で七海の顔を覗き込んだ。今自分はどんな表情をしているだろうか。七海は上手く想像できなかった。
「貴女も身体には気を遣ってください。命あっての呪術師ですよ」
「そうだねえ。一級になんかならなかったらもっと楽なのかもしれないけど。でも私は、自分のやり方で人を救うから。七海もさ、頑張ってね」
“ばいばい、永遠にね”。
その言葉がこびりつく。夏という季節の中で。
気掛かりとはまた違う何かが尾を引きながら、七海はそのまま卒業し、大手証券会社に就職した。
「あーあの子ね。お前が卒業してすぐ任務中突然現れた特級呪霊にやられて死んだ。墓?……あんまり深追いしすぎるなよ、七海」
ARCATRAZ