夏油傑と新宿駅東口前についての走り書き
大きく息を吐いて、何度目かもわからない数字の羅列を舌の上で諳誦する。十一桁のそれを押し間違えないようにキーパッドに入力した。090……
祈るように携帯電話を耳に当てた。コール音が一々長く感じる。胃液が上ってくる感覚がして、私は思わず腹の上から押さえた。四回、五回……まだ鳴り響いている。
これは賭けだ。頭が十二分にそんなことは理解している。なぜならあの人はもう、
その時、コールが止む。ザラザラとした風の音だろうか、ノイズが耳に届く。
恐る恐る詰まる息を吐き出すように電話口に問い掛ける。
「夏油、さんですか……」
JRの東口地下改札を出て、広場を横目に左に曲がる。薄汚れたタイル床とエスカレーターが現れて、そこを上る。年季の入った駅構内とまた切り替わるように、ルミネエストの中に入る。
エスカレーターをあがって外に出ると生温い空気とかすかなゴミの腐敗臭が鼻先をかすめた。この街はいつも人々の怨念と畏怖、わけのわからない“黒いもの”が渦巻いている気がしてならない。ここはそういう場所だ。
交番の前を抜けてアルタのビル壁面に取り付けられた巨大テレビジョンは今週の占いの結果を写している。ふと足を止めてそれを自分の星座が出るまで見上げて眺めていた。牡牛座は最下位、ラッキーアイテムはクマのぬいぐるみ。そんなの持ち歩いてるわけないよ、と毒突いてまた歩き出す。
捨てられた吸殻と風でゆらゆらと揺れる転がされたままのストロング飲料の空き缶、キツいタバコ特有の匂い。
昼休みのサラリーマンで溢れているその集団の中の隅に、目的の人はいた。
「……夏油さん」
「君も咎めるかい」
彼――夏油傑は私の姿を見ても特に驚くこともしなかった。それもそうで、私が呼んで夏油さんが新宿駅東口前の喫煙所を指定した。なんでもない、ただの待ち合わせだ。
「いえ、その……音信不通になったって聞いて、どうしたのかなって……心配になって、その……」
曖昧な言葉で濁した。聞きたいこともうまく聞けない。高専の制服の襟を指先で弄りながら思わず俯いた。彼が叛逆の道を選んだと知ったのはつい先日のことである。両親すら手に掛けた彼の行く末が知りたくて、夏油さんの携帯電話にかけるというギャンブルというよりか暴挙に出た。
このことがバレたら処罰は免れない。なぜなら夏油傑は既に裏切り者として呪術師の誰もが知っている公然の事実になってしまったのだから。知らなかったでは済まされない。
「少し歩こうか。ここは匂いがすごい」
君、タバコ吸わないだろう?と聞かれ首を縦に振った。一つ上の先輩は吸っているらしいが私はまだ未成年だ。どこに行くのかは知らなかったが、別にどこに行く当てなどなくても良いだろうと思って彼の後を追った。
「君は、私と会って問題はないのかい?」
「問題はない、とは言い切れないですね」
「はは、だろうね」
夏油さんがいつものようにそう言って笑うものだから、私はどうにもまだ、自分が混乱していることに気がついた。
彼がまだ、裏切り者かどうか見極められていないの自分がいるのだと。
「それでも呼び出したんだから、一回会っておいた方が互いのためだと思ったんだ」
「すみません、追われてる身でしょうに」
「何言ってんの、君も追う身でしょ」
ここで首掻っ切られたらどうしようね、などと私の肩に掛けられた竹刀ケースを模した呪具入れを一瞥して夏油さんはまた冗談めかして思ってもないようなことを言った。
「殺しませんよ、私は」
「何故?」
「夏油さんは、その、恩人ですし」
「呪詛師になっても?」
「多分……助けてくれた事実は変わりませんから」
尊敬している先輩。特級で、強くて、頭の切れる――そんなイメージ像から彼が脱してしまった事実を、私はまだ許容できずにいた。
フラッシュバックする記憶。
手を差し伸べられて、それを握り返した記憶。
アルタの横を抜けて昭和の匂いの残る八百屋の前を通った。全身黒ずくめの男女でも、新宿では咎められることもない。
「そう。そっちはどう?悟とかには会ったけど――いや、この話はよそう」
「夏油さんがいなくなって、高専は大騒ぎですよ。五条さんは……最近、顔も見てないんですよ。忙しいみたいで」
最強という称号を欲しいままにしてきたサングラスの彼は、夏油さんの離反以来めっきり姿を表さなくなった。硝子先輩はあっけらかんと「まあそういうこともあるよね」と気丈な振る舞いを見せていたが、やはり思うことはあるのだろう。
「まあ、そうだろうね。君は?」
「特に変わりないです。元気かと言われると、多分そんなことはないですけど」
同級生を任務中に一人亡くした。根っからのお人好しで、声の大きい男だった。
もう一人の同級生の七海は目の前で友人を喪った反動で、周囲に対しては表情こそ変えず任務を受けていたが、明らかに塞ぎ込んでいた。彼もなんだかんだと情に厚い男だった。
私といえば、あれから先輩術師からの昇級の推薦もなあなあにしてあてもなくふらふらと授業を惰性で受けている。
人が死ぬところなんて沢山見てきた。けれど、身近な人間の死は、やはり重さが違う。
命は皆平等と言うけれど、何百人何千人の命を天秤に乗せたとて、私たちの秤は灰原雄という男の方へ傾いただろう。
夏油さんも灰原の死を目の当たりにして、何か思うことはあったのだろう。灰原は夏油さんをよく慕っていたのだから。
「あの、それで……」
通りを抜けると、目の前を大きな河川のような靖国通りが横たわっている。四車線の向こう側には“歌舞伎町一番街”のアーケード看板が見えた。昼間にも関わらずスーツ姿のサラリーマンから働いているのかすら怪しい女、笑い合う学生たちで溢れている。
そして徐々に呪いの匂いが濃くなったように思えた。蝿頭が時折視界の端を横切る。
そして私は兼ねてから夏油さんに聞きたかったことをおずおずと口にした。
「夏油さんは、本当に世界から呪いを失くそうと考えているんですか?」
「うん。そうだよ」
なんの躊躇もなく肯定の返事が返ってきて、私は思わず呪具入れの肩紐を握りしめた。なんの曇りもなく、なんの疑いもなく、夏油傑は本当に“呪いをなくす”などと本気で考えていると、私は愚かしくもここで初めて理解した。
「だから非術師は要らないんだ。呪いを産む猿はね」
ぞわぞわと背を走る寒気から顔を背けながら、私は辺りを見回した。この周りの人々も、今夏油さんが指先を少し動かすだけで瞬く間に四肢をもがれ臓物を食い散らかされるだろう。私とで例外ではない、のかもしれない。
「夏油さんは私のこと殺さないんですか」
「まあ、術師とはなるべく穏便にやりたいね」
でも、もし、夏油さんが操っている呪霊に喰われたら。ふとそんな考えがよぎった。
彼は術式のために呪霊を食べているわけだから、私は夏油傑の血肉になる。
「私、夏油さんの大義の下で死にたかったです」
私は、夏油さんに恋をしていたのだ。
生温い九月の終わりの日のことであった。
ぽつりとそうこぼした私のことを、夏油さんはしばらく見下ろしていた。
「なら、一緒に来る?」
またあの時のように差し伸べられた手を、咄嗟に握った。
これは崇拝だろうか?或いは心酔だろうか?
そんなことはもうどうだっていい。
焼き焦がれるほどの恋情まで、彼に丸呑みにされたいと思った。夏油さんまで喪うのはとても何か恐ろしいことのように感じて、ならば、せめて礎になろうとした。死んだら必ず呪いに転じて、彼の臓腑に収まってやろうと考えた。むしろそれが心地よいとさえ感じている自分がいる。
「望まれるなら、どこまでも」
“愛という名の呪い”
ARCATRAZ