真夜中のハイウェイだけが僕らを祝福してるね
生温い風が吹いたので、夏の始まりを知った。
汗が皮膚の表面に滲む。まとわりついたそれをポケットから取り出したハンカチーフで丁寧に、なおかつ化粧が崩れないように押さえて拭った。神経質なほどこの作業には気を遣う。
金曜の夜の地下鉄丸ノ内線は、サラリーマンたちでひしめきあい、入れ替わり立ち替わり人々が鉄の箱にすし詰めにされて流されていく。
荻窪行きの電車を薄汚れたベンチに座ってそれを三回見送った。下り列車に乗らない私のことなど、誰かが気にかけることもない。
四つ目の鉄箱は幾分か空いているように見えたので素早くその身体を人々の間にねじりこんで、ドアが閉まるのを待った。
中は汗の酸いとアルコールの呼気が漂っている。
たかが四駅とはいえ、この梅雨終わりの湿気が充満する中でじっとしているのは気が滅入りそうだった。
ドアにもたれかかって、私は仕事でいつも使っているトートバッグの中からスマートフォンを取り出した。
電源を入れれば、通知は一件だけ。
駅に着いたら、連絡して
簡素なメッセージだけがバナーに残されていて、目を通すとまたスリープモードに戻す。
するとふと、左手の薬指の付け根をぐるりと囲むようにうっすら赤い線のような痕が残っているのが目に入った。
そう簡単に忘れさせようとはしてくれないらしい。爪の先で少しその痕を恨めしく引っ掻いた。
……時間でしか解決できないことは勿論わかっているのに。
新宿駅に着いたアナウンスが流れるとともに、中の人の流れが一気に出口の方に向けられる。押し流すようなその勢いに抵抗することなく、入り口から吐き出された。
浮き足立つ人々の合間をすり抜けて、私は改札を出る。
少し人波を避けるように端に寄って、メッセージの主に返信を打つ。着きました、と。すぐに既読がついて、待ってるね、と返ってきた。
目の前に広がるメトロ地下通路の薄汚れたタイル床と白くて小綺麗なルミネエストの床が地続きなのはなんだかおかしな光景だ。
そんなことを考えながら私は閉館ギリギリのルミネエストに滑り込む。すぐにフレグランスの甘くて強い匂いが鼻腔をくすぐった。
立ち並ぶアパレルブランドショップに視線を逸らすことなく、私はしばらく進むと、人の往来から外れて角を曲がる。
自動ドアの前には『ルミネエスト駐車場』と書かれている。指定された場所はここで間違いないだろう。躊躇うことなく自動ドアをくぐった。
コンクリート打ちっ放しの無機質な地下駐車場には、私のパンプスの足音だけがコツコツと反響している。
まばらに停められた車の中を覗き込みながら待っているはずの彼を探す。
少し気が逸っているような気もする。足早に車の前を通り過ぎる。
しばらくもしないうちに、私はシルバーの四人乗り自家用車のボンネットに本を片手に寄りかかる人影を見つけた。
私が近づくと、彼――赤葦京治は文庫本を閉じてややその面を上げた。その顔には安堵が浮かんでいる。
「こんばんは」
ちらりと彼の手にしていた文庫本の表紙を盗み見ると、夏目漱石の『こころ』。
一体どんな気持ちで彼はこれを読みながら私のことを待っていたのだろうか。邪推にも似た想像を働かせる。
「こんばんは。待たせた?」
「全然。今読み始めたところ」
私は今度は注目を背後の車に移した。
「京治、車持ってたっけ?」
運転免許を持っているのは知っていたが、自家用車は持っていなかったはずだ。すると、
「ううん。これはレンタカー」
ほら、と彼がナンバープレートを指差した。確かに左端に「わ」と平仮名が書かれている。
「運転は久しぶり?」
「この間取材旅行で伊豆に行ったんだ。その時以来だからそこまで鈍ってないと思うよ」
京治は薄く笑って、車のドアのロックを解除した。
彼は助手席側のドアを開けて、私の方を振り返ると、少し何か言いたそうにして、開きかけた口を閉じた。
彼に生じた迷いを私が垣間見たのは、今まで数えるほどしかなかった。
彼は私のほうに歩み寄ると、私の両の手を取った。その彼の一回り大きい手は少しひんやりと湿っていて、京治が緊張しているのが分かったような気がした。
そして逡巡ののち、赤葦京治は私の目を見て、はっきりと、
「俺と、駆け落ちしてくれますか」
新宿のど真ん中で、誰も知らないプロポーズをやってのけたのだった。
*
乗り込んですぐ、車は眠らぬネオン街の川底に流れ着いた。
カーラジオからは不釣り合いなほど陽気なテンポのジャズが流れている。
とうとうやってしまったな、ともう手遅れの助手席で考えた。
駆け落ち。ロマンに溢れた響きではあるが、その先が茨の道であることなど隣の男も承知の上だろう。
それでもって、あの言葉だ。
私は、赤葦京治とこれから駆け落ちをする。
互いに手を取って、他の誰も知らぬところへ、届かぬところへ逃げるのだ。
否、正式には駆け落ちとは少し違うだろう。京治は今の出版社勤務を辞めることはないし、私は親戚中の反対を押し切ったわけでもない。会社は辞めたけれど。
誰も知らないのだ。
そもそも、私と京治が付き合っていることを。
それでも、駆け落ちは駆け落ちなのだ。
商業施設の点滅する液晶広告を眺めながら、私はこれからのことに想いを馳せた。
婚約者がいた。
親が勝手に決めた男の人だった。
彼は両親が経営していた会社の得意先の社長の息子だかなんだかと言って、お見合いという形をとりながら実態は政略結婚みたいなもので、両親は「年頃なのに浮いた話もないんだから良いでしょう」と笑っていた。
付き合っている恋人がいると告げればよかったのだろうか。
それでもきっと、わるい人に騙されているのよと言いくるめられて京治とは別れさせられただろう。
結納の時に私の浮かべた曖昧な笑みの抵抗は、運命の奔流とも呼べる流れに竿を差すようなものであった。
それから半年が経ち、今日は結婚式を挙げようという話が出た矢先のことであった。
同棲していた婚約者の彼を置いて、私は七年付き合った恋人の手を取って家を飛び出してしまったのだ。
婚約者の彼はもうすぐ家に帰って、リビングテーブルの上の私が書いた置き手紙と婚約指輪に気がつく頃だろう。
両親はいつも出来の悪い私を叱る時のように顔を真っ赤にして怒るだろうか、良い歳して家出なんて。私はまだ悠長にそんな心配をしている。
「何か心配?」
目の前の信号が赤になって、京治が前を向いたまま、ハンドルに腕を置いて訊ねてきた。
「……ううん。平気、多分」
半ば自分に言い聞かせるように、京治に答えた。
「まだ間に合うよ。引き返そうか?」
「大丈夫だよ。もう覚悟はできてるの」
ちかちかと点滅する横断歩道の青信号を眺めて、私は自分の手元に目を落とした。指輪の痕がまだ少し気になっている。
これから私たちは誰も知らぬ郊外の新居に向かう。荷物は必要最低限のものだけ既に送ってあった。
なにもかもゼロからのスタートで、一抹の不安が私の中にぼんやりと靄のように残っている。
「そういえばどこか寄りたい場所ある?買いたいものとか」
「特にないかな」
「分かった、そのまま向かうね。何か思いついたら言って」
ありがとう、とお礼を告げて、私は後ろに流れていく街灯を目で追った。
車は大通りを逸れることなく走って行く。
「ねえ、京治」
「何?」
私はかねてから、京治に聞きたかったこと――否、聞かなければならないことを口にした。
「私たち、どこかで間違えたかな」
梟谷学園高校の図書室は、どこかいつも閑散としていた。
スポーツ系の部活動が盛んな学校だったから、あまり本を読みにここに来る生徒は少ないのかもしれなかった。
昼休みに片手で数えるほどの訪問客の相手をしながら受付のカウンターで好きなだけ本を読む。
読書好きの私にとって、図書委員という仕事は天職に他ならなかった。
学年最初の委員会決めで、すぐに図書委員に立候補する物好きもそういない。そんなこともあってか、私はこの高校に入って三年目の図書委員を務めることになっていた。
そんな最中であった。
「あれ、赤葦くんじゃない?」
四月。それは最初の委員会の顔合わせで起こった。
別のクラスだが去年も図書委員だった顔見知りの同級生が、集合場所の図書準備室に入るなり、そう私に耳打ちしたのだ。
アカアシくんが誰なのか私にはさっぱりわからなかったが、見つけた彼女はいささか興奮気味で、どんな人なのだろうと部屋の中の人だかりを見回した。
「あれだよ、あの背の高い……」
彼女が控えめに指差した方向を見ると、確かにすらりとした、人よりも目線一つ分高い男子生徒が、その中にはいた。
「あの子?」
「そう! 結構カッコいいよねって周りでは噂になってるけど、知らない?」
「ああ……! ケイジくんか」
見知った彼は、毎週図書室に来てくれる常連の一人だった。
「え、何知り合い?」
「図書室によく来る子だよね。結構話すよ」
「えっ、去年私が当番の時は一回も会ったことないのに……」
「そうなの? 毎週来てたからみんな知ってるのかと思ってた」
赤葦京治。
貸出カードに書かれていたその名前を私が思い出したところで、準備室に司書さんが入ってきて、私たちはそれぞれ指定されたクラスごとの席に座った。
本がそこかしこに山積みになった準備室の中央に椅子を並べただけの質素な集会だった。
二回目の説明を聞きながら、彼の横顔をちらりと盗み見る。
端正な顔立ち。月並みな言葉ではあるが、私はシンプルにそう思ってしまったのだ。
これが確かに、私たちの始まりだった。
この後委員の当番決めで私と京治は偶然にも昼休みと放課後どちらも同じ曜日の担当になり、毎週顔を合わせることになるのだが。
彼は、存外少しばかり強引で、距離感の近い男だった。
「先輩、高いところは俺が戻すのでちゃんと言ってくださいね」
「ありがとう、でも京治くんも大変だと思うから大丈――」
「いえ、万が一踏み台から落ちて頭でも打ったら、その方が大変だと思いますので」
京治は頑として首を振って私の断りを聞かなかった。
「……それもそうかな?」
「俺は踏み台を使わなくても一番上の棚に手が届くので、いくらでも使ってください」
彼はそう言って腕を伸ばすと、背伸びもせずに一番上の棚の本の背表紙を指でつついた。
「じゃあ上お願いね、私は下やるから」
「……適材適所ですね」
「私が小さいんじゃなくて京治くんが大きいの」
すると彼は「先輩は小さくても小さくなくても可愛いですからね」と気を抜けば聞き逃してしまうほどの音量でぼそりと呟いた。私は聞き逃さなかったが、敢えて聞かなかったことにしておいた。
紳士的なのか強引なのかよく分からないし時折言動が変だったりもしたが、赤葦京治は大抵人当たりの良く、友人も多い男だった。
それなのにも関わらず、彼は読書好きで通学途中や家で合間を縫っては本を読み耽っているらしい。
「先輩、それ何て本ですか?」
「ん? ……あぁ、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』。本がない世界の話だけど結構面白いよ」
「俺次借りてもいいですか」
「いいよ、明後日には読み終わるから渡すね」
読んでいる本の情報を交換して、お互いのおすすめを読んでは感想を話し合った。
京治は現代の大衆文学も読んだが、明治から大正の、いわゆる文豪作品も好んで読むようだった。
「男尊女卑の時代に女に虐げられる男を書いた谷崎潤一郎って面白いですよね」
「作者の嗜好がそのまま出てるパターンだね」
同年代で話の通じる彼はかなり稀有な存在で、受付の椅子に二人で座って話し込んでしまい、目の前の訪問者に気がつかないこともしばしばあった。
共通の趣味を持つ友人同士。
恐らくこの時の関係を表すならばこれが一番近かっただろう。
「あまり周りに本を読む人がいないので、先輩と話すのはすごく楽しいです」
京治はよくそう言って眦を下げて微笑を浮かべた。表情の変化に乏しいと思っていた彼が笑う様はなんだか貴重で、私なんぞが見ても良かったのだろうかという罪悪感と、彼のクラスメイトたちが知らないであろう一面を見ることができたひと匙の優越感で度々板挟みに陥った。
そうこうしているうちに梅雨が明け、駆け足気味の夏がもうすぐ後ろに迫ってきていた。
彼は相変わらず強豪で有名な部活動に毎日のように励んでいたから休みなど殆どなく、私も受験勉強に精を出さなければならなかったから、一学期の期末試験前からしばらくの間、京治と私はほとんど顔を合わせることがなかった。
私は勉強の合間にしばしば読書の時間を作っては本を読んでいたが、インターハイに出ると言っていた彼はきっと練習で疲れて読む暇などないだろうと深夜の机上で時折憶測の域を全く出ない考えを浮かべた。
この時既に赤葦京治という男は私の交友関係の一端を確実に担うほど私の内に入ってきているのであったが、当時の私は恋≠ニいう一文字に発展するほどの意識は持ち合わせていなかったし、彼もきっと私のことなどただの先輩だと思っているに違いないと思っていた。
しかし後でよくよく聞いてみれば、彼曰く「結構アプローチしてたつもり」らしく、かなり肩を落として落ち込んでいた。
「先輩」
赤葦京治の声はどこにいてもよく通った。
爽やかで湖の底が見えるような透き通る透明感があって、少し甘い。まるでスポーツドリンクみたいだ、と彼の声を聞く度そんなことを考えた。
彼は学校中どこでも、私を見かけると必ず声をかけてきて、一言二言挨拶を交わしては級友たちの輪に戻ったり階段の踊り場の向こうに消えたりした。
私たちは委員会だけの関係なのに。彼は律儀すぎる後輩だった。
「京治くん、今日も……いや、その格好は部活だね」
「はい、昼休みの時間で。先輩は?」
「私も昼休憩中だよ。たまには食堂で何か食べようかと思って」
その日は食堂で後ろから呼び止められて、練習着姿の彼と少し立ち話をした。
蒸籠の中に入れられたような暑さが何日が続いた。夏も真っ盛り、受験勉強のピークの幕開けでもあった。
家では勉強しづらかったので、私は予備校の自習室が開くまでの間、学校に来て勉強することにしていた。
夏休みの図書室はいつもに比べて生徒もかなり少なく、かなり快適に勉強ができていた。
「俺も食堂で食べようと思っていたので、先輩が良ければ一緒にどうですか」
「いいの?じゃあお言葉に甘えて」
夏休みの間ずっと一人で過ごしていたから、誰かと話して息抜きをしたかったのは本音だった。
京治は年不相応に人の話を聞くのが上手かった。相手の話をよくよく聞いた上で、それに沿った返答をする。「クセの強い先輩に扱かれました」、と本人は何故か苦虫を噛み潰したかのような顔でそう言っていたが、それは間違いなく彼の美点に他ならなかった。
「先輩は受験、一般で受けるんですか?」
「成績がなんとかなるなら指定校推薦考えてるんだ。先生と相談中」
「実際成績良いんですし、難関私大の枠取れるんじゃないですか?経営系目指してるって言ってましたよね」
「そう、親の会社のアレコレに将来的に携わることになるみたいだから、そういう勉強をしろって言われてる。本当は文学の勉強もしたかったけど、無理そうだし……」
唐揚げの大盛り定食の添え物の小さなレタスをつつきながら、彼は私の話を黙って聞いている。
沈黙が何拍か続いて、京治が口を開き何かを言おうとしたところで、
「アレ、赤葦お前食堂で飯食うなんて珍し……あ、」
彼の背後から、京治と同じような練習着を来た金髪の男子がひょっこり顔を出した。
「あっ俺邪魔ですね。帰ります」
そしてすぐ身を翻してその場を立ち去ろうとしたところを京治が引き止めた。
「木葉さんが急に気を遣うなんてどうしたんですか」
「俺がいつも気遣ってないみたいな言い方やめてね」
金髪の彼はそう言って今度は私の方を見た。
「あれ、終業式ぶりじゃん」
「秋紀くんそういえばバレー部だったね」
彼――木葉秋紀は、久しぶり、と軽やかに手を振った。
その時京治の表情が一瞬曇ったようにも見えたが、すぐに元のポーカーフェイスに戻っていた。気のせいだろう。
「お二人はどういう関係なんですか」
「俺ら二年連続で同じクラスなんだよな。コイツめちゃくちゃ頭良いから色々テスト前教えてもらってたし」
「秋紀くんも器用だから割と教えたらすぐ覚えるし私あんまり教えることなかったけどね」
私たちのやりとりをしばらく箸を止めてじっと眺めていた京治は、ぽつりと
「仲、良いんですね」
と半ば棒読み気味でそう呟いた。
「全然気持ちこもってないぞ」
「そうですか?ありったけ込めたんですけど」
「気持ちじゃなくて呪いとか込めてないよな?やめろよ怖いから」
「今木葉さんに自動販売機に小銭入れようとする度に絶対その小銭全部落とす呪いかけておきました」
「やっぱ呪いじゃねえか」
祟るなよ、と秋紀くんは軽く京治の肩を小突いて、京治もまた、いつもの無表情で考えておきますと返した。
私は二人の方が仲が良いのでは?とも思ったが、何も言わないでおいた。
「というか俺はお前らの関係性の方が見えねえわ。どういう知り合い?」
「俺と先輩は図書委員会で当番が一緒なんです」
「え、それだけ?」
盛大にずっこけて見せた秋紀くんは目を見開いて、私と京治の顔を交互に見遣った。
「それだけ、とは?」
それに対して京治は特に気に留める様子もなく、もう三分の一ほどしか残っていない茶碗の中のご飯を口に運びながらそう聞き返した。
「いや、委員会ってだけで一緒に飯食うほど仲良くなることあんまなくね?って思ってさ……まああるのかもしれないけどさあ……」
ウンウン唸り始めた秋紀くんを横目に、私は確かに言われたことも一理あるな、と考えていた。
接点といえば委員会と趣味の読書くらいなもので、学年も違えば同じ部活でもない。
それなのに、彼と話すのは心地が良いと思っている自分がいた。変な話だが、京治に話しかけられるたび内心喜んでいる自分がいた。
この気持ちに名前をつけるのは無粋だろうか、と日替わり定食を食べる手を止めて少しの間思案する。
「確かに普段しょちゅう話すことはないかもね」
「そうかもしれないですが、俺は先輩のことが好きなので正直時間が足りないですね」
「そっか、そうなんだね………えっ?」
「ん?」
さらりと放たれたその言葉を受け流そうとして、私はそれが爆弾発言であることに気がつくまで丸々五秒かかった。
京治の隣で話を聞いていた秋紀くんも一拍遅れて言葉の意味を理解したらしく頭の周りを疑問符が飛び交っている。
「ええと、なんて言えばいいのかな……」
「エッ俺いない方が良かったやつ? ごめん部室戻るわ」
私が返す言葉に迷っていると、秋紀くんの方は既にいたたまれなくなったのか、及び腰でじりじりと後退していた。
どうやら自分が爆弾の火付け役になるとは思っていなかったらしい。
「別にいてもいいですよ。特にどうという話でもないですし」
「いてもいいよって何? ねえ何?」
「今の京治くんの発言は友達的な好き≠ネの?」
「いえ、恋愛対象的な好意です」
「……あ、ありがとう?」
さも当然のように答えが返ってきて、もはや自分が何を口走っているかもよく分かっていない私は軽いパニック状態だ。
しかしそれに追い打ちをかけるように、
「だから俺は、先輩に好きになってもらえるように努力しているところです」
「そ、そう……なの?」
「でも先輩が嫌だというならやめますし必要最低限以上話しかけたりもしません。これまで通りの関係を続けます。…………でももしも、もしも先輩が嫌ではないと思ってくれているのなら――俺と、付き合ってはもらえませんか」
こんな飾りのないまっすぐな言葉が飛んできたら、もうノックアウトされたと言っても過言ではなかった。
……そのあと私が何と答えたか。今となってはよく思い出せない。周囲の視線を一身に集めているような気がして、熱を持った耳朶を指でつまんで誤魔化しながらごくごく小さな声で承諾の返事をしたことと、秋紀くんがやさぐれて話の間じゅう京治の唐揚げ定食の唐揚げを横から二つつまみ食いしたことだけは記憶に残っていた。
それから、私たちはお互いのことを少しずつ知っていって。
彼は二年の冬に全国大会で準優勝した。居間のテレビ越しにインタビューを受ける彼を見るのは誇らしさと妙なむず痒さが同居していた。
私は無事都内の私立大学経営学部に推薦で合格して、そのまま進学することになった。
その一年後に京治は別の私立大学の文学部に進んだが、私たちの関係が途切れることはなかった。
私たちには世間一般の恋愛と称される燃え上がるほどの情熱と激情を持ち合わせてこそいなかったが、凪いだ海の上のように穏やかであった。互いの歩幅を確かめ合いながら、手を取り合って歩いた。道路の白線の上を歩くように。
「先輩に何かあったら、俺が矢面に立ちます。どんな時でも、石を投げられるのは俺でいいんです」
私の家の事情を知った彼は、事あるごとにそう口にした。
それは赤葦京治の痛いほどに青い献身であった。
彼は私の意思を尊重するとも言った。もし家のことで私が別れたいと言ったら自分は身を引くとさえ言った。
だからこそ私は、何があっても彼を選ぶことにした。それが彼への誠実さの証明であるように考えたから。
何もかもを捨ててでも赤葦京治という男と生きていくことを、彼に告げるずっと前から、私はもう決めてしまっていたのだった。
遠くで声が聞こえる。少し甘い、あのスポーツドリンクみたいなあの声が。
「…………」
「起きた? もうすぐ着くよ」
どうやらいつの間にか車の中で眠ってしまっていたらしい。車の外に目をやると、そこは都心の郊外の幹線道路ではなく、高速道路の上だった。道路の外に明かりは少ない。ヘッドライトに照らされた緑色の標識には、知らない地名が並んでいる。
都内の新居に行くはずではなかったのか、と私が尋ねると、彼は前を向いたまま、
「内緒にしてたんだけど、実はこれから新婚旅行に行こうと思って」
と少し悪戯っぽく笑って答えた。
「…………駆け落ちした足で?」
「そう、中々ない体験だと思わない?」
こんなカップル見たことないよ、と言えば、今どき駆け落ちなんてないからねと彼は目を細めた。
しばらくしないうちに、彼はハンドルを左に切った。標識には碓氷軽井沢IC出口、と書かれている。
「……軽井沢?」
「綺麗な教会があるって聞いたんだ――」
私たちの会話を聞いているものは誰もいない。私たちが結ばれることを知るものは今はここにいない。
けれど真夜中のハイウェイだけが、ただ沈黙と静謐を以って、私たちのことを祝福していた。
ARCATRAZ