満月の夜に
*満たされぬ心結婚適齢期をとうに過ぎた妙齢の女は、未だ誰かのもとに嫁ぐことはなかった。というのも、彼女には昔からおもいびとがいて、彼と結ばれる以外ありえないと縁談も片っ端から断っていた。そこそこ顔もよく、気品のある女なので縁談は尽きないのだが、名前は渋い顔をするばかりだった。
未だ満たされぬ心は、彼を待ち続けている。しかし、自分よりも一回り若い彼こそ良縁は尽きないだろう。たかが幼馴染、男が名前の事を思い待ち続けてくれている確証はどこにもないのだ。だからこそ名前は、それなら独り身のまま生涯を終えよう、としていた。本人もこのような親不孝者はどこにもいないとわかっていながらも、彼以外を受け入れることが出来ないのだ。
肩身の狭い想いをした名前は、静かに家を飛び出し故郷から京へと渡った。しかしそこで、思わぬ出会いがあったのだ。故郷を捨てた幼馴染が、浅葱色の羽織を着て京の町を巡回しているのだ。町の人に話を聞くと何やら『新選組』という組織が不貞を働くものや攘夷志士から、京の町を守っているという。
名前は、きっと生きて会うことはないだろうと思っていた幼馴染が、五体満足で生きていてくれたことにホッとした。そして胸の内から愛おしいと思う感情が強くなった。しかし男ももう20になる。きっと美しい奥方がいるのだろうと名前は軽々と男に声をかけられずにいた。
*月は追う
あくる日、名前が町を散策していると件の男に話しかけられた。
「失礼」
「はい?」
振り向くと、紺色の着流しを着た男が名前の顔をじっと見て「人違いだったらすまないが、名前ではないか?」と言った。
名前は答えるつもりはなかったが、彼の勢いに押され素直に答えた。
「はい……山口さん」
「やはりそうか。いや、今は斎藤と名乗っている。久しいな」
斎藤は途端に破顔して名前に手を差し出した。
「元気そうで何よりだ」
「斎藤さんも」
名前は差し出された手を握り、握手を交わした。
「して、何用で京に?」
「一人暮らししてるんです。家を出たの」
「そうか、ご両親も達者で居られるか?」
「ええ、もうそれはそれは」
お互い絶妙なタイミングで手を離すと、斎藤は名前の横に並んだ。
「今日は非番でな、よかったら茶屋で話さないか」
「ええ、もちろん」
本当は斎藤と話したくなかったが、名前は顔に微笑みを浮かべて斎藤の後ろへ着いて行った。
*
茶屋に着くとお互いみたらしを一本ずつ頼んで、席に着く。最初に話し出したのは斎藤だった。
「一人暮らしといったが、旦那はどうしてるのだ?」
斎藤の質問は名前を困らせた。斎藤からしてみれば、名前はもう妙齢の女。結婚していて当たり前だと思ったからだ。
「結婚してないの。独り身なんです」
「何?」
今度は斎藤が困る番だった。
「名前のような気品のある女人は、村の男は放っておかないだろう?」
斎藤は本当に理解ができないようで名前に問いかける。名前は絶対に斎藤を好いているとは言えなかった。
「縁談も全て断っています。それで両親にも申し訳なくて家を出ました。本当に親不孝ものです」
名前が言い終わると、ちょうど店員がみたらしを持ってきた。それを受け取った名前は、一本斎藤に渡す。
「何故……と聞いていいのだろうか?」
斎藤は名前の様子を伺いながら更に問いかけるが、名前はこれ以上聞いてくれるな、とかぶりを振った。
「そうか……。いやしかし、このまま独り身でいるつもりか?」
斎藤は暗に名前を心配しての一言だったが、名前はそれを別の意味で捉えた。
「分かっています、こんな歳だし……。もう貰い手もないでしょう」
名前は薄く笑うと、みたらしを一つ頬張った。
「私のことはいいんです。斎藤さんはどうなのかしら?いい人いるんでしょう」
本当はそんなこと聞きたくなかったが、世間話の延長上、名前はその質問を選択するしかなかった。
「いや、実は全く」
「あら、斎藤さんももう20でしょう?きっと女の子達は放っておかないわ」
名前の想像とはよそに斎藤は苦笑いして「本当に何もないのだ」と言った。
「でもまだ若いから……いい人見つかるといいわね」
名前はふっと笑った。しかし、心は泣いていた。斎藤が「あんたが欲しい」と言ってくれるのを望んでいたのだ。
逃げども逃げとも天の月が追ってくるように、心の内から溢れるこの想いに、名前は逃れることができなかった。
*ノイズは遠くへ
幼馴染の笑みに斎藤もつられて笑うと、ふと思い出したように言った。
「その……名前さえよければ、昔のように呼んではくれぬか?……名前ばかり他人行儀で、年上の女人に失礼をしているようだ……」
「あら、でも昔のようになんて変でしょう?20にもなる男に『はじめちゃん』なんて……」
名前は遠い昔を思い出しふふ、と笑った。
「いや名前さえよければ、『一』と呼んでくれ」
「なら『一さん』で」
お互い下の名前で呼ぶなんてはしたない、と思いつつ名前は、まるでめおとのようだと思っていた。しかし、きっとそう思っているのは自分だけだとも思った。だからこそ、ざわざわと雑音でうるさい心を止めたいと思ったのだが、いかんせんノイズは鳴りやまない。
「名前どうした?」
あげく斎藤は名前の曇った表情から体調が悪いのだと導き出し、心配してくる始末。
「いえ、お気になさらず……」
名前は無理やり笑顔を作ると、ぐっと胸を押さえつけた。
「団子がちょっと、気管に入ってしまったみたい」
「大事ないか」
斎藤は名前の背中をさすった。背中から感じる斎藤の大きな手の温もり。名前の心はまたざわざわと騒ぎ始めた。
「ええ、ええ。お茶を飲めば少し」
「持ってこよう」
斎藤は席を立って、茶をもらいに行った。すると名前の心は静かになって、名前自身もほっとした。
好いている相手の手の大きさとはなんと心臓に悪いことか。名前はそう思いながら、斎藤の帰りを待った。
*夜道を走れ
久方ぶりにお互いに顔を合わせると、積もる話もあり時間を忘れるほど、話し合った。日は傾き、夕暮れに過ぎにやっとお開きになって、茶屋の前でお互いに別れた。名前は最後まで斎藤の背中を見送った。しかし一番星が光り始めた頃何を思ったのか、斎藤の見えなくなった背中を追いかけて走り出した。きっともう、次はないと名前はそう思ったのだ。
「はあ、はあ」
男と女の差は歴然で、先ほど別れたばかりなのにまだ斎藤には追いつかない。京の一本道は名前を迷わせることはなかったが、本当にこの道であっているのかと思うほど、彼の背が見つからないのだ。
「はあ、はあ」
何度も何度も立ち止まり、休みながらも走り続けた。何度も何度も諦めようとそう思ったが、今日しかない、今しかないともう一人の自分が急かすのだ。勘は当たる方ではないが、今回ばかりは胸騒ぎがしたのだ。今いかないと、また斎藤は自分の手の届かない遠くへ行ってしまうのではないかと。
日が完全に沈んで、夜空に月が見え始めた時ようやっと月明かりに照らされた斎藤の背中を見つけた。
「一さん!」
額の汗をぬぐいながら斎藤を呼ぶと、振り返りざまに不思議そうに「名前?」と言った。
*二度はない
「多分、今しかないと思って」
名前は呼吸を整えながら、斎藤の前に立つ。
「胸騒ぎがしたんです。きっと一さんはまた遠くへ行ってしまう……」
斎藤は名前を見つめて続きを促した。
「一さんを好いています、もうずっと昔から。だから縁談も断ってきました。勝手な片思いです……」
本当は心に秘めておこうとした想いだが、今日一日斎藤と話して、少しの望みを感じてしまった。だから名前は玉砕覚悟で胸の内を明かしたのだ。
「いいんです、もうこんなおばさんは相手にされないでしょう」
名前は何も言わない斎藤に対し、自分の恋が終わったことを自覚した。そして自嘲気味に笑うのだ。
「最後に伝えたかっただけなの……。ごめんなさい」
そういうと名前は踵を返した。瞳から流れ落ちる涙を見られたくなくて、走ってその場を去ろうとする。しかし、斎藤が名前を後ろから抱きしめたことで、逃げ場を失ってしまった。
「すまぬ……。実は名前の言う通り、移転の話が出ていてな」
斎藤はそのまま続ける。
「久方ぶりに名前に会い、美しくなっていることに戸惑いが隠せなかったと同時に、思いを伝えようか考えあぐねた……」
「だが、また離れ離れになるのならと伝えることをやめたのだ」
斎藤は名前の体を反転させると、顔を近づけはっきりと言った。
「あんたが欲しいと思う。よかったら俺についてきてくれぬか……」
名前は大粒の涙をこぼし斎藤の胸に縋り付いた。
満月の夜に fin.
戻る