奥山に
名字名前は鈍感な女ではない。だが、噂話を鵜呑みにする様な馬鹿な女でもない。御幸が自分のことを好きなのはすでに周知の事実だが、御幸本人が言っていたわけではないので、名字はそれを信じることはしない。いくら自分が御幸に気があってもだ。
御幸には"邪な感情"と言ったが、それを抱いているのは名字の方だ。恋愛というものをしたことがないので、自分に向けられた感情には強がりで返してしまうのだ。
「馬鹿みたい」
本当に馬鹿みたいだ。御幸の噂が本当にしろ嘘にしろ、喜んでいる自分がいるのに、それに知らないふりをするのだから。
「なにが?」
「え?」
まさかその呟きが隣の男に聞こえていると思わなかった。だから、なにが?と返してきた男に驚く。
「馬鹿みたいって、名字さんが馬鹿だとは思えねーけど」
さっきまでスコアブックに夢中だったくせに聡い男だ。
「いいえ、なんでもないわ」
「本当に?」
どこまでも聡い男だ、御幸一也という男は。
「御幸君って意外と人のこと見てる?」
「はっはっは、伊達に青道の捕手やってねーよ」
「言われてみればそうかも」
名字は頷く。
「で、名字さんは何か悩み事?」
「……そうとも言えるしそうとも言えないわね」
「なんだそれ」
御幸はまたはっはっはと笑う。
「『奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
声聞く時ぞ 秋は悲しき』って感じかしら」
「あー……わかんね」
「そうでしょうね」
名字は、ふふと笑った。
「つまりは悲しいってことよ、周りの声を聞いていると」
「んー、もっと詳しく」
「奥山に散り敷く紅葉を踏み鳴く雄鹿の声を聞いていると、とりわけ秋が悲しく感じられるってこと」
「それはその歌の意味だろ?」
そうじゃなくて、と御幸は続ける。
「その歌に例えた名字さんの気持ち」
御幸は本当に聡い男だった。歌に隠された名字の気持ちを暴こうとしているのだから。
だが名字は言えなかった。 "廊下を歩いてると聞こえてくる貴方と私の噂話を聞くたびに、それが本当でも嘘でも、事実ではない事が悲しい"とは。
「教えないわよ」
「気になるなー。ま、名字さんが言いたくないならいいけど」
そういうと御幸はまたスコアブックに目を戻した。名字はそれを眺める。この男が自分の気持ちにどこまで気づいているのか分からないが、それも時間の問題だと思った。
(もう考えるのはやめよう)
この気持ちが一方通行だったとして、今は悲しいと思えるこの気持ちが消える事がないのだから。




奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
声聞く時ぞ 秋は悲しき
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