Wisteria





花開院家と言えば、京でその名を知らない者はいない。
古より続く由緒正しい陰陽師の家柄。朝廷からもその実力は買われており、妖に関する事件は全て花開院家が補っている。
よって、その本家に産まれた者は、誰より厳しく躾けられる決まりになっている。
幼い頃から陰陽術を教え込まれるのは勿論のこと、勉学、作法、体術、剣術、その他様々な能力を身につけされられるのだ。
そうして、花開院家は脈々と続く血筋を絶やすことなく守ってきた。

故に、妖怪は倒すべき者、悪の象徴であり。
そんな存在と関係を結ぶなど、言語道断なのである。


「なっ……は、え……い、今のは聞き間違いか……? そ、そうだよな……?」
「……是光兄様……」
「兄さん、聞き間違いやあらへんで。ボクもちゃーんとこの耳で聞いたもん」
「う、嘘だ……嘘だと言ってくれ、頼む……珀……!!」
「……嘘じゃないわ」


顔を真っ青にして、幽霊か何かのように這いながら此方へ向かってくる是光兄様。
その口から漏れ出るのは、狼狽えや現実逃避の言葉ばかりだ。
無理もない、とは思う。彼は花開院を誇りに思っていたし、ぬらりひょんのこともあまり信用してはいなかった。
だというのに、女とは言え花開院本家の者が、妖と結婚したいなどと申し出たのだから。

ぬらりひょんの言葉を受け入れてから、私は彼を連れて、本家の最奥にある秀元の部屋へと向かった。
秀元は何かを予測していたのか、大して驚きを見せることもなく。その代わりと言って良いのか、是光兄様は酷く狼狽していた。


「……ごめんなさい、是光兄様」
「っ……!! 妖……!! お前、珀に何を吹き込んだ……っ!!」
「!!」
「待って兄様、違うの、別に何か脅されたわけじゃないわ……!!」
「珀……」


是光兄様はぬらりひょんの胸ぐらを掴み、射殺さんばかりの目で睨み付けた。
慌ててその手に自らの手を重ね、必死に首を振る。
これは私の意思だ。申し込んだのはぬらりひょんではあるけれど、了承したのは私。
彼だけが悪いわけではない。むしろ家を裏切ったと言うことからすれば、悪いのは断然私の方なのに。


「……何故だ?」
「……え?」
「何故……そんな事を?」


幾分か落ち着いた声に問いかけられ、思わず言葉を無くした。
是光兄様が私に向ける視線は穏やかだ。ただ、眉を顰められたその顔は、困惑していることを多分に表している。


「……お前は、幼い頃から人一倍訓練に励んできて……妖怪を沢山倒すんだと、いつも言っていたのに……」
「……」
「なのに……どうして」


ずるりと、兄様の手がぬらりひょんの着物から滑り落ちた。
力の抜けた手とは裏腹に、口は硬く噛み締められ、歯の鳴る音までが聞こえてきそうなくらいだ。
伏せられた視線に言いようのない罪悪感を覚えつつ、それでも逃げることだけはしたくないと思った。


「……今でも、兄様達の事は尊敬しているわ。陰陽術を使って市街の人達を助ける……まさに花開院家の代名詞だもの」
「なら、」
「けれどね、兄様」


息を深く吸い込んで、吐き出した。
怖い。思いを吐露するのは怖いことだ。
……だけど、だからこそ。


「私、これ以上戦いたくなんかないのよ」
「そ……それは、どういう……」
「……初めて、妖怪を一人で倒したとき……あの時のことは、今でも覚えてる」


目を瞑れば、すぐにでも蘇るあの記憶。
最も古い強烈な記憶であり、忌むべきものでありながら忘れてはならない記憶だ。


「初めて……命を奪うことの意味を知った」
「……珀」
「自衛のための術は必要だと思うし、誰かを守れる力は強みだと思う。でも、私は花開院の名を冠しながら、陰陽師としては生きられない。……それは、私にとってとても辛いことだった」


陰陽師として生きる彼等を、どれほど羨んだだろうか。
正義のための行為だと呼べたなら、どれほど幸せだったろうか。
私には、そんな大義名分なんてない。あったのは、妖怪達をいとも簡単に殺してしまえる、恐ろしい力だけ。
花開院家は名門だ。故に私を縛るものも、普通の家とは比べ物にならないほど重たい。


「私は……もう、ここにはいられない」
「……だから?」
「え?」
「それが理由で……ぬらりひょんに、妖怪に嫁ぐと言うのか?」


向けられた鋭い眼光に、思わず身をすくませた。
分かってる。これも想定の範囲内だ。
簡単に理解して貰えるとは思っていない。……けれど。


「……そうよ」
「!!」
「初めてだったの。私を、花開院家の娘ではなく、一人の人間として見てくれた人は」


思えばいつだって、花開院に囚われていたのは私だけだった。
ぬらりひょんは、そんな名前一度も引き合いに出さなかったのに。


「裏切りだって分かってる。花開院の名を汚してしまうと言うことも」
「……」
「だから、私はここを出ていくとき、家系図から自分の名前を消すつもりよ」
「なっ……!? そ、そんなこと……」
「元からいなかったことに……は、流石に出来ないでしょうけど。大阪城での戦いで下手を打って、死んだとでも触れ回ればいい」


花開院家に未練がない、わけではない。
それでも、今更家系図から消えることくらい、何だって言うのだ。
そんなの、怖くなんてない。畏れることなんて、何もない。
自然と口角が上がる。


「それでも私は、この人に着いていく。もう決めたのよ、兄様」
「珀……」


私の名前を呼んだのは、ぬらりひょんだった。
目を移せば、多少の驚きを出している。
何て顔してるんだか。元はと言えば、そっちが言って来たくせに。


「し、しかし……」
「えーんちゃう?」
「は!?」
「僕は珀ちゃんの言うこと、認めてやってもええんちゃうかと思うよ、兄さん」
「秀元……?」


急に首を突っ込んできたかと思うと、秀元はいつもの笑顔でそんな事を言い出した。
思いも寄らなかった反応に驚いて、目を瞬かせる。


「本当?」
「うん。ぬらちゃん、別に悪い子やないし。それに、珀ちゃんがそう思ってるんなら、思うままに行動すべきとちゃうかな」
「だ、だが秀元、奴は妖だぞ!?」
「知っとるよ。……でもな、兄さん。彼が大阪城まで乗り込んで来たんは、何のためか分かってるやろ?」
「そ、れは……」


是光兄様が言い淀み、真っ直ぐだった視線が床をうろついた。
知らなかった。兄様もあそこに来ていたのだろうか。
ああ、でも来てなかったとしても知っているのか。だって私がここにいるってことは、誰かが運んでくれたと言うこと。
それが秀元でも、ぬらりひょんでも、はたまた他の誰かでも……私がこうなった経緯は、語られるはずだ。


「珀ちゃんの、花開院家としての力とか、癒しの力が欲しかったとしても、あそこまでして敵方である陰陽師を助ける妖なんておらんよ」
「……」
「それに、珀ちゃんだってそうやん? あれほど騒いどったのに、腹に穴開けられるほど無茶するなんて……今までのこの子からは想像できへんもん」


まあ、さすがにあれはやり過ぎと思うけど。
その言葉と共に向けられた視線に、肩を竦めて返す。
私自身、あの時の自分の行動は制御できなかったのだ。
何を言われたところで、今更どうかなる物でもないのだし。


「……一応言っておくとね、私が話しに来たのは別に許可を取りに来たわけじゃないわ。ただ、拐かされたなんて思われないようにしただけ。前科もある事だし」
「前科ってアンタなあ……」


目を向けると、ようやくぬらりひょんは口を開いた。
軽い溜息をついた後、彼は兄様達に向き直る。
目に宿っていた、戦闘時とはまた別の鋭さを持つ光に、少しだけ息が詰まる。


「妖……」
「別に、悪かったなんて言うつもりはねえ。ワシはワシのしたいようにしただけじゃ。妖怪なんざ、本来そういうもんじゃしなあ」
「何だと!?」
「ただまあ、花開院家がどういう態度を取るにせよ、此奴は貰っていくぞ」
「きゃっ!」


肩を引き寄せられ、身体がぬらりひょんの方へと傾いた。
同時に兄様の眉間の皺が、より深くなる。
聡いこの人のことだ、こうなるのは分かっているだろうに。喧嘩をしに来たんじゃないんだけれど。


「おい、珀から手を放せ!」
「嫌じゃ。もうワシと珀との間で約束は成立した。此奴の身体が落ち着いたらすぐにでも江戸へ発つつもりじゃしなあ」
「はあ!?」
「ちょっとぬらりひょん、私そんなこと聞いてないわよ」
「あん? ワシに嫁ぐんじゃろ、当たり前じゃねえか」
「……まあ、それはそうだけど」


そもそも奴良組って、江戸の妖怪だったのか。知らなかった。
慣れ親しんだ京を離れることに未練がないわけではない。ただ、ここにずっといるのも何だと思う。
京は狭い。いつ花開院本家の者と会ってしまうか分からないのだから。
身体に回された腕に手を重ね、改めて自覚した気がした。
もう私は、花開院の娘ではないのだと。


「……珀」
「はい、兄様」
「お前は……いいのか、それで」
「え……」
「……後悔、しないか」


痛々しいほどに顰められた、兄様の目を見つめた。
……ああ、そうだ。なんだか色々ありすぎて、どうにも忘れていたけれど。
この人はこういう人だった。真っ直ぐで努力家で、悲しいほどに優しい人。
そんな兄様を悲しませるのは心が痛む。けれど、だからこそ。


「勿論」


笑顔で、言わなければ。


「自分で決めたことですもの。後悔なんてしないわ」


思えば兄様には、沢山迷惑を掛けてしまった。
私が小さい頃、陰陽術の失敗で壊してしまった備品も、一緒に謝ってくれたりだとか。
皆がまだ寝ているような早朝、こっそり稽古を付けて貰ったりだとか。

ごめんなさい、兄様。
でもきっと、これで最後だから。
最期の、我が儘だから。


「………………分かった」
「!」
「兄様……!」


渋るように、それでも確かに兄様はそう言った。
図らずも弾んだ声に、兄様の眉間の皺が僅かに緩む。


「そもそも俺が口を出すのは、お門違いだ。頭首が認めたのであれば、言うことはない」
「……ありがとう、兄様」
「この妖に何かされたら式神を飛ばせ。速攻で滅しに行く」
「兄様……ええ、そうするわ」
「おい」


笑って頷けば、ぬらりひょんにコツンと頭をこづかれた。
知っている。このお人好しで、どうしようもなくらい好き者な妖怪が、私に危害を加えるはずがないことくらい。
それは兄様も同じだろう。これは彼なりの、冗談なのだ。
……冗談を言えるくらい、認めて貰ったということ、なんだ。


「……兄様」
「?」
「本当に、ありがとう」


再び、噛み締めるような礼を言う。
兄様は何も答えないまま、ただ静かに微笑んだ。





































いつだったか、騒がしいのは嫌いだと言った覚えがある。
だけど私は、花開院家で時々催されていたような、賑やかな宴は好きだった。
いつも顰め面ばかりしているような陰陽師たちや御爺様が、珍しく笑顔を浮かべる瞬間。
お酒の力や場の雰囲気もあるとはいえ、滅多に見られないようなその光景は本当に輝かしく見えて。
その時ばかりは、つかの間の平和に浸っていたものだ。

とはいえ。
賑やかなのと五月蠅いのとでは、天と地ほどの差があるのだけれど。


「大勝利じゃー!!」
「奴良組は無敵じゃー!!」
「無敵じゃー!!」


清々しいほどに暢気な言葉が、何処からか聞こえてきた。
完全に酔っているその声を聞き流しながら、漏れそうになった溜息をお茶と共に飲み込む。
辺りを見渡せばそこら中に妖怪たちが溢れていて、あまりにも異様なその光景を、呆れ半分にじっくりと眺めてしまった。


「ちょっと、何よ珀、全然飲んでないじゃないの!」
「貴女達が飲みすぎなのよ。ここが陰陽師の総本山だってこと、忘れてるんじゃないの?」


肩に回ってきた、力の微妙に入っていない腕を撥ね退けて言い捨てた。
顔を寄せてきた雪麗の口から漂った息も酒臭くて、思わず眉を顰める。
私は眠っていたから気付かなかったのだけど、どうやら奴良組はここ最近、ずっとこんな調子らしかった。羽衣狐という魑魅魍魎の主を倒したことによって、士気も非常に上がっているらしい。
でもだからと言って、いくら何でも花開院の本家で宴会をするなんて。
秀元が許可を出したとはいえ、是光兄様や他の陰陽師が見たら何て言うだろう。想像しただけで頭が痛い。


「……聞いたわよ。あんた達、結婚するんですってね」
「……!!」


ぽつりと、猪口を傾けながら雪麗は呟いた。
突然声の調子が変わったことに驚いて、彼女の顔を見るも表情は読み取れない。いつもと変わらない端正な美貌は感情が乗っていなくて、それが逆に罪悪感が心を締めた。

ぬらりひょんの申し込みを受けたときは、正直言ってそこまで頭が回っていなかったのだと思う。
ただ彼が生きていたことに、そして私が生きていたことに、驚いて、喜んで。
雪麗がぬらりひょんに想いを寄せていたことを、あの時の私は完全に忘れていたのだ。


「頭首の兄が随分と反対してたらしいけど、解決したのね」
「……せ、」
「この騒ぎ、羽衣狐を倒したことだけじゃなくて、それも含まれてのものなのよ。知ってた?」
「……雪麗……」


淡々と、雪麗は言う。
何て言えば良いのか分からなくて、それでも何か言わなきゃいけないような気がして。
名を呼ぶと、彼女の目線が此方に向いた。
一瞬だけ、言葉に詰まる。必死に言うべき事を探した末に見つかったのは、結局一言だけで。


「何」
「……っ、ごめんなさ――」
「謝るんじゃないわよ、馬鹿」
「……え」


だけどそれを言おうとした瞬間、遮るように雪麗の声が飛んだ。
彼女は再び、猪口を傾ける。空になったそれに新たに日本酒を注ぎつつ、薄い唇はまた開かれた。


「……そりゃあ、妾だって好きだったわよ、あの人のこと。それこそ、ずっと前からね」
「……なのに、どうして……」
「そんなの、決まってるでしょ」


白い手に握られた、二つの猪口。
その内の一つを私に手渡しながら、雪麗はきっぱりと言った。


「あの人が選んだのが、アンタだったからよ。それ以外、理由なんてないわ」


不意に、涙が零れそうになった。
しっとりと、濡れたような髪の隙間から見える彼女の目は、相も変わらず美しい。
真っ直ぐに私を見つめてくるそれに、偽りなんて微塵も感じられなかった。


「本音を言えば悔しいわよ、すっごくね! 絶対落としてやるって思ってたのに、その男があっという間に他の女に落とされるんだもの」
「う……」
「だからって、アンタに謝られてもどうにもならないの。大体、別にアンタは悪いことしてないじゃないの。悪いのはこんな良い女に見向きもしなかったぬらりひょんよ」
「雪麗……」


一気に猪口の中の酒を飲み干して、雪麗は言った。
大体それがそもそもおかしいのよ、なんであいつはこんな美人に見向きもしないわけ……。なんて、溜め込んできたであろう不満が流れ始める。
その言葉だって、勿論嘘ではないだろう。この人は恋敵をこんな風に励ますような、か弱い女じゃない。
それでも。それでも、どうしたって彼女がぬらりひょんを思い続けてきたことに変わりはないのだ。

私は覚悟を決め、猪口を畳に置くと、改めて雪麗に向き直った。


「殴っていいわよ、私のこと」
「はあ……? アンタ何言ってるの?」
「だって、雪麗だってぬらりひょんが好きだったんでしょう。なら、一発ぐらい私を殴っても罰は当たらないはずよ」
「……それ、普通殴る側が言う言葉じゃないの?」


呆れた様な声が降って来るけれど、私はそこを動かなかった。
痛み分け、なんて言うつもりもないが、このままじゃ私が収まらない。
雪麗の優しさに甘えてぬらりひょんと結ばれるなんて、冗談じゃない。
誰かを傷付けたまま幸せになるだなんて、そんなのない方がましだ。


「全く……本気で言ってるの、珀?」
「勿論」
「これ、ぬらりひょんや花開院の陰陽師に知れたら、不味いのは妾なんだけど?」
「大丈夫よ、そうなったら私が何とかするわ」
「……何でアンタって子は、そうも男らしいのよ」


雪麗が溜息をついて、猪口を置いた。
目を閉じて、開いた瞬間、向けられた視線の鋭さに驚く。
そこにいたのは妖怪だった。先程まで酒に酔っていたとは思えないほどに、畏れを纏うその姿。


「……いいのね?」
「ええ」


頷いて、私は静かに目を閉じた。
直後。


「っ! ……え?」
「……ふん、天下一の美姫も、そんな間抜け顔じゃ台無しね?」
「え……いや、は……? 雪麗……?」
「何よ、何か文句あるの」
「だ、だって今、貴女……」


痛みを発する額に、そろそろと手を伸ばした。
痛いことには痛い。でもそれは、覚悟していた頬への打ち身ではなくて。
額を、弾かれただけ……?
理解できない頭で雪麗を見つめると、彼女は再び猪口に酒を注いでいた。


「……どうして……」
「……言ったでしょ。アンタが悪い事なんて何もないの。ただ、やっぱりちょっと腹立つから、仕返ししただけよ」
「な……そ、そんなのって……」
「別にいいでしょ。妾の報復方法なんだから、殴ろうが弾こうが勝手よ」
「そ、れはそうだけど、でも……」


腑に落ちない。
何だか手加減されたようで、どうにも気に入らないのだ。
憮然とした表情で見つめていれば、雪麗は満足げに口角を上げた。


「いいのよ、それで。大体、江戸に帰ったらどうせ祝言挙げるんでしょ? 花嫁の顔に傷が付いてちゃ、格好つかないじゃないの」
「……だけど」
「ああもう、いいって言ってんでしょ! いい加減にしないと、もっと酷いことするわよ」
「酷いこと……?」
「そうねえ……例えば、ぬらりひょんの口唇を奪うとか。何代かけてもね」
「!」


予想だにしていなかったその言葉に、固まった。
確かに酷い。物凄く酷い。どうして仮にも好いた男との口吸いを宣言されなきゃならないのか。
でも、私にそれを嫌だという権利はあるのだろうか。
嫌だけど、それは間違いないのだけれど、でも雪麗がどうしてもというのならそれくらい、見過ごすべきではないのだろうか。
……いや、でもやっぱり嫌だ。

頭の中でぐるぐると考えが巡り、しかし一言も口には出せないままに時間が過ぎていく。
そんな私の様子を見て、雪麗はさも可笑しそうに笑い声を漏らした。


「アンタでもそんな顔するのね」
「……だって」
「ま、心配しなくていいわよ。少なくとも、あの「ぬらりひょん」に口吸いするわけじゃないから」
「え……? そう、なの?」
「そうよ。いくら何でもしないわよ、どうせ拒まれるだろうし」
「……そう」


雪麗の言葉に、少しだけ安堵した。
悪いとは思うし、私にあれこれ言う権利があるのかも疑問ではあるが……。何も起こらないなら、その方がいいに決まっている。
表情を緩めた私に、呆れた様にまた杯を傾けた後、彼女の顔は再び楽しそうに笑んで耳元へ近付いてきた。


「何なら、アンタ達の子どもや孫相手でも悪くないわね」
「っ!? こ、どもって……!」
「あら、何よ。作らないつもりなの?」
「ば、馬鹿なこと言わないで! もう……!」


一瞬で、顔が熱くなる。
そりゃあ、このまま彼とずっと二人だけ、なんて訳にはいかないだろう。
あの人が恋愛ごとに淡泊なようにも思えないし、跡取りだって必要になるだろうし。
だけどだからと言って、すんなり受け入れられることでもないのだ。

すっかり調子を取り戻して口を回し始めた雪麗に吐息を零し、立ち上がった。
顔が火照っている。廊下は寒いかも知れないが、この熱を冷ますのには丁度良いだろう。


「何よ、どこか行くの?」
「ええ、少し。貴女も来る? 兄様達のところだけれど」
「! 冗談じゃないわ、妾は飲んでるからアンタだけで行きなさいよ……!」


犬にでも対するような手付きで私を追い払うと、雪麗は言葉通りまた飲み始めた。
あの分だとしばらくは終わらない。というか戻って来た頃には出来上がっていてもおかしくない。
あまり飲み過ぎないでよ、なんて言葉も何処まで聞くだろうか。
喧騒の合間をすり抜け、騒がしい部屋を後にした。





廊下へ出ると、冷たい空気が肌を撫でた。
襖越しに聞こえる声が遠ざかっていく。あの部屋だけが異空間のように賑やかで、異質だった。

人の姿は何処にも見えない。声も聞こえない。きっと今頃、本家の陰陽師達は後処理に終われているのだろう。
羽衣狐は死んだ。けれどそれ以上に、多くの陰陽師達が死んだ。
珱姫の家で見たのはほんの一握り。他の姫君達を拐かすときにも、何人かは確実に殺されている。
花開院は分家をいくつか有するほど大きな家だ。それでも此度の被害者を考えると、存続も危ういのではないか。
秀元は生きている。是光兄様も、他の何人かの陰陽師も。でも五十年後は? 百年後は?
その時彼等の血が途絶えていない根拠は、何処にあるのだろうか。


「……寒いわね」


吐いた息は真っ白に染まり、消えていく。ああ、嫌だ。どうしよう、何だかこのままじゃ泣いてしまいそうだ。
この家から離れることを決めたのは私だ。花開院家がどうなろうと、私に出来ることは何もないはず、なのに。
口でいくら言おうと、いくら覚悟を決めようと。魂の奥底にまで染み付いた血は、誇りは、消え去ることがないのだろうか。
後悔なんてしていない。するつもりも毛頭ない。でも、だけど、……なんて。
嗚呼、なんて未練がましい。


「……――、江戸に帰るんか」


秀元の声でふと我に返った。当てもなく歩いている内に、元いたところからは大分離れてしまったらしい。
側にある扉から中を覗くと、秀元の他にぬらりひょんの姿も見えた。
向き合って、杯を酌み交わしている。普通なら異常な光景なのに、この二人だからだろうか、何処か自然に見えた。


「ワシは女狐と違って、この地に興味はない。魑魅魍魎の主になったら、江戸に戻るだけじゃ」
「珀姫ちゃんも連れていくんか?」
「おう。彼奴が望まんなら無理強いはせんが、そうでもないようじゃし……のう、珀姫?」
「! ……気付いてたの?」


いきなり呼ばれた名に肩を揺らし、顔を出した。
秀元は気付いていなかったのだろうに、流石妖怪は目敏い。……いや、秀元のことだから気付いていたかも知れないけれど。
何となく罰の悪さを感じながら、手招きされる方へと寄っていく。窓の近くに寄れば案外月光で明るくて、二人の姿もはっきり見えた。


「まさかホンマに、珀姫ちゃん嫁に取るなんてなあ。ご先祖様達も大激怒や」
「だろうな」
「苦労するで? 何せその子、気ぃは強いし天の邪鬼やし、そのくせ突っ走るしなあ」
「……聞き捨てならないんだけど。貴方そんな風に思ってたの?」
「おっと、失言や」


戯けた顔で、秀元は口元を押さえて笑った。
怒る気にもならなくてただ目をすがめていれば、ぬらりひょんから宥めるように徳利が差し出された。
受け取って、酌をする。彼の口に吸い込まれる前、一瞬だけ見えた酒の水面に映る月はやはり美しかった。


「試そうと思うことがあるんや」


秀元が、脈絡なくそう呟いた。
交代だと言いたげに傾けられた猪口に、酒を注いで。そうして改めて目を向けた先、秀元は静かな瞳でそこにいた。


「成功したら、強力な結界になる。四百年は妖は好き勝手出来ないやろうなあ……羽衣狐も」
「……ふん」


四百年。一拍おいて、その長さを飲み込んだ。
私達にとっては永久にも等しいほどに長い年月。なのにぬらりひょんにとっては、ただ少し長いと思うだけで終わるのだろう。
これから先、四百年後の京は、どうなっているのか。願わくば、安全なところであって欲しい。
誰も生き肝を狙われないような、……それでも妖怪の血は絶えることのないような、そんな場所で。


「まあ、五十年もしたら僕死ぬし? 関係ないんやけどな?」
「五十年……か。人間の寿命は短いな。お主とはもうこれっきりじゃのう」
「いやいや、その内会えるかもしれへんよ? 『破軍』として」
「『破軍』……? それって確か……」
「そ。代々の花開院頭首が式神となって出てくる、あれや」
「……そう」


そうか。秀元はそうやって、後生を目にすることが出来るかもしれないのか。
秀元が五十年後にいないなら、私だって五十年後には死んでいる。それでも頭首の彼なら、あるいは死んだ後でも生きられる。


「……何だか、少し羨ましいわ」
「え? 何で?」
「だって……」


徳利を握って、ぬらりひょんに目を向けた。
何十年、何百年と続いていく彼の生き様を、私は見ることが出来ない。
ぬらりひょんが妖怪で、私が人間である以上、それは仕方のないことで。だからこそ惹かれたというのに。

……寂しい、なんて。


「……別に、何でも」
「僕も羨ましいで」
「え?」
「だって珀ちゃんは、ぬらちゃんに着いてくんやろ? もう一生会えへんのは、珀姫ちゃんも同じやもん」
「……秀元」


少し驚いてしまった。
彼はこうやって、感情を表に出すことは滅多にないから。
微笑んだその顔に目を見開いて、私は更に、自覚した。
さよなら、なんだ。この家からも、今まで出会った殆ど全ての人からも。


「……ごめ、」
「あー、止めよ止めよ。こういうの苦手や。それに、別にすぐ発つって訳でもないんやろ?」
「ああ。珀姫の怪我が完治して、体力が戻ってからじゃな」
「ならええわ。その間に、気持ちも追いつくやろ。……な、珀ちゃん」


言いかけた言葉を、飲み込んだ。
秀元は優しい。ぬらりひょんも優しい。何だかんだ言っても、結局この人達にはそういうところがある。
懐に入れた人間を、甘やかすような。顕著でなくとも、たまにしか出てこないような一面だとしても。

もうさんざん悩んだ、でしょう。
昔から考え込むことばかりして、踏み出せずにいたけれど。
そろそろ、一歩くらい歩き出しても、いいのかもしれない。
失敗したって、きっと彼等は、何だかんだで助けてくれるから。
助けてくれた、から。


「……うん、そうね。……ありがとう」


涙も後悔も、例え尽きなくとも。
それを全て飲み込んで、笑顔を浮かべるのだ。
私はそれが、出来るのだから。
いつかの未来で、私の人生が終わるその時まで。







兄様に婚姻の許可を貰ってから、数日が過ぎた。
奴良組は宴の次の日には花開院家を経って何処かの宿に向かったそうで、既にここにはいない。
人の気配のしなくなった花開院本家にいるのは、今や秀元、是光兄様などに加え数人の陰陽師、そして私と珱姫だけだった。


「鵺切丸?」
「はい、是光様がくださった刀です。何でもお作りになったのは秀元様だとか」
「へえ……そんな名前だったの、あの刀」


久し振りに煎れたお茶をすすって、息を吐いた。
お茶菓子は、奴良組の誰かが贈ってくれた京の名菓子店の桜餅だ。本当は詰め合わせだったけれど、珱姫とお茶をするなら桜餅がいいと思って選んだ。
私が藤なら珱姫は桜だ。彼女自身、綺麗な桜の刺繍の着物をよく着ているし、その美貌は桜の儚さに何処か似ている。


「そんな大切な刀、ぬらりひょんに渡して良かったの?」
「ええ、勿論。どうにも私は刀を扱うには向いていないようなので」
「そう……」


確かに、珱姫は刀を持って戦うには些か不向きだ。
腕も細いし、特別身軽でもない。何より武器を持つには優しすぎる。
普通の娘子のように、ただ幸せに生きて行ってくれればそれでいい。


「失礼するでー」
「あら、秀元」
「こんにちは、秀元様」
「やっほー、珀姫ちゃん、珱姫ちゃん」


襖が開いて、秀元が顔を出した。
珱姫の屋敷が壊滅的な被害を受けたために、彼女がここに寝泊まりするようになってもう何日経つだろうか。
随分と打ち解けたようで、秀元は手を振りつつ部屋へ入ってくる。
私はふともう片方の手に握られたものを見て、首を傾げた。


「なあにそれ、刀?」
「そうそう。と言っても、ただの刀やあらへんで」


秀元は腰を下ろし、少しだけ刀を鞘から抜いた。
僅かに見えた刀身が、鈍く光っている。
その抜き身に、何故か私は違和感を覚えた。


「もしかして、それ……陰陽術か何か、かけてる?」
「おっ、気付いたか。そうや、珱姫ちゃんに渡した鵺切丸に似せて作った妖刀……『藤霧』や」
「藤霧……」


光に淡く混じるのは、仄かな藤色。それが名前の由来だろうか。
刀身から何となく目を離せないでいると、秀元に名を呼ばれて私は顔を上げた。


「これ、珀姫ちゃんにやろうと思ってな」
「え……? で、でもこれ、日本刀なんでしょう?」
「うん」
「うんって……私、刀なんて扱ったことないのに」


差し出された刀剣を受け取り、それでも持てあますように掌で転がしながらそう呟く。
すると秀元は小さく笑った後、言った。


「知っとるよ。でも江戸に行った後、式神だけで全ての妖怪に対応できるとは限らん。あっちは家みたいな抑止力もおらんし、血の気が多い輩もいるしなぁ」


ぬらちゃん見とったら分かるやろ、と苦笑気味に落とされた言葉に、思わず笑ってしまった。
確かにぬらりひょん含め、奴良組は血の気が多い。
あんなのがそこら中にいるとすれば、江戸は京なんかより余程危険なところだ。


「流石に、出会う妖怪全部切り捨てえって訳じゃあらへんけど。まあ、餞別みたいなもんやね」
「餞別……」
「珀姫ちゃん用の刀やから、一定の霊力を込めればすぐにでも扱えるようになっとるし、祢々切丸と違て妖怪でも人でも斬れるようにはなっとる。とはいえ無理矢理力を引き出してるようなもんやから、相応に疲労はたまるけどな」
「……要するに、身の危険を感じたら霊力を込めればいいのね?」
「そうそう」
「……ありがとう、秀元」


掌の刀は相応に重い。けれどそれが刀の分だけの重さではないことを、私は知っていた。

刀なんてただの人殺しの道具だ。いくら理由をつけようと、それは変わらない。
これは些か、私には重すぎる。私の手にはとてもじゃないが、収まりそうにはない。


「無用の長物だと思うがなあ」
「っ!!」
「あ、妖様!?」


突然、耳元で低い声がそう呟いた。
拍子に刀を思わず畳に落とすと共に、珱姫の言葉でその声の正体を知る。
……いや、正体なんてそもそも一人しかいないのだけれど。


「……ぬらりひょん」
「よう珀姫、身体の調子はどうじゃ?」
「今ので寿命が縮んだ気がするわ」
「そりゃ大変だ」


恨みを込めて言ってみても、何処吹く風といった感じで受け流される。
腰を下ろした彼が刀を拾うのを見ながら、私は溜息を吐いた。


「妖刀、ねえ……。こんな危なっかしい物、アンタには持たせたくないのう」
「でも珀姫ちゃんほっとくと、何やらかすか分からんしなあ」
「まあ、それは確かに」
「どういう意味」


思わず口を挟めば、二人は顔を見合わせて口角を上げた。
何でそんなに仲良くなっているのか、理解に苦しむ。敵対関係のくせして。


「いくら陰陽術が使えるって言っても、式神取られたら話にならん。現にぬらちゃんが初めて訪ねてきたとき、そうやったんやろ?」
「そう言えばそうじゃったのう。懐かしいな」
「……ちょっと、何で貴方がそんな事知ってるの」
「珀姉様……? 何かあったのですか?」
「ん、珱姫はまだ知らんかったか。あのな……」
「余計な事は教えないで頂戴!」


耳打ちしようとするぬらりひょんにそう叫び、珱姫の肩を引き寄せた。
冗談じゃない。この純真無垢な子にあんな事、教えられてたまるか。
珱姫のことだ、きっと私を見る度に顔を赤くさせるだろう。そんなの居たたまれなさすぎる。


「けど、ワシがおるじゃろう? 何か不満でもあるのか、秀元」
「ぬらちゃんはそりゃあ強いけど、組の大将やし、何処にでも珀姫ちゃん連れ歩ける訳じゃないし。……最後はホンマに、自分の力でってとこやな」
「……まあ、危険が及ぶよりはマシか……」


彼等の言葉を聞きながら、再び刀に目を向ける。刀の鞘に施された、藤の装飾が美しかった。

妖刀、藤霧。私の物だと言って渡されたそれが、手に馴染む日は来るのだろうか。
今はまだ白く光っているあの刀身にもいつか、血が滴る日が来るのだろうか。
他の、刀と名が付く物の様に。


「なあに、心配せんでもいいさ」
「え……?」
「アンタがそれを使う日は、この先一度たりとてない」


ぬらりひょんの言葉に顔を上げるも、言葉の意図を上手く掴めなくて、首を傾げた。
それでも彼は相も変わらず、飄々とした笑みを浮かべていて。


「これからはずっと、このワシが側にいるんじゃからのう!」
「!」
「それでも不安か、珀姫?」


答えを聞いているようで、その顔は全てを分かっているようだった。
思わず、ふっと顔が綻ぶ。
彼がずっと側にいる。これ以上に、安心できることがあるだろうか。
……否、きっとそんなの、どこにもない。


「……そうね。不安なんて、何処にもなかったわ」
「おう。そんな刀、孫の手代わりにでもすればいいさ」
「……孫の手は流石に止めて欲しいわあ」
「ふふ、確かに」


秀元の言葉に、珱姫が笑い出す。
その笑い声を聞きながら、何となく、彼の言葉は真実なのだろうと思った。
私があの刀を使う日は、多分この先一度もないのだろうと。
確固たる根拠があるわけではないが、その予想はきっと外れない。そんな気がした。












「……! 美味しい……!」
「ふふ、そうでしょう? 一度貴女と来てみたかったの。お口に合って良かったわ」
「ありがとうございます、姉様!」


口の端に着いた粉を拭ってやりながらそう言えば、珱姫は照れたように頬を染めながら笑った。
大きな大福餅に、専門店から取り寄せたらしい茶葉を使った緑茶。京の郊外にあるこの茶屋は、知る人ぞ知る名店というものらしい。
私が初めて知ったのは、確かずっと昔に兄様達に連れてきて貰ったことが切欠だった。
店主が派手さを好まないために名前が知れ渡っているわけではないが、菓子の腕は確かである。いつか珱姫を連れてこようと思いつつ、随分と遅くなってしまった。
今日は客もほぼいないし、店主はいつものように奥に引っ込んでいる。茶をしながら二人で談笑するには持って来いの日だった。


「こんな素敵な茶屋があったなんて……姉様は何でも知ってらっしゃるのですね」
「そんな事はないけれど……でもそうね、ここはよく来ていると思うわ」
「……もしかして護衛なしで来てらっしゃった場所って」
「あら、分かった? だってお茶くらいゆっくり楽しみたいじゃない」
「そ、それは分かりますが……はっ! そう言えば今日も……!!」
「大丈夫よ、奴良組の存在が抑止力になってるから」


茶を啜りながらのんびりと呟き、皿に残っていた大福を一つ摘んだ。
あの羽衣狐を倒したという組が未だ京に残っている、という噂は、様々な尾鰭を付けて広まっている。
流石に細かい話の顛末までは隠されているかもしれないけれど、何にせよそんな京で勝手な行動をすればどうなるか、分からない妖怪達ではない。


「……あの、姉様」
「なあに?」


ぽつり、と、それまでとは違った調子の言葉が落とされた。


「姉様は、いつから江戸に向かわれるのですか?」
「……そう、ねえ。詳しい日程はまだ知らないの。でも傷は癒えているし、そう長いことでもないんじゃないかしら」


沈んだような珱姫の声色に、気付かないふりをしながら努めて何でもないことのように言う。
下がった眉尻を一瞥して、けれど何も言わずに湯飲みを手の中で弄んだ。……何も言えずに、の方が正しいのかもしれないが。


「貴女も、江戸の近くに親戚が見つかったんでしょう?」
「あ……はい。母方の方の親戚で、……その、私もそう経たないうちに向かうことになりそうなんです」
「どんな方なのかしら。もう会うことは出来たの?」
「はい、一度だけ。……良い方でした、お父様にもお線香をあげてくださって」
「……そう、良かったわね」


珱姫と同じ椅子に座って前を向いていれば、彼女と目線がかち合うことはない。
それでも声だけでどんな顔をしているか察することが出来ないほど、私達の付き合いは短くも薄くもなくて。
きっとそれは珱姫の方も同じなのだろう、と思いながら、温くなった茶を誤魔化すように飲んだ。

江戸は広い。いくら江戸の近くとは言っても、今のように頻繁に会うことは出来なくなるだろう。
そんな事は知っている。いつかはこうなることもあるだろうと思ったこともある。
けれど知っているからこそ、どうにもならないその未来が少しだけ歯痒くもあるのだ。


「……私、あの時……」
「……?」
「あの時、死ぬことを覚悟しました。お父様も、花開院の方々も亡くなっていたのを見た時……」
「……」


頭の片隅で、場違いにも意外だと思った。
彼女はどちらかと言えば、辛い過去を一々思い返して浸るような女ではないからだ。
それでも態々その話を持ち出してきたと言うことは、何らかの意味があると言うこと。


「でも、だからこそ、姉様に助けていただいて、奴良組の方々に救っていただいて、またこうして姉様とお茶を飲めているのが本当に嬉しいんです」
「……そうね。私もそう思うわ」
「お父様はいなくなってしまいましたが、引き取ってくださる親戚の方も見つかって、……ありがたいことだと思います」


でも、と珱姫は再び言った。


「もうすぐ、終わってしまうんですね。姉様とこうして、お茶を飲める生活も……こうして、ただお喋りすることも、出来なくなってしまうんですよね」
「……」
「贅沢だとは思うんです。死ななかっただけでとても恵まれていると分かっているんです。……なのに、私……」


声にならない言葉が、珱姫の瞳から涙となってこぼれ落ちた。
真っ白な手を伝って落ちていく雫を見ながら、私はそっと息を吐き出す。
湯飲みの水面に映る自分の顔に被さるようにして、吐息で出来た波紋が揺らめいた。


「……贅沢、かしら?」
「え……?」
「私だって今の日常が消えてしまうのは嫌よ。結婚するって言うのに、おかしな話かもしれないけれどね」
「姉様、も……ですか?」
「ふふ、意外? 誰だってそんなものじゃないかしら。慣れ親しんだ日常に浸っていたいって思うのは変なことじゃないわ」


涙を溜めた大きな瞳に、私の姿が映っている。
何度も見たこの顔をもうすぐ見られなくなるなんて、未だに何処か信じがたくて、夢か何かのようで。
けれどそんなふわふわした感覚のまま終えてしまうには、あまりにも惜しいものが詰まっている。


「でもね、珱姫。同じ生活をいつまでも続けていくことは、どんな人にだって出来ないわ。例え貴女のお父様がご存命だったとしても、きっといつかは終わりが来ていたはずだもの」
「っ……」
「それに、何もこれから貴女とこうしてゆっくりする機会が全くないわけじゃないでしょう。場所が分かれば文を送ることも出来るし、いくらだって会いにも行ける」
「! よろしいのですか……!」
「ええ。それとも、私が会いに行っちゃ迷惑かしら?」
「そ、そんな事……! あり得ません、絶対!」


勢いよく首を振る珱姫に、思わず笑みが零れた。
そのまま笑い声を漏らせば、珱姫もきょとんとした顔を段々と笑みに染めていく。


「江戸に行ってもまたこうしてお茶が出来るよう、良い茶屋を探しておくわ。だから貴女も、その時までに色々な話を用意していて頂戴」
「はい……! あの、私も姉様の所に行ってもいいですか?」
「勿論。……ねえ珱姫、楽しみね」
「っ……はい!」


笑って頷いた珱姫の髪を、静かに吹いた風が攫っていく。
その向こうに見える青空の色は、きっと江戸でも京でも変わりはしない。
ただ願わくば、今よりももっとこの子に幸せが訪れればいい、と。そう思って、私はゆるりと微笑んだ。
















鋭く光る小刀を指に滑らせると、赤く浮き出た筋の先に小さな血溜まりが出来た。
そのまま指を伝って落ちていく血液は、紙に描かれた陣の中央に滴ると共に消えていく。
普通ならおよそ信じがたい光景をぼうっと見ていれば、不意に「珀姫ちゃん」と声がかけられた。


「そのくらいで充分や、もう止めとき」
「あら、もういいの? 随分と少ないのね」
「体液……それも血液なんて、力そのものとほぼ同じやからなあ。その点で言えば、妖怪が生き肝狙うんも、まあ道理に適っとるっちゃ適っとるかもしれへん」
「花開院家の当主がそんな事言うなんて、兄様に聞かれたら怒られちゃうわよ」


くすりと笑って言った言葉に、秀元もまた口角を上げながら肩を竦めた。
小刀の血を拭き取って秀元に渡し、代わりに受け取った布で指を止血する。
私は力のせいか、軽い傷程度なら比較的早く治る事が多い。この程度であれば、多分明日にはすっかり消えているだろう。


「それにしても初めて知ったわ、神通力が結界にも役立つだなんて」
「僕もこの間文献見とって初めて知ったんよ」
「あら、文献に?」


神通力なんて、持っている方が珍しい。それも昔の世なら尚のこと、そういった不思議な力は忌むべき物として隠匿されていただろうに。
それが文献に、だなんて。一体どこから情報を仕入れたのやら。花開院家の知識は広いと思っていたけれど、本当に際限がなさそうだ。


「でもよかったん? 珀姫ちゃん、陰陽術が嫌やって言いよったんに、結界作りに加わってもろうて」
「……これで最後、なんて言われたら断れないわよ。それに、もう今更じゃない。花開院に置かれてた理由そのものなんだから」
「ん……まあ、そやねえ。結界だけならともかく、陰陽術は最終的に物言うのは霊力やしなあ。その点、珀姫ちゃんは重大な戦力やから」
「惜しむらくは女である事――なんて、昔から御爺様達によく聞かされたわ。囲うだけ囲っといて文句言うなんて、今思えば随分な話よね」
「あはは、珀姫ちゃん言うようになったなあ。それもぬらちゃんの影響なん?」
「どうかしら。……でもまあ、踏ん切りは付いたかもね、色々」


一つ微笑んで、結界陣の描かれた紙に目を落とした。
私ではなく私の霊力を目当てに家に置かれているのは、幼い頃から何となく分かっていた。
嫁入りや奉公を目的として育てられている他の娘達とは異なり、私はしばしば結界作り等の場にも連れ出されることがあったから。
その度に突き刺さる数々の視線にだって、慣れてしまうほどに。
とはいえ、そういう場ですらも、女の身で陰陽師を名乗ることは許されていなかったけれど。


「ねえ、そんな事よりこの結界、次はどのくらい持つの?」
「本家の結界の強度は前と然程変わらへんよ。珀姫ちゃんの神通力が加わったことで、花開院家の治癒力なんかが上がることはあるかもしれへんけど」
「……じゃあ、また羽衣狐が復活したら?」
「そうならへんよう、いくつか策は考えとくから。ま、復活したらその時や。子孫が頑張ってくれるやろ」


……子孫、か。
花開院家の血を継いで、生まれてくる者達。彼等は一体どれほど強いのだろう。
歴代最強とまでいわれる秀元に匹敵する者は、いるのだろうか。
沸き上がった不安を、首を振って押さえつける。今の私がどれほど考えたところで、所詮遠い未来に干渉なんて出来やしないのだから。


「……秀元、もう一つ、聞きたい事があるのだけれど」
「んー? どないしたん?」
「羽衣狐があの時言っていた、呪いのこと。……検討は、ついているの?」
「んーん、ぜーんぜん」
「……………………」
「珀姫ちゃん、顔、顔。別嬪さんが台無しやで」
「誰のせいだと思ってるの」


はあ、と溜息を吐く。
秀元はどうにもあっけらかんとしているというか、飄々としているというか、つかみ所のないところがある。
もう十年以上こうして一緒にいるというのに、未だに彼の事が理解できそうにない。


「私の血が入った結界って言っても、呪いまで封じられる訳じゃないんでしょう?」
「そやねえ、珀姫ちゃんが直接力を使えば、もしかしたら呪いへの対抗力が強まるとも分からへんけど。もし代々受け継がれていくもんやったらそれも無理やしなあ」
「……命を奪う呪いって可能性は?」
「ないとは言えへんけど、それやったらすぐにでも発動するはずや。どんな呪いか確認しようにも、呪いが表に出てきいひんことにはどうも出来んよ」


呪いを確認する儀式については、私も以前文献を読んだことがある。
けれど秀元の言うとおり、その儀式は呪いが発動していなければ分からないものだ。今行っても意味がない。

ならば、他に何か対策は出来ないのだろうか。
出来ることなら呪いの発動を押さえるものがいい。それが無理なら呪いの効果を薄めるのだっていい。
少しでも効果があるなら、もう何にだって頼りたい。
だって彼等が呪われてしまったのは、私のせいでもあるのだから。


「珀姫ちゃん」
「何、秀元……っ!」
「あはは、ひっかかったー」


びし、と。顔を上げた瞬間、額に軽く走る衝撃。
鈍い痛みと、顔の前に構えられた手の形で、額を弾かれたことを知る。


「……ちょっと」
「言うたやろ、そんな顔しとったら別嬪さんが台無しやでーって。江戸に発つんももうそろそろやろ? あんま小難しいこと考えよったら婚儀までに額に皺出来てまうよ」
「こっ……そ、そんな事今関係ないでしょ!」
「いやいや、まあぬらちゃんは珀姫ちゃんがどんな顔になっても貰ってくれはるやろうけど、やっぱしかめっ面の奥方はあかんやろ」
「秀元!」


けらけらと笑う秀元に、顔が熱くなるのを感じながら睨みを飛ばす。
……まあ、是光兄様があれだけ言って聞かないのに、私が睨んだくらいでどうこうなるとも思えないけれど。


「そやから、珀姫ちゃんは呪いのことは何も気にせんでええ」
「!」
「今気にしてもどうしようもあらへんのやし、呪いのことは発動してから考えればええんや。花開院家のことは僕や兄さんが考えることやしな」
「それは……そう、だけれど」
「何か分かったら知らせたるさかい、それまで待っとき。……ま、どうしても不安やったら、ぬらちゃんにずっと抱きついとくって手もあるで?」
「な、っ……!」


顔にあからさまにおもしろがるような表情を浮かべて言う秀元は、やはり私の睨みなんて物ともしていないらしい。
それが神通力を使うという意味だと分かっているのに、茶化すように言われた言葉を受け流せない私も私ではあるのだが。


「……分かったわ。でも何かあったら絶対教えてね、約束よ?」
「はいはい、覚えとったらね」
「……」
「もー、だからそんな顔したらあかんって。分かった分かった、ホンマに心配性やなあ珀姫ちゃんは……諦めも時には肝心なんやでー?」
「別に、そういうつもりじゃないんだけど」


呆れた様にぼやく秀元に、もう一度溜息を吐いた。
花開院家を守護する結界作りに関して、私が出来ることは全て終えた。後は秀元が仕上げれば、新しい結界が完成するだろう。
これまでのものと然程強度が変わらないとはいえ、『四百年は妖怪が好き勝手出来ない仕掛け』なるものが無事に出来たならば、きっとこの結界も同じくらいは持つはずだ。つまりは花開院家が妖怪に攻撃される心配も、四百年は取り敢えずないと言っていい。
呪いについて心配することも早すぎると言われてしまったし、今のところ私が出来ることはやりきった、はずだ。

……念のため、書物を読み返しておこう、と思ったのも、心配性と言うほどではない……と、思う。多分。









































溶けそうな色をした夕日が、見慣れた山間に沈もうとしていた。
今まで数え切れないほど見てきた光景だというのに、もう二度と見ることが出来ないのだと思うと名残惜しく感じてしまう。
そんな気持ちを抱えたままぼんやりと眺めていると、不意に「珀姉様!」と声を掛けられた。


「珱姫、来てくれたのね。それに、兄様と秀元まで」
「出発が今日だとお聞きしたので、お二人にお願いして連れてきていただいたんです」


間に合って良かったと微笑む珱姫に、此方も頬を緩めて返した。
珱姫の後ろからは、是光兄様と秀元が着いてきている。事情を知っているのは花開院家の中ではこの二人だけとはいえ、二人とも見送りに来てくれるとは思わなかった。
勿論、二人が私のことを少なからず大切にしてくれているのは知っているけれど。それでも、特に是光兄様が、奴良組の妖怪達が多数集まる場所に来るだなんて。
京で一番大きな河の辺には、珍しく人気はほとんど無い。その代わりと言わんばかりに、見上げるほど大きな船が、大勢の妖怪達の後ろに浮かんでいた。


「おっきい船やなあ。これも奴良組の妖怪なん?」
「らしいわ。宝船っていうんですって」
「京までこれに乗ってきたのか……。今まで何処にいたんだか、全く気づかなかったな」
「姉様、妖様達はどこにいらっしゃるのですか?」
「今、丁度荷物の整頓をしてる途中よ。もうすぐ終わると思うけれど」


言いながら、目を向けた先。宝船のすぐ側に、大量の荷物が積み重なっている。
京で買った物もあるだろうが、半分以上は貰い物だと聞いた。羽衣狐を倒したということは、奴良組がこれから妖怪達の頂点に立つと言っても過言ではない。
そんな彼等に今からでも媚びを売っておこうという妖怪達が多いのは、不思議なことではないだろう。


「手伝おうかと言ったのだけれど、断られてしまったわ」
「そりゃあ、奥方にそんなことはさせられねえさ」
「!! ぬらりひょん貴様、馴れ馴れしく珀姫の肩を抱くな!」
「堅い事言うんじゃねえよ」


突然隣に現れたぬらりひょんに対し、是光兄様は苛立ちの声を上げている。
どうでもいいが私を挟んで喧嘩しないで欲しい。居たたまれない。
是光兄様は依然としてぬらりひょんのことを良くは思っていないらしい。当たり前といえば当たり前だ。
というか寧ろこれが普通で、私や秀元の方が異常なのだろう。それでも攻撃しないのは、せめてもの線引きかもしれない。


「まあまあ兄様、落ち着いて。折角見送りに来てくれたのでしょう、口論で終わらせてしまっては勿体ないわ」
「む、そ、そうだな。すまない珀姫」
「いいえ。……それにぬらりひょん、貴方も。あまり兄様をからかわないで頂戴」
「人聞き悪ぃな、別にからかっとりゃせんぞ。遊んどるだけじゃ」
「なっ!? この性悪妖怪め……!!」


再び口論を始めた二人へ呆れ眼を送っていると、不意に肩を叩かれる感触がした。
目を向けた先には、矢絣模様の風呂敷包みを抱えた秀元の姿。
先程までそんなもの持っていなかったはずなのに、どこから取り出したんだろう。


「これ持ってき、珀姫ちゃん」
「あら、なあに?」


首を傾げつつ受け取れば、どうやら中に入っているのは大きめの箱らしかった。
手触りと透けて見える色合いから察するに、多分漆塗りのものだろう。そう言えば秀元の部屋に似たものがいくつかあった気がする。
箱の中身までは分からなかったけれど、当主の部屋にあるのだから相応に貴重な物のはずだ。私が受け取っていいんだろうか。


「これは?」
「あ、まだ開けたらあかんで。大事な物なんやさかい、気ぃ付けて持ってってな」
「何が入ってるの?」
「んー……秘密や」
「え?」


首を傾げるも、秀元が笑みを崩すことはない。
何も彼に秘密にされるのは珍しいことではないけれど、態々私に持っていくよう告げたにも関わらず教えてくれないなんて。
勿論後から開けてしまうのは簡単だけれど、彼が言うからにはそれなりの訳があるはずだ。
訝しげに見つめ返すと、秀元はすっと目を開いて言った。


「この先珀姫ちゃんが、一人じゃどうにもならへんって事が起こるかもしれへん。その時だけ、最終手段として開けえな」
「どうにもならないって、どういう……」
「今はまだはっきりとは分からへん。けどまあ、備えとくに越したことあらへんしな」


この包みの中に何が入っているのか分かる時、私は何をしているのだろう。
そもそも、一人じゃ、という言葉の意味もよく分からない。ぬらりひょん達だっているだろうに。
秀元にはその答えが分かっているのだろうか。まだ来るかも分からない未来のことなのに、彼が言うと何故か不思議と予言のように聞こえてしまう。
包みを抱え直し、私はそっと頷きを返した。


「……分かったわ。ありがとう、秀元」


んー、と軽い声で落とされた返事は、きっと私に必要以上の不安を抱えさせないために努めてそうされたものだ。
呪いのことだって発動してから、なんて言っていた彼が態々備えをくれたことからも分かる。
思えば初めて会った時から秀元は過保護だった。実感する機会は、そう多くはなかったけれど。


「総大将ー! 珀姫様ー!」
「!」
「準備できやしたぜ!!」
「行きましょー!!」
「おう!」


呼ばれた名前に顔を上げ、もう一度三人に目を向ける。
兄様、秀元と順に視線を交わし、最後に珱姫に目を止めて。


「ねえ、珱姫。いつか、絶対にまた会いましょうね」
「はい……はい、姉様。必ず、また……!」
「それから……秀元様、是光様」
「!」
「今まで、本当にお世話になりました。御達者で」


そう言って、深々と頭を下げた。
途端に驚いた顔をする二人は、けれどすぐにふっと柔らかく微笑んで。
その何処か似通った表情に、血の繋がった兄弟なのだと改めて自覚した。


「行くか、珀姫」
「……ええ」


少しだけ後ろ髪を引かれる思いになりつつも、それを振り切るように前を向く。

船の向こうに見える空は懐かしい色をしていた。ぬらりひょんと初めて会った時の色だ。
日が沈んで空が暗くなり、次第に人ならざる者の時間がやってくる、丁度その境目の空。
その東の方に足を進めながら、私はそっと笑みを浮かべたのだった。
















「さっきのは何だったんじゃ?」


月明かりが船の甲板を煌々と照らす中、ぬらりひょんがそう口を開いた。
まだ夜は明けない。月の銀色の光は昼間ほど明るくはないけれど、普段より距離が近いせいで顔を認識するには十分だ。
さっきの、という彼の言葉に少し考えて、思い当たった。船に乗る前の挨拶のことだ。
最後だからと思っていつもと違う呼び方をしたのだった。そう言えば、ぬらりひょんの前ではああ呼んだのは初めてだったか。


「……ずっと昔はああ呼んでいたのよ、まだ私が小さかった頃のことだけれど」
「小さかった頃?」
「そう。元々私はあの家で暮らしていたわけじゃなかったから、あまりあの二人に会うこともなくて」


兄様はともかく、花開院家当主である秀元を呼び捨てにするなんて普通じゃ無礼だとして怒られてしまう。
現に先代の時はそうだった。当主様、と呼ぶよう父から強く言い聞かせられたことを今でも覚えている。
興味深そうな顔をしたぬらりひょんにくすりと笑って、話の続きを考える。
夜はまだ長く、眠気は未だに来ない。普段とは異なる状況下で何処か気持ちが浮ついていて、だからだろうか、昔の事をよく思い出す。


「私があの二人の従兄弟だって話は?」
「ああ、そういや秀元がそんな事を言っとったな」
「父は次男だったし、才能も伯父の方が上だったから、家を継ぐのは伯父の方だと昔から決まっていたんですって。それで、父は家を出て母を娶ったって聞いたわ」


伯父に劣るとは言え、父もそれなりの陰陽師ではあった。
それでもあの家で家督を継ぐのは力のある陰陽師だ。父が家を出たのにも、多分色々な葛藤があったんだろう。
花開院という苗字を捨てることはしなかったけれど、思い出せる限り、記憶の中で父が本家に行ったことは数えるほどしかない。


「でも私が産まれて何年か過ぎたころ、当時の当主が私を本家に迎え入れたの」
「態々か? 跡取りは秀元じゃろう?」
「跡取りとは関係ないわ。当主の目的は、私の力だったから」
「力……というとアレか、人の力を高めるとかいう……」
「神通力じゃなくて、霊力の方ね。当時はまだ私の神通力は発現してなかったし」


本家に入ってから、父と会うことは殆ど無かった。
母は花嫁修業のためによく来ていたけれど、それでも本家と私の生家を行き来していたから、父は相変わらず家で暮らしていたのだろう。
寂しいとは思わなかった。あまり構ってくれなかった父よりも、優しい是光兄様や秀元の方が好きだったから。
結局最後まで、あの人と会うことはなかった。連絡が行っているのかすら分からない。
あの人のことだ。本家に入った娘はもう自分の娘として認識しているのかすら危ういし、私のことなどとうに忘れてしまったかもしれないが。


「陰陽術の種類によっては、霊力の質や量にかなり出来映えが左右されるものもあるのよ。私は生まれつき霊力が高かったから、そういう術を使う時の霊力用に引き取られたんだと思うわ」
「ふうん。じゃがアンタ、確か陰陽師としては生きられねえって言ってたじゃねえか。それはどういう事じゃ?」
「ああ……何て言えばいいのかしら。……陰陽師って基本的な仕事としては、誰かに依頼を受けて妖怪退治をしたり、結界を張ったり、護衛したりするんだけど」


何となくぬらりひょんの方を向きづらくて、手遊びをするように指を動かしながら手すりに腕を乗せる。
妖怪の前で妖怪退治だ何だと言うのは気が引けるのだ。
多分、彼は気にしないだろうけれど。


「私は自分に危険が及んだ時だけ、陰陽術を行使することを許可されていたの。逆に言えば、例えどれほど親しい人が危険に晒されようと、自分から乗り込んで助けには行けないってことね」
「なんでまた」
「女だから」
「ん?」
「花開院家で後を継げるのは……つまり陰陽師になれるのは男子のみだって、引き取られて何年かした頃当主に言われたのよ」


事実上の戦力外通告。
人の霊力を使っておきながら随分と都合のいい話だ。今はそう思うけれど、当時はそういうものなのだと納得するしかなくて。
たまに兄様や秀元に見てもらいながら陰陽術の練習はしていた。でもそれだけだ。
秀元が十三代目の当主を継いだ後も、私が陰陽師として公に出ることはなかった。


「花開院家の昔の陰陽師に女はいなかったのか?」
「さあ、知らないわ。調べてみたこともない。だって昔にそういう人がいたとして、私が駄目だと言われたことには変わりないじゃない?」
「……良かったのか?」
「……あの頃は、それが当たり前だったのよ。当主の言うことは絶対で、逆らう方がおかしかった」


良いも悪いもない、私がどう思おうがそんな事は関係無いのだから。
秀元の前の当主様とは、あまり話したことはない。お忙しい人だった。
秀元ほど親しげな訳でもなく、話す機会も殆ど無い。有るとすればそれは、私の霊力を使って何か術を行使する時だけ。
嫌いではない。でも苦手だった。
幼い私の目線のはるか上にある顔はいつだって表情が読めなくて、霊力だけを目的に引き取った冷たい人かと思えば時々親のような眼差しを向けてきたりして。
思い出してみてもやっぱり、あの当主様が何を考えていたかなんて分かるはずもない。

ぼんやりとそんな事を考えていれば、不意に骨張った手が自らのそれに重ねられた。
驚いてぬらりひょんを見る。彼の眼差しは優しくて、図らずも胸が高鳴った気がした。


「アンタは怒るかもしれんがな、ワシは良かったと思っとるよ」
「え……?」
「もしアンタが陰陽師として生きてきたなら、これまでの人生で何一つ危険に晒されんかったとは言えんじゃろ? むしろ命が危なかった可能性すらある」
「……そ、れは、……まあ、そうだけれど。でも……」
「ああいや、説教するつもりじゃねえんだ。ただそうなったら、アンタと出会うこともなかったかもしれん。それは何と言うか……つまらんじゃろう?」


ふ、と笑ったぬらりひょんの顔は、どこかいつもより柔らかい。
静かに吹く夜風の中で、金の瞳が光っている。望月のようなそれに見つめられながら、私はそっと笑みを浮かべて目を伏せた。


「……そうね。そうかもしれないわね」
「じゃろう?」
「そうなったら一生花開院家で生きていたでしょうし、何よりもっと強かったでしょうから、貴方のことも出会った瞬間滅していたかもしれないわ」
「怖えこと言うのう。そうなったらワシはアンタにとって取るに足らない妖怪の一人で、すぐに忘れ去られちまうじゃろう?」
「ふふ。もしもの話よ。……ああでも、どうかしら」
「ん?」
「私は今まで倒してきた妖怪のこと、誰一人として忘れたことはないわ。……命を奪っておいて忘れるような人間になんて、なりたくないもの」


戦うことが間違いだとは思わない。そう思ってしまえば今度こそ、本当に私は花開院家を裏切ることになる。
花開院と私の考えの違いは一つだけ。全ての妖怪が滅する対象であるか否か、それだけだ。
昔は、というかぬらりひょんと関わるまでは私だってそうだったけれど。もしあの時ぬらりひょんが花開院家に侵入しなければ、きっと今だってそうだっただろう。


「アンタ、やっぱり変わってるのう」
「あら、貴方にだけは言われたくないわね」
「そうかい? じゃが陰陽師が妖怪を命として数えるのは、変わってると思わねえか?」
「……まあ、そうね。確かに前当主はそういう人だったわね」
「じゃろう? それが普通じゃ」


前の当主は倒したらそれで終わり、というような人だった。
別に冷血漢と言うわけではない。それでもそれがあの人にとっては普通だったのだ。
妖怪を殺す、といわずに倒す、というところも。私の中にだって、その流れは続いている。
妖怪の命の事を一々考えてしまえば、陰陽師なんてやっていられないから。ぬらりひょんの言う通り、それが普通で、当然なのだろう。


「でも貴方だって変わり者よ。花開院家に侵入だなんて、普通の妖怪なら絶対にしないもの」
「いいじゃねえか、似た者同士で。似合いの恋人じゃ」
「っ、……急にそういう事言わないで」
「何じゃ、照れとるのか?」
「ちょっ……もう!」


面白がって覗き込んでくるぬらりひょんの顔を腕で押しのけながら、赤くなった顔を隠すように必死で距離を取る。
ついさっきまでは戯れのように談笑していたのに、何かと言えばすぐからかってくる。
この先この人と生きていくのであれば、こういうことだって日常茶飯事になるのだろう。
慣れていけるかに自信はないけれど、今分かることは、これもきっと一つの幸せの形だということだ。







ふわりと洗濯物を広げれば、洗い立ての白い布地が陽の光で目映く輝いた。
布の柔らかい香りを運ぶように吹いた風が、髪を攫っていく。
清々しさに眼を細めていると、不意に後ろから声がかけられた。


「よくやるわね、アンタも。洗濯なんて、そこらの妖怪に押し付けとけばいいのに。奥方のする仕事じゃないでしょ」
「あら、そんな事ないわ。分担できるならそうした方が効率的じゃない」
「効率的かどうかで仕事するなんて変わってるわ。妾だったら絶対ふんぞり返ってるのに」
「ふふ。でも雪麗だって料理とか掃除とか、手伝ってくれるじゃない。戦闘に行く妖怪なんだから、普段は休んでて良いのに」
「アンタが働いてんのに休むなんてできないわよ」


雪麗とも、随分と仲良くなったように思う。
出会った時から然程感触は悪くなかった。それでも時を経て、関係は深まったのだ。
今ではすっかり軽口を叩いたり、たまにお茶をしたりする間柄だ。珱姫とは少し異なるが、これも友人と呼べる関係性だろう。
と、その時耳を翼がはためくような音が掠めた。
顔を上げれば見慣れた薄緑色の鳥が飛んでくる。手を伸ばすと鳥は軽く速度を落として指先に止まった。


「あ、式神。何だったっけ、ええっと……」
「飛梅。可愛いでしょう? 鶯の式神なの」
「ふうん。アンタの式神、殆ど動物なのね。ええと、�鵠gだっけ。アレだけじゃない、人型」
「……そうね、そう言えば」


良いながら、飛梅の持ってきた手紙を広げる。
噂をすればと言うところか、手紙は珱姫からで、彼女も随分引っ越し先に慣れたと綴られていた。
基本的に、私達の手紙のやりとりは式神を介している。今の時代、郵便物は長いこと待つ必要があるし、きちんと届くかも定かではない。
その点、式神に手紙を運ばせるやり方は失敗がない。最初は奴良組で式神を使うことに抵抗もあったけれど、周りが気にしないために此方も気を遣わなくなった。


「珱姫? あの子、なんだって?」
「引っ越し先に慣れたって。いい人達で良かったって書いてあるわ」
「あの子の場合は元の父親がアレだしねえ、良かったじゃん」
「まあ……、あ、でもまだ友人ができないって。周りに同年代の人がいなくて年上とばかり話してるんですって」
「田舎だからじゃない?」
「あら、江戸だって少し前は田舎だったって聞いてるけど?」
「そりゃあ京に比べればね。でも今は発展したし、便利になったわよ。徳川のおかげね」


私がぬらりひょん達と会った頃合いから、時代は目まぐるしく変化を遂げた。
羽衣狐扮する淀殿が亡くなったことは、まだ公には発表されていない。
恐らくだけれど、淀殿が死亡したとなれば一気に徳川の世になるからだろう。徳川と対抗する豊臣にとっては、今は少しの粗も隠したいのだ。
ましてや淀殿は秀吉の忘れ形見、秀頼の保護者でもあった。時代の混乱を避けるためにも、時期尚早という話なのだろう。


「友人か……。私も今度、珱姫のところに遊びに行こうかしら。それか、招待するのもいいわね」
「ああ、いいんじゃない? 妖怪でよければ紹介できるわよ。同年代って訳にはいかないけど」
「妖怪は見た目が若いから、珱姫も抵抗なく友達になれるかもしれないわね」
「それかアレよ、婚儀に招待するとか」
「っ!」


婚儀、という言葉にびくっと肩を揺らせば、隣から白い目が向けられる。
思わず苦笑いを浮かべながら雪麗の方に目をやるも、やれやれと言わんばかりに溜息を吐かれた。


「アンタさあ、いい加減慣れなよね。何の為に江戸に来たのさ。ぬらりひょんと結婚するためでしょ?」
「そ、それはそうだけれど……慣れるって言われても」
「大体、なんで妾がアンタをこういう風に叱りつけてんだか。普通逆でしょ」
「……逆は逆で嫌でしょうに」


確かに雪麗に遠慮している気持ちもなくはない。けれどそれ以上に、結婚という物が身近な気がして気恥ずかしいのだ。
ぬらりひょんと出会ったのだってまだそれほど昔の事じゃない。なのにもう結婚だなんて速度が速すぎる。
お見合いと比べればまだ慣れる時間はあった方だけれど、それにしたって。
嫌ではない。でも気恥ずかしい。こういう気持ちを何と言うのか、私にはまだ分からない。


「よし、決めた。アンタ絶対珱姫を呼びなさいよ」
「え? どうして?」
「珱姫の前じゃ格好つけるじゃない。そのまま婚儀やれば照れたりなんだりする暇なくなんでしょ」
「格好つけてるつもりはないんだけれど」
「よく言うわ。妾の前と珱姫の前とじゃかなり違うわよアンタ」
「ええ……」


それはそうだろう。だって珱姫は妹で雪麗は友達だ。
勿論、珱姫を友人の枠に当てはめることもできるけれど。でも私にとって、二人は少し違う。
そんな二人に対する態度が違うのもごく当たり前だろうに。


「なんていうのかしら、珱姫も私も兄弟っていなかったのよ。私の場合は兄様方がいたけれど、でも本当の兄弟ではないし」
「ん、ああ、従兄弟なんだっけ」
「そう。だから互いに姉妹のように思ってるからだと思うわ。珱姫は妹で雪麗は友達、……ああ、でも」
「? 何よ」
「奴良組は家族のようなものなんでしょう? なら私が奴良組に入るとしたら、貴女も家族になるのかしらね」


そう言って、ふふと微笑む。家族、なんて。良い響きだ。
母様以外に身近な女家族はいない。だからだろうか、少し嬉しかった。
雪麗が家族になるならなんだろう。母親、ではない。姉? 妹? それとも……ううん、何だって良いか。
関係性は重要でない。重要なのは関係があると言うことなのだから。


「……」
「雪麗? どうしたの、少し顔が赤いわ」
「……アンタ、何の前触れもなく小っ恥ずかしいこと言うわよね」
「え? ああ、照れてるの? 家族って言ったから?」
「うっさいわね、そんなんじゃないわ」


くすくすと笑うと、それを咎めるように睨まれる。
けれど赤い顔で睨まれたって怖くない。笑っていれば、とうとう実力行使に出ようとした雪麗が手を伸ばしてきた。


「わっ、ちょっとやだ、止めてよ」
「ふん、いつまでも笑ってんのが悪い!」
「もう……。いいじゃない、嬉しかったのよ」
「はあ? アンタってホント変」
「変って……素直じゃないんだから」
「アンタにだけは言われたくないわね」


軽口をたたき合いながら、再び顔をつきあわせて笑う。
笑い声に揺れる洗濯物の香りが、空へと吹き抜けていった。







「……雪麗の奴。ワシより珀姫と仲良くねえか?」
「女性同士ですからなあ」
「総大将、男の悋気は醜いぜ」
「うるせえ!」


後ろの居間で、ぬらりひょん達にそんな言葉を交わし合われていたなんてことは、知るよしもない。







抜けるような青空に、薄い色をした花びらが舞っている。
桜色のそれは可憐で儚げで、暫く会っていない妹姫のことを思い出した。
彼女は元気だろうか。手紙はくれるけれど会えはしないから、実際の様子までは分からない。
体をこわしてはいないか。親戚と何かもめ事を起こしてはいないか。そんな事をぼんやりと考えていれば、不意に視界の中にひょいと顔が飛び込んできた。


「何しとるんじゃ、珀姫」
「……ぬらりひょん」


驚きのあまり一拍遅れて声を出す。彼は特別返答を求めてはいなかったようで、よっこらせと声を出しながら隣へ座りこんだ。


「縁側で花見か? それは結構じゃが、如何せんまだ寒い。風邪を引くぞ」
「平気よ、そんな長いこといたわけじゃないから」
「そうか? アンタはわしらと違って弱いからのう。どうも勝手が分からん」
「弱い? 私が? そうかしら」
「アンタが、というよりは人間がじゃな。傷の治りも遅いし、生き肝を取られれば死んでしまうじゃろう」
「……私から見れば貴方達が強いだけなのだけれど」


傷の治りも早くて生き肝を取られても死ぬことはない。妖怪だから当たり前とは言え、彼等はやはり人間よりも格段に強い。
彼等から見ればそりゃあ私は弱いことだろう。私としてはこれが普通なのだけれど、ぬらりひょんを時々心配性と感じるのはその認識の違いのせいもあるかもしれない。


「総大将様ー、ぬらりひょん様ー!?」
「あら? ぬらりひょん、呼ばれているんじゃない?」
「ああ、ほっとけほっとけ。カラスの奴じゃ」
「それ、放っといていいの? 大事なことなんじゃなくて?」
「さっきまでは婚儀のことじゃったからワシも真剣じゃったが、その後の話は知らん。ここぞとばかりに余計な仕事を持って来る奴じゃ、ほっとけ」


婚儀。その言葉で私は、ふっと思い至った。
私とぬらりひょんとのそれは、私が思っていたより幾分か早く準備が進められている。この分だともうすぐ、初夏になる頃にはありそうだ。
取り寄せる着物の細かな色の違いや、場の飾り付け。私が話し合いに参加する分だけでも、しなければならないことはうんと多く感じるけれど、実際はその倍はあるらしい。
それを一手に引き受けてくれているのがぬらりひょんだ。彼自身も当事者であるから、引き受けるという言い方はおかしいかもしれないけれど、それでも負担してくれていることに変わりはない。
そうなると、今は彼の少しの休憩時間なのかも知れない。ならまあ、鴉天狗を態々呼ばなくてもいいか。


「よっと」
「っきゃ! な、ちょっとぬらりひょん……!」
「揺れるな珀姫、頭を打ちそうじゃ」
「あ、ご、ごめんなさい。……じゃなくて!」


ひょい、とぬらりひょんの頭が私の腿に乗る。所謂膝枕と言うあれだ。
別段重いとか、そういうことはない。……ないが、着物を通して感じる熱がくすぐったい。
特に普段人の熱なんて感じない場所だから、余計にだ。何と言うか、気恥ずかしい。


「何してるの貴方……」
「膝を借りとる」
「それは見れば分かるわよ、そうじゃなくって」
「いいじゃねえかちょっとくらい。……な?」


伸ばされた手がすり、と私の頬を撫でるように掠めた。
その触り方があまりにも柔らかくて、優しくて。……そして何処か、愛しげで。
かっと熱くなった頬を隠すようにふいとそっぽを向けば、くつくつとぬらりひょんが笑った。


「……何」
「いんや、何でも。ワシの女は可愛えなと思っただけじゃ」
「っ、……馬鹿じゃないの」


苦し紛れにそう言ってみても、ぬらりひょんは喉を鳴らして笑うだけだ。
軽く睨んでみても、赤い顔じゃ何の意味もなさない。分かっている。
ゆったりと吹く春風で熱を冷まそうと、私は顔を上げて再び桜を見つめた。


「……桜が好きかい?」
「そうね。珱姫を思い出すから」
「珱姫?」


ぬらりひょんは眠る間際の様な、緩やかな声で問いかけてきた。
それに返せば、更に不思議そうな声が返される。


「あの子は桜が綺麗な日に生まれたの。だから珱姫。着ている着物も桜柄でしょう?」
「んー……? そうじゃったか?」
「忘れちゃったの?」
「女子の着物の柄なんぞ一々覚えとらんからな……。ああ、珀姫は別じゃぞ、アンタは――むぐ」
「……そういうことは言わなくて良いの」


また何か恥ずかしいことを言いそうな気がして、私はぬらりひょんの口を塞いだ。
不満げな視線が注がれ、それを躱すように咳払いをしてから手を彼の頭へと持って行く。
ふわりと手に触れた髪の毛は思いの外艶やかで、手触りの良いそれに私は思わず手を動かした。


「珱姫か……どうする珀姫、珱姫も婚儀に呼ぶか?」
「呼んでいいの?」
「アンタが呼びたいならな。客人は傘下の妖怪達ばかりになる。流石に花開院を呼ぶわけにはいかんが、珱姫くらいならいいじゃろう」
「そう……そうね」


珱姫が来て、互いに驚いたりしないだろうかと少し考える。考えて、大丈夫だろうと頷いた。
だって珱姫は胆力がある。初対面の妖怪の中で一緒に遊んでいたような少女だ。きっと大丈夫。
問題は、と私はぬらりひょんに目をやった。


「貴方、私が花開院の出だってこと、本家以外の組の誰かに言った?」
「んや。言った方がいいか?」
「後々知って吃驚したりしないかしら。怯えられるのは好きじゃないのよ」
「んー……」


ぬらりひょんは考えるように目を伏せて、少し黙った。
珱姫が来るなら、私の事情も含めて予め話を通しておいた方が良い。
京に出向いた妖怪達は私のことを知っているけれど、それでも知らない者がいないとは限らないのだ。


「今知ったとしても後で知ったとしても、ある程度怯えられるのは仕方のないことじゃねえか?」
「……そう」
「勿論、アンタがワシ等を滅することはありえんと、今になっては分かるがな。ほれ、奴良組の宴に連れてった時だって、花開院の名を怖がる者はおったじゃろう」


それと同じじゃ、とぬらりひょんは言う。
確かにあの時もそうだった。私が陰陽師の力を持っている限り、彼等を不安にさせてしまうのは仕方のないことなのかもしれない。
滅するつもりなんてないけれど、花開院が妖怪を全て悪だと考えるように、妖怪も花開院は全て敵と認識していても無理はない。
予め言っておいても怖がられる可能性はあるが、後々知られた場合には何故隠していたのかという疑念がつきまとう。
どうしようかと考え込んだ時、まあ、とぬらりひょんが言った。


「聞かれたらでいいんじゃねえか。何も態々言いふらすほどのことじゃあるめえし」
「……どうして隠してたのか、って言われたりしない?」
「言われたらそん時に、お前が聞かなかったからだと答えりゃいい。そうすりゃ誰も何も言わんさ」
「えっ、……でもそれって、何て言うか……」
「……後ろめたいか?」


見通すような問いに、こくりと頷く。
秘密を作ると言うことだけでも何となく、悪いことをしているような気分になるというのに。それが陰陽師に関することだなんて。
いつかその秘密が知られてしまった時、何て言われるだろう。
……想像するだけで、背筋が震え、頭が真っ白になるほどの恐怖だった。

けれど、


「なあに、心配するな」


ふ、と柔らかく笑うぬらりひょんに、目を奪われた。
怖くてすくんでしまいそうなのに、その強張りから解放するような、優しい顔。
妖怪らしくない、総大将らしくないその顔は、けれどとってもぬらりひょんらしくって。


「何か言われたら、ワシが必ず守ってやるさ。言ったじゃろう、ずっと側にいると」
「ぬらりひょん……」
「それに、アンタの人柄を知っとる奴なら、アンタがワシ等の敵じゃねえってことくらい分かるに決まっとる」
「……そうかしら」
「そうじゃ」


だから、心配するなと。
そう繰り返すぬらりひょんに、知らず知らずの内に肩に入っていた力が抜ける。
彼の言うことは奇妙な説得力がある。信じられる、信じられないではなく、信じたいと思わせる力が。
だからだろうか。ぬらりひょんのその顔を見ていると、何だかとても安心するのだ。
それが彼も分かったのか、ぬらりひょんは一層笑みを深めた。


「それに、ワシとこんなことしとる奴が奴良組を潰そうなんぞ、考える奴はいないじゃろうしなー」
「!! こ、これは貴方が始めたことでしょう!! もう、いい加減退いて頂戴!」
「何じゃ、まだいいじゃろう? アンタの膝は心地が良いし、カラス天狗に見つかるまでは……」
「総大将!! ここにいらっしゃいましたか!!」
「げっ、カラス……」
「げっとは何ですかげっとは! 良いですか総大将、大将のお役目とは何も出入りだけではなくてですね!!」


肩を怒らせて言うカラス天狗に、眉を顰めて耳を塞ぐぬらりひょん。
なんだなんだと顔を出す小妖怪達に、騒がしいと怒る雪麗の声。
途端に賑やかになる縁側に、思わずくすりと笑みが漏れた。

もしいつか、私のことを知らない妖怪が増えたとしても、この賑やかさがずっと変わらなければ良いと切に願う。
そしてそれは、願わくば、私のことを知ったとしても変わらないで欲しいと。
そう、思うのだ。



「さあ、もたもたしている時間はないぞ! 後一刻もすれば、総大将と珀姫様との祝言が始まる! 抜かるなよ!」


かつてないほどに様々な妖怪達でごった返す厨房。
その上空を飛び回りながら、カラス天狗は指示を飛ばした。

奴良組が京で羽衣狐一派との激闘を繰り広げたのが、つい二月ほど前の事。
つまりは帰ってきた総大将が、京から連れ帰ってきたという人間の姫君を嫁にすると宣言した時からも、およそ二月が経過したと言うことである。
勿論奴良組の妖怪達の間では、総大将のその宣言に対して一騒動あったものの、最終的にはぬらりひょんの意見を尊重することに落ち着いた。

ということで、一同の考えがそこに着地すれば、次に奴良組がなすべきことは決まっていた。
ぬらりひょんと珀姫との婚儀。つまり、祝言である。


「ねえねえー、この籠の青物はどこに運ぶんだい?」
「杯が人数分足りないよー、在庫取ってきてー!」
「ちょっと、そんなとこに突っ立ってたら邪魔だよ! 退いた退いた!」
「ろくろ首様からのお祝い到着しましたー!」


彼方此方から聞こえる声で、厨は大騒ぎである。
互いが互いに負けじと声を張るものだから、騒ぎは一層大きくなる。誰も相手に配慮しようとか、そういう事は考えていない。
否、考えていられないのだ。
何せ時間がない、人手もない、物も足りない。ないないづくしで今日の奴良組は大変な騒ぎなのである。
なおこれは厨に限ったことではなく、奴良組本家のそこかしこで同様のことが行われていた。
祝言の後には宴会もあるし、宴会があるとなれば当然親戚筋の組の者達は揃って参加するし。
そうなれば何か不手際があっては本家の恥である。
ということで、奴良組は朝からてんてこ舞いなのであった。


「カラス天狗様、この山菜はどこに置きましょう?」
「おお、すまんな。それは竈の側に置いてくれ」
「カラス天狗様、この魚はどうしたらええ?」
「お、随分あるな。では、これはすぐに下ごしらえに回せ」


当然、世話役たるカラス天狗は引っ張りだこだ。
右に左に、物理的に引っ張られたりもしながら何とかその場を回していくが、如何せん彼とてこんな事態になるのは初めてのことである。
取り纏めるのは不得意ではないが、だからと言ってここまでの大役は務めたことがない。
……だがしかし、ここで投げ出すのは奴良組本家世話役の名が泣く。


「このカラス天狗、世話役の名にかけて、是が非でも本日の婚儀を成功させて見せましょう!!」


えっへんと胸を張る。大役を務めると言うことは、カラス天狗にとってはつまり誇りであった。
次から次に飛んでくる声にあれこれ指示を出しつつ、彼は懐から口上の書かれた紙を取り出した。


「えー、これより、奴良組総大将ぬらりひょん様と珀姫様の……んん、ちょっと声が高いか?」


理想としては牛鬼や一つ目くらい低く、渋めの声が適している。
カラス天狗も決して女子ほど声が高いわけではないけれど、それでも彼等に比べれば渋さは劣っていた。
かといって投げ出すのは奴良組本家世話役……以下略。
ともかく、今の声で納得いかないのなら、声を少し変えれば良いのだ。ごほんと一つ咳払いをし、カラス天狗は少し濁った声で試してみる。


「ご、ごれより、奴良組、ぞ、ぞうだいじょう……」
「……何そのダミ声。風邪でも引いたの?」
「わ!」


不意にかけられた声にびくりと振り返る。そこに立っていたのは雪麗だった。
この女いつの間に、と驚きながら、カラス天狗は何とか返事を返す。


「お、おお、雪麗か。いやその、ちと口上の練習をな」
「ふうん、忙しそうね」
「うむ、忙しくはあるが、やりがいもあるぞ。祝言の儀も宴席も粗相なく取り仕切り、流石は本家カラス天狗の世話よと、皆に言わしめたいからのう」
「あっそ。けど、そんなに頑張らなくても良いんじゃない? 粗相の一つや二つ、あった方が面白いと思うけど」
「これこれ、そういう滅多なことを言うもんじゃない」


窘めるカラス天狗に、雪麗はふんと鼻を鳴らす。
そしてつかつかと歩いてくると、雪麗はその勢いのままカラス天狗の持っていた髪をぱっと取り上げた。


「あ、これ!」
「……かたっくるしい文面。つまんないわよ、こんなんじゃ」
「む、そんな事はないぞ。伝統と格式を重んじるのが大切なのは、何も人の世に限った話では……」
「伝統と格式ばっかじゃ、ぬらりひょんや珀姫だって退屈しちゃうに決まってるじゃない。……そう言えばあの二人は?」


きょろきょろと辺りを見回す雪麗だが、当然今日の主役の二人は厨にはいない。
そう言えば朝から見かけてないわねと呟く雪麗に、カラス天狗は記憶を引っ張り出しながら答える。


「総大将は親戚筋の組からのお祝いを受け取っておられる。珀姫様は準備の最中じゃ。女性は何かと時間がかかるからな」
「へー。……そうだ、良い事考えた」
「ん? 良い事とは?」


にやりと笑みを作る雪麗に、カラス天狗は嫌な予感がして顔を近付ける。すると、


「うっ! 臭い! 雪麗、お主さては酒を飲んでいるな!?」
「あら、ばれちゃった? 良いじゃない、顔が赤くならない程度なんだし」
「量の問題ではない! 宴も始まらぬ準備のうちから酒を飲む奴があるか!」


雪麗が口を開けた瞬間香ってくる強烈な酒の匂いに、カラス天狗は鼻を押さえてしかめっ面になる。
雪女の特性上、雪麗は肌が白く、酒を飲むと顔の色に出やすい。それがいつも通りの色と言うことは、彼女が言うとおり量はないのだろう。
が、そういう問題ではない。カラス天狗は持って生まれた生真面目さでびしりと雪麗を制した。


「うっさいわねえ、今日は目出度い日なんでしょ。何ならアンタも飲む?」
「飲まぬ! ワシは今日の婚儀を成功させる責務があるのだ!」
「お堅い考えですこと。いいわよ別に、妾は珀姫の所に行ってくるから」
「な!! さてはさっきの良い事とはそれじゃな!? いかんぞ雪麗、あの方は大事な……」
「……大事な? 大事な、何よ?」


雪麗は進めていた足を止め、カラス天狗の言葉にくるりと振り返った。
その声色に、カラス天狗は思わず動きを止める。
そろそろと目線を合わせれば、雪麗の雪女の名に相応しい極寒の瞳が、カラス天狗を射貫いていた。


「あの子は大事な花嫁様で? 恋に破れた雪女は、漬け物石でも抱いてなさいって言いたいの?」
「う、そこまでは言うておらんじゃろうが。……全く悪い酒じゃ」
「……なんですって?」


ピキリと雪麗の眉間に皺が寄る。
カラス天狗は思わず漏れた言葉を押さえるように口を塞いだが、時既に遅し、覆水盆に返らず。
雪麗がすうう、と深く息を吸い込んだと思った時には、もう手遅れであり。

その場には一体の、それはそれは見事な雪像が出来上がったのであった。








「ああもう放しなさいよ! あの子にちょっと挨拶するだけよ!」


腰に一人、両足に二人ずつ、雪麗の体には、カラス天狗から彼女を止めるよう言いつけられた妖怪達ががっしりとしがみついていた。
雪麗の怒鳴り声を受けても、彼等は手を放そうとしない。雪麗は怖いが進ませるともっと怖いのだ。
けれど肉体的には然程強くないはずの雪麗だが、意地があるのか重りを付けていることを感じさせないままずんずんと進んでいく。引きずられる妖怪が哀れな声を上げた。


「お待ち下さい雪麗様〜〜!!」
「お止め下さいー!! どうかー!!」
「だぁからちょっと挨拶するだけっつってんでしょ!!」


妖怪の懇願を気に止めないまま、雪麗はとうとう花嫁の待機する部屋の襖に手をかけた。


「珀姫、ちょっと――」


と、そこで言葉は途切れ、しんとした沈黙がその場に走った。
突然大人しくなった雪麗に、しがみついていた妖怪達が恐る恐る顔を上げる。
だが彼等もまた、部屋の中を見た瞬間動きを止める。
ずるりと彼等の手が、雪麗の体からずり落ちた。

――そこにいたのは、目を疑うほど美しい人間だった。

真っ白な白無垢は、同じく白い糸で藤と牡丹の細かな刺繍が施されている。
光に反射する掛下と半襟との間に、差し色のように紅の伊達袴の姿が見えていた。
その紅に惹かれるように目線を上に持って行けば、綿帽子の下から同じく紅の口紅が覗いており。
うっすらと白粉をはたいた肌の上に、伏し目がちな、けれど此方を圧倒させるほどの引力を持った瞳が存在している。
その瞳と視線がかち合ってしまえば、後はもう口をあんぐり開けたまま眺めるしか、できることは残されていなかった。

……これは本当に人間か。妖か何かに騙されていると言った方がまだ分かる。
珀姫は天下一の美姫と噂され、天女も羨む美貌と伝えられていたと聞く。天女なんぞ見たことはないが、それでも断言できる。
彼女ほど美しい存在は、この世界のどこにもいるはずが無いと。
最早呪われてこの姿になったと言われても納得できそうな程、その女の美しさはあまりにも桁外れだった。


「……雪麗?」


ゆるりと開いた口に名を呼ばれ、雪麗ははっと我に返る。
訝しげに此方を見つめる瞳から目が離せないまま、何とか口を動かし返事を出す。


「……っ、珀姫、……アンタ……」
「どうしたの? ……もしかして、何かおかしなところがあった?」
「や、……いや、そうじゃないわ。そうじゃ、なくて……」
「……?」


駄目だ、頭が回らない。
見られている体が震える。言葉を絞りだそうとした喉が締まる。
目を合わせるのですら困難になって、雪麗は何とかしっかりしようと取り敢えず頬の辺りに目をやりながら己を叱咤する。
しっかりしなさい、こんな事で呆けるなんてらしくなさすぎるでしょ!
珀姫は珀姫じゃない、そりゃあちょっと化粧や衣装が普段と違うけど、でもそれだけでしょ。
何か別の物に取って代わったわけじゃないし、それに――


「雪麗?」
「うっ……! ……ちょ、ちょっと待って」


ぱち、と目が合ってしまって雪麗は思わず胸を押さえた。
何この苦しさ。見てはいけない物を見てしまった気分。
立て直すべく雪麗は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。


「……大丈夫?」
「……平気、平気よ。……よし!」


カッと目を開ける。覚悟して見た目の前の姫君は、相も変わらず魂消るほど美しかったが、幾分か時間を置いたおかげで何とかなりそうだった。


「ふう……。待たせたわね」
「それは構わないけれど、本当に平気? 具合でも悪いんじゃなくって?」
「大丈夫よ。ただちょっと、予想外だったもんだから」
「? ……そう」


ふう、と息をついた珀姫に、雪麗はきょとんとした顔を向けた。
そう言えば今日の珀姫は何処か大人しい気がする。元々年甲斐もなくはしゃぐような性格では無いとは言え、本来はもっと元気だったはず。
思えば僅かに顔色も悪い、様な。何かあったのだろうかと、雪麗は口を開いた。


「珀姫、アンタちょっと体調悪いんじゃないの?」
「え、……そう?」
「顔色も悪いしアンタらしくなく大人しいわ。何かあった?」


珀姫は雪麗のその問いに、そっと白い手を顔に持っていった。
手と比べればやはり顔色の悪さは一目瞭然。どうしたのかと再度聞けば、珀姫は言い辛そうに目を向けた。


「その、……昨日、あまり眠れなくて」
「眠れない? 何でまた」
「どうにも、今日が婚儀だって思うと……。緊張してるみたいで」
「緊張〜〜?」


貧弱な、と言いそうになるのを、雪麗はすんでの所で堪えた。
羽衣狐に攫われて殺されかけるなんていう経験をしておきながら、しかも人質状態で啖呵を切っておきながら、婚儀程度で緊張とは。
どうにも人間の感覚はよく分からない、と溜息が出る。


「何をそんな緊張することがあるってのよ。花嫁のやることと言えば、花道歩いて座って、後は杯交わすだけでしょ」
「それはそうだけど……。だって聞こえるでしょう、あの声」
「声?」
「奴良組と関係のある組の妖怪達が勢揃いしている声よ。あんなに沢山の妖怪達が集まる中で、万が一何かやらかしでもしたら……」
「アンタねえ……」


起こっていないことを一々考えてもしょうがない、と雪麗は思う。
けれどそれが人間の可愛らしい所なのだろうか? 少なくともぬらりひょんはそう思ったのだろうか?
奴良組の奥方になる人間だ、細かいことに怖じ気ついてちゃ務まらないと思うけれど。
それでも気の合わない仲じゃない。何とか励ましてやろうと考えたところで、いつの間にか閉じられていた襖がスッと開いた。


「珀姫様、失礼致します。お客様がご到着なさいました」
「お客様? どなたかしら」
「はい、江戸の北部よりお越しの、」
「珀姉様!」
「!」


澄んだ空の様な声音が、静かな部屋に反響した。
伏せ気味だった珀姫の瞳が、一気に見開かれる。それと同時に、雪麗はくるりと振り返った。


「珱姫!」
「珀姉様、お久し振りでございます! お会いするのを、一日千秋の思いで待っておりました!」


そこにいたのは、珀姫の友人――珱姫だった。
いつもは下ろしている艶やかな黒髪を桜色の布で束ね、同じ色の着物を身に纏っている。
くりくりとしたつぶらな瞳は嬉しそうに細められ、頬にもほんのりと柔らかな色が乗っていた。


「雪麗様も、お久し振りでございます」
「珱姫じゃない。間に合ったのね」
「はい、何とか。それにしても、」


珱姫は頭を下げ雪麗への挨拶を述べると、それもそこそこに、珀姫へと目を移した。


「珀姉様、本当に、本当にお美しいです……! この度はご結婚、誠におめでとうございます……!!」
「珱姫……ふふ、ありがとう。もっと近くに来てくれるかしら、顔を見たいわ」
「はい! 失礼致します」


目を潤ませて感動した様子の珱姫は、その顔のままそっと珀姫の元へ近寄った。
珀姫の白い手が、珱姫の頬へと伸ばされる。すり、と頬を撫でた手をくすぐったそうに受けながら、珱姫はふふと笑った。


「珱姫、元気にしていた? 向こうで何か困ったことはない?」
「はい、私はとても元気でした。親戚の方々もとてもよくして下さって」
「それは良かったわ。最近は何をしているの?」
「稼業の手伝いを。最初はなかなか慣れなかったのですが、続けるうちに段々とできるようになってきました」
「そう、頑張っているのね」


きゃっきゃっと楽しそうに会話する二人は、まるで本物の姉妹のようだった。
系統は違えど美しい顔が二つ並ぶ様子に、その場にいた妖怪達もうっとりとした顔で見つめている。
緊張していたらしい珀姫も笑みを浮かべており、その姿に雪麗はほっと息をついた。
と、その時、


「失礼致します」


襖が静かに開けられ、女妖怪の一人が顔を出した。


「珱姫様、客席の用意が整いましてございます。ご準備の方をお願い致します」
「分かりました、ありがとうございます」
「あら、もうそんな時間? 早いのね」
「私が来る時にはもう、丁度日が沈みかけていましたから」


そう言うと、珱姫はにこりと笑って立ち上がった。


「それでは姉様、私はそろそろ向かおうと思います。婚儀、楽しみにしておりますね」
「分かったわ。また後でね、珱姫」
「はい姉様。失礼します」


珱姫は丁寧に頭を下げ、その後雪麗にも一礼すると、案内の妖怪の後を追って部屋を出て行った。
礼節をわきまえた姫君だ、と雪麗は思う。父親は随分な人間だと聞いていたが、教育はしっかり施されていたらしい。
あの分だと珱姫自身の婚儀もそう遠くはないなと考えつつ、雪麗は珀姫に向き直った。


「ん、顔色良くなったわね。珱姫が効いたかしら」
「効いたって、薬じゃないんだから。……でもまあ、そうね。珱姫のおかげだわ」


ふふ、と珀姫が小さく笑う。
その顔からは先程の蒼白さは失われており、雪麗は笑みを返した。
励ましてやろうと思っていた目論見が外れたことに、ほんの少しの悔しさを覚えたけれど。
それを出すべきは今じゃないと、心の中に押し込んで。


「さ、珀姫も。客席の準備ができたってことはもうそう遠くないうちに花嫁も呼ばれるわよ。準備はいい?」
「……ええ。まだ少し緊張するけど、緊張したってどうにもならないものね。腹をくくるわ」


握り拳を作ってよし、と意気込む珀姫に、雪麗は微笑んで。
自分も準備をしようと、そっとその場を離れたのだった。





西の空が赤く染まり、やがてその色が段々と薄れてくる。
赤から紫、そして紺へと空が移り変わり、奴良組の屋敷もまた静かに宵闇に沈む。

祝言の儀の、始まりを告げる時が訪れていた。


舞台となるのは奴良組の屋敷の大広間。
普段は皆が食事をしたり、宴で盛り上がったりするその場所が、今はがらりと荘厳な場所に姿を変えていた。

つい先日、婚儀のために張り替えられた真新しい色合いの畳。その上に道を作るようにして長い真っ赤な布が敷かれ、それを辿った先にある上座には、花婿と花嫁の席が用意されている。
脇には世話役のカラス天狗を始め、雪麗や牛鬼など奴良組の妖怪達と、珱姫含めた参列者が正装にて勢揃いしており、隠してはいるが今か今かと期待を胸に入り口に主役の登場を待ち構えていた。
参加者達の目を惹く床の間には、掛け軸や鶴亀の置物が飾られており、壁や障子は真白の布で覆われた上に紅白の花々で彩られている。
全てぬらりひょんが一から計画し、取りはからった物だ。
見事としか言いようのないその会場に、訪れた招待客達は皆口々にぬらりひょんを褒め称えた。


舞台は整った。開始の刻限である。

始めに口を開いたのは、世話役のカラス天狗だった。


「――鬼火」


その声に呼応するように、花道の両側に一斉に灯りが灯る。
それらは燭台や行燈ではない。等間隔に浮かんでいる、鬼火達であった。
ゆらゆらと微かに揺れるその明かりが、参列者達の影を白地の布に波打たせている。

それを合図に、皆が待ちに待った主役が登場した。
まず現れたのは、総大将のぬらりひょんである。
いつもなら着流しに羽織という、色男ながらゆったりとした格好の彼も、婚儀の時ばかりは紋服に替わっていた。
かっちりと着込まれた黒の紋服が、ぬらりひょんの鋭い瞳を引き立たせる。参列していた妖怪達が、ほう、と息を漏らした。
彼が進むのは、花道から向かって右側。花婿の席である。
周囲の注目を一身に集めながら、けれど彼は微塵も臆した様子を見せない。寧ろ歓迎だと言わんばかりにうっすらと笑みを浮かべて歩いて行く。
そのままふわりと腰を下ろし、ぬらりひょんは今自身が歩いてきた花道をじっと見つめた。
主役は彼だ。けれど彼だけではない。
もう一人、この場の主役となるべき人物が残っていた。

聞こえてきたのは、先程の物より静かで軽い足音。
それに導かれるようにして、闇の中からぼうっと白い影が現れる。
その姿に、誰かが息を飲む音がした。
一点の穢れもない白無垢。それは生家の娘としての人生を終え、婚家の嫁として新たに生まれ変わるという宣言の証。
静々と進む綿帽子の下、僅かに覗くのは、着物に負けず劣らずの真っ白な肌。
その中に浮かぶ真っ直ぐな口紅と伏せがちな瞳は、参列者が思わず息を忘れてしまうほどの美しさだった。
巫女や仲人の先導はない。当然だ、彼女は一人で京からやってきたのだから。
この場に彼女の身内は珱姫ただ一人。それでも珀姫は決して歩みを止めることなく、花嫁の席へと歩いて行く。
凛としたその姿は正に、天下一の美姫に相応しい。誰一人として目を逸らさないその中で、けれど彼女以外に誰一人として身動きすらもとれることのないまま。
花嫁は花婿の隣に、静かに座を占める。

役者が全て出揃った。
主役両名の姿から、名残惜しそうに目を離し、カラス天狗が厳かに告げる。


「――ではこれより、奴良組総大将ぬらりひょん様と珀姫様の、婚礼の儀を執り行いたいと存じます」


音は僅かに誰かの呼吸音が聞こえるのみ。皆主役の二人に見とれたまま、殆ど動くことすらできない。しわぶき一つすら上がらない厳粛な空気の中、カラス天狗が進行を努める。
まず行われたのは、本日最も重要と言っても過言ではない、夫婦固めの杯の儀である。
白木の台に大中小、三種類の盃と銚子が置かれた物が運ばれてきた。運び役の妖怪がそっと下がったのを合図に、カラス天狗が神酒を杯に注ぐ。
カラス天狗から盃を渡されたぬらりひょんは三度口に運び、それが終わると珀姫も同様に盃を口へと持って行った。
小、中、大と三種類、交互に運び終わると、最後に大の盃に口を付けた珀姫がそっと台にそれを戻す。

そのまま姿勢を正す際のほんの一瞬、花婿と花嫁はふっと視線を交わし合った。
珀姫が柔らかく白粉の下の頬を染め、それを隠すように面を伏せる。総大将はその様を見てから、正面へと向き直った。
その口元にうっすらと笑みが浮かんだ瞬間、座の雰囲気の中に仄かな安堵感が漂ったのを、カラス天狗は感じていた。
人と妖。更に言うなら、陰陽師の娘と妖怪の総大将。
本来であれば結ばれることのなかった二人が、こうして盃を交わす様は、何百年と生きる妖怪の世界でも非常に珍しい。
けれどそれを物見高い気持ちで眺める者は一人もいない。そこにあったのは、人と人との婚姻、あるいは妖怪同士の婚姻の儀と同様に、幸せな二人を心から祝福する気持ちだった。
この場にいる誰もが感じたその気持ちが一体となり、広間に安堵感として漂ったのだ。


「それでは、ぬらりひょん様。盃事も滞りなく終わりましたので、ここで花婿の誓いのお言葉を頂きとう存じます」


告げられたぬらりひょんが、静かに顎を引く。それと同時に、綿帽子の下で、珀姫が僅かに目を見開いた。
けれどこの空気の中、彼女が動くことはなく。背筋を伸ばしたぬらりひょんに、珀姫もまたそっと姿勢を正した、その時だった。


「――奴良組のご一党さんよ、邪魔するぜぇ!!」


厳粛な空気だった広間に、無粋な声が入りこんだ。





婚儀の広場に入りこんできたのは、筋骨隆々な鬼を先頭にした、数十名の妖怪の集団だった。
それまでの荘厳な雰囲気に似合わぬ野蛮さは、あまりにも突然で。
ぬらりひょんが咄嗟に私を庇うようにして、体を盾にするように前に出したのが分かった。


「何奴じゃ。ここが何処であるか、今日がどういう日か知っての狼藉か」
「大将の祝言やってんだろう。知っててぶち壊しに来たんだよ!」


カラス天狗のいきり立った声に、先頭の鬼が野太い声で怒鳴り返す。
この祝言の場に刀を持ち込むのは憚られたのか、普段ならカラス天狗が手にしているはずの錫杖も今はない。
それは彼に限ったことではなく、他の牛鬼や狒々を始めとした組員達も皆、同様に獲物のない状態である。
妖怪の彼等が祝言の場を慮ってくれたのはありがたいが、今の状況ではそれは悪手だった。


「何が魑魅魍魎の主だ! 粋がるんじゃねえぜ! てめえらを潰して、今日から俺達が主だ!!」


そう叫んだ先頭の鬼は、けれど数十の妖怪を引き連れながらも、大将という風格ではなかった。
想像するに、多分彼等は何処にも属していない荒くれ者の集まりだ。奴良組襲撃という、取り敢えずの目的で集まったのだろう。
先頭の鬼だって、多分組長というわけではなく、押しが強く体格も良いから前に出されたのではないだろうか。
そんな事を考えていれば、視界の端でゆらりと誰かが立ち上がったのが分かった。


「上等じゃねえか、このハンチク共が」


凄みのある声にぎょろりとした瞳。幹部の一人、一つ目だ。
今は腰の武器だけでなく煙管すら離れた所に置いてあるようだが、どうやら奴良組を虚仮にする言葉を聞いて黙っていられるほど大人しくはなかったらしい。


「奴良組の祝言を、その汚え足で踏み荒らしたんだ。代償は高えからな」
「ほざいてろ。てめえら全員ぶっ殺して、屋敷ごと俺達のもんにしてやるぜ。……お?」


一つ目に向かって野次を飛ばしていた先頭の鬼が、視線を不意に此方に向ける。
ぬらりひょんの肩越しに見えたその顔は酷くあくどくて、思わず眉を顰めてしまう。
けれどそんな反応をものともせず、鬼はあんぐりと口を開けた。


「……う、美しい……まさかその女が嫁さんか?」
「……だったら何だってんだ」
「……野郎共!! ついでにあの嫁も頂くぜ!! あんな美しい女がいれば、俺の名はますます知れ渡る……! げっへっへ、あだっ!!」


不躾な視線に、品のない笑い声。
その様にぬらりひょんの空気がゆらりと揺らいだけれど、鬼の顔面に飛んで行ったのは大きな氷の塊だった。


「能書きはいいからさあ、とっととかかっといでよ」


挑発するように薄く笑った雪麗だが、その瞳は底冷えするほど恐ろしく光っている。
庇ってくれたのだと思うから、感謝しなければいけない。……いけないけれど、でもその行為は火に油を注ぐものとして作用したらしい。
屈辱で顔を赤くした鬼が、「ぶっ殺すぞ!」と叫びながら、巨大な岩のような拳を振り上げる。
それを受け止めたのは一つ目で、鬼と同じくらいかそれ以上の体格はやや有利に働いていた。


「おい、カラス天狗よ。この喧嘩、まさかお前止めたりしねえよなあ?」
「止めるわけがなかろう。世話役は、喧嘩の世話もその仕事のうちじゃ。さあ、無粋な連中に存分に仕置きしてやろうぞ!!」


その一言を合図に、双方が歓声を上げてどっと動き出した。








大広間は瞬く間に修羅場と化した。
彼方を見ても此方を見ても、あるのは奴良組と狼藉者達の大乱闘ばかり。
おまけに誰かが刀を持っていたらしい、時折銀色の光が視界の端にちらつくのが分かる。
珱姫は、と咄嗟に探すと、部屋の隅の方で小さくなって隠れていた。乱暴なことには慣れていないのだろう、僅かに震えているようにも見える。
念のため珱姫の前に頑丈に結界を張ってから、私は前に塞がったままのぬらりひょんへと口を開いた。


「ねえぬらりひょん、このままじゃ危ないわ、どうにかしないと……!」
「くくっ、賑やかな祝言で結構じゃねえか」
「は、そ、そんなこと言ってる場合じゃ……」
「珱姫は端にいるし、アンタにはワシがいる。危害は加えられんさ」
「私達だけのことじゃないわ、戦いに慣れてない妖怪だっているでしょう!」
「なあに、あいつらとて妖怪、何とかするじゃろう」


何を言っても飄々とした様子で、一向に取りなしてくれそうな様子を見せない。
襖は蹴破られ、壁に掛けられていた布は切り裂かれ、先程までの厳粛な空気は跡形もなく散らされているというのに。


「のう珀姫よ、堅苦しい祝言はさっきまでで仕舞いじゃ。後はもう、この座興をアンタも楽しめばいい」
「な、何言って……!」


冗談かと思うほど軽い口調で言うぬらりひょんは、やはりこの状況を真剣には考えていないらしい。
見れば他の奴良組の妖怪達も、罵声や怒号が飛び交ってはいるが、何処か楽しげだ。妖怪にとってはこの騒ぎも、一種の余興なのだろうか。
そう言えば羽衣狐も奴良組との戦いをそう捉えていたし、彼等の価値観はやはり人間のそれとは違うのかもしれない。

……でも、だからって。
折角の婚儀がこんなに目茶苦茶にされて、それでも何も思わないのだろうか。
それとも、こういう時にもどっしり構えているのが、総大将の器というものなのだろうか。


「ひゃっは〜!! 嫁っ子は頂きだぜ〜!!」
「させるか」
「げふっ!!」


此方に向かってきた妖怪に、すかさずぬらりひょんが一撃をたたき込む。
倒れ込んだ妖怪だったけれど、どうやらその攻撃で敵方も此方を相手として認識したようで。
奴良組の妖怪達の手をすり抜けて此方に走る妖怪達が二匹、三匹と増えていく。
「アンタは下がってな」と私に言うと、ぬらりひょんは今し方倒したばかりの妖怪の手から刀を抜き取り、止める間もなく戦闘へと乱入していった。
ちらりと見えた横顔はやけに楽しそうで、私は思わず溜息をつきそうになるのを堪えつつ、珱姫の元へと足を進めた。


「珱姫、」
「! 珀姉様! ご無事で……!」
「何とかね……。貴女は? 何処も怪我してない?」
「はい、私は……。姉様ですよね、結界を張って下さったのは?」
「ええ、まあね」


頼りなさげに浮かぶ両の手を握れば、珱姫は少しだけ落ち着いたように安堵の息を吐いた。
先程ぬらりひょんがしてくれたように彼女を体で庇いつつ、戦況を伺う。
乱入してきた妖怪達は、依然として数が多いままだ。奴良組の戦闘力と彼等の力が比べものになるとは思っていないけれど、今は丸腰の妖怪も多い。
おまけにどうやらこの状況を楽しんでいるようだし、数が減っていなくても無理はないだろう。
婚儀のことを考えれば止めるべきなのだろうが、如何せん楽しげなのを邪魔するのは頂けない。
どうしたものかと考えた時、「うわっ!」と叫び声が聞こえた。


「!」
「珀姫様ぁ、治してくだされ〜!」


転がり込んできたのは、奴良組で本家勤めの小妖怪だ。確か京での戦いにも来ていたはず。
見ればその小さな腕がぱっくりと開き、血が流れている。然程深い物ではなさそうだが、刀傷だろうか。
思わず手を伸ばすと、それを皮切りに、大小様々な妖怪達が此方へと走ってきた。


「珀姫様、ワシもお願いしますだ〜!」
「オラもオラも!」
「あたしも頼みます〜、さっきしくじっちゃって」
「え、ええ……!?」


わらわらとなだれ込むように走ってくる妖怪達は、傷の種類に差はあれど、皆何処かを怪我しているらしい。
流石に怪我したままでは忍びなく、怪我の重い者から治療しようとするけれど、一人終わればいつの間にか三人増えており、一向に終わる気配がしない。
おまけにどうやらどさくさに紛れて敵方の妖怪達も並んでいるらしく、このままじゃどうにもならないと珱姫に助力を頼もうとした時だった。


「っぎゃあ!」
「!?」
「う、うう……っ!!」


倒れるようにして眼前に出てきた妖怪は、一番最初に治療したはずの小妖怪だった。
治っていたはずの腕に、先程よりも大きな傷をこしらえており、しかもそれなりに深いのか、血をだくだくと流している。
真新しい畳に染み込む血は決して少なくなく、人間であればすぐに手当てが必要な傷だった。


「貴方……!」
「珀姫様、どうか治療を〜!!」


その手が伸ばされた時、縋るようなその瞳に、頭の中で何かが切れた気がした。


「………………ふ、」
「……珀姫様?」
「……ふふ、ふふふ……っ」
「ね、姉様……?」


ああ、これは本当に深い。痛いだろう。
早く治してあげなければ、と思うけれど、その一方でふつふつと煮えたぎる怒りがあった。
そっと手を差し伸べて傷を治療すれば、小妖怪の怪我はあっという間に消えて。
ただならぬ雰囲気を察知したのか、「ありがとうございましたー……」と囁くような声で言いながら去って行こうとする小妖怪。
けれどそうはさせないと、私は静かに構えをとった。


「結界!!」
「な!?」
「うわあ!?」
「何だ!?」


叫んだ瞬間、小妖怪含め、奴良組も敵方も関係なく一斉に動きを止めた。
刀を構えた姿で、あるいは術を行使している姿で、ぴくりとも動かず静止している。
……なんて簡単なんだろう。最初からこうしておけば良かった。
沢山の妖怪が集まる場で何かやらかしでもしたら、なんて。
そんな事を恐れながら終われるほど、妖怪との婚儀は簡単なものではなかったのに。


「お、おい……珀姫?」


恐る恐るという様子で声を掛けてきたぬらりひょんに、にっこりと微笑んで。
私はようやっと、口を開いた。


「本当に妖怪というものは常識を越えてくるのねえ、驚いたわ」
「え……?」
「怪我をしても治ればすぐに戦いに戻るなんて、勇敢だこと。私にはとても考えられないわ」
「へ、へへ……?」
「そうですかい……?」


困惑していた妖怪達が、私の言葉に照れたように笑う。
ただ一人、視界の端に移る珱姫だけが、何かを恐れたようにちらちらと此方を伺っていた。


「ええ、本当に。襖は蹴破られ、布は切り裂かれ……ここまでしてもまだ暴れ足りないのかしら」
「…………へ」
「いくら敵方が攻めてきたとはいえ、こうまでして応戦せずとも、貴方達なら鎮められたのではなくって? それをまあ、随分と楽しげに戦うものね」
「…………ぁ、う……」


言葉の端々に怒りを滲ませながら言えば、妖怪達はどうやら私が素直に褒めているのではないらしいと気付いたようだった。

私が怒っているのは、一に婚儀を目茶苦茶にされたことがあるが、二に彼等がそれに対して微塵も罪悪感を感じていないこともあった。
泣きつくような顔で怪我の治療をしてもらいに来たかと思えば、痛みなんか欠片も覚えていないようなけろりとした顔で帰って行く。
妖怪だし、多少怪我を負ったところで、そうそう死ぬわけではない。けれどだからと言って、此方が治療するのをさも当然という顔で受け入れられては困る。
彼等が婚儀を踏み倒し、楽しく喧嘩をするために、私や珱姫がいるわけではないというのに。


「あ〜……その、何だ。珀姫……」
「ぬらりひょん、一番問題なのは貴方なのよ」
「は、」
「今日は私と、貴方の婚儀でしょう。それなのに戦いを止めもせず眺め、あまつさえ嬉々として参加していくなんて。……その自覚はお有り?」
「ぐっ……」


何かが刺さったような顔をしたぬらりひょんを、さも呆れたという視線で眺めれば、彼は気まずそうに目を逸らした。
けれど本当のことだ。本来なら彼は婚儀の主役として、邪魔されたのを怒ったり鎮めたりするのが筋だろうに。
いくら敵が多いとは言え、総大将が態々戦いに行くこともないじゃないか。


「で、でも珀姫様、向かってきたのはあいつらですぜ!」
「そうじゃそうじゃ! 天下の奴良組に刃向かう奴がいるんだから、オイラ達としてはやっぱりこう、目に物見せてやらなきゃっていうか」
「……そう」


動けないながらもやいやいと騒ぐ小妖怪達に、私はすっと眼を細めた。
「馬鹿!」と雪麗の声が飛んだけれど、止めるには少しばかり遅くて。
私は再び静かに微笑んでから、珱姫の手を取ってゆるりと立ち上がった。


「それは失礼したわ、不勉強で妖怪のことがよく分からなかったの。ごめんなさいね」
「ね、姉様……?」
「どうぞ存分に、喧嘩を続けて頂戴。……私は珱姫と一緒に、暫くお暇させていただくから」
「へっ、」
「お暇……? お暇って……」


私の言葉に、小妖怪達が困惑の表情を浮かべたのが見えた。
けれど言いたいことはもう言い終えたし、これ以上ここにいるのも無意味だ。
ああまで言われてしまったのだ、説得することすら諦めてしまう。

私は妖怪達の視線を一身に浴びながら、珱姫の手を引いて襖へと歩を進めた。
珱姫は戸惑いながらも、静々と私の後を付いてくる。
彼女の意見を聞いていないけれど、どちらにせよこんな危ない場所に一人だけこの子を残してはいけない。
開いたままの襖に手をかけ、私は肩越しに他人行儀な笑みを浮かべて口を開いた。


「さようなら、皆様方。私はしばし、江戸からはいなくなるので。そのおつもりでいらしてね」
「…………えっ」
「えええええ〜〜〜〜!?」


最後に指を打ち鳴らし、かけていた結界を解除する。
行動を制限する力が一気に失われ、どさどさと崩れ落ちる音が聞こえた。
同時に聞こえてきた叫び声を右から左に流しつつ、誰もいない廊下を進んでいく。
そっと見上げてきた珱姫に、にこりと微笑めば、彼女は遠慮がちに口を開いた。


「あの、姉様。本当に江戸を離れるのですか……?」
「さあ、どうしようかしら。別に出任せを言ったつもりはないけれど、……でも、そうね。このまま彼等が引き止めてくれないなら、そうしようかしら」
「……よろしいので?」
「ええ。……だって、あの状態で黙ってるなんて……」


――ぬらりひょんの妻としての名が廃るじゃない?

そう小首を傾げて告げれば、珱姫はきょとんとした後、困ったように微笑んだ。


「……それでこそ、私の憧れの姉様ですね」
「あら、ふふ。ありがとう」


その後慌てて追いかけてきた妖怪達によって、私の江戸離れはなかったことになるのだが。


「……そう言えば珀姫様って京都の女だったな」
「京女の怒り方怖ぇ……」
「怒らせねえようにしねえと……」


それから数日間、奴良組のそこかしこでそう呟く妖怪達の姿が見られたのは、また別の話である。



















月が煌々と輝いていた。
星の見当たらない、墨で塗りつぶしたような真っ暗な空の中、丸い月だけが井戸の水面のように光っている。
湯上がりで火照った体に夜風が心地良い。しばし休んでいこうかと、私は縁側に腰を下ろした。


結局あの後すぐに、奴良組の妖怪達は頸を揃えて追いかけてきた。
小妖怪達から幹部まで、勿論ぬらりひょんも共に。狭い廊下にぎゅうぎゅうになって、真っ青な顔で震えながら。

――すみませんでしたあああ!!!!

深々と下げられた頭に、隣の珱姫が軽く驚いていたのを思い出す。
自分達が悪かった、つい調子に乗ってしまった、ごめんなさい、謝ります、だからどうか京に帰るのだけは止めてくれ、と。
別に京に帰るなんて言ってない、ただ少しお暇させていただくだけと言えば、更に床に頭が付くほど謝られて。
そんなに怖いことを言っただろうかと考えてみたけれど、奴良組に来てからそう自己主張の激しい方ではなかった私が初めてした意見表明があれとなれば、まあ怯えてしまうのも無理はないかと結論づけた。
おまけに結界術まで使ってしまったのだし、鈍い者でなければ私が何処から来たかに気付いたかも知れない。
それもあってここまで謝られているのだろうと思えば、少し複雑ではあった、けれど。
私が良いと言うまで一向に首を挙げなかった彼等の様子に、ふつふつと沸いていた怒りも少しずつなりを潜めて。
はあ、と軽く溜息をつけば、彼等は揃ってびくっと肩を揺らした。

――分かったわ。
――京には帰らないし、お暇もいたしません。……だから顔を上げて頂戴。

そう言って軽く微笑めば、彼等は恐る恐る顔を見合わせた後、安心したようにほっと息をついた。
仕方ないなと思いつつ、頼まれてしまえば断れない程度には、私も彼等を気に入っているらしいと気付き。
一先ず大広間のあれこれを片付けようと、その場を取りなしたのだった。








「……ふう」


本当に色々あった一日だった。思い出すだけで苦笑いが零れ出てしまう。
婚儀の後に催された宴は、残った酒好き達だけで今もまだ続いているらしい。少し離れた場所にある大広間からは、微かだが賑わう声が聞こえてくる。
料理を出したり酒を注いだりするのは、今日だけは私の仕事ではない。何もしないでいるのも身の置き場がないが、そうなるといよいよ一日の疲労が襲ってくる。
それに気付いたぬらりひょんに、主役とは言え夜遅くまで参席しているのは人の身にはきついだろうと、無理しないよう言われてしまった。婚儀のための宴とはいえ、それを口実に飲むための宴席だと。
それなら私がいなくても問題は無さそうだと、宴が一応のお開きを迎えたところで、珱姫や体力のない小妖怪達と共に退席した。

珱姫は客間に送り届けられ、私も入浴を終えて今に至る。多分、ぬらりひょんは今もまだ宴席だ。雪麗や牛鬼、狒々や一つ目のような幹部達も恐らくそうだろう。
彼等のような強い妖怪は、宴となればここぞとばかりに飲むほどの酒好きが多い。明日に響くかどうかだけが心配ではあるけれど、大事を取って宴の翌日は休みにしてあるそうだから、大丈夫だろう。

そんな事を月を眺めながらぼんやり考えたところで、そろそろ戻ろうかと僅かに腰を浮かせれば。


「――夜風は体に良くねえぞ、珀姫」
「!」


肩に何かが掛けられる感触と共に、ふわりと煙管の香りがする。
反射的に振り返った先にいたのは、やはりと言うべきか、ぬらりひょんだった。
掛けられた羽織から漂う、煙管に混じる酒の香りに、彼が今し方まで宴に参席していたことを察する。


「あら、ぬらりひょん。宴は終わったの?」
「いや、あいつらはまだ続けておるよ。ちょいと抜けてきただけじゃ」
「……良かったの?」
「なあに、ワシ一人いなくなったところで、あいつらは変わらず飲み続けるじゃろうよ」


「気付いているかどうかも怪しいしのう」と、ぬらりひょんはくつくつ肩を揺らす。
確かに酒を飲んだ彼等は、普段精鋭揃いの幹部達とは思えないほど気の抜けた状態になる。
牛鬼に狒々、雪麗や一つ目、カラス天狗まで。いつもは冷静に、時にはぬらりひょんを諫めるほど落ち着いている彼等も、酒の力には勝てないらしく。
以前見た彼等の様子を思い出しながらくすくすと笑いを零すと、ぬらりひょんの瞳に優しげな色が灯った。


「……のう珀姫、この後は暇か?」
「この後? ええ、特に用事はないけれど。どうして?」
「ちょっくら、アンタに渡したい物があってな」
「私に……?」


きょとんとして見つめれば、ぬらりひょんは静かに頷いた。
渡したい物。何だろう。特に何か貸したりはしていなかったはずだけれど。
分かったわと返答すると、ぬらりひょんは徐に立ち上がって、手を差し伸べてきた。


「立てるか?」
「あら、移動するの?」
「おう。 寝室にな」
「寝室……?」


寝室と言うことは、ぬらりひょんが私室として使っている部屋のことだろうか。
奴良組本家の丁度中央辺りに位置する部屋、大広間などを覗いて個人が使用している部屋としては最も広いところだ。
時々彼に用事があって訪ねたことがある。その時々でいたりいなかったりして、いない時は大抵カラス天狗達から逃げている時と決まっているのだが。

こんな夜に、殿方の寝室へ。そう思うと、少しだけ、けれど否が応でも緊張してしまう。
だけど相手はぬらりひょんだし、私だってもう嫁入りを終えたのだから、そういう機会があったっておかしくも何ともない。
それにこのぬらりひょんのことだ、人を緊張させておいて何もないことだって大いにあり得る。
だから、鳴りだした心臓の音なんて、気にするべきではない。

……ない、と。分かっているのに。
繋いだぬらりひょんの手が、いつもより少しだけ熱いような、そんな気がして。
仄かに赤くなった頬を隠すように、私はそっと俯いた。










手を引かれ、向かった先は寝室ではなかった。
誰の部屋とも、何に使うとも決められていないらしい、言わば空室になっている部屋だ。
確か中にも何もなく、ただだだっ広い空間がぽかりと開いていたはず。
その繊細な透かしの入った障子の前で、ぬらりひょんは立ち止まった。


「ぬらりひょん、貴方の部屋に行くんじゃないの?」
「こっちで合っておるよ。寝室だと言ったじゃろう?」
「……? 寝室って、つまり貴方の部屋ってことじゃ……」
「……いや」


すっと、音もなく静かに障子が開く。


「ワシの、じゃねえ。ワシとアンタのじゃ」


月明かりが差し込んで、部屋の内装がぬらりひょんの肩越しに見えた。
昨日まで何もなかったはずの、薄暗い部屋の中。並んでいたのは真新しい布団が二つ。
布団の上にはそれぞれ夜着が掛けられており、意匠の凝った作りである事が窺える。
枕元には藤の透かしの入った和紙で作られた灯りが並んでいて、揺れる炎の灯りが透かし型の影を落としていた。


「…………っ、」
「……驚いたか?」
「え、ええ……。でもここって、空室じゃなかったの?」
「昨日まではな」


振り返ったぬらりひょんが、肩越しに口角を上げる。
その姿は至極いつも通りで、変わったところなんて一つもなくて。この行動に他意はないのだろうか。
夫婦の 寝室、なんて。私はもうそれだけで、言葉以上の意味を読み取ってしまいそうになるのに。


「……けれど、確か私は部屋を頂いたはずだわ」
「おう、あっちはあっちで使えばいいさ。こっちは寝る時だけじゃ」


ま、好きに使えばいいがな。そうぬらりひょんは言う。
私が頂いた部屋は、ぬらりひょんの部屋の二つか三つ隣の部屋だ。そこも十分すぎるほど広かったのに、寝る時だけの部屋なんて。
贅沢だ、と言おうとして口を閉ざす。 男性からの贈り物を受け取らないのは、相手に恥を掻かせる行為だと、以前教わったのを思い出したからだ。
それにここは私だけの寝室ではない。ならば態々辞退する必要もないだろう。

ぬらりひょんは私の手を取ったまま、部屋の中へと誘導するように歩いて行く。
そして片方の布団の上にどっかりと座り、私にももう一つの布団に座るよう促した。
緊張で強張る体を気取られないよう、努めて冷静な顔で腰を下ろす。
ちらちらと揺れる二人分の影が襖に映って、何だかそれだけで顔が赤くなった。


「それで、私に渡したい物って……?」
「……おう」


ぬらりひょんはくるりと振り返り、書院に置いてあった箱を布団の上へと持ってきた。
大きな箱が一つに、小さな箱が二つ。大きなものは大人が両手で抱えてやっと運べるくらいの大きさだけれど、小さな二つは手に乗るくらいの大きさだ。
それぞれ桐でできており、黒地に金で 花の模様が描かれている。箱を見ただけでも、中に大事な物が入っていることが伝わってくる。


「……開けても?」
「勿論じゃ」


返答を確かめてから、そっと小さな箱に手を伸ばす。
一つ目の箱は、両の掌に丁度収まるくらいの大きさだ。然程重くはない。
開けてみると、中には一つの花簪。銀でできており、先の方に白と紫の藤を模したつまみ細工が下がっている。
「綺麗……」と思わず呟くと、ぬらりひょんが微笑む気配がした。
私も簪はいくつか持っている。だからこそ、その作りの細かさが分かる。
丁寧に染められたことが分かる色合いも、細かく象られた花の形も。

ふ、と笑みが零れる。大切な人からの贈り物が、こんなに嬉しいだなんて思わなかった。
以前にも髪紐を贈られた事はあるけれど、あの時はまだ気持ちを自覚していなかったから。

二つ目の小さな箱を手に取り、蓋を開ける。中に入っていたのは、白地に紅い花の描かれた猪口だった。
内側の、一面の玉虫色に目を見開いた。以前伝え聞いたことがある、これは、


「小町紅……?」
「ああ、知っとったか」
「いいの? こんなに素敵なもの……」
「はは、駄目ならやらんさ。気に入ったか?」
「ええ……とっても」


綺麗な玉虫色は、良質な口紅の証だ。
その縁をそっと撫でる。本当に美しい。ここまでのものとなれば決して安くはないはずだ。
掌で包み込むように握ると、玉虫色が炎の灯りに反射して輝いた。
……そう言えば、以前何処かで何か聞いた気がする。
簪と紅。これらを贈ることには、何か意味があったような。
何だったっけ、思い出せない。ええと、確か……。


「珀姫」
「!」
「喜んでくれるのは嬉しいが、まだ最後の一つが残っとるぞ」
「え、あ……そうだったわね」


ぬらりひょんに指で示されて、猪口を簪の隣に置く。
最後の一つがまだ残っていた。一番大きくて、一番重そうなそれ。
何が入っているのだろうと、少しばかりの期待を胸にそっと蓋に手を掛けると。


「………………は、」


口をかぱりと開けたまま、私は何の反応もできずに固まってしまった。

開けた中に見えたのは、薄桃色の生地。その上に、藤と椿を掛け合わせたかのような 花が咲き乱れている。
辻が花の小袖だ。加えて花丸文や蝶の柄が、細かい金銀の摺箔で煌びやかに施されており、技術と手間が非常にかかったことが窺える。
恐る恐る手に取れば、刺繍の細やかさや作りの丁寧さが一目で分かった。
……きっと、相当に名のある職人が作ったのだろう。価値にして……いや、こんな綺麗なものに価値なんて付けられない。
でも一つだけ、確かに言えること。それは、


「……だ、駄目」
「ん?」
「……駄目よ、……ごめんなさい、受け取れないわ」
「…………は?」


ピクリとぬらりひょんの笑顔が引きつる。
先程相手に恥を掻かせる行為だと認識しておいて、なおそれをするというのは気が咎めた。
けれどそれ以上に、私にはこれを受け取ることのできない理由があるのだ。


「な、何じゃ、気にくわんかったか? すまん、女子の 着物には疎くてな」
「え、」
「あー、なんだ。無粋じゃあるが、アンタの好みのものを贈るから、どんなのが良いのか教えてくれんか」
「ま、待ってぬらりひょん、違うの、そうじゃないわ」


いきなりとんでもないことを言い出したぬらりひょんにぎょっとする。慌てて両の掌を突き出して断れば、ぬらりひょんは困ったような顔をした。
けれど困った顔をしたいのは此方だ。こんなにも綺麗なものを気にくわなかったとでも思われたら、この先もっと凄いものを用意してくる気がする。
そうなればますます受け取れない。私が着物を断ったのは、何もその意匠が趣味じゃなかったとか、そういうのではなくて。


「……その、あのね。……凄く身勝手な理由なのだけれど」
「何じゃ?」
「……私、こんな素敵なものに、返せるだけの何かを持ってないのよ」
「…………は?」


先程と全く同じ声色で、ぬらりひょんが聞き返す。
何となくその顔を見られなくて、私は俯き気味に目を伏せた。
藤の 花簪。小町紅。それに、本当に美しい辻が花の小袖。
どれも凄く凄く綺麗で、贈り物として貰うにはこれ以上ないほどのもの。……だけど。


「私、その……此方に来る際に、一通りの嫁入り道具くらいしか持ち物がなくて」
「うん?」
「もしこんなものを頂いたとして、でも私、それに見合えるだけのものを持っていないの。だから……」
「ちょ、ちょっと待て。つまり、えーと……?」


今度はぬらりひょんが、混乱するような顔で片手をぴっと私に突きつけた。
無理もない、と口を閉ざし、彼の理解が追いつくのを待つ。
本来であれば夫からの贈り物なんて、ありがたく受け取って喜ぶのが定石だ。
それ以外何をしようもないから。収入源なんて酷く限られているような、今の女性達には。
けれどだからと言って、ここまで素敵なものを頂いてただ喜ぶだけだなんて。
せめて何かお返しするものがないと、これを用意してくれたぬらりひょんの手間にも、金額にも、及ばないと思うから。


「つまり、何じゃ。アンタはこの小袖が気に入らんかったわけじゃあないんだな?」
「ええ、勿論。だってこんなに素敵なんですもの、気に入らない女性なんていないわ」
「……で、ワシに返すってのは?」
「……贈り物をされたら、贈り物を返すのが礼儀でしょう。少なくとも、見知った間柄ならそうすべきだわ」
「……ほーん。段々話が見えてきたぞ」


顎に手を当て、ふむふむと頷くぬらりひょん。
その様を見ながら、私は何か変な事を言ったような気分になっていた。
贈り物にはお返しを。母からたたき込まれた礼儀作法の内の一つだ。
間違ったことは言っていない、と思う。けれどやっぱり、可愛げはなかったかしら。
もっと素直に、ただありがとうと受け取っておけばよかったのか。
でも親しき仲にも礼儀ありと言うし、大事なことはきちんとしておかなければ。
そう結論づけた私に、ぬらりひょんは目を向けて口を開いた。


「アンタさては、あんまり男に慣れとらんな?」
「……え?」
「秀元や是光が過保護すぎるっつう訳じゃなかろうが、如何せん経験がないんじゃろうな。まあ姫君なら当然か……?」
「け、経験……?」


まあ確かに、ないと言えば、ないかも知れないけれど。
私に限ったことじゃない。 花開院の姫の中で、一定以上の力を持っている者は、花開院の人間と婚姻を結んできたと聞く。
より強い子どもを残すための策だ。花開院が特別そういう考え方をしているのではない、昔から何処の家でも行われてきたことだ。
だからだろうか、私は基本的に一族以外の男子との関わりが殆どなかった。そういう点では、経験などないに等しい、かもしれないが。


「いいか珀姫、男が女に贈り物をするってのはな、何も見返りが欲しくてやってるわけじゃねえんだ」
「……ええ」
「喜んでくれりゃあそれでええ。それが見たいからやるだけじゃ」
「……」


ぬらりひょんの言葉に、こくんと一つ頷く。
けれど私の中でぐるぐると回る母の言葉は、未だに消えていない。
それが私の表情から分かったのか、ぬらりひょんは眉根を寄せて顎に手を当てた。


「どうしても礼がしたいってんなら、まあしてもらいたいことがないわけじゃねえが……」
「え? なあに?」
「あーだが、やっぱり止めとくか。見返りが欲しくてやってねえって言った口でこんな事言うのもな」
「ちょっとやだ、気になるじゃない。言ってよ」


もったいつけるようなぬらりひょんの言い方に、先が気になって催促する。
何か返せることがあるなら返したい。そうじゃないと、こんなにも素敵なものを受け取るには、私には持っている物がない。
そう思って、口を出したのだけれど。
此方を見てにやりと口角を上げたぬらりひょんの表情に、私は一瞬、嫌な予感が脳裏を過ぎった。


「そうか? そこまで言うなら言ってやろう」
「……な、なに」
「アンタは知らんかもしれんが、贈り物……特に男が女にやる物ってのは、意味を持つんだ」
「意味……?」


そう言えばさっき、簪と紅を開けた時にそんな事を考えたような気がする。
結局結論は出なかったのだけれど。もしかして、 着物にも意味があるのだろうか。
何だろう、何だったっけ。そう首を捻る私に、ぬらりひょんはすっと手を伸ばしてきた。
首の横を通って、下ろした髪の毛にさらりと触れる。
その無骨な手が、首筋を掠めた気がして、僅かに肩が揺れた。
それにも構わず、ぬらりひょんは髪を一筋手に取り、自分の口元へと近付ける。
薄暗い部屋の中、金色の瞳が炎の灯りに輝いていて、心臓がどきりと音を立てた。


「お前の髪を乱したい」
「……っ」
「簪をやるってのはそういう意味じゃ」


口角を上げるぬらりひょんの顔が、不敵な笑みを浮かべているように見えて。
かっと赤くなった頬を隠したくて、咄嗟に横を向けば、ぬらりひょんがくすりと笑む音がした。
髪が静かに放され、その手がそっと私の唇に触れる。
慣れない感触にびくっと其方を向くと、ぬらりひょんの瞳と視線がかち合った。


「紅はな、」
「っえ」
「唇を吸いたい、と」


すり、と唇に触れた指が動く。
愛撫するようなその仕草に耐えられなくて、思わず後ろに手を付いて下がってしまう。
そんな意味だなんて知らなかった。聞いた事がある気もするけれど忘れていた。
知っていたなら、絶対に聞こうとなんてしなかったのに!


「着物にも意味がある。知りたいか?」
「っや、知りたくなんか……」
「着物は、のう」


とん、と胸元に人差し指が当てられた。
心臓を指さすような、貫くようなその指に、助けを求めるかのようにぬらりひょんを見てしまう。


「その着物を着たお前を脱がしたい」
「〜〜っ!!」
「そういう意味で、贈ったのさ」


何か、とんでもないことを言われた様な。
顔が真っ赤だ。自分でも分かる。死ぬほど熱くなっているもの。
ここは昼間ほど明るくない。それでも炎の灯りはあって、おまけにぬらりひょんは歴とした妖怪だ。
私の顔色なんて、一目で分かってしまうんだろう。
現にぬらりひょんは、とても愉快そうな顔をしていた。


「……分かったか、珀姫?」
「ぅ、わ、分かったわよ……! 分かったから、その手を退けて頂戴……!!」
「ふは、何じゃ、今更恥ずかしくなったのか? 男と同じ寝所に入る意味くらい知っておろう?」
「だ、だって……」


意味くらい知っている。それを知らないほど子どもではないし、 花嫁修業の一つにもそういうことの作法はあった。
だけどだからと言って、今すぐにと言われてできるほど、覚悟をしてきたわけではない。
とても目を合わせてなんかいられなくて俯けば、ぬらりひょんがふっと小さく笑った。
胸元に置かれた手が退けられ、代わりに私の手を取られる。
ぬらりひょんの手に包まれた私の手は、やけに白くて小さく見えた。


「……のう、珀姫。大阪城でワシが言ったことを覚えておるか?」
「大阪城……?」
「――藤のようだ、と思ったんじゃ。アンタの美しさも、儚さも、それからその優しさも」
「ッ……え、ええ。覚えているわ」


あんな熱烈な口説き文句、忘れたくても忘れられるわけがない。
元からぬらりひょんに懸想していたけれど、あの言葉で私は完全に彼に恋をしてしまったのだから。
女を花に例えるだなんて、妖怪なのに随分と粋な性分をしている。その表現に落ちてしまう私も私だが。


「アンタを初めて見た時、こんなにも綺麗な女がいるのかと思ったよ。姿形も驚く程美しかったが……一番惹かれたのは、その瞳じゃった」
「ひ、とみ……?」
「ああ」


まるでその時の私を思い浮かべるかのように、ぬらりひょんは目を伏せる。
男にしては厚い睫が、金の瞳に透けてきらきらと輝いて見えた。


「芯の強さが一目で分かる、真っ直ぐな目じゃ。妖怪を相手にした人間のそれとは思えん程に」
「お、大袈裟よ……」
「大袈裟なんかじゃねえさ。水晶みたいな澄んだ色をしとるのに、泣きたくなるほど優しい光が宿っておった。……今までも、きっとこれからも。あんな瞳を見ることはないじゃろうな」


それくらい、美しかったのだと。
ぬらりひょんはそう言って、これ以上ないくらいに優しく微笑んだ。
妖怪どころか、人間ですら浮かべないようなその微笑みに、はっと目を見開いたまま固まってしまう。
その顔から零れ出る、ぬらりひょんの感情が。……私に向ける、狂おしいほどの愛おしさが。
身に染みるほど分かってしまって、私は顔を赤らめることすらできないまま、彼の顔をただじっと見つめていた。


「アンタと関わって、その認識が間違っていないことを知った。一本芯の通った女子の、男に勝るとも劣らん強さも、悲しくなるような健気さも、アンタから教わったんじゃ」
「……っ」
「アンタがワシの求婚を受け入れてくれた時、死ぬほど嬉しかったよ。心の底から惚れた女が、自分と共に歩んでくれることが、これほど幸福だとは思わんかった」
「ぬらりひょん……」


握られた手が掬い上げられ、ぬらりひょんの口元へと持って行かれる。
そのままちゅ、と小さな音を立てて口付けられ、驚いた拍子に私の手がびくりと揺れた。
けれど放されることはなく、その格好を崩さぬままに、ぬらりひょんの目が私を捉える。
望月のような金の瞳と視線がかち合う。逸らすことなど許さないと言いたげな、強い瞳だった。


「ワシはこの先、魑魅魍魎の主として歩いて行く。だから珀姫、アンタもワシの隣で、寄り添って歩いてくれ。――必ず、幸せにする」


いつもの飄々とした様子など一切ない。
真剣で、誠実。この上なく、嘘偽りない言葉。
それが声色からも、表情からも、そして瞳からも分かる。
だからだろうか。私は見開いた瞳を徐々に細め、そして。


「! 珀、姫……?」
「……っ、ふ……」


つうっと、頬を雫が伝った。
視界がぼやけ、膝の上にぽたぽたと染みができる。
咄嗟に手で拭うけれど、片手じゃとても押さえきれなくて、目元にやった手の甲が濡れた感覚がした。


「お、おい珀姫、どうしたんじゃ。何処か痛むのか? 力が強かったか?」
「っちが、……っ、違う……違うの、」


ああ、ぬらりひょんが驚いている。
この歳でこんなにも泣くなんて恥ずかしい。早く止めなければと思うのに、涙は言うことを聞かなくて。
おろおろと慌てるぬらりひょんから放された手で拭えば、僅かに視界は明瞭になったけれど、それでも止まることはなく。
ただ、今はこの感情を何とか言葉にしなくてはと、私は何とか震える声を出して言った。


「……嬉しかったのよ。本当に、嬉しかった。そんなこと言ってもらえるなんて、思ってなかったから……ありがとう、ぬらりひょん」
「……ああ」


流れる涙もそのままに、ようやっと顔を上げてそう微笑めば、ぬらりひょんは困ったように、けれど嬉しそうに笑みを返してくれた。
珱姫や、秀元や是光兄様のように、家柄でなく私と関わってくれる者は他にもいる。
けれど自分が相手のことを好きだからと言って、相手がこの先ずっと自分を求めてくれる保障などない。
ぬらりひょんだってそうだった。彼が魑魅魍魎の主になったからと言って、私を切り捨てることなどないだろうけれど。それでも、彼には主としての責務がある。
そうなった時、人間の私は……陰陽師の私は、ぬらりひょんの側にいられるのか、いていいのか、分からなかった。
だからこそ、側にいることを許可されたようで、求められたようで、嬉しかったのだ。
家柄や力を通して私を見る事のない彼だからこそ、余計に。


「本当は、婚儀の時に言おうと思っとったんじゃがな。余計な邪魔が入って言えんかった」
「……そう言えば、誓いの言葉っていうのがあったけれど」
「おう、それじゃ。アンタを必ず幸せにすると、皆の前で宣言するつもりだったんじゃがな。だがまあ、アンタにさえ聞かせられればワシはそれでいい」


目尻の涙を指で掬って、ぬらりひょんは優しく笑った。
誓いの言葉、なんて言われた時は、聞いてないと口走りそうになった。あんな粛々とした場でそんな事言えるはずもなく、何とか留まったけれど。
だけど、こんな事言われるんだったら、妖怪の乱入があってむしろ良かったかも知れない。皆の前で泣き顔やら何やら晒すはめになったと考えると恥ずかしすぎる。


「……ねえ、その誓いの言葉って、 花婿から花嫁へだけだったの?」
「ん? まあのう、事前に言っとらんかったし、用意もないじゃろ?」
「そう……」


ぬらりひょんの返答に、少し考える。
私が今からやろうとしていることは、人によってははしたないと捉えられてしまうかもしれない。
けれど、とぬらりひょんを見据える。
彼はこれをどう捉えるだろう。若い娘がと眉を顰める? それとも……喜んで、くれる?
……もし、もしも、喜んでくれる可能性があるのなら。

こくんと喉を鳴らし、私は意気込んで立ち上がった。


「どうした珀姫、何処か行くのか?」
「……ええ、ちょっと」
「ならワシも……」
「駄目よ」
「えっ?」


きょとんとした顔のぬらりひょんを見下ろし、私は静かな口調で言った。


「……少しだけ、待っていて。……お願い」
「あ、ああ……」


そして、そっと部屋の障子を閉める。
そのまま急ぎ気味に部屋を後にし、自室に逃げ込むようにして帰れば、ようやっと後れて気恥ずかしさが襲ってきた。
心臓の鼓動が五月蠅いくらいに鳴っている。緊張は顔に出なかっただろうか。声は震えていなかっただろうか。
……いや、今そんな事を気にしていたって仕方がない。
今やるべきは、と、私は手元を覗き込んだ。
抱え込むようにして持ってきた、三つの箱。
見ているだけで恥ずかしくなりそうな気持ちを抑え、深く息を吸い込んで。

――覚悟を、決めた。











繊細な透かしの入った障子の前に、影が落ちた。
相も変わらず五月蠅い鼓動を掻き消すように、胸の前できゅっと拳を握る。
……大丈夫、大丈夫。……大丈夫。
自分に言い聞かせるように、心の中で何度もそう呟いて。
私はそっと、障子に手を掛けた。


「ぬらりひょん、……お待たせ」
「ん、おう! しかしアンタ、一体何処行って……」


ぴた、と、振り向いたぬらりひょんの動きが止まる。
視線が上から下まで辿るのを肌で感じつつ、私は精一杯頬が赤く染まるのを耐えた。

上げた髪に刺さるは、藤の 花簪。
唇に纏う色は、小町紅の玉虫色混じりの紅。
そして全身を包むのは、艶やかな辻が花の小袖。

今私の身を飾っているのは、全て先程ぬらりひょんから贈られた物達だ。
月夜の下、簪の銀や小町紅の玉虫色、そして辻が花の摺箔は静かに輝いている。
豪奢な光ではない。けれど美しい。日本古来の美というのはそういうものだ。
控えめで、繊細で、触れれば壊れてしまいそうな。そういうものを、私は今身に纏っている。


「…………」
「……その……着てみたのだけれど。……似合うかしら」


反応のなさに居たたまれなくなって、恐る恐る口を開く。
ぬらりひょんのぽかんとした顔が、その沈黙が、破られる時が怖い。
永遠にそんな時来ないで欲しい……。いや違う、永遠に黙られてしまうとそれはそれで嫌だ。けれど変な反応が来るくらいなら……。
そんな事を頭の中でぐるぐると考えていると、ぬらりひょんが唐突にぽつりと呟いた。


「……珀姫、アンタ……さっきの話、聞いておったか?」
「さっき……?」
「男が贈り物をする意味じゃ。その三つを贈った、ワシの想いのことじゃ」
「え、ええ……聞いていたわ」


予想のどれとも違う反応に戸惑いつつ、そう返事をする。
何かまずいことでもあっただろうか。いけないことをしてしまったのだろうか。
ぬらりひょんの言うところの『経験値の低さ』が、間違った方に発揮されてしまったのだとしたら。
そのどれにしても、一先ず謝らなくてはいけないと。
そう思って口を開こうとした時、ぬらりひょんの顔色が変化したことに気が付いた。


「……あー、その、な……珀姫」
「なあに?」
「……アレを聞いた上で、なおそんな格好をするってこたぁ……都合の良いように受け取られても、無理ねえんだが」


それは分かってるのか、と。
そう問いかけるぬらりひょんの瞳が、何だかいつもより、鋭い光を湛えている気がして。
一瞬びくりと肩が揺れたけれど、それでも私は努めて何でもないような顔のまま、ぬらりひょんの前に腰を下ろした。


「……私は、結婚した相手なら誰だって、何も思わず身を委ねるべきだと思うわ」
「……は、」
「前までは……そう、思ってたのよ。誰と結婚しようが、どんな家に嫁ごうが、私の成すべきことはそれだって。……思ってた」


何かを言いかけたぬらりひょんの言葉を遮って、淡々とした物言いで言葉を進める。
随分な言い方だけれど、実際私はそう思っていた。
結婚することでの女の役目は、子を宿し、その家系を未来へと繋いでいくこと。それだけだ。
結婚する相手によっては、家事をしたり稼業をしたり、そういったこともするにはするだろうが、一番の目的は子を為すことだと。
そう、思っていたのだけれど。


「でもね、ぬらりひょん。私は貴方と出会って、……恋をして、少しだけ、考えが変わったの」
「……?」
「女の役目は子を宿すこと。それは今でも変わらない考えだけれど、でも……そこに愛情があったなら、どれほど素敵だろうって、……そう考えるようになったの」


話しながら、思わず微笑みが零れた。
子どもを産むのは、夫婦仲に関係なく必要なことだ。
例えどれほど愛情がなかろうと、嫌悪していようと、この時代子どもを産まないという選択肢は殆どない。
勿論授かり物だから、産みたくても産むことができない夫婦は一定数いるとは思うけれど。それでも基本的には、どの夫婦だって子どもを作ろうとするだろう。

だけど、もしそれが義務的な物でなく、二人の愛情による産物だとしたら。
自分が心から愛した人との子ども。そんな存在をもしも授かれたとしたら、どれほどか。
そう、思ってしまったのだ。


「だから……貴方が誓ってくれたように、私からも貴方に誓うわ」
「……ああ」
「この先私は、貴方を一番に信じ、身も……そして心も貴方に尽くし、永遠に貴方を想い続ける。そして叶うことなら、貴方がくれた分の幸せを、私からも貴方に返していきたい」

「二人で一緒に、幸せになりましょう。一生、笑って生きていくの」


陰陽師の娘と、妖怪の総大将。
普通なら叶うはずのない恋物語だ。ここまで来られたのは、沢山の人達のおかげ。
秀元、兄様、珱姫、奴良組の妖怪達。それから……諦めずに、私に直向きに思いを伝えてくれた、ぬらりひょんのおかげ。
だから私には、その思いに答える義務がある。
この先何があったとしても、この結婚は……この婚儀は間違いではなかったのだと、証明していく必要がある。
そのためには、私だけではない。私達二人が、幸せになる必要がある。

だからこれは、約束だ。私が私に課す約束。
どうかこの先、二人でいつまでも笑っていられるように。


「珀姫……」


呆然とした顔のぬらりひょんが、じわじわと瞳に光を宿す。
そしてゆっくりと、ほころぶように彼の顔に笑顔が咲く。

彼の手が私の手を取り、包み込むように握られて。何だかくすぐったくて握り返せば、その力は強くなった。
目と目が合う。ぬらりひょんの金の双眸の中に、水晶のようだと言われた私の瞳が映っていて、泣きたくなるほど美しかった。
手が上に持って行かれて、頬を擽るように触れられる。まるで壊れ物にでも触れるみたいに丁寧な手付きで、自覚した途端頬が赤くなる。
気恥ずかしさを隠すかのように微笑めば、ぬらりひょんもまた柔らかく微笑んで。
近付く顔の距離に静かに目を閉じると、その先でぬらりひょんが呟く声がした。


「ワシは幸せモンじゃなあ……本当に」


その声が何処か泣きそうで、咄嗟に目を開けようとしたけれどもう遅い。
唇に触れた熱はあまりにも甘くて、蕩けるようなその熱に翻弄されるしか、私にできることはなかった。







婚儀を挙げてから数日。


「あ、ねえ、ちょっといいかしら」
「は、はいっ!?」
「……ぬらりひょんを見なかった? 部屋に行ってもいなくて、探しているのだけれど」
「そ、総大将でしたら、先程縁側にいらっしゃいましたよ」
「そう、ありがとう」
「いえっ!! 滅相もない!!」


ぺこぺことしきりに頭を下げる妖怪に軽く微笑んで、その場を後にする。
溜息をつきたくなるのをぐっと押さえ、けれど少しばかり眉間に皺を寄せて、私は縁側へと歩を進めた。

婚儀の際、妖怪達を止めるために、思わず結界を使ってしまったことが原因だろうか。
あれからというもの、私は奴良組の妖怪達に恐れられているような気がする。
あの時は後々どうなるかとか、そんな事は一切考えないで術を使ってしまった。それどころではなかったというのもあるが。
京に来ていた妖怪達はまだいい、私が 花開院家出身ということを知っているのだから。
問題は、京に来ていなかった、つまり私が陰陽師の出だということを知らなかった妖怪達である。

知られたからと言って特に何をするわけでもない。というか、何ができるわけでもない。
こういうときは誰かに相談した方がいいんだろうか。いや、でも別に凄く困っていると言うほどではないし……。


「珀姫」
「! ぬ、らりひょん……吃驚した……」
「はは、すまんすまん」


軽く笑うぬらりひょんを横目に胸を撫で下ろす。この突然声を掛けられる感じは、いつまで経っても慣れそうにない。
考え事をしている間に、縁側の近くまで来ていたらしい。手招きをするぬらりひょんに従って、彼の側へと近付く。
ぬらりひょんの隣には鴉天狗もいた。手に持っている巻物を見るに、どうやら仕事中だったようだ。


「仕事中だったの、ごめんなさい」
「構わん構わん。こんなもんより珀姫の方が大事じゃ」
「総大将、そのお答えは結構ですが、こんなもんとは何ですか。大事な仕事ですよ!」
「うるさいのうカラス……」


げ、と眉を顰め、耳を塞ぐ素振りをするぬらりひょんにくすくすと笑う。
ぬらりひょんは性質上か、それとも単に性格か、大分ぬらりくらりとしたところがあって、真面目に仕事に取り組む様な人ではない。
それもぬらりひょんの個性ではあるけれど、鴉天狗のように真面目な人からすれば、困った点でもあるのだろう。
どちらにせよ、仕事を邪魔してしまうのは頂けない。早々に立ち去ろうと、私は手短に用件を述べることにした。


「今からちょっと出てこようと思うのだけど、何か買う物はある?」
「今から? いや、別にこれといってないが……夕餉の支度か?」
「ええ、そんなところね」
「一人でか? 誰か護衛でも付けるか。ワシでもええが」
「いけません総大将! まだ終わっておりませぬぞ!!」
「……カラスがうるさいしのう。雪麗か誰か、暇なのを見繕って連れてけ」


護衛だなんてそんな大仰なもの、必要ないのに。
今が丑三つ時とかならまだ分からなくもないけれど、今は真っ昼間だ。
一応戦う術は持っているし、不要だと断ろうとした時、後ろから「キャハハハ」と笑う声が聞こえた。


「ならワシが行ってやろうか、総大将?」
「何じゃ狒々か。お主暇なのか?」
「暇って程でもねえが、お姫さんの買い物につき合う位の時間ならあるぜぇ」


能面越しの顔がぎょろりと此方を向く。
顔は面で塞がれ、どんな表情かは私には分からない。声の調子で、何となくこうだろうとしか判断出来ない。
私は狒々が少し苦手だった。ぬらりひょんとは仲が良いようだけれど、どう付き合えば正解なのか、いまいち判断ができないのだ。
能面のその奥の瞳は、一体何を考えているのだろう。


「……でも態々幹部に来て貰うほどのことじゃないわよ? ただの買い物だもの」
「気にするな、狒々がいいってんなら来てもらやぁいいさ」
「そうですな。奴良組の奥方ともなれば、他の組の妖怪達に狙われる理由は十分にありますし」
「こう見えても狒々は強いぞ、安心せい」
「キャハハ、それほどでもあるがのう」


……何とか穏便に断ろうと思ったのに、どうやら無理だったみたいだ。
ここまで言われてしまえば、もう一人で行くなんてことは出来そうにない。
これ以上拒否すれば、何だかあからさまに苦手なことが分かってしまいそうで。
私は努めて笑顔を浮かべつつ、狒々に「じゃあ門の前で待ち合わせね」と告げてその場を後にした。












「それで、今日は何を買うんじゃ?」
「ええと、取り敢えず夕餉の食材をいくつか。青物屋さんに寄ろうと思うの」
「ほーん。じゃあ行くか。こっから一番近いのは……」
「こっち。南の方にある店が近くて安いから、最近はいつもそこに行っているのよ」


狒々を先導する形で、数歩先を歩く。彼は普段食材の買い出しなんてしないから、場所は分からないだろう。
のしのしと効果音が付きそうな歩き方で進む彼は、随分と大きい。いつも隣にいるぬらりひょんや雪麗に比べてしまえば尚更だ。
大きいというのはそれだけで迫力だ。妖怪は特に体躯の立派な者が多いけれど、狒々は特に大きい。それも私が何処か萎縮してしまう原因の一つかもしれない。
でも二人きりの買い物だ。出来るだけ相手を不快にさせず、買い物を穏便に終わらせなければ。


「江戸には慣れてきたかい?」
「そうね、来た当初に比べれば、大分。でもまだまだね、行ったことがない場所も多いし」
「総大将に連れてってもらやぁいいじゃねえか。仲良いんだろ」
「そうなんだけど。でもあの人、忙しいみたいだし……」


総大将という立場は、中々暇な状況には置かれない。
彼は仕事に真面目な性格ではないけれど、かと言って仕事がないわけじゃない。寧ろ山積みだ。
そしてそれは総大将に限ったことではないだろう。幹部の皆だって、いつも暇しているわけじゃないだろうし。


「何ならワシが連れてってやろうか?」
「え?」
「 花の名所とか色々あるぞ。詳しくはないが、アンタを抱えてひとっ飛びじゃ」
「……」


それも良いかもしれない、と。
想像して、首を振った。


「いいわ。ぬらりひょんが不機嫌になったら困るもの。あの人が暇な時まで待ってるわ」
「そうかい」
「不愉快にさせたらごめんなさいね、折角の申し出なのに」
「いやぁ、構わねえさ」


ひらひらと狒々は手を振る。どうやら機嫌を損ねずに済んだらしい。
狒々はきっと、悪い人ではない。だってぬらりひょんとあんなにも仲が良いのだから、極悪人過ぎてどうにもならないならそんな事にはならないだろう。
喋っている感じも、朗らかな普通の人、という感じ。体格の良さと能面の不気味さで少しこちらを怖じ気つかせるが。
少し誤解していたかも知れない、と思ったところで、丁度青物屋の看板が見えてきた。


「らっしゃい! ってうお、お嬢さんじゃねえか」
「お嬢さん?」
「そう呼ばれているのよ。こんにちは、ヤマダさん」
「今日も別嬪さんだねえ。隣にいるのは……もしかして旦那さんかい?」
「違うわ。彼は……そうねえ、夫の部下、ってところかしら」
「おう。護衛じゃ護衛」
「随分頼もしそうな護衛だな。と、今日は何をお求めで?」
「ええと、そうね。大根と人参と、それから――」


いるものを伝えると、店主のヤマダさんはひょいひょいと見繕って籠の中に入れてくれる。
彼の目利きは信用している。入荷した食材の中でも一際良い物を選んでくれるのだ。
支払いを済ませて籠を受け取ろうとすると、先に伸びてきた手がひょいと籠を掴んだ。


「荷物持ちくらいしか出来ねえが、やることはやるぜ」
「え、あ……いいわよ、これくらい持つわ」
「いいからいいから。アンタに荷物持ちさせちゃあ、雪麗に氷像にされちまう」
「……そう? じゃあお願いしようかしら」
「おう、任せとけ」


そう言って狒々はずんずんと先に進んでいく。慌てて私も彼の後を追いかけた。


「……ねえ狒々、貴方って意外と優しいのね」
「意外〜〜?」
「あらごめんなさい、気に障ったかしら」
「おうよ。ワシは世界で一番優しい男じゃぞ」
「もう、ふふふ」


良い感じだ。何とか普通通りに会話が出来ている。
これなら自分が狒々のことを怖がっていたのも分からないだろうし、このまま会話が出来ればいい、と。
そう思った時だった。


「アンタこそ、ワシのことを怖がっとる割には意外と普通じゃな」
「!!」


思わずびくっと肩が揺れた。
なんで、どうして。心の内が彼に漏れてしまうようなことはなかったはずなのに。
恐る恐る、狒々の方に目を向ける。彼は相変わらず能面を被っていたけれど、その下から僅かに楽しそうな素顔が見えた。


「ワシのことを怖がっとるじゃろ。気付いとるぞ。妖怪はそういうのに敏感なんじゃ」
「……え、と……」
「ああいや、誤魔化さんでよろしい。これは疑問じゃねえからな」


疑問じゃない。なら彼の中ではとうに確信しているということか。
いつ? どうして? ……そんなの、聞いたところで何になるというのか。
ここで言うべきはそんな疑問ではなく。


「……ご、ごめんなさい」
「おん?」
「違うの、別に貴方が悪いわけじゃなくて……その、何と言うか……」


自分の事を怖がられている、なんて気持ちの良いものじゃない。おまけに総大将の奥方に、なんて。
謝ったところで事実は消えない。言い訳したところで何の意味もない。
でもそれ以外に言うべき言葉が見つからなくて。
思わず目線を落とすと、からからとした笑い声が聞こえた。


「気にするな。怖がられとるのは妖怪にとって名誉なことじゃ」
「え……で、でも」
「大方この能面じゃろ? つってもこの面は人間が使っとるものとそう変わらんのだがのー。やっぱり怖いか、これ?」
「う、いや、その……えっと、」
「……別にワシャァ、怒ってねえから安心しな、お姫さん」
「……え」


驚いて狒々に目を向ける。能面の奥の瞳は何を考えているか分からない。
……分からない、けれど。纏う雰囲気が、いつもより柔らかい、ような。


「相性の良い悪いはどうしたってある。人間だろうが妖怪だろうが同じ事さ」
「……だとしても、」
「なに、これから知っていきゃあええ。その上でやっぱり怖えっつーんなら……まあしょうがねえだろ」
「……」


この、人は。
いつも能面を被っていて、何を考えているかなんてちっとも分からない。
笑う声が大きくて、前触れを悟れないから驚いてしまって、ちょっぴり怖いと思っていた。
思っていた、けれど。

大阪城までぬらりひょんと共に来てくれた。
護衛のために私の買い物に着いてきてくれた。

そんな人が、悪い人だなんてどうしても思えなくて。


「……ねえ、狒々」
「ん?」
「……ごめんなさい。まだ少し、貴方のことは怖いの」
「そうだろうな」
「でも、……多分貴方は、悪い人じゃないでしょう」
「キャハハ、妖怪に対して悪い人じゃないとは、アンタ本当に陰陽師の血筋か?」
「私の家は関係ないでしょ。私がそう思ったのよ、だって本当に悪い人なら護衛なんかしないでしょう?」
「そうか? アンタを人質にとって総大将に戦仕掛けることも出来るんだぜ?」
「……」


私を、人質に。ふむ、ありうるかもしれない。
……けど。


「貴方はそんなことしないわ」
「何でそう言い切れる?」
「だって貴方、ぬらりひょんのこと大好きじゃない」
「!」
「それなのに、ぬらりひょんを裏切るような真似はしないでしょう?」


狒々が私に向ける感情は分からない。疎ましがられているかも知れないし、怖がられているかも知れない。
でもぬらりひょんに向ける感情なら、見ていれば分かる。
狒々はこれ以上ないくらいぬらりひょんを慕っている。牛鬼や、烏天狗や、一つ目と同じように。
だったら、ぬらりひょんのことを傷付ける様な真似はしないだろう。


「……ククッ、キャハハハ! そりゃそうじゃ。お前さんよく分かっとるのう」
「見ていれば分かるわ。奴良組の絆は強いもの」
「絆、か……そうじゃのう」


ぬらりひょんは奴良組の誰からも慕われている。ぬらりひょんも奴良組の皆を信頼している。
それを絆と呼ばずに、何と言おうか。
時々こちらが羨ましくなるくらい、彼等は強い信頼関係で結ばれているのだ。


「ワシは姫さんのことも結構気に入っとるんじゃがのう」
「え? そうなの?」
「おうともよ。何せ羽衣狐に囚われておきながら総大将に啖呵切った女じゃからのう。勇ましくて何よりじゃ」
「……何だか皆それ言うのよね。雪麗も貴方も……。そんなに印象深いものかしら、あれ」
「そりゃあ戦いの最中に人質が帰れと促すなんざ普通ありえねえしのう。助けを求めるならまだしも」


あの時はもう必死だったのだ。式神で呼んだ秀元は来ないし、そうかと思えば呼んでもないのにぬらりひょんは来るし。
羽衣狐と相対した時のぬらりひょんはやはりというか、千年を生きる大妖怪の前にしてみればどうしても劣る。
私を助けに来たのだろうと察しは付いたけれど、それにしたって怪我を負うばかりで。速く逃げて欲しいと思うのは当然のことだ。


「良い女じゃな、お姫さんは」
「……やめて、そんなんじゃないわ。ただ……」


ただ、死んで欲しくなかっただけ。
相手が死ぬくらいなら自分が、なんて。お綺麗な自己犠牲の信念を掲げていただけだ。
今となってみれば、捕まっておいて逃げろだなんてどの口が言うのか、と思うくらい。


「……狒々も、あの時来てくれて、ありがとう」
「いやあ、ワシは総大将が暴れると言うからついてっただけでな」
「妖怪ってどうしても見た目が恐ろしいから怖じ気づいてしまうけれど……奴良組の妖怪は優しいわね、皆」
「……そうか?」
「そうよ。……貴方のことも、誤解していたみたい」


きっと狒々は優しい人だ。他の妖怪達と同じように。
勿論全てに優しいわけじゃない。この人が私に優しいのは私がぬらりひょんの妻だから、それだけだ。
それだけ、だけど。
優しいことには変わりない、から。
恐ろしい能面に隠された素顔は、きっと柔らかいのだろう。


「段々と、慣れていくと思うから。それまで待っていてくれる?」
「キャハハハ、任せとけい。妖怪は何百年も生きるからのう。お姫さんの事ぐらいいつまでも待つさ」
「ふふ、ありがとう」


やっぱり、優しい人だ。


「……そうだ、買い物ついでに少し寄りたい場所があるのだけれど」
「ん? 何じゃ、米か? 醤油か? む、さては酒か!」
「どれも違うわ。……重たいものじゃないから、一人で見ようと思っていたのだけれど。貴方の助言があったら嬉しいかもしれないわね」
「助言?」
「そう。お願いしてもいいかしら」


そっと狒々を見上げる。能面の隙間から覗く瞳が、ゆるりと弧を描いた。


「勿論じゃ。この大妖怪狒々様に、どーんと任せとけ」
「あら、それじゃあ頼ってしまおうかしら」
「で、どこに行くんじゃ?」
「目当ては付けてるの。確かこっちの方よ」


先んじて歩き出す。その後を、狒々がのろのろと着いてきた。
気が付けば真上にあった太陽が、僅かに西に傾いている。
ゆらゆらと揺れる二つの影は、少しだけ長い。


「ねえ、狒々」
「ん?」
「……ありがとね。今日、着いてきてくれて」
「なんじゃ急に」
「ふと思っただけ。気にしないで」


今日狒々と話すことがなければ、私は彼の事を誤解したままだったかも知れない。
よく笑って、ぬらりひょんと仲が良くて、強くて……それからとても優しい大妖怪。
こういう人がいてくれたなら、奴良組もきっと安泰だ。
私は彼の横顔に、くすりと一つ微笑んだ。



















「……それで、買ってきたのがこの本と」
「そう。それで作ってみたの、どうかしら」


京で評判になっている、和菓子の作り方を書いた本が江戸に入ってきたと聞いて、気になってはいたのだ。
だから丁度良い機会だし、作ってみて奴良組の皆に振る舞おうということで。
私の手元には、大量に作られた様々な形の練り切りが用意してあった。


「狒々もね、和菓子なら好きな者はいっぱいいるし、いいんじゃないかって言ってくれたから」
「ほーん。どれ、一つ味見を」
「あ、こら!」


止める間もなく、ひょいとぬらりひょんは近くにあった練り切りを口に入れた。
もごもごと口が動くのを、思わず呆れた顔で見つめてしまう。


「む! 美味いな!」
「そう? ならよかった」
「団子の時も思うたが、珀姫は料理が得意じゃのう」
「別に……昔から作る機会があったってだけよ。それより……」


少し言い淀んでしまって、ぬらりひょんの目線がこちらを向く。
何だかちょっぴり恥ずかしくて、でもここで黙ってしまうと余計違和感を与えてしまうかもとも思って。


「これで……仲良く、なれるかしら」
「は?」
「っ、だから……皆と、仲良くなれたらいいなって、思って……」
「……だからこの練り切りを作ったと?」
「そ、そうよ。……らしくないなんて分かってるわよ」


妖怪と仲良くなりたい、だなんて。昔の私なら絶対に考えなかったことだ。
それでも、あまりに怯えられるのは気分が悪いし、何よりこの先ずっと共にいるのだから、仲良くなりたいと思ったって悪くはないだろう。
……相手がそれを望んでいるかは、分からないけれど。


「……大丈夫じゃろ。あいつら珀姫のこと噂しとったしな」
「噂?」
「総大将の嫁に相応しい胆力だ、つってな。まあ 花開院の血に怯えとるやつもいるかもしれんが、アンタが友好的な態度をとりゃああいつらだって悪い気はしねえさ」
「……そう思う?」
「おう。ワシの目利きに間違いはねえ」


あんまりにも、ぬらりひょんが自信満々な態度を取る物だから。
不安な気持ちはなりを潜めて、私は思わずくすりと笑ってしまった。


「練り切りで仲良くなれるかな、なんて単純かとも思ったのだけれど」
「いやあ、アンタよりここらの妖怪の方がよっぽど単純じゃ。安心せい」
「そう? ……なら、渡してこようかしら」
「おう。あ、ついでにワシの分ももう一つ頼む」
「貴方さっきつまみ食いしてたじゃない」
「味見じゃ味見。だからもう一個、な」
「もう……」


くすくす笑って、続きのお菓子作りに挑む。
その後ろ姿を小妖怪達がこっそり眺めていることも、私の仲良くなりたい発言が噂となって奴良組を駆け巡ることも。
今はまだ、知らないままで。





縁側の方が賑やかになったのを感じて、私は立ち上がった。
日が沈み、茜色の空が紫へと変わったこの時間。
そろそろ人々が眠りへと落ちようかというこの頃に、奴良組は活気づく。


「いやー、久し振りの出入りですな」
「全く。総大将が魑魅魍魎の主となってから楯突く輩なんざ、そうはいませんでしたからのう」
「キャハハ、楽しみじゃのう」


縁側へと足を向ければ、妖怪達のそんな声が聞こえてくる。
そう、今日は私が奴良組に来て初めての出入りだった。
どこの組だったか、奴良組に調子づくなと悪態ついてきた者がいるらしく。ならば戦ってどちらが上か決めようじゃないかとなったらしい。
奴良組の妖怪達は戦いが好きらしく、いつになくそわそわしており。中でも一つ目や牛鬼、狒々なんかは特に楽しそうだった。


「もう出るの?」
「おう珀姫。そうじゃな、もう時期に」
「危ないことしないで、なんて言えないけど。……気を付けてね」
「何じゃ、不安か? 心配せんでもワシ等は強いからのう、死ぬことなんざそうそうねえさ」
「怪我をこさえてくるのも出来ることなら控えて欲しいのよ。もう……」


怪我をするのは人間だろうが妖怪だろうが心配なことには変わりない。
手当ては出来るけれど、私には珱姫のように傷を立ち所に治す力なんてのは備わっていない。
妖怪の快復力が強いのは知っているけれど、出来るなら傷一つなく戻って来て欲しいのだ。


「……行ってらっしゃい」
「ああ。――行くぞおめえら!! 奴良組の決戦じゃ!!」
「おおおおおお!!!!」


軽く手を振って、勇んで去って行く妖怪達を見送る。
妖怪の中に雪麗がいるのを見つけて、ちょっとだけ羨ましくなった。
いいな、戦えるの。力になれて、危ない時には守ったりなんかもできるんだろう。
私は陰陽術を使えるけれど、でも妖怪の中に混じって戦ったりなんてできない。
妖怪は妖怪、陰陽師は陰陽師。結婚しようと何しようと、それは変わらないんだから。
……今更だけど、生まれつき妖怪なの、いいなあ。

そんな、考えたってどうしようもないことを考えて。
私は溜息を一つ零して、くるりと踵を返した。
























出入りにどれくらいの時間がかかるかは、その時によって違うらしい。
手強い相手なら長く、弱い相手なら短く、そうでなくても相手の大将と気が合って、義兄弟の杯を交わすならそれなりに時間もかかるのだとか。
先に寝ていて良いと言われたし、風呂も食事も済ませて布団に潜り込んだけれど、でも去って行く彼等の姿が瞼の裏に焼き付いて離れない。
怪我をしていたらどうしよう。呪いを受けたらどうしよう。
……ああ、夜は悪いことを考えてしまう。考えても意味なんかないのに、考えて、考えて、眠れない。
はやく、戻ってこないだろうか。奴良組の凱旋だ、なんて楽しげに言いながら。
そうしたらこの気持ちも、ほんのちょっとは落ち着くのに。


「……はぁ……」


何度目かの溜息をついた、その時だった。


「たっだいまー!!」
「帰ったぞ〜!!」
「!!」


玄関口の方が、俄に騒がしくなる。
感じる沢山の妖気。帰ってきたんだ。
呪いの気配は……分からない、妖気が多すぎて感じきれない。
逸る心臓の鼓動を押さえて、私は羽織るものもとりあえず、急ぎ足で玄関へと向かった。


「お、お帰りなさい」
「おお姫様」
「奥方様、戻りました」
「総大将、珀姫様ですよ」
「おう。珀姫、帰ったぞ」
「ええ……お帰りなさい」


沢山妖怪がいて、誰もが家族だとは思っているけれど、でもどうしたって私の目線はまず真っ先にぬらりひょんへと向かってしまう。
妖気に乱れはないし、呪いの気配もない。怪我は……していないみたいだ。
ほっと胸を撫で下ろす。そのまま微笑めば、ぬらりひょんもまた笑みを返してくれた。


「寝ていていいと言ったが、起きておったのか」
「……なんだか、眠れなくって。大事はない?」
「ああ、ワシはな。ただちょっと……」
「……?」


ぬらりひょんが振り向く。何だか嫌な予感がして、恐る恐るそちらの方に目を向ける。
人混みの中から出てきたのは、雪麗だった。
着物の裾が、赤く染まっている。


「! 雪麗、どうしたのそれ。怪我したの?」
「別にこんなの、大したことないのよ。ちょっとざくっとやられただけで」
「まあ妖怪じゃし、すぐ治るとは思うんじゃがな。一応手当てしてやってくれるか」
「いいわよそんな、大袈裟にしなくて」
「駄目!」


私の声に、雪麗がびくっと肩を揺らしたのが分かった。
しまった、つい大きな声を出してしまった、と思ったけれど、でも出てしまったものは押さえられない。


「……駄目よ、雪麗。治療するからこちらへ」
「え、ええ……」
「歩ける? 肩を貸しましょうか」
「そ、そんな大事でもないんだけど」
「何言ってるの、大怪我じゃない。ぬらりひょん、ごめんなさい、ちょっと薬箱を取ってきてくれる? 広間に向かうから」
「お、おう」


雪麗の歩行を手伝って、広間へと向かう。
彼女の足取りは思ったよりもしっかりしていたけれど、でも傷付いた方の足を庇うような動きが見られた。


「……大丈夫?」
「だ、大丈夫よこのくらい。アンタが大袈裟なの」
「だって傷が……あ、もうすぐよ雪麗」


広間へと着いて、座布団を近くに寄せる。
雪麗をそれに座らせて、改めて傷を見てみれば、深くはないけれど大きかった。
血も出ている。持ってきてもらった布で圧迫止血しながら、薬箱を開けて傷薬を手に取った。


「ごめんなさい、痛いだろうけど……ちょっとだけ、我慢してね」
「だからこのくらい大丈夫って……いっ」
「薬、しみるでしょうけど……塗らなきゃだから、ごめんね」


白い足に幾筋も赤い血が伝っている。
歩けていたから神経や骨に異常はないだろうけれど、でもかなりの怪我だ。
薬の痛みに眉を顰める雪麗に、申し訳ないと思いつつも治療を施していく。
薬を塗って、綺麗な布を巻いて。……これくらいしか、私には出来ない。
それから、最後に。


「雪麗、動かないでね」
「え? ……っ!」


雪麗の背中に手を回して、ゆっくりと抱きしめる。
目を伏せて、相手のことを思って。
そうすれば、宙に光の玉が浮かんで、静かに雪麗の体に入っていった。


「い、今のって……」
「神通力。心配しなくても治癒力を高めただけだから、安心して。痛くはないでしょう?」
「痛くはないけど……こんな怪我にそんな力、使わなくてもいいのに。妖怪なんだから、すぐ治るわよ」
「……妖怪でも、人間でも。痛いことに変わりはないでしょう?」


すぐに治せるわけじゃない。珱姫と違って立ち所に癒やせたりはしない。
しないよりはまし、それくらいの力だけれど、でも私に出来るのはこれだけだ。


「……まあ、一応礼を言うわ。ありがと」
「どういたしまして。安静にしていてね、傷が治るまでの間は」
「……分かったわよ。だからその顔やめて、調子狂っちゃうわ」


いつの間にか眉間に寄っていた皺を、ぐいと無理矢理伸ばされる。
それに驚きつつも、取り敢えずは大丈夫そうだと息をついた。


「……珀姫」
「なあに、ぬらりひょん」
「ワシにもそれ、やってくれんか」
「は?」


ぬらりひょんが、じとりとした目で私を見ていた。
それ、って……神通力のことだろうか。


「どうして? 貴方も怪我をしているの?」
「んや、無傷じゃ」
「なら良いじゃない、別に」
「よくねえ」
「……? どうして?」


意味が分からない。怪我をしているわけでもないし、妖気に乱れが出るほど疲れているわけでもない。
元気なら神通力なんて使う必要、ないと思うのだけれど。
だけどぬらりひょんは、私の言葉にますます眉を顰めた。


「珀姫、アンタはワシの嫁じゃろう」
「え、ええ……そうだけど」
「ならワシに一番にその力を使うべきじゃねえか?」
「……どういうこと? だって貴方、怪我してないんでしょう」
「してねえが。雪麗や小妖怪達にばっかり使うのは、ずるくねえか?」
「ずるい……?」


ぬらりひょんの言っていることが分からない。
狡いも何も、怪我をしたんだから治癒するのは当たり前のことだ。
首を傾げていれば、雪麗が小さく溜息をつき、私の耳元へ口を寄せて言った。


「ようするに、自分も抱きしめて欲しいのよ」
「……は? ……なんで?」
「悋気よ悋気。妾が珀姫に抱きしめられてるのが羨ましくなったのよ」
「……」


悋気。まさか、そんなわけ。
そう思ってぬらりひょんを見る。不機嫌そうに顰められた眉、ぶすくれたような形の唇。
……え? もしかして、本当に?


「ほれ、珀姫。こっちじゃ」
「……」


そろそろと近寄って、ぬらりひょんの首の後ろに手を回す。
するとすぐさまぬらりひょんの腕が私の背中に回って、何だかちょっとだけ恥ずかしくなった。
目を伏せて、思いを込めて。光の玉が、ぬらりひょんに吸収されていく。
それが終わって手を放しても、ぬらりひょんは腕を離してくれなかった。


「ぬらりひょん、したわよ。これで終わり」
「おう。確かに凄いな、アンタの力は。疲労回復にぴったりじゃ」
「そう。……あの、離してくれない?」
「嫌じゃ」
「は?」


ぎゅ、と。抱きしめられる力が強くなった。
離れようとぬらりひょんの肩に手を置くけれど、妖怪の力に適うわけもなく。


「アンタから抱きしめられるなんざ、そうないからのう。もう少しだけ堪能させてくれ」
「え!? いや、これ抱きしめてるって言うか、神通力発動させてるだけなんだけど」
「まあ細かいことはええじゃろ」
「よくないわよ、離して」
「もうちっとじゃ」


押し問答である。これはまさか、本当に焼きもちを妬いていたんだろうか。
ぐぐぐと体を離そうと手に力を込めてみても、ぬらりひょんはびくともしない。


「ちょっと!」
「んー?」
「んーじゃなくて」
「ええじゃろたまには。……な、珀姫」


その言葉が、どこか甘えるような色を含んでいる気がして。
……悋気、か。全く、面倒な事だ。
私は一つ、溜息を落として。ぬらりひょんを拒んでいた手から力を抜いた。


「……少しだけね」
「おう」


雪麗からの、呆れた様な視線を浴びながら。
私はたまにはいいかと、そう了承したのだけれど。
その後思いの外ぬらりひょんが離れず、布団に戻る時間がなくなってしまったことは、失敗談である。








「あ、珀姫様!」
「奥方様、こんにちは!」
「こんにちは〜!」
「ふふ、こんにちは。今日も元気ね、貴方達は」
「そりゃもちろん。元気が取り柄ですんで!」


にか、と笑って言われたその言葉に、私はくすくすと笑みを返した。

あの練り切り騒動から数日。
私は自分でも驚く程に、奴良組の妖怪達に受け入れられていた。
おずおずと練り切りを差しだした時の、驚いた顔。それを食べて更に驚いた顔。よければ仲良くして欲しいと告げた時なんか、目をひんむいて驚いていて。
そんなにつんけんしてそうに見えるだろうか。まあ確かに珱姫のように素直さはないかもしれない。……まさか悪人面なんてことは、ないとは思うけれど。
心配して思わずそっと顔に手を添えたのもつかの間、妖怪達は驚いた顔にじわじわと笑みを浮かべてくれた。

ぬらりひょんや狒々、雪麗が怖がることはないと、口添えしてくれたのもよかったのかもしれない。
京に来ていなくて、更に陰陽師に対抗するだけの力のない小妖怪なんて、前は一番怖がられていたのに。
今となっては、朗らかに挨拶をしてくれる仲になっていた。


「本日はどのようにお過ごしで?」
「そうね、特に予定はないのだけれど……江戸の街の地理に弱いから、探索でもしようかしら」
「おっ、じゃあワシらが護衛いたしますぞ!」
「珀姫様のことはオレ達がお守りします!」


元気いっぱいのその姿に、思わず笑みを零した。
小妖怪達だから戦闘力はそれほどでもない。だけど守ってくれるというその気持ちが嬉しかったのだ。


「何じゃ、出かけるのか珀姫」
「! ぬらりひょん」
「総大将!」
「こんにちは!」
「おう。珀姫に遊んでもらっとったのか?」
「違いますよぉ、護衛してたんです。なっ」
「そうそう!」


妖怪達のその言葉に、ぬらりひょんも口角を上げた。
やはり総大将である彼は、奴良組の誰からも慕われているらしい。そういえば大阪城に一人で来た彼に、奴良組の面々が着いてきていたな。
自由奔放だけれど強くて憎めない。そんなぬらりひょんが人気があるのは、まあ分からないでもない。


「お、そうじゃ珀姫。暇ならワシとでぇとに行かんか?」
「で……? なあにそれ。異国語?」
「その通り。外つ国の言葉でな、ええと……そう、逢い引きのことじゃ」
「ふうん」


耳慣れない言葉だけれど、ぬらりひょんと話しているとたまにこういう言葉が出てくる。
ぬらりひょんは新しいものが好きだから、外つ国の文化も興味津々なのだろう。
でぇと。聞き慣れない言葉をもう一度頭の中で反芻して、私は笑みを浮かべた。


「じゃあ貴方のおすすめの場所に行こうかしら。江戸で素敵なところはある?」
「おう、勿論じゃ。そうじゃのう……ワシのとっておきの場所に案内しよう」
「あら、それは楽しみだわ」


江戸に来てから、思えば外出なんて買い物くらいのものだった。
それも日用品や食料を買いにいくだけのもの。不満があるわけではないけれど、久し振りの外出に気持ちがそわそわしてしまう。
とっておき、なんて。素敵な響きだ。一体どこに連れて行くつもりなのだろう。


「じゃ、珀姫様。ワシ等はこれで」
「さよなら!」
「えっ、貴方達も一緒に行かないの?」
「流石に夫婦の逢い引きに乗り込むほど無粋じゃありませんぜ」
「総大将もその方が良いでしょ、ねえ総大将」
「確かにな。お前等は烏天狗にでも遊んでもらっとけ」
「あの人遊んでくれないですよお。仕事増やされるんですもん」


ぶすっと唇を突き出して言う小妖怪に、私はくすくすと笑った。確かに、あの生真面目な烏天狗が暇な妖怪に仕事を言い渡すのは目に浮かぶようだ。
お土産買ってきてくださいねーと言いながら廊下を去って行く妖怪達に手を振っていれば、ぬらりひょんがこちらに目を向けた。


「じゃ、行くか珀姫」
「あ、ちょっと待って。誰かに言付けを……」
「いらんいらん。ほれ、行くぞ」
「きゃっ!」


ひょい、と、ぬらりひょんはいとも簡単に私を抱き上げた。
少しだけ慣れたとは言え、そして彼が私を落とすことなどないだろうと言っても、やっぱり浮遊感はちょっぴり怖い。
思わず彼の羽織を掴めば、ぬらりひょんは小さく笑って言った。


「ワシがこの世で一番美しい景色を見せてやる」


その言葉に目を見張る私を他所に、ぬらりひょんは空へと大きく飛び出した。




















「着いたぞ珀姫、ここじゃ」
「……?」


ひょいひょいと移動するぬらりひょんの浮遊感に、恐ろしくなって耐えきれず目を瞑ったままいれば、不意に動きが止まってぬらりひょんの声が聞こえた。
そっと下ろされ、恐る恐る、目を開ける。そうして見えたものに、私は思わず息を飲んだ。


「……っ」
「どうじゃ、見事じゃろう?」
「え、ええ……」


そこにあったのは、京でも中々見ないほど立派な、大きな藤棚だった。
淡い色をしたもの、濃い色をしたもの。薄い桃色や、白の藤もある。こんなにも沢山の藤の花は見たことがない。
爽やかな青い空に広がる色とりどりの藤の花。正に圧巻であった。
声も出せずに見惚れていると、視界にひょいとぬらりひょんが入って来た。


「アンタを初めて見た時思い出したのが、この藤棚じゃった」
「初めて……? あの夜、貴方が不法侵入してきた時のこと?」
「不法侵入と言うな。逢い引きじゃ」
「逢い引きではないわよ絶対に」
「……アンタは知らんじゃろうがな、ワシはその前に、アンタを見とる」
「え?」


その、前?
思い返してみても、あの一件より前にぬらりひょんの姿など見たことがない。
これだけ強烈で凛々しい容姿の男。口を開けば飄々として、こちらをからかってくるような妖怪なんて、一度見れば忘れられるはずがないのに。
首を傾げていれば、ぬらりひょんはくつりと笑った。


「アンタが……妖怪を滅しているところじゃ」
「! な、んでそんな、とこ……」
「いやあんまりにもアンタの噂が凄まじかったから、確かめに行ってやろうと思ってな」
「……っ」


ドクン、と心臓が鳴った。嫌な汗が頬を伝う。
妖怪を滅しているところ、なんて。
そんな、そんなの。


「……貴方にだけは、見られたくなかったのに」


だってそうだろう。妖怪退治なんて私が陰陽師としてやっていることの最たるもので、妖怪からしてみれば仲間を殺されているところなのだ。

思わず目を伏せる。ぬらりひょんの顔が見られない。……怖い。
何て思われたんだろう。恐ろしい? 憎い? それとも……ああ駄目だ、嫌な方ばかりに考えが行く。
けれどそんな私の耳を打ったのは、ぬらりひょんの柔らかい声だった。


「それが、アンタに興味を持った切欠じゃ」
「は……ど、どうして?」
「アンタ、謝っとったじゃろう」
「……え」
「妖怪を倒した後じゃ。ごめんなさい、ってな」


それならば、心当たりはある。
妖怪を倒して、その罪悪感に耐えきれず謝罪するなんて、陰陽師らしくないことをするのは私位のものだ。
こくんと頷けば、ぬらりひょんは笑った。


「姫君とは言え陰陽師、しかも花開院の人間が、妖怪に謝罪するなんぞ普通あり得んじゃろ? じゃがアンタの瞳も、声も、本当に沈んでいた」


己の行いを悔いていた。そう、ぬらりひょんは言う。
有り得ない。確かにそうだ。でも私は、自己満足だとしたってせめて何か言わなきゃ、奪った命の重さに耐えきれないから。


「戦闘時の強く光る瞳とは打って変わって儚くてな。……アンタという人間が、欲しくなった」
「……だから、あの夜忍び込んできたの?」
「おう。欲しいと思ったら我慢はしない性分でな」


あんなの、綺麗でもなんでもないのに。
ただの、私の弱いところが出ただけなのに。
なのに、そこを見て、私を欲しいと言ってくれたの?


「……変な人」
「なんだそりゃ」
「褒め言葉よ」
「ならいいが」


じわりと目に浮かんだ涙を、何でもないふりをして拭った。
そう、見ていたの。
……見ていた上で、私を欲しがったの。
あんな、誰からも肯定されないような、弱い私を見て。


「……珀姫? どうした?」
「……ううん、なんでもないの。……なんでも、ないのよ」


心に広がったのは、嬉しさだった。
誰にも打ち明けられなかった、私の苦しいところ。弱いところ。
それを、知っていてくれる人がいる。
知った上で、それでいいと言ってくれる人がいる。

ちょっとだけ、救われた気がした。


「……それにしても、本当に綺麗な藤の花ね」
「そうじゃろう。ここも本家の土地じゃが、この時期になると人間が花見をしに来る。ま、アンタの美しさには適わんが」
「っ、すぐそうやって人を口説く……!」
「本心じゃ。安心せい」
「どこに安心しろって言うのよ……全く」


はあ、と一息ついて。私はぬらりひょんを見上げた。
彼の金色の相貌に、様々な色合いの藤が映っている。
……綺麗だな、と。言うともなしに思った。


「何じゃ?」
「いえ……何でも」
「そうじゃ、気に入ったんならこの藤棚、丸ごと本家の庭に移すか。そうすりゃいつでも見られるしな」
「は!? そ、そんな大変な作業、どれだけ手間と時間がかかると思って……!」
「烏天狗にでも任せときゃええじゃろ」
「貴方は彼を酷使しすぎ。……いいのよ、このままで」


確かに、ぬらりひょんの瞳に映る藤の花は綺麗だけれど。
囲っておくには勿体ない美しさだから、いいのだ。

その代わり。


「もう少しだけ、ここにいてもいいかしら。あとちょっとだけでいいの」
「うん? 構わんよ、アンタの望みなら」
「ありがとう」


風に靡く髪を押さえ、藤の花を見上げる。
藤は確か、寿命のとても長い花だ。時に千年を超えることもあると聞く。
奴良組の土地の端でひっそりと、でも柔らかく、優しく。
彼等を見守っていって欲しいと、私は藤棚に願いを託した。






その日は、思えば何だか朝から少しおかしかった。


「……ん、」


朝日が昇る前、まだ寝室の中は薄暗い、そんな時間。私はいつものように目を覚ました。
目の前には整った容貌の男。見慣れた顔のぬらりひょんである。男前はこういうときも整っていて羨ましい。
背中に回されたぬらりひょんの腕からよいしょと抜け出しつつ、私は一つ欠伸をした。


「ふぁ……っ?」


口を開けた時、何か……ちょっとだけ、気持ち悪くなったような。
……? 気のせい?
閉じた口に手を当てて首を傾げるも、一瞬だけの気持ち悪さはすぐにかき消えてしまう。
寝不足だろうか。昨日も特にいつもと変わりない時間に寝たのだが。

……まあ、いいか。

気のせいだと言うことにして、私は布団から起き上がった。
ぬらりひょんと同じ寝室であっても、布団は別。そのはずなんだけれど、起きるといつも彼は私の布団に侵入し、私を抱きしめて寝ている。
別に寝苦しくはないから構わないんだけれど、寝づらくないんだろうか。

ぬらりひょんを起こさないようにそっと上着を羽織って、寝室を出る。
夏も近付くこの季節、外は日が昇っていないとはいえ、寒さは大分ましになっていた。

この時間に起きている者は、本家ではほとんどいない。たまに昨夜の宴の名残で潰れている者が広間にいることもあるが、あれは起きているに換算していいのだろうか。
私が起きるのは別に誰かに強要されたとかではなく、ただの習慣である。花開院家にいた頃、誰より早く起きて家事をするのが女の仕事だったのだ。
自室について、着物を選んで。さあ着替えようとした時、再びの違和感に気が付く。


「……霊力が、暴走してる」


本来なら使おうと意識しなければ使えない、それが霊力である、はずなのだが。
式神を出す時ほどではないにしろ、仄かに私の体が霊力を帯びている。
……何故。


「……?」


幸い、これくらいじゃ妖怪の身には危害を加えられないから、いいようなものの。
私は眉を顰めつつ、何とか霊力を沈めるよう意識した。


思えばこれも、予兆だったのだ。
















「……ふう」


ことん、とまな板に包丁を置く。今日はどうも、体の調子が優れない気がする。
なんというか、気怠い、というか。別に何をしたわけでもないのに、激しく体を動かした直後のような倦怠感がある。
なんだろう。何かしたっけ。昨日は確か、普通に買い物に行って、帰りにちょっとだけ藤棚に寄って帰ったくらいだ。
……運動不足が祟ったか。花開院にいた頃は妖怪に襲われるのもしょっちゅうで、式神を使うのも珍しくない。
霊力の発散不足? ……そんな話、聞いた事ないけど。


「珀姫様、こちらは如何いたしましょう?」
「どこまで出来たの? ああ、火が通ったのね。じゃあ調味料を……ええと、醤油とみりんと酒と、同量ずつ入れてくれる?」
「了解でやんす」


奴良組の厨は基本的に、女妖怪達が仕切っている。
雪麗もたまに混じってくれるけれど、彼女は雪女ゆえに暑いところが得意ではない。そのため火を使う過程になると、勝手場を離れて涼みに行くのだ。
だから大抵は、奴良組の妖怪の妻や娘が協力してくれる。私が嫁入りしてからは、女主人として厨を取り仕切ることになったけれど、でも彼等がいなければ回らない。
なんせ本家の妖怪は十や二十ではない。それだけの料理、一人でなんてとてもじゃないができない。
幸い協力して料理を行うのは花開院で慣れていたし、多少勝手は違うがもう慣れた。
さて、私も切った材料を鍋に入れて――と、思った時。


「米が炊けましたよ〜」
「わ、良い匂い!」


妖怪の一人がぱかんと、釜の蓋を開ける。
ふわりと漂った湯気。香る、炊きたての米の匂い。


「……っ、う」
「美味しそ〜。もうこのまま食べちゃいたいよね」
「分かります分かります。一口くらいならばれないんじゃないですか?」


賑わう勝手場。その横で、私は思わず口を押さえた。
米の匂いを嗅いだ途端沸き上がる、強烈な吐き気。駄目だ、ここで吐くわけにはいかない。
……いかない、のに。
きもち、わるい……っ。


「……貴方達」
「はい! ごめんなさい珀姫様、冗談です!」
「……ちょっと、離れるわね」
「え? は、はい」


それだけ言うのが、限界だった。
口を押さえたまま急いで厨を離れる。裏口から外に出て、少し離れた草むらで。


「……う、おえっ……!」


吐き気に任せて、胃の中のものが全部出ていった。
きもちわるい、気持ち悪い……。なに、これ……。


「ぐ……っ、う……」


粗方戻すと、少しだけ楽になる。
胃酸が喉元を焼く感覚に眉を顰め、私は息をついた。

朝から食べた魚が傷んででもいたのだろうか。
それとも野菜? 米? 分からない。
でもそうすると、私だけ気分が悪いというのはおかしいのでは?
私は蹲った体勢のまま、ぐるぐると頭だけを回した。


「……ふ、う……」


口元を布で拭って、後処理をして。
水の一杯でも貰おうと、立ち上がる。瞬間。


「……っ」


ぐらりと感じたのは、天地が逆になったかのような目眩だった。
思わずその場に崩れ落ちる。着物が汚れてしまったけれど、そんな事気にしている暇はなかった。


「う……」


ぐるぐると目の前が回る。少し楽になったはずの吐き気が再び襲ってくる。

……本当に、何これ。

私は暫く、その場から動くことが出来なかった。














「……、……姫、珀姫!」
「!」


はっとなって、私は気を取り戻した。
握っていた竹箒。中途半端に集まっただけの枯れ葉。……庭の掃除中に、ぼうっとしていたらしい。
努めて笑顔を浮かべ、私は振り返った。


「なあに、ぬらりひょん」
「あんた……大丈夫か?」
「……大丈夫って、何が?」
「何がって……」


ぬらりひょんの訝しげな視線。分かってる。
ここ最近の、体調不良のことだ。

まず、料理が出来なくなった。
米の匂い、煮物の匂い、肉の匂い。そういった、今までは何とも思っていなかったものが、途端に不快に感じるようになったのだ。
嗅ぐと途端に吐き気が襲う。すぐにでもその場を離れなければ、吐いてしまうくらいに。
だから食事もまともにできなくて、最近は野菜やら酢の物やら、そういったさっぱりしたものを最低限しか摂れていない。

それから、頭痛と目眩。
立ち上がった瞬間だとか、くるりと振り向いた瞬間だとか。
そんな何でもないような時に、不意に視界が回るのだ。
ずきずきと頭が痛んで、会話にも碌に集中できなくて。
何度も聞き返してしまって、不信感を覚えさせたことも一度や二度ではない。

後は……そう、怠さだ。ここ最近、運動もそんなにしていないのに、倦怠感がつきまとって離れない。
おかげで朝中々起きられなくなったし、昼間もうとうとしてしまう。
……風邪でもひいただろうか。情けない。


「体調じゃ。一度医者に診て貰うか」
「大袈裟ねえ。平気よこれくらい。ただの風邪だと思うから」
「平気じゃねえだろ。ここ最近のアンタは明らかにおかしい」
「あら、失礼しちゃう。……大丈夫、心配しないで」


おかしいなんて、自覚している。
でも平気、大丈夫。このくらい、なんでもない。
そう自分に言い聞かせて、私は出来るだけ以前と変わらない生活を送るようにしていた。

だって、奴良組の奥方が体調不良なんてなれば、妖怪達に心配をかけてしまうから。
それに、産まれた時から言い聞かせられている。相手に弱みを見せないように、強い心でいなさいと。
それは妖怪退治の面でもそうだし、様々な考えを持つ人間がいた 花開院内でもそうだった。
だから大丈夫。私はこのくらい、我慢出来るのだから。


「それより、今日の夕餉は何にしようかしら。希望はある?」
「……珀姫!」
「!」


ぐい、と肩を掴まれて向き合わされる。痛くはないが強い力で、驚いて箒が落ちてしまった。
ぬらりひょんの真剣な瞳が、私を射貫く。思わず息を飲むと、ぬらりひょんは口を開いた。


「誤魔化すな。我慢するな。……嘘をつくんじゃねえ、珀姫」
「う、そなんか、ついてないわ」
「アンタをどれだけワシが見とると思ってるんじゃ」
「な……」


大丈夫だって、言ってるのに。
そう、言わなくちゃいけないのに。
ぬらりひょんは、正直になれと強く訴えてくる。


「頼むから、無理するんじゃねえ」
「……してないわ」
「珀。……心配なんじゃ」
「……」
「……ワシはアンタを失いたくねえ」


失う、なんて大袈裟な。
そんな風に、笑い飛ばせたらよかった。けれど。
掌の熱が、瞳の真剣さが、それを許してくれない。


「何かあったんじゃろう。頼れ、珀姫」
「……別に、」
「……ここは花開院じゃねえ。アンタを縛るものは何もねえ。……正直に言ってくれ」
「……っ」
「辛いじゃろう、珀姫」


そうやって、抱きしめられれば。
もう、無理だった。


「っ……う、」
「! ……珀姫」
「ご、めんなさい……っ」


つらい。そう、つらいのだ。
気持ち悪くてご飯が食べられない。料理も出来ないから役に立てない。
四六時中、いつ何時目眩や頭痛が襲うか分からないから気を張っている。
大丈夫だと言わなければならない、その重責が襲ってくる。

でも、本当は。
ぼろりと、目から涙が落ちた。


「……ふ、ううっ……」
「……大丈夫じゃ。ワシが何とかしてやる」
「……ごめんなさい。私……」
「謝るな。アンタは何も悪いことしてねえだろ」
「……ん」


ふわりと香る、ぬらりひょんの匂い。
それは心地よくて、安心できて、……嘘を、許してくれない。
縋るようにぬらりひょんの羽織を握ると、彼は黙って髪を梳いてくれた。
その優しさが、温かかった。

















「ふむ、これは……」
「……」


あれからすぐ、私は寝室へと運ばれた。
いつの間にか敷いてあった布団に寝かせられ、動くなと強く言い聞かされて。
その言いつけを守って黙って待っていれば、ぬらりひょんが妖怪を連れてきた。
鴆、というその妖怪は、奴良組お抱えの医師らしかった。

ぬらりひょんは一旦外に出され、問診、後の触診。
それらから、彼は結論を出したらしい。


「んー……まあ私も人間の病に詳しくはないんですが、恐らく間違いないかと」
「……病、ですか」
「ああいえ、この場合は……違うでしょう」
「……? 違う、とは」


風邪ではないのだろうか。
まあ確かに、風邪にしてはおかしな点もあるけれど。
まさか、それより更に大きな病だったりするのだろうか。
……いや、そんなの考えたくもない、けれど。

死刑を宣告される罪人のような気持ちで待っていれば、まさか、鴆は笑みを浮かべた。


「おめでとうございます、奥方様」
「……は、」
「ご懐妊です」


ご、かいにん。
その言葉が、頭の中でぐるぐると回った。













「珀姫!」
「!」


鴆が出ていった後、入れ替わるようにぬらりひょんが入って来た。
本人から聞いた方が良い、とのことらしく、彼は不安げな表情を浮かべている。


「ぬらりひょん……」
「大丈夫か」
「え、ええ……」
「気分の悪いところは? 水を持ってこさせるか」
「い、いいわよ別に……」


やけに心配性だ。こんなぬらりひょんを見るのは、私が羽衣狐に串刺しにされて以来だろう。
……そう、心配してくれているのだ。
だから私は、その憂いを取り除くように、笑みを浮かべた。


「大丈夫。病じゃないんですって」
「……病じゃ、ない」
「そう。だから安心……きゃっ」


気付けば私は、ぬらりひょんに抱きしめられていた。
驚いたのもつかの間、彼の安心したような吐息が聞こえる。


「……よかった……」
「……」


ちょっと恥ずかしい。離れて欲しい。
……でも。
ありがとうと、その意味を込めてぬらりひょんの背に手を回す。
彼は暫く息をついた後、ゆるりと手を放して言った。


「じゃあ何だったんじゃ?」
「……驚かずに、聞いて欲しいんだけど」
「おう」


まあ、無理だろうけど。
私はぬらりひょんの耳に口を近付け、囁くように言った。


「……やや子が、できたって」
「……は、」
「あ、やや子って言うのは……ええと、」
「……」


やや子は方言だ。江戸だと何て言うんだっけ。
……いや、普通に赤子でいいのか。
そう思っているうちに、私はふと違和感に気付く。
ぬらりひょんが、動かないのだ。


「……ぬらりひょん?」
「……」
「ちょっと、聞いて……ひっ」


がばり。それまで黙り込んでいたぬらりひょんが、唐突に顔を上げた。
その勢いに驚くも、彼の顔を見る限り、ぬらりひょんはもっと驚いていたらしい。
美しい瞳をこれでもかと見開いて、私の方を見ていたから。


「……赤子か」
「え、ええ……」
「……子ども、」
「そう。……私と、貴方のね」


驚いている彼に、子どもにでも言い聞かせるように、静かに言う。
彼はじわじわとそれを受け入れたらしく、やがて顔に笑みを浮かべた。


「そう……そうか。子どもか……」
「……うん」


言わなくたって分かる。だってこんなに嬉しそうなぬらりひょん、見たことがないもの。
私はそっと、下腹部に手を当てた。
今はまだ平たいこの腹に、子どもがいるのだ。
信じがたいけれど、でも最近の体調不良を悪阻だと言い当てられてしまえば、納得するしかなかった。


「じゃあ、どうしてアンタはそんなに不安げなんじゃ?」
「……え」


ぬらりひょんの言葉に、思わず固まった。
……不安げ。まさか、どうして。
気付いていたのかとぬらりひょんに目を向ければ、彼は呆れた様子で目を眇めた。


「あのなあ、嘘をつくなと言ったじゃろう」
「……いえあの、嘘って言うか……」
「アンタ、まだ何か抱えこんどるな? ……話してみろ。受け止めてやるから」
「……」


浮かべた笑みが、努めてそうされたものであることに、彼は気付いていたらしい。
本当に、聡い人だ。
私は諦めたように、笑みを崩した。

そう、赤子。つまりは子どもが出来たのだ。
ぬらりひょんと私。妖怪と人間の子。
そして、……そして、妖怪と、陰陽師の娘の、子。


「……最近、霊力が暴走していることには気付いていたの」
「暴走?」
「そう。……それを鴆に話したら……その、」
「……」
「体の中にある妖気に、私の中の霊力が対抗してるって……。……妖気を、潰すために」
「……!」


私の意思と反して。でもそれは、 花開院の血を引いていれば、無理のないこと。
妖怪を潰すために。私の中にいる、やや子を滅するために。
無自覚に、私は霊気を出していたのだ。

ぬらりひょん達のような妖怪には効かないはずの、微量な霊力。
でもこの腹にいるのは、まだ小さな小さな、赤子なのだ。


「っ、ごめんなさい……。私、貴方の子どもを……産めないかも、しれない」
「……珀姫」
「ごめんなさい……本当に、何て言ったらいいか……」


愛した人と、自分の子ども。
何より大切な存在を、自分の手で消してしまうかもしれないと言われた絶望が、分かるだろうか。
血の気が引いた。だってそんなの、あまりにも残酷じゃないか。

かたかたと、震える身体。どうしよう、どう償ったらいいの。
……やっぱり、私じゃ駄目だったのかもしれない。
普通の人間である珱姫、あるいは普通の妖怪である雪麗なら、産めたのかもしれない。
ごめんなさい、なんて陳腐な謝罪、何度言ったって足りない。
でもそれ以外、謝る術を私は知らなくて。
繰り返し謝る私を、ぬらりひょんは見据えて。それから。


「珀姫。謝るな」
「っ、でも……!」
「アンタのせいじゃない」


そっと、私の手に手を重ねてくれる。
落ち着く温もりが、少しだけ私の恐怖を緩和してくれた。


「大丈夫じゃ。きっと術はある」
「……術って、例えば?」
「た、例えば!? んー……ほれ、その赤子はワシの子どもでもあるじゃろ」
「え? ええ、そうだけれど……」
「魑魅魍魎の主の子どもが、そんな簡単に死ぬもんか!」
「……何それ」


根拠のない自信。でも、彼はいつだって、それを可能にしてきた。
くす、と笑ってしまう。本当に適うかもしれないと、思わせられるだけの力が、彼にはあった。


「……ふふ」
「ワシも、鴆に聞いてみる。じゃがこれだけは約束してくれ」
「なあに?」
「……自分を犠牲にはするなよ」
「!」


まるで私のことを、見透かしたかのような言いつけ。
でも今まで私がやってきたことを考えれば、……まあ、無理はないかもしれない。


「……善処するわ」
「善処じゃねえ。約束しろ。……アンタと腹の子じゃ、ワシはアンタのほうが大事じゃ」
「……私はこの子の方が大事なの」
「む、頑固者め。……まあええさ。いざとなったらワシが何とかしてやる」
「何とかって……」
「何とかは何とかじゃ! アンタはそんなこと気にせずもう休め、な?」
「こんな昼間っから休めないわよ。掃除もまだ途中だし……」
「じゃあ代わりにワシがしといてやるから。ほれ布団掛けて。もう寝ろ」
「あ、きゃあ!」


ぼふんと布団を掛けられ、うごうごと手足を動かして見るも彼には適わない。
総大将が掃除なんてしているところを見られたら大騒ぎになる、だとか。
そもそも掃除なんて碌にやったことのない貴方ができるの、だとか。
言いたいことは、たくさんあったけれど。
ぬらりひょんなら、本当に何とかしてくれる気がして。
私は布団の下で、そっと笑みを浮かべた。








鴆の診断から、二週間。


「お、奥方様何を!?」
「何って洗濯を……」
「いけません! これは私がいたします!」
「じゃあ掃除を……」
「なりません! こちらはわたくしがいたします!」
「それなら……」
「珀姫様は静かに寝ていてくださいませ!!」


あまりの勢いで話す女妖怪達に、私は思わず閉口した。

私が子を成したという知らせは、今や奴良組中に駆け巡っていた。
本家のみならず親戚筋、更には珱姫まで。一体誰が知らせたのかは知らないが、「おめでとうございます!」という旨の手紙が珱姫から届いた時は驚いた。
ともかくそれ自体は目出度いこと。奴良組は数日掛けて大宴会を執り行った。
が、しかし。

悪阻で気分が悪くなったり、目眩や頭痛に耐える姿を本家の妖怪達に目撃されてしまい。
私は家事も碌に出来ず、自室に閉じ込められてしまったのである。
安静に、と誰も彼もから言われてしまい。あの一つ目でさえ私から掃除用具を取り上げたのだから、その慌てようはお分かり頂けるだろうと思う。


「おう珀姫、調子はどうだ?」
「ぬらりひょん……」


寝室の布団の上、起きてまだ数刻で眠くもないのに、昼間からだらだらと。
……情けない。まるで重病人のようである。


「ねえ何とかして頂戴。ここ数日全く働いてないのよ、寝てばかりで足に根が生えちゃうわ」
「いいことじゃねえか。鴆も言ってたろ、安静にしとけって」
「限度があります」
「まあアンタは常日頃からくるくる働いてたからな。丁度良い休暇じゃと思ってのんびりせい」
「のんびり……」


のんびりって、どうするんだっけ。
そりゃ私だって、花開院で働き詰めだったわけじゃない。
珱姫の屋敷を訪ねたり、気に入りの甘味処に寄ったり。息抜きしていたころもある。
だがしかし、こんな布団の上に閉じ込められるような経験なぞ今までした事がない。
私が働けない分、他の妖怪達に負担が渡ってしまうし。罪悪感で押しつぶされそうである。


「……はあ。奴良組の妖怪達は心配性が過ぎるのよ」
「そんなことねえさ」
「あるわよ。……別に、病気じゃないのに」


妊娠は病気じゃない。あくまで一般的な女性の体の仕組みだ。
巷の女性達は産気づくまで働くというのに。こんな昼間から布団の中にいたら罰が当たってしまう。
そう言うと、ぬらりひょんは呆れた顔で私を見つめた。


「体調も優れんのじゃろう。ゆっくりするくらい悪いことじゃねえさ」
「でも……眠くもないのに眠れないわ」
「んー……」


どうしても、何もしないというのはやはり居心地が悪い。
ただでさえ嫁入りしてきた身、言わば他所者である。何かしていなければいけない、という意識は常につきまとう。
だが確かに、料理は出来ないし、洗濯していても掃除していても気持ち悪くなることはあるわけで。
倒れて迷惑を掛けるくらいなら、じっとしておいたほうが他の妖怪達にとっては助かるのかもしれないが。
そう思って、ままならない状況に溜息をついた時。


「じゃあこうしよう。ワシも一緒に寝てやる」
「は?」
「ほれ、ちょっと詰めてくれ珀姫」
「え、ちょ……」


ぬらりひょんはさも名案だというように手を打つと、掛け布団を捲って、まさか、本当に潜り込んできた。
確かに毎日起きたら同じ布団にいるとは言え、眠る時は別々だ。なのにこんなの、


「は、はしたない!」
「はしたないってアンタ……」
「と、殿方と同じ布団で眠れるわけないでしょ!」
「いいじゃねえか、夫婦なんだから」
「そういう問題じゃ……」


ぐらり。
声を荒らげるとどうしても頭に響いて、頭痛と目眩が襲ってくる。
思わず頭を押さえて悶えていると、完全に布団に入ってきたぬらりひょんが撫でるように頭に手を置いた。


「大丈夫か?」
「……大丈夫。平気よ」
「本当は?」
「…………。ちょっと痛い」
「じっとしとけ。ワシも休んでやるから。な?」
「貴方が休みたいだけじゃないの……?」
「ばれたか」


じとりと睨んでみても、ぬらりひょんは顔色一つ変えない。
はあ、と溜息をついて、私は渋々彼の行動を受け入れた。
二人分の熱が入った布団は温かい。少しだけ収まった頭痛にほっと息を吐くと、ぬらりひょんが言った。


「……アンタにばかり負担を掛けて悪いな」
「……え」
「変わってやれたらええんじゃが、そういうわけにもいかんしのう。……すまねえな、珀姫」
「……なあに、らしくない」
「本当のことじゃ」


ぬらりひょんは眉間に皺を寄せて、思い悩むような顔をしていた。
頭に置かれた手が、優しく髪を梳く。その心地良さに目を伏せていれば、ぬらりひょんは口を開いた。


「二人の子なのに、しんどいのはアンタだけじゃ。ワシに何か出来ることがあればええんじゃが」
「……別に、そんなこと」
「あるじゃろ。頭痛も目眩も吐き気も、ずっと続くとそりゃあキツイじゃろう。だがアンタはあんまり弱音をはかねえしな」
「それは……性分なのよ」


弱音を吐かない。弱みを見せない。
例えぬらりひょんが許してくれたとしても、産まれた時から言い聞かせられたその言いつけは私を縛る。
だけどそれをキツイとは思わない。だって昔からそうなのだから。


「……別に、悪阻なんてそう長く続くものじゃないわ。後何週間かすれば終わる話よ」
「何週間か耐えなきゃならんじゃろう。……こういうとき、何をしてやったらいいのか、ワシには分からん」
「何って……何もしなくていいのよ、貴方は」
「そういうわけにはいかんじゃろう」
「……心配性ね」


くす、と笑ってみても、ぬらりひょんの眉間の皺は取れない。
この人は優しくて、それ故に私に対して過剰なまでの心配をする。
それは心地良いけれど、でも心配を掛けていると思えば、そちらの方が申し訳ない。


「……平気、って言っても、貴方は信じてくれないんでしょうね」
「アンタは嘘吐きだからな。……悪い」
「……ううん、いいの。……いいのよ」


好きな人との子ども。嬉しくないわけがない。
無事に産まれてくれるかなんて分からない。でもそのためにこの不快な悪阻を乗り越える必要があるなら、私は甘んじて受け入れよう。
少しでも、ぬらりひょんに喜んで欲しいから。


「……そうじゃ、アンタの霊力のことじゃが」
「! 何か分かったの!? っ……!」
「あ、おい落ち着け。……大丈夫か?」
「え、ええ……」


駄目だ、どうにも。大きな声を出すと頭に響く。
ずきずきと痛む頭に手をやりつつも、視線でぬらりひょんに話の続きを催促すれば、彼は不安げな顔をしながらも続けてくれた。


「詳しいことは今カラスに調べさせとるが、要はアンタの霊力を放出して、体に溜まる分を空っぽにすりゃええらしい」
「空っぽ……?」
「ええと、何て言ったらええかのう……うむ……」
「……使い切るってこと?」
「まあ、そういうことじゃ。……分かるか?」
「……なんとなく」


でも霊力を使い切る、ってどうしたらいいんだろう。
私は生まれつき霊力が多かったこともあって、霊力切れなんて起こしたことがない。故に、仕組みが分からない。
是光兄様や秀元が何か言ってなかったっけ。ええと、確か……。


「……あ、分かったわ」
「む?」
「要するに、ギリギリまで陰陽術を使えば良いのよ」
「……それは」
「やったことはないけれど……霊力の上限は把握しているから、出来ると思う」


陰陽術は使い方によっては、人や妖怪を倒すものだけれど。使い方によっては、そうしない道も選ぶ事が出来る。
とはいえ私の知っている陰陽術には限りがあるから、手当たり次第にやって見るしかないのだが。


「……アンタの体に負担はかからんのか?」
「……まあ、少しくらいは平気」
「本当に?」
「……本当に」


負担はかからないかと言われれば、まあかかることに違いはない。
とはいえその方法しかないのであれば仕方がないし、何より使い切るギリギリを目指せば倒れることはないだろう。……多分。


「じゃあ早速……」
「ああ待て待て。流石に今の時期から無理させるわけにはいかん」
「え、でも……」
「今はまだアンタの霊力も微量程度しか放出されとらんしな。まだ腹の子には障らんと言われた」
「……じゃあ、いつからすれば……」
「んー……まあ、悪阻が終わったら、かのう」
「終わったら……」


大体妊娠してから四月経てば、悪阻は治まると言われている。個人差はもちろんあるけれど。
今は三月経ったところ。後一月、持つだろうか。この子の命は。
……否。持たせなければならないのだ。この子の、親として。


「……頑張るわ」
「……。無理はするなよ」


むん、と握り拳を作って言えば、ぬらりひょんはやや呆れた顔をしながらそう言った。
背に腕が回されて、引き寄せられる。心地よい温かさの中で、私は腹部を撫でながら、もう一度思った。

……頑張ろう。この子の、親として。







「式神顕現! �鵠g、白雲、水蓮、飛梅!」
「わあっ……!」


ぱあ、と辺りが明るくなり、四つの破裂音がする。
軽く驚いた声を上げた小妖怪に、ガオ、と獣の吠える声が答えた。


「わはっ! 珀姫様、こいつ何です?」
「これは私の式神の一つでね、白雲というの」
「こっちは?」
「この子は水蓮。ふふ、可愛いでしょう?」
「で、これが�鵠gで、これが飛梅ね?」
「そう。雪麗、正解よ」


奴良組本家の庭には、建物と同じくらいの大きさの、真っ白な毛並みをした犬の式神。
その犬の頭の上には、紫色の毛に金色の瞳の猫が、小さく欠伸をしている。
どちらも私の式神で、犬が白雲、猫が水蓮。それから人型の�鵠gと、鶯型の飛梅。
白雲と水蓮、飛梅は、昔近所にいた動物たちを思い出しながら作った式神だ。
私の式神は、この四体。基本的に�鵠gを使っているけれど、攻撃力で言えば白雲も水蓮も劣らない。飛梅は完全に伝達用だけれど。

中々見る事の出来ない式神達に興味が沸いたのだろう、本家の妖怪達は少し用心しつつも、楽しげに声を上げて集まってきていた。


「でも大丈夫なの? あんた、悪阻は完全に治まってはないんでしょ?」
「もう平気。頭痛も治ったし、吐き気は……じっとしていれば、なんとかね。それより今はこっちが先決よ」
「……いいの? ぬらりひょん」
「いやよくはねえんだが……珀姫にどうしてもと言われてな」
「なるほど、おねだりに負けたわけね」


隅の方で渋い顔をするぬらりひょんと、呆れ顔の雪麗。この二人を含めた幹部達は、式神に恐れる姿は見せない。
まあ、私が襲うわけでもなし。妖怪退治をしない式神はただの動物だ。可愛いだけの。


「猫いる猫! ちょ、誰か化猫組呼んでこい! 勝負させようぜ!」
「ばっかお前、良太猫泣かす気か?」
「ちげーよ可愛さで勝負するんだよ」
「いや可愛さならこっちが上だろ。化猫組おっさんに猫耳ついたやつもいんだぞ化け物だろ」
「妖怪なんだからバケモンに決まってんだろうよ」


ザワザワと騒ぐ声に、くすりと笑みを零す。
刀を持つ�鵠gと、大きな白雲はやはり少しは怖がられてしまう。それに比べて小さな水蓮や攻撃力のない飛梅が、妖怪達からは人気だった。


「珀姫様、こいつら何か一発芸とか出来ないんですか?」
「一発芸? 命令すれば大抵の事は出来るけど……何がさせたいの?」
「三回回って宙返りしたあと火の輪くぐって傘回し」
「いや無理だろ流石に」
「できるわよ」
「すげえ!!」


まあ、火の輪はちょっと危ないから、ご遠慮させたいところだけれど。
やや恐怖を滲ませながらもそっと式神に触る妖怪と、滅する必要がないために甘んじてそれを受けている式神。
普通なら考えられない。だけどその光景は、あまりにも自然で、平和で、美しかった。


「珀姫、体調には大事ないか。式神顕現は精神力を使うのじゃろう?」
「そう。でも私の場合は霊力でまかなっているから平気。全て使って大戦争でも起こさない限りは大丈夫よ」


そっと腹に触れる。まだそう膨らんでもいない、薄っぺらい腹の中にやや子がいるのだ。
そう考えると愛おしい。産まれてくる子のためにも、私は為さねばならないことがあるのだ。


「それとね、ぬらりひょん。式神顕現だけじゃ霊力の上限には達していないの。だからもう一つ、術を行おうと思って」
「術? アンタが平気ならワシは構わんが……どんな術じゃ?」
「結界術よ。聞いた事はある?」
「ん……結界? 秀元が京の町を覆うようにして掛けた、あの術か?」
「ふふ、正解。案外物覚えがいいのね」


流石に秀元くらいの術をかけるとなると、私の力量では無理がある。あれは彼の天賦の才故に行えることだ。
結界術は式神とはまた異なる分野の能力を使う。でも霊力で代用できる点においては同じだ。
それにどうせかけるのであれば、役に立つものがいい。血気盛んな奴良組の妖怪達を、少しでも守れるような。


「これをね、作ろうと思って」
「ん? なんじゃ?」


袂から出した紙を広げる。中には墨で書いた、結界の説明や作り方が細かく記されていた。


「えーと、なになに……紫水晶? なんじゃそれは」
「平安の頃に書かれた書物の中にあった、紫の石よ。書物の中では紫石英と呼ばれていたけれど、まあ呼び方は様々ね」
「ほお……」
「書物の中では不老長寿の薬として扱われていたわ。とはいえ、信憑性はあまり高くないの。でも石によっては力を持つものがあって、花開院では相性の良い石を術の触媒として使う者もいたわ」
「それが、アンタにとってはこの石じゃと?」
「そう」


藤色に輝く透き通った石。紫水晶。あまり普及しているものではなく、私も数えるほどしか見たことはない。
けれど持っていると不思議と心が落ち着いて、術の効き目もよくなった。気がするだけかもしれないが、陰陽術は感覚を大切にするから、そういうのも大事なのだ。


「……買ってやりてえが、見たことがねえな。どこに売っとるんじゃ?」
「そうねえ……外つ国からの輸入品を探せばあるかもしれないけど。でも探す必要はないのよ」
「ほう?」
「珱姫がね、引き取られた家があったでしょう。親戚筋の。あのお家がそういう、外つ国とのやりとりなんかに詳しくてね。相談したら、形の歪なものでよければ安く譲ってくれるというの」
「歪なものでいいのか?」
「ええ。形はこちらで整えるから大丈夫。その紫水晶に、私の血を混ぜた墨で書いた呪符を貼るの」
「血? ……大丈夫なのか?」
「平気よ、少しだけだから」


呪符の効力は、はっきり言ってそれほど高くはない。流石に結界内に入った妖を全滅させるとか、そんなのは秀元くらいしか出来ない術だ。
ただ範囲を広げ、できるだけ長く持つように耐久性も加える。そして、どんな術をかけるのかといえば。


「受けた攻撃の威力を、少しだけでも軽くさせる術」
「ふむ」
「奴良組は血気盛んな子達が多いでしょう。妖怪としてはそういうのが正しいのかもしれないけど、でも無鉄砲では危ないと思うの」
「あ〜……まあ、一理あるな」
「だから私の血の力……神通力の力で、結界内の奴良組や、それに属する妖怪の生命力を少しだけ高くして。そうしたら、多少無茶な戦い方をしても大丈夫でしょう?」
「何でも出来るなアンタの力は……」
「なんでもは出来ないわよ」


それと範囲。出来れば日本全土を囲みたいけど、流石に身重の体でそれは無茶が過ぎる。
なので奴良組が現在支配している土地までを囲んで、東西南北の最もせり出した位置に水晶を埋めるのだ。
耐久性は長く、長く。私が死んだら終わり、なんてそんなの役に立ちやしない。
だから出来れば千年、少なくとも五百年。……いけるかいけないかは、やってみないと分からない。


「さて、そうと決まれば旅の日取りを決めないと」
「旅?」
「そうよ。奴良組の支配する土地をぐるっと回るんだから、日程はどうしてもかかるわね」
「は!? 止めんか無茶は! アンタは今一人の体じゃねえんだぞ! やるなら代わりにワシが……!」
「仕方ないじゃない、私が埋めないと意味がないんだから。陰陽術に関わるものを持って、妖怪がどんな影響うけるかなんて分からないのよ?」
「〜〜っ、アンタはまたそう、無理なことを……!」
「それくらいしないと霊力が暴走します。止めても無駄よ」


奴良組のみんなが心配なのもある。だけど一番は、腹の子のためだ。
ぎりぎりまで、本当に霊力が尽きる寸前まで術を使わなければ、この子にどんな被害が及ぶか分からない。
それにずっと使い続けなければならないのだ。式神や結界術ならそれが出来るけど、他の術ではどうにもならない。


「……分かった。どうしてもと言うならワシも行く」
「は、な、態々貴方が着いてこなくても……」
「駄目じゃ。それが条件。無理なら止めろ」
「……」


いつになく厳しい声色で、ぬらりひょんが言う。
……流石に何日かかるか分からない日程に彼を付き合わせるのは忍びない。その分の仕事だってあるだろうに。
でも頷かなければ、彼はきっと許してはくれないだろう。
……これは、もう。


「……分かったわ」
「!」
「その代わり、あっちこっちふらふらしないでよ。探すの大変なんだから」
「流石に自分の妻置いてぬらくらするほど阿呆じゃねえさ。……アンタを守るためじゃしな」
「守る? 何から?」
「奴良組の土地って言ったって、組の外の妖怪が出入りしねえわけじゃねえ。それにアンタは人が良いから、何かあったらすぐに自分の身を犠牲にしそうだしな」
「……その人が良いって、皮肉でしょ」
「はは」
「ちょっと」


……もう。過保護なんだから。
条件云々と言ってはいたが、結局の所それが本音なのだろう。
まあ確かに、やや子を産むために旅をして、その途中で何かあっては意味がないのだし。
悪阻が完全に終わるまで、もう少し。その間に、色々と準備をしておこう。





硯の上に数滴、血を垂らす。よく墨と混ぜてから、札に文様を書く。
作るのは全部で五枚。東西南北と、それから本家に一枚埋めるのだ。
花開院にいた頃は陰陽術が当たり前だったけれど、奴良組に来てからあまり使うこともなくなり、何だか少し妙な気分だ。
とはいえ、これは誰に害を及ぼすものでもなし。文様の墨が乾燥するのをしばし待つ。

その間に、先日珱姫から買い取った紫水晶を手に取った。形に特にこだわりはないけれど、札を巻きやすいように細長く整えて。
後は札を特殊な巻き方で巻き付ければ、準備は終わり。これを地中に埋めて、最後に本家のものにもう一滴血を垂らせば完成だ。
このやり方は江戸に来る前、知っておいて損はないと秀元から教わったものだ。まさか本当に役に立つとは。


「珀姫様。鴆でございます」
「はい。どうぞ」
「失礼致します」


襖を開けたのは、もう何度も世話になっている奴良組のお抱え医師――鴆だ。
鴆という妖怪は確か毒を扱う。けれど毒は薬にもなると言うし、実際彼の薬は良く効くらしい。
見た目は私より少し年上、といったところか。妖怪だからあまり関係ないかも知れないけれど。


「体調は如何でございましょう」
「もう吐き気も頭痛もないわ。食事の匂いを嗅いでも、気分が悪くなることもないし」
「左様で。それは何よりでございます。もう五ヶ月に入られましたから、そのうち子も動き出すやもしれません」
「あら、それは楽しみね」
「ところで」


鴆が、ちらりと私の作っていた札に目をやった。
釣られて私もそちらに目を向ける。何か変な事でもあっただろうか。


「本当に奴良組の支配する土地を回られるおつもりで?」
「ええ、そうよ。……いけないかしら?」
「いえ、今の体調ならば大丈夫でございましょう。しかし何かあった時のため、すぐに連絡を取れるようにしておいて下さいませ」
「分かったわ」
「わたくしもいつでも向かえるよう、準備をしておきますので」
「ええ、ありがとう」


人間の感覚としては、旅に着いてきて貰った方がよいのではないかとも思うけれど。どうやら妖怪の力を持ってすれば、場所さえ分かったら後はすぐに飛んでこられる者もいるらしい。
まあ、折角体調も回復したのだし。ぬらりひょんとの小 旅行だと思って楽しむとしよう。


「まずはどちらに出向かれるご予定で?」
「そうね。最初は南から。東、北と巡って、最後に西にいって戻ってくるわ」
「ならばそれぞれの土地を管轄している者に、通達を出しておくのがよろしいかと。特に身重故、ままならぬこともありましょう」
「管轄?」
「左様。土地はぬらりひょん様の指示の元、それぞれ管理者がいるのです。西ならば牛鬼、というように」
「そう。分かったわ」
「それではわたくしはこれで失礼を。何かありましたらご連絡下さい」
「ええ。ご苦労様」


鴆を見送って、私は再び札を手に取った。
墨が乾いたのを確認し、一つ一つ、丁寧に巻き付けていく。陰陽術は儀式の一つだから、こういう所に成功するか否かが現れるのだ。
全ての紫水晶が札で覆われれば、これで完成。秀元の話だと、私の血に含まれる神通力が、じわじわと広がっていき、結界の中で効力を発揮するのだという。


「……うまくいくといいけれど」


大丈夫のはずだ。秀元が教えてくれたとおりにしたのだし、私の霊力ならば、おそらくは。
……そう、信じているけれど。
もしこの先、五十年も過ぎた後に何かあったとしたって、私はもうどうにもできないから。
そうなったら誰の恨みも甘んじて受け入れるしかない。


「珀姫」
「あら、ぬらりひょん。どうしたの?」
「……完成したのか」
「ええ」


ぬらりひょんは襖を開けて入ってくると、胡座を掻いて座った。
視線が札をなぞっている。物珍しいのだろうか。
無理もない。陰陽術の道具なんて、妖怪はあまり見ないだろうから。


「触っちゃ駄目よ。害をなすものじゃないけれど、何があるか分からないんだから」
「ああ。……体調は平気か」
「もう、またそれ? 今日だけで5回は聞いたわ。もう悪阻は治まったって言ったでしょう」
「しかしじゃなあ……あれだけ苦しんでおったのを見ていた身としてはどうも」
「心配性が過ぎるわ。さっき鴆にもお墨付きを貰ったのよ、この体調なら旅に出ても大丈夫だって」
「鴆に? ならまあ……いやしかし……」
「……。ぬらりひょんってもっと飄々としてる妖怪だと思ってたけど……」
「仕方ねえだろ。愛情じゃ愛情。受け入れろ珀」
「愛情が重い」
「なんじゃと?」


軽薄よりはましだけど。重い。
まあ、悪阻で散々苦しんだ姿を見せられたぬらりひょんとしては、不安になるのも無理はないかもしれないが。
特に男の人にとっては、それがどれだけのことか分からないだろうから。
……重いけど。


「どれくらいの旅路になるかのう」
「さあ……少なく見積もっても一月かかるでしょうね。飛んで行ければいいのだけど……」
「む? 飛んで行きたいのか」
「ええ、そうすれば速いでしょうし……って」


冗談半分で言ったのに。私はぱちくりと目を瞬いた。


「出来るの?」
「おうよ。奴良組にはおぼろ車があるからな」
「おぼろ……?」
「見せたことなかったか? 簡単に言や、空飛ぶ牛車じゃな。牛はいねえが」
「ふうん……? 便利ね」


牛のいない牛車。どうやって動いているのだろう。まさかそれも妖怪なのだろうか。
だとすれば大分負担を掛けることになるけれど、いいのかな。適度に休みを取らせた方がいいかもしれない。


「おぼろ車ならまあ……半月くらいでいけるじゃろ」
「そう。なら後は、ぬらりひょんがいない間の手配だけね」
「ん?」
「半月も本家を空けるんですもの。仕事は済ませておかなくちゃね」
「その通りですぞ総大将!!」
「のわっ! カラス! お前どこ隠れとったんじゃ!」


私の言葉に賛同するようにして、どこからともなくカラス天狗がそう叫んだ。
仕事、のことを聞きつけて飛んで来たのか、それとも私と同じ考えを持っていて、ぬらりひょんを待ち構えていたのか。
嫌そうな顔をするぬらりひょんに、カラス天狗はびしりと錫杖を突きつけた。


「そんな事はどうでもよろしいのです! 珀姫様の言う通り、半月分仕事をなさってから出かけて下さいませ!」
「お前適当に片付けとけ」
「そういう訳にはいきませんな。ほれ行きますぞ総大将!」
「い!? 今からか!? いやほれ、折角珀姫のところに来たんじゃし、もうちょっとのんびり……」
「行ってらっしゃいぬらりひょん。頑張ってね」


これでもかと顔を顰めたぬらりひょんが、カラス天狗に引きずられるようにして部屋を後にする。
私も私で、色々と準備をしなくちゃいけないし。ひらひらと手を振って見送って、さて、と私は立ち上がった。


「まずは勝手場の取りなしから、かしら」


使いかけの具材の管理とか、注文している食材とか。女妖怪達に伝えておかなくちゃ。
安定期に入ったとは言え、のんびりしているわけにもいかないのだし。
忙しくなりそうだ、と私も腰を上げた。






「それじゃ、行くとするか」
「ええ」
「忘れ物はない? 体調は大丈夫?」
「平気よ、雪麗」
「総大将、土産頼まあ」
「おう、美味い酒でも買ってくるとするぜ」
「羽目を外しすぎないようご注意下さいね。珀姫様の言うことをよくお聞き下さい」
「お前はワシの親か? カラスよ」


巨大な顔が描かれた牛車――牛はいないけれど――に、ぬらりひょんと共に乗り込む。
これがぬらりひょんの言っていた、おぼろ車。確かに妖気を感じるけれど、内装は牛車とほぼ変わりないらしい。
二週間分の荷物と、何かあった時のための保険の荷を積んで。前簾を下げると、おぼろ車は静かに浮き上がった。


「全く皆、過保護だこと」
「賑やかでいい組じゃろう?」
「ふふ、そうね。皆貴方のことが大好きって言うのが伝わってくるわ」
「ワシだけじゃねえさ。アンタも十分愛されとるよ」
「だといいけど」


なんて言ってみたけれど、まあ実際そうだろうな、とは思う。別に自意識過剰とかではなく。
初対面では花開院出身の私をあれだけ恐れていたというのに、今は朗らかな笑顔で見送ってくれるのだもの。
物見にかかった布を捲ると、奴良組の妖怪達はまだこちらに手を振ってくれていた。
手を振り返す。そうすれば、彼等は体全体使うようにして、大きく手を振ってくれる。


「ふふ。皆面倒見がいいわね」
「はねむーん、じゃな」
「はね……? なあにそれ」
「夫婦が結婚した後に行く旅行のことじゃ。外つ国の言葉でのう。本来は婚儀を挙げてすぐ行くらしいが……ま、細かいことはええじゃろ」
「ふうん。よく知ってるのね」


外つ国には色んな文化があるらしい。でえと、だとか、はねむーん、だとか。
耳慣れないそれらを、彼はとてもよく知っている。物珍しいのだろう。


「でも忘れちゃ駄目よ、今回の旅の目的は結界を完成させること。結界に絶えず霊力を流すことが出来れば、この子に対抗するための私の霊力もなくなるでしょうから」
「それなんじゃが、奴良組全土を結界内に修める必要はあったのか?」
「だってその方が便利じゃない。それに、変に結界を小さくして、誰かだけを外に残すなんて嫌だわ」
「それはまあ……その通りなんじゃけれども」
「なあに?」
「結界を大きくしたせいで、アンタの体に余計な負担がかかるとかいうのはないのか?」
「……」


……鋭い。
そんなこと一言も言わずにここまで来たのに。
すっと視線を逸らすと、ぬらりひょんの声が低くなった。


「……珀?」
「……」
「……珀姫」
「……やあね、そんな怖い顔しないで」
「……そうなんだな?」
「…………」


じとり。ぬらりひょんの視線がこちらを射貫く。
あまり広くはないおぼろ車の中、気まずい空気が立ちこめる。

だって、聞かれなかったから。何て言ったら怒られるだろうか。


「中止じゃ中止! 何で早く言わなかったんじゃ!」
「だ、だって……無理な負担がかかる、とかじゃないし……」
「身重なのを自覚せんか! いつもなら良くても今は避けるべきとかあるじゃろ!」
「いやほら……ね? 鴆にも了解を貰ったし……」
「鴆に霊力のことは話したのか?」
「……奴良組全土を囲むくらいなら大丈夫って言ったわ。嘘ではないし」
「…………珀姫」


嘘じゃない。この国を丸ごと囲む結界なんてなったら流石に無理が過ぎるけど、奴良組の支配する土地だけであれば私の霊力でも足りる。
……足りる、というだけで。本当にぎりぎりのところまで霊力を使うことになるかもしれないが。


「……だって。ぎりぎりまで霊力を使わなくちゃ、この子に何か影響があるかもしれないじゃない」
「だっても糸瓜もあるか! 奴良組総大将ぬらりひょんの子じゃぞ、そう簡単にやられたりは……」
「分からないじゃない、そんなの……!」


思わず、喉の奥を振り絞るようにして言ってしまった。
ぱっと口を押さえても、出てしまった言葉は戻らない。
ぬらりひょんが驚いた顔をして、こちらを見ている。……やって、しまった。


「……言ったでしょ。私はこの子の方が大事なの。勿論、倒れるつもりなんてないけれど、でも自分を優先にしてこの子に何かあったら……」
「……何かあるかは、分からんじゃろう」
「そう、分からない。分からないから、慎重になるのよ」


妖怪と陰陽師の子、なんて前例がない。誰も知らない、分からない。
気付いた時には子が死んでいる。そんな恐ろしい未来だって、あるかもしれないのだ。


「……お願いよ、ぬらりひょん。私にこの子を殺させないで」


ここまで、上手くいきすぎるほど上手くいっている。羽衣狐との戦いも、それぞれの立場の違いも、全て何とかなってきた。
けれどそれは、周りの人達のおかげ。秀元が、是光兄様が、珱姫が。それに奴良組の妖怪達がいてくれたから、何とかなっただけ。
やや子に関しては、もう誰にもすがれないのだ。だって私のことだから。鴆ですら、ぬらりひょんですら、どうにもできない。
私がやらなくちゃ、いけないこと。


「〜〜っ、ああもう分かった! ワシにはアンタの願いは断れん! 分かって言っとるじゃろ珀姫!」
「……じゃあ」
「その代わり、きつい辛い具合悪いその他諸々、全部ワシに言え! 何かあったらすぐ! そのために着いてきたんじゃからな」
「うん。言うわ、ちゃんと」
「ったく……ワシがアンタに弱いのを分かってからに」
「別に利用したわけじゃないわよ」
「分かっておる。ワシが勝手に折れただけじゃ」


はああ、と深々溜息をついて、ぬらりひょんは頭を掻く。
別に死にたいわけじゃない。自己犠牲が綺麗だとも思わない。
でも一番大切な物を、守れるのは私だけの大切なこの子を、どうしても守りたいのだ。


「心配しなくても、今のところ異常は――」


ぽこ。


「…………?」
「……珀姫?」
「……ちょっと待って」


今、何か。

……ぽ、ぽここ。


「!」
「どうした珀姫、具合が……」
「違う。……動いたわ、この子」
「……は?」
「今、お腹の中で。小さく動いた気がするの」
「!」


気のせい? いや、確かに動いた。
手を当ててみる。前より僅かに膨らんだ腹の中、今度は確かに、しっかりと。
ぽこん。と。腹の子が、動いたのが分かった。


「動いてる……!」
「え、あ……」
「触ってみる?」
「は!? い、いや……」
「……嫌?」
「嫌ではねえが……さ、触って平気か? 痛くねえか?」
「痛くないわ、ほら」


ぬらりひょんの手を取って、そっと腹に当ててみる。
じっと私の腹を見つめるぬらりひょんの目が、期待を帯びている。

けれど。


「……?」
「……」
「……」
「……動かなくなっちゃったわね」
「…………ワシが嫌だったんじゃねえだろうな」
「何言ってるの、たまたまよ」


ふふ、と笑って腹を撫でる。何だか急に実感が湧いてきた。
この向こうに、確かに生きているのだ。私達の子どもが。


「さてと。この子も頑張れって言ってくれてるみたいだし、頑張らなくちゃね」
「珀姫。無理は――」
「はいはい、無理はしないわ」


出来るだけ。
最後の言葉は自分の中にしまっておくけれど。
それでも多分、大丈夫。
だってぬらりひょんが一緒にいるんですもの。何とかなるわ。

……本人には、言わないけどね。





「っ、くしゅっ!」
「おい、大丈夫か珀姫? これも着ておけ」


ふわ、と肩に掛けられた羽織から、ぬらりひょんの煙管の匂いがする。
おぼろ車から降りようとすれば、先に降りていたぬらりひょんが手を貸してくれた。
車の中は温かかったから気付かなかったけれど、南の果てまで来た数日の間に、随分と気温が下がったらしい。
今年の冬も寒くなりそうだ。私は羽織を胸元で引き寄せた。


「ここが奴良組の土地の、南の果てじゃ。本来なら妖怪に任せるのが筋じゃが、人の多いところでな。担当の妖怪の屋敷は少し離れておる。行くか?」
「いえ、いいわ。出来るだけ端のほうがいいから」


降り立ったのは、人気のない小高い丘。そこから見下ろせるのは、賑わった町並みだ。
江戸には負けるけど活気づいている。妖怪の気配はあまり感じない。


「この丘でいいの?」
「おう。ここから向こうはまた別のシマじゃからな」
「そう。じゃあ始めるわ」


私は手荷物を入れていた籠を漁り、よいしょと鍬を取り出した。


「鍬!?」
「そうよ。借りてきたの。いけなかった?」
「いやいけねえってことはねえが……必要かそれ?」
「あんまり地表近くに埋めたら、誰かが掘り起こしちゃうかもしれないでしょう?」


手に馴染まない鍬は、結構重い。一応綺麗にしてきたから泥汚れなんかはないけれど、そのごつごつした木の質感は持ち慣れない。


「ぬらりひょん、羽織返すわ。汚れちゃうかもしれないし」
「なら余計に着ておけ。アンタの服の方が汚れる」
「あら平気よ。この下に着てるの、もう普段着にもしないような羽織だもの」


はい、と羽織を畳んで返す。まだ少し寒いけれど、まあ何とかなる。
それから鍬を両手で握り、思い切り振りかざした、ところで。


「っと、わわ……」
「おっと」


その重さに、思わずよろけてしまう。
花開院の頃はおろか、奴良組に来てからもそこまで重たい荷物を持つことがなかったから。
とん、と背中を支えてくれたぬらりひょんが、私の手からするりと鍬を抜き取った。


「貸せ。やってやる」
「貴方、農作業したことあるの?」
「ない。ないが、アンタよりましじゃ。そんなひょろっちい腕じゃこっちがはらはらする」
「心外」


ひょろっちいって……刀を扱うぬらりひょんと一緒にしないで欲しい。女は大抵こんなものだ。多分。
だけど鍬を持ったぬらりひょんは、慣れない手付きではありながらもよろめくことはなく、危なげなく穴を掘り始める。
……私も鍛えようかしら。雪麗とか、いい方法知らないだろうか。


「掘れたぞ。これくらいか?」
「ええ、ありがとう。後は……これね」


籠の奥底、桐の箱に入れてしまっておいた、札の巻かれた紫水晶を取り出す。
……うん、上手く馴染んでいる。これなら大丈夫そうだ。
ぬらりひょんが掘ってくれた穴の中に入れて、最後に霊力を流し込む。そうすれば札の文様が仄かに光って、また黒に戻った。


「これで一つ目は完成。これを後四回繰り返せば、結界の完成ね」
「ほお。よく分からんが、後は埋めればいいんじゃな?」
「そうよ。後は私が……」
「いやいい。汚れるぞ」
「だから汚れてもいいのに……って、聞いてないわね」


後は埋めるだけだし、大した手間でもないのに。
けれどそれを言う間もなく、ぬらりひょんはあっという間に水晶を埋めてしまった。


「さてと。じゃあ行くか、珀姫」
「ええ。次は東に――」
「何を言っとる。今日はここまでじゃ」
「え? じゃあ、行くってどこに……?」
「宿に決まっておるじゃろう。この近くにいい宿があると聞いたのでな、手はずは整えておいた」
「早!」
「ワシをただの色男と侮るなよ珀姫。甲斐性あってこその奴良組総大将じゃ」


ふふん、と得意げな顔で言うと、ぬらりひょんは手を差しだしてきた。
その手を取ろうとして、再び「くしゅん!」と嚔がでる。


「やっぱりこれを着ておけ。寒いじゃろう」


再度ぬらりひょんが肩に羽織を掛けてくる。特別厚い羽織でもないけれど、ぬらりひょんの体温が移っていて温かい。
ありがたく受け取って、礼を言う。ぬらりひょんの手を取り、導かれるまま歩き出した。
目指すは下町、今日の宿だ。





















「まあ、見てあの方々。なんて美しい……」
「どこぞの姫様かしら。旦那様もいらっしゃるみたいね」
「綺麗……天女様みたい……」
「まさしく天下一の美姫だ……それに見劣りせぬあの男は一体……」


ひそひそ、ざわざわ、こそこそと。
町に踏み入れた私達を待っていたのは、上から下まで観察してくる多すぎるほどの視線と、聞こえるか聞こえないかくらいの声で話される噂話。
最近江戸の街にも慣れてきて、こういうのを失念していた。
ついでに今日はぬらりひょんもいるのだ。彼は百人が百人とも美丈夫と称するほどの容姿をしているから、彼に対する賛辞も多い。


「流石じゃな、天下一美しい姫君の名は伊達じゃねえのう」
「貴方への賛辞も半分は含まれていると思うわよ」
「くく、悪い気はせんな」
「そう?」


私は苦手だ。何だか品定めされているみたいで。ぬらりひょんは楽しそうだけれど。


「上から下まで全部美しい……」
「あのお着物はどちらのかしら」
「御髪に触れてみたいわ……」
「一度で良いからうちの旦那もああいう色男にならんかねえ」


……褒められているのは承知の上で、やっぱり嫌。
ぬらりひょんに口説かれる時も綺麗だ何だと言われるのに、何がこうも違うんだろう。
彼に言われればこの上なく嬉しいのに、噂話の標的は居心地が悪すぎる。
なんだか気まずいというか、なんというか。

突き刺さる視線に思わず眉を顰めれば、不意にぬらりひょんからぎゅっと肩を抱き寄せられた。


「ちょ、っと、人前で」
「こっちじゃ珀姫」
「ん?」


入りこんだのは、人気のない裏路地。
それと共に、ぬらりひょんからぶわりと、妖気が溢れ出した。


「目立つのは嫌じゃろう? ワシが何とかしてやる」
「何とかって……」
「忘れたか、ワシが何の妖怪か」
「あ……!」


にやり、とぬらりひょんの口が弧を描いた。












「……ホントに便利ねえ、貴方の能力って」
「ふふん。もっと褒めてもええぞ」


ぬらりひょんにひょいと抱き上げられた状態のまま、人混みを進む。
先程とは違い、こちらに注目する人はいない。
それもそのはず、彼は畏れを発動しており、今の私達は誰の気にも止められない状態なのだから。


「……? ねえぬらりひょん、今日の宿は下町じゃなかったの?」
「ん? そうじゃよ」
「……なんだか妖気が濃い方に向かってない?」
「ああ。まあなんだ、妖怪の経営する宿の方が何かと便利かと思うてのう。安心せい、アンタのこともちゃんと伝えておるよ。人間の奥方を連れて行くと」
「えっ」


妖怪の経営する、宿。
何となくの想像ではあるけれど、幽霊旅館が脳裏に浮かぶ。
……食事に虫が出てきたりとか、風呂場に幽霊が出たりとかしないだろうか。
虫は嫌だし、幽霊は今の私じゃ対処出来るか分からないんだけど。
ぬらりひょん達は普通の食事を取るけれど、虫を食べる妖怪もいるかもしれないし。
そんな事を悶々と想像していれば、ぬらりひょんの歩みが止まった。


「着いたぞ珀姫。ここじゃ」


そこは想像していたのとは似ても似付かない、とても立派な旅館だった。


















「……何と言うか、想像と違ったわ。良い意味で」
「? そりゃ良かったな」


部屋に案内されて、 お茶 茶を淹れて。用意されていた茶菓子と共に一服しながら、私はそう呟いた。
広い部屋は、二人には十分すぎるほど。床の間の掛け軸もお 花も趣味がよく、季節にあったしつらえだ。
この部屋に来るまでの廊下も、点々と灯りが灯されていて、陰気にならない品の良さがあった。
ぬらりひょんは用意されていた饅頭を一口で食べながら、茶を啜っている。
その向こうの広縁からは、秋から冬へと移りゆく山々が見事に見えるようになっている。


「綺麗ね。高かったんじゃなくて?」
「総大将価格じゃ。問題ねえよ」
「そう……」


こんなにいい部屋は、京でも滅多に見ないのに。本当に見事な部屋だこと。
お茶も美味しいし。これ玉露じゃないだろうか。花開院の頃、母様に一口貰ったあのお茶と同じ味がする。


「そういや露天風呂があるらしいぞ。貸し切りにも出来るらしい。一緒に行くか?」
「態々貸し切りにすることないじゃない」
「いやアンタの体を誰とも知らん輩に見せるわけにはいかんじゃろ」
「え、……あっ一緒にってそう言う意味!? 絶対嫌」
「つれないのう。たまにはいいじゃねえか」
「い・や」


殿方と混浴など正気の沙汰ではない。それが例え主人だとしてもだ。
露天風呂にはそそられるけれど。後で一人で行こうかな。


「失礼致します、ぬらりひょん様、奥方様」
「おう、入れ」
「はい」


ぬらりひょんの言葉で襖が開く。そこにいたのは、人間に近い風体の、けれど妖気を溢れさせた、数名の男達だった。
見た目は普通の人間に限りなく近い。けれど鋭い耳や爪の形が、人間ではないことを証明している。
見覚えのない彼等に首を傾げると、男達は私に目を向けて膝をつき、頭を下げた。


「お初にお目にかかります、奥方様。ぬらりひょん様からこちらの土地の管理を任されている者にございます」
「初めまして。珀、と申します。よろしくね」
「身に過ぎたるお言葉にございます」


そう言って、彼等は更に深々と頭を下げる。
そうか、彼等が例の、奴良組の最南端を支配する妖怪か。
何の妖怪かは分からない。後で聞いておこう。


「悪かったのう。いきなり宿の手配を頼んで」
「とんでもないことでございます。総大将の頼みとあらば、何であろうとこなすのみ」
「堅いのうお前、相変わらずじゃな」


くつくつとぬらりひょんが笑う。信頼しているらしい。
カラス天狗に何処か似ている。きちんとしていて、粗相のない素振りだ。
彼等がこの部屋を用意するよう、手配してくれたのだろうか。ありがたいことだ。


「婚儀には参加とは相成りませんでしたが、お姿を拝見できて至上の喜びでございます。この度はご結婚、ご懐妊、おめでとうございます、お二方」
「おう」
「ええ、ありがとう」
「もし何か御用向きがありましたら、係の者を用意しておきますので、そちらの方にお願い致します」
「ああ」
「それでは、これにて失礼をば」


簡単な挨拶と、いくつかの文言を述べて、彼等は襖を閉めて去って行った。


「礼儀正しい妖怪もいるのね」
「ワシを見ながら言うな。言外に咎めとるじゃろう」
「不法侵入しない妖怪もいるんだなあ……って」
「不法侵入ってアンタな……」


あれはどう考えても不法侵入である。というかぬらりひょんという妖怪の畏れ事態が不法侵入に特化しすぎている。
その本質が、気配を消して相手を欺き、打ち負かすということにあってもだ。
ねー、と腹に語りかければ、返事をするようにぽこんと動きがあった。腹の子も同意しているようである。


「さて、じゃあ私は先にお風呂をいただこうかしら。食事は何時から?」
「酉の刻から準備を始めると聞いたぞ」
「そう。間に合いそうね」
「じゃあワシも行こうかのう。折角の露天風呂じゃしな、珀姫」
「……それはいいのだけれど、どうして私の腰に手を回すの? 男湯とは場所が違うんじゃなくて?」
「言ったじゃろ、貸し切りにできると。いいじゃねえか、夫婦水入らずで」
「お断りします」
「つれねえのう」


ぺい、と手を払って、私は部屋の扉を右方向に曲がった。
途中までは一緒だから、そこまでぬらりひょんが着いてくることは構わないし文句もない。
そう思って歩き出していた私は、気付いていなかった。
ぬらりひょんがやけに上機嫌である事に。
この後、いつの間にか仕組まれていた露天風呂の貸し切りによって、そしてぬらりひょんの有無を言わせぬ腕力によって、強制的に風呂場に連れ込まれるはめになることに。











――おや、こんなところに人の子が

――お主、名は何と?

――そうか、珀と。ん? 私かい?

――私の名前は――



「……め……さ……」
「珀姫、珀姫」
「っ、ん……」
「着いたぞ珀姫、起きろ」
「ん、う……?」


夢を、見ていたらしい。
目を開けた瞬間視界に差し込む、穏やかな夕方の陽の光。
そして眼前にぬらりひょんの顔。どうやら移動中に転た寝をしてしまっていたみたいだ。
目を擦りながら体を起こす。宙を飛んで移動するおぼろ車が、今は止まっているのが分かった。

あれから東、北と回り、そしてここは奴良組の最西端である。


「着いたの……?」
「おう。ここが奴良組の西の砦、捩眼山じゃ」


ぬらりひょんが差しだしてくれた手に捕まりながら、おぼろ車を降りる。
見えたのは木々の生い茂る山々。そしてこれまた立派な、大きな屋敷だった。


「確か最西端にいるのって……」
「総大将、珀姫様」
「!」
「おう牛鬼」
「ようこそ、我が捩眼山へ。歓迎致しますよ」


そう、牛鬼だ。
長い黒髪に鋭い眼光。確か 花開院秘録には、古くから捩眼山を司る妖怪として描かれていた。
でも秘録に描かれていた絵図とは少し見た目が違う。何かがあって牛鬼がこの男になったのか、それともただ単に人の噂が当てにならないだけか。

牛鬼は深々と頭を下げると、さあ、と屋敷の門を開いた。


「客間の準備は整っております。こちらに」















「それにしても奴良組全土を包む結界とは、珀姫様は稀な事を考えなさる」
「流石に無茶が過ぎる気もするがのう」
「平気だって何回も言ってるのに」
「アンタの平気は信じとらん」
「あら、失礼しちゃう」
「仲が宜しいようで結構」


案内されたのは、桔梗の花が襖に描かれた客間だった。
襖を開けた先には、綺麗に掃除され、磨かれた一室。真面目な彼の事だ、総大将が来るとあって、はりきって整えたのだろう。
客間に荷物を運び込んでくれる牛鬼組の妖怪達を横目に、ぬらりひょんはさっさと座布団に上がっている。


「この後はどうなさいますか?」
「少し休憩してから、結界の呪具を埋めに行くわ。最西端のぎりぎりの所まで案内が欲しいのだけれど」
「それならば私が。しかし、お体はよろしいのですか?」
「ええ、平気よ」
「……総大将が、珀姫様の平気は信じないと」
「もう。貴方までそんなこと言わないで」
「これは失礼」


ぬらりひょんが慕われすぎるのも考え物だ。まったく、とぬらりひょんに目をやれば、彼は素知らぬ顔で用意された茶菓子に手をつけていた。
私も客間に入って、茶を入れようとすれば、いつの間にか牛鬼が手配してくれていたようだった。湯気の立つ湯飲みが二つ、机の上にある。


「では、私はこれで。何かございましたらお申し付け下さい」
「ええ、後でね」
「おう」


牛鬼が下がり、襖が閉められる。去って行く気配がして、さてと、と私は息をついた。


「ふう……」
「平気か珀姫?」
「少しだけ疲れたみたい。でも大丈夫よ」
「そうか」


微笑みを返すと、ぬらりひょんは「あまり無理をするなよ」と、もう何度目か分からない言葉を口にする。
そのまま煎餅にぱくつく彼をぼうっと眺めつつ思い出したのは、先程の、目を覚ます前に見ていた夢のこと。

なんだか、懐かしい夢を見ていた気がする。
子供の頃の、夢だ。
まだ 花開院に憧れて、陰陽師になれると思っていた頃。

……何も知らない、無垢だった頃。


「……珀姫?」
「! ごめんなさい、なあに?」
「いや何というか……本当に大丈夫か? 少し寝るか?」
「え、いや、違うの。ちょっとさっき……夢見が悪くて」
「夢? ならええが」


禍福は糾える縄の如し。けれど、この腹の子には、出来るだけ不幸も苦労も体験して欲しくない。
……過保護だろうか。でも本心だ。私の出来ることなら何でもするのだが。
腹部をさすっていれば、ぽこんと元気な返事があった。


「また蹴ってる。元気ね、この子」
「……ワシの時には全然蹴らん。生意気なヤツじゃ」
「たまたまよ。あ、また蹴った」
「……ワシの珀姫を取る気じゃなかろうな」
「何言ってるの。聞きたいなら聞けば良いじゃない、今なんて丁度良いわ」
「そうか。じゃ遠慮なく」
「は、」


そう言うと、ぬらりひょんはごろんとこちら向きに、私の腿の上へと頭を乗せて横たわる。
膝枕しよう、という意味ではなかったのだけれど。彼は案外、甘えるのが好きらしい。


「……甘えんぼね、貴方の父様は」
「珀姫にだけじゃ」
「ふふ。……あ」


ぽこん、ぽこ。と。
軽く二回、内側から蹴る感触がした。
ぬらりひょんが耳を当てている時に蹴るのは、多分初めてだ。


「け、った……」
「分かった? 今の、二回蹴ったでしょう」
「ああ。……ああ」


ようやくだ。初めて蹴ってからほぼ二週間。
やっと聞くことの出来た胎動に、ぬらりひょんが笑みを浮かべる。
彼の大きな手が、私の腹にそっと触れた。


「いるな、ここに」
「ええ」
「ようやくワシにも聞かせてくれたな。……さては男じゃなコイツ。生意気加減から見て相当の跳ねっ返りじゃぞ」
「あら、貴方そっくり」
「なんじゃと?」
「ふふ、冗談よ」


でも確実にぬらりひょんの血を引いていると思う。彼には言わないが。
くすくすと笑っていれば、窓の外に見える夕日が徐々に傾いていた。
いけない、これ以上遅くなると、足場の悪いこの山では歩くのが大変になってしまう。


「ぬらりひょん、そろそろ行くわ。貴方も来る?」
「勿論じゃ。牛鬼を呼ぶか」
「は、ここに」
「!」


牛鬼、とぬらりひょんが言った瞬間。襖の外から声がして、牛鬼の気配がした。
驚いて肩を揺らす私に構わず、起き上がったぬらりひょんが襖を開ける。


「最西端なら、捩眼山の麓じゃな。歩いて行くには少し距離があるが……」
「おぼろ車を出しますか? しかし、捩眼山では動きにくいかと」
「いやいい。ワシが珀姫を運ぶ。牛鬼、お前は鍬を持って着いてこい」
「御意。……鍬?」


運ぶって、まさか山道を? 私を抱えて?
こんなにも足場の悪い道を、人一人抱えて進もうというのか、彼は。


「い、いいわよ。一人で歩けるわ」
「転んで腹の子に何かあったらどうする。心配せんでもアンタ一人運ぶくらい造作もないさ」
「そうですな。珀姫様には安静にして頂いた方が良いかと」
「いや、でも……」
「駄目じゃ」


強くそう言われてしまえば、結局断り切ることは出来ず。
宣言通り私を抱えてひょいひょい進むぬらりひょんに、私は思わず溜息をついたのだった。
……それしか出来なかった、とも言うが。









「ははははは! 牛鬼、お主中々やるのう!」
「いえいえ、総大将の方こそ」
「……すっかり酔い潰れちゃって」


結界術の旅も、もう終盤。後は奴良組本家に帰って、最後の水晶を埋めるだけだ。
だからだろうか、ぬらりひょんは夕餉に用意された酒を、いつもよりよく飲んだ。牛鬼も巻き込んで。
その結果が、これである。


「どちらになりますかな。男児か女児か」
「生意気具合から見ると男じゃろうな。女でもええが、じゃじゃ馬になりそうじゃのう」
「総大将のお子ですからな。一筋縄ではいかない子が生まれるでしょう」
「言う様になったのうこいつ」


滅多に見ないが、ぬらりひょんも酒を飲むと上機嫌になるらしい。いやいつも機嫌は良いのだが、今日は度を超して飲んでいるから。
それに牛鬼も、いつもは真面目だけれど、酒が入ると無礼講になる。彼の場合は丁度良いのかも知れないが。
流石に私は飲む気にはなれず、ぬらりひょんの猪口が空いたら酒を注ぐのを繰り返すくらいだ。……飲ませすぎたのは私のせいかもしれない。


「しかし牛鬼に兄妹が出来るとはのう」
「ええ。感慨深いものです」
「兄妹?」


牛鬼に、兄妹。一体何のことだろう。
首を傾げれば、ぬらりひょんはへらりと笑って言った。


「ああ、珀姫は知らんかったか。牛鬼はワシの子じゃ」
「え、……え? ……え!? は、え、貴方……え?」
「総大将、それでは語弊があります。珀姫様、私からご説明を」
「え、ええ……お願いするわ」


唐突な暴露に混乱する私に、牛鬼が語ったのはこんな話だった。

かつて捩眼山の面々は、奴良組とは別の牛鬼組として栄えていた。
彼等もまた妖怪として戦うのを是としており、そんな彼等に戦いを挑んできたのが昔の奴良組である。
結果として勝ったのは奴良組であり、牛鬼とぬらりひょんは盃を交わしたのだが。
その際に言われた言葉が、


――オレがお前の親になってやるよ――梅若丸


「梅若丸?」
「かつて、人間だった頃の私の名です。私は親を亡くし、牛鬼という妖怪になった」
「そう……そういうこと」


ふう、と胸を撫で下ろす。てっきり、ぬらりひょんと牛鬼が血の繋がった親子かと思った。
それならそれで構わないのだけれど、一つだけ懸念事項が産まれるから。


「ああ驚いた。私てっきり、」
「てっきり?」
「……いえ、何でもないわ。気にしないで」
「何じゃ、言ってみろ珀姫」
「だから何でも、」
「何です? 珀姫様。何かございましたか」
「いや……」


ぬらりひょんに加えて牛鬼も、じとりとした怪訝な顔で見つめてくる。
何でもない、というより言いたくないというのに。無粋だ。
だけれど彼等の視線は私が黙ることを許してくれず。
私はおずおずと口を開いた。


「……ぬらりひょんが、牛鬼の本当の親なのかと思って」
「? いや違うが……それを言い渋っていたのか?」
「……そうよ」
「ふむ、言い渋るほどの事とも思えませんが……」


彼等は色男だが、全ての色男が女心に機敏であるとは考えられない。
どうか真意に気付かないであってくれ、と。そう願う私を置いて、事態は進んでいく。


「言い渋る、ということは言いたくなかったということじゃろう? 何故……」
「……総大将、もしや……」
「ん? 何じゃ?」
「もしも本当に私が総大将の子であったなら、母親がいると言うことになります。つまり……」
「そうか! ワシに過去の女がいたんじゃないかと、つまりそういうことじゃな?」
「…………」


思いっ切り、顔を顰めてしまった。
淑女に相応しくない顔をしているのは分かっている。分かっている、けれど……。

何でこんな時ばかり、頭を回すのが得意なのか。
ぬらりひょんの嬉しそうな顔に腹が立つ。牛鬼の生暖かい目線に苛つきを覚える。


「はっはっは、悋気か! アンタは本当に愛い女じゃの、珀姫よ」
「…………」
「安心せい、ワシは今までもこれからもアンタだけじゃ」
「仲睦まじいようで結構なことですな」
「……」
「のう珀姫、ワシに過去の女がいると思って妬いたのか? ん?」
「……私もう寝るわ。後は二人でやって頂戴」
「まあまあ、もう少しええじゃろ。な?」


立ち上がろうとした肩を、ぬらりひょんが無理矢理掴んで止める。
痛くはないが立ち上がれない。じろりと睨んでも、照れ隠しと取られてますますぬらりひょんの機嫌が良くなる。

ああもう、悋気だなんて馬鹿馬鹿しい。分かっているというのに。


「よいではないですか、珀姫様。ささ、お酒をお注ぎしましょう」
「結構よ。ぬらりひょん、手を放して」
「いいじゃねえか、もう少し付き合え」
「……」


居心地がとんでもなく悪い。が、ぬらりひょんも牛鬼もこれ以上ないくらい上機嫌で。
こうなったら二人に飲ませるだけ飲ませて潰してしまうしかない。
私は酒瓶を掴み、さっさとここから逃げることだけを考えた。
そうするしか、私の解放される道はないようだから。







ふ、とおぼろ車が音もなく止まった。
ぬらりひょんに先導されながら車を降りる。
久方ぶりの本家は、相も変わらず賑やかだった。


「お帰りなさい、総大将、珀姫様!」
「土産は買ってきてくれたかい? 総大将」
「ほれ、奴良組各地の地酒じゃ」
「流石、分かっておる」
「珀姫、体調は大丈夫だった?」
「ええ、平気よ雪麗」


出迎えてくれたのは本家中の妖怪達。
彼等も寂しかったのだろう、離れていた時間を埋めるように歩きながらも私達を囲んで話している。
空を見上げれば、もうすっかり冬の雲が浮かんでいた。


「じゃあ、最後の仕上げをしないとね」
「仕上げ?」
「そう。奴良組の中央、地中深くに埋めるのよ、これを」
「これ、って……」


取り出したるはもうおなじみとなった紫水晶。けれど土地の中央、結界の核となる部分の物であるため、他のものより少し大きめだ。
これを埋めて、血を垂らして、霊力を込める。それで結界の完成だ。
上手くいくといいのだけれど。結界術は最後の最後まで、成功したかどうかが判断出来ないから。


「奴良組本家の中央、っていうと……」
「ワシの部屋じゃな」
「そうね。貴方の部屋の縁側に埋めるの。不快だったら場所を少しずらすけれど」
「今まで手伝ってきたんじゃ、不快も何もあるかい」
「そう? なら良いわ」


荷物を持って歩き出す。すると妖怪達もぞろぞろ列を成して着いてきた。
物珍しげな視線が、水晶に注がれる。まあ、陰陽術の呪具なんてそうそう目にする機会もないだろうし。
もしこれが何かを封じ込めるためのものなら、くさび代わりになる何か……そう、例えば大木とか。そういったものが必要になるが、今回はこの水晶で十分である。
ぬらりひょんの部屋の前について、穴を掘って。その中央に、札の巻かれた紫水晶を置いた。
そして小刀を取り出し、ぴっと指の先を切る。小さく出来た切り傷から、ぽたりと一滴、血が水晶に落ちた。


「……後は、これだけね」


手をかざす。集中するために、息を吸って、吐いた。
ここに注ぎ込むのだ。私の持ちうる、全ての霊力を。


「っ……!」
「わあっ! すごい!」


かざした掌から水晶へと流れるように、けれどぶわりと溢れ出す、私の霊力。
勢いよく出ていく霊力に、髪が静かに靡いている。
妖怪の妖力と似ているけれど、霊力は人間の持つ力。真っ白で緩やかに落ちていくその様は、まるで雲のようだ。
最初は滝のようにどんどんと、そして次第にとろり、とろりと、粘性のある液体のように流れていくそれ。ぎりぎりまで搾り取るように流し込めば、水晶がぼんやりと光を帯びた。
そして水晶から、じんわりと陽の気が漏れ出す。それは少しずつ、奴良組の土地に広がって、やがて結界となるのだ。


「……ふう。上手くいったみたい」
「体に変化はあるか?」
「変化……そうね、霊力が作られたそばから流れ込んでいくのを感じるくらいかしら。これでこの子に影響はないはずよ」
「ふむ……奇妙なものじゃのう」
「ふふ。貴方から見れば、そうかもね」


奴良組の体力自慢達が、えっせほいせと深い穴を埋めてくれて。これで完成だ。
霊力はもうほとんど無い。式神の顕現と結界術の保持に使われるからだ。
式神顕現を解けば、産後も支障はないだろう。


「後は通常通り、この子が産まれてくるのを待つだけね」
「元気な子が生まれるとええが」
「きっと大丈夫よ。だって貴方の子ですもの。それに、こんなにも蹴ってくるんだから」
「……え?」


腹を擦って言った言葉に、妖怪達の疑問符が落ちる。
何だと思って振り返れば、そこには目を丸くした奴良組の妖怪達の姿。


「え、珀姫様、今蹴ってくるって言いました?」
「蹴る? 蹴るってその子が?」
「つまり、動いている……?」
「え、ええ……そう言ったけれど、何か?」
「え、ええええええー!!!!」


綺麗に揃った叫び声に、私は思わず耳を押さえた。五月蠅っ。


「蹴る!? もうそんなに大きくなってるんですか!?」
「嘘でしょ教えて下さいよ総大将!!」
「ワシもこないだ体験したばっかりじゃ。親のワシより先に誰か別のヤツが蹴られるような事があってよいと思うか?」
「何だよやきもちかよめんどくせーウチの大将!」
「ふむ。まあもう冬になろうとしていますし、動くのも無理はありませんな」
「知ってたなら教えろよ鴆!!」


そんなにも知りたかったのか。ぬらりひょんと鴆に詰め寄る妖怪達に、私はぽかんと口を開けた。
確かに私も、この子が初めて蹴ってきた時には驚いたし、嬉しかったけど。
想像以上にこの子は、皆から歓迎されているらしい。


「珀姫様お腹目立たないから分かんなかった……」
「細いですもんね。帯もあるし」
「巷の妊婦ってこうもっと……ふくよかっていうかでっぷりっていうか……」
「おうワシの珀姫に何か文句でもあるのか」
「いえとんでもないっす」


まあ、毎日風呂に入って体を見ている私と違って、彼等から見ればそう体型も変わらないのかも知れない。分からないが。
その上帯と着物があるし、冬だから厚着していて分かりにくいのかも。
でもそんな、知りたかったなんて。言ってくれればよかったのに。


「あの、良かったら触ってみる……?」
「え!」
「いいんですか!?」
「え、ええ……」
「じゃあ遠慮なく……」
「ちょっと待った!」


別に腹くらい、と思って妖怪達の手を待っていれば、その手が触れる前にびしりと声が飛んだ。
この耳慣れた、綺麗だけれど厳しい声は。


「雪麗?」
「アンタねえ、奴良組大将の奥方って認識が足りないんじゃないの? アンタ達もよ!」
「え?」
「人妻の腹をそう易々と触る男があるか! まして総大将の嫁よ、分かってんの!?」


雪麗はまなじりを挙げ、鋭い声を飛ばす。
彼女の言うことにも一理ある。けれど、別に妖怪達は不埒な思いを持って触ろうとしているわけでもないのだし。
妊婦の腹を親族が擦るなど、よくある話だ。
私はそう思って、きょとんとしたのだけれど。


「う……ま、まあそれもそうか……」
「総大将が悋気起こすしな……」
「流石にそこまで狭量じゃねえぞワシも」
「と、いうことで」
「ん?」


雪麗はにっこりと綺麗に笑って、私の腹へと手を伸ばしてきた。


「妾がアンタ達代表して触ってあげるわ、感謝しなさいよね」
「ず、ずっりー!!」
「雪麗お前、お前ー!!」
「ふん、妾は女だし、珀姫も妾なら嫌じゃないでしょ! 文句ある?」
「ありまくりだ馬鹿ヤロ−!!」


触られることに否やはないのだが、なんというか、妖怪らしいと言うか。
私は苦笑を浮かべて、得意げな雪麗が腹にそっと触れるのを見ていた。


「……」
「……どう?」
「……動かないわね」
「ほれ見ろ、そいつは生意気じゃからな。ワシにもそうそう触らせなかったんじゃ、雪女になど……」
「そう? ……雪麗は優しいから、大丈夫よ。動いてあげてくれないかしら」


私も腹をそっと擦って、中の子どもに語りかける。
すると、ぽこん、と返事をするように蹴ったのが分かった。


「! 動いた、これ、今のよね!?」
「ええ、そうよ」
「何!? ワシの時はほぼ半月かかったのにか!?」
「んふふ、分かったわ珀姫。この子多分男ね。美人に弱いと見たわ、ぬらりひょん譲りで」
「おい変な事吹き込むな」
「ふふ。私もそう思うわ、雪麗」
「珀姫まで……」


男かどうかは分からないが、ぬらりひょんの血は濃く継いでいると思う。間違いなく。
ぶすっとむくれた顔をしたぬらりひょんが、私の腹の前にしゃがみ込んで、つんつんと指で腹を突いた。


「お前のせいでワシまで風評被害じゃぞ、えーと……」
「……? どうしたの?」
「いや、こいつを何と呼んだものかと思ってな」
「何と……そういえば、私もこの子、としか呼んでなかったわね」


産まれるのはまだ何月も先だし、性別も分からない。
私は特に不便していなかったけれど、ぬらりひょんは呼ぶのに困るみたいだ。


「産まれたら、貴方が付けてくれる? この子の名前」
「ワシか? 一番の功労者は十月十日も腹の中で育てたアンタじゃろう?」
「でも名前は、親から一番最初に貰う贈り物でしょう。それも一生ものの。だから貴方がいいの」


今はこの子、でいい。まだ顔も性格も、よく分からないのだから。
けれどもしこの子に名を付けるなら、私はぬらりひょんに付けて欲しいと思うのだ。
私からは体を、ぬらりひょんからは名前を。両親から贈られたものを、受け取って欲しい。


「……分かった。考えておく」
「うん。お願いするわ」
「取り敢えず今はチビ助と呼んでおこう」
「……。貴方がそれで良ければ、良いけれど」


チビ助。何とも不名誉な呼び名に、文句を言いたげにぽこんと腹が動いた。
宥めるように撫でながら、私はふと空を見上げる。

これから冬が来て、雪が降って。やがて雪はとけて花が咲く。
その頃にはこの子も産まれるだろうか。どうか元気に産まれてきて欲しい。
産まれてきてさえくれれば、後は私が命をかけてでも守ってあげるから。



あの結界術のための旅から、およそ三月。
年も明け、すっかり冷え込む今日この頃。
私は家の中であちらこちらと、忙しなく歩を進めていた。


「珀姫様、洗濯なんですけど……」
「もう終えたわ。夕方になったら取り込もうと思うから、大丈夫よ」
「今日の献立どうされます? 予定では、えーっと確か……?」
「魚の煮付けと青菜の炒め物、それと納豆ね。材料は今買ってきたから、もう少ししたら作るのを手伝ってくれる?」
「総大将ー? 総大将どちらですー?」
「この時間だと多分、縁側で昼寝してるんじゃないかしら。用事があるなら呼んでくるわね」


そう言ってくるりと縁側に踵を返す私に、後ろの妖怪達はごくりと喉を鳴らした。


「珀姫様、もうすぐ臨月だよな……?」
「不甲斐ない……あの働きっぷりは何です?」
「朝から止まってるとこ見たことないけどそれが一月は続いてる気がする」
「くるくるとまあ、よく働くことで……」
「お馬鹿! あたしらがやらなきゃいけないんだよ!」


べし、と後ろで何かを叩く音が聞こえる。思わず振り返ると、頭を押さえる妖怪とぷりぷり怒る女妖怪がいた。


「どうしたの?」
「へ、いやなんでも! はい!」
「……? そう」


何だかよく分からないけれど、なんでもないということなので。
私はさっさとその場を後にした。
この後ぬらりひょんを呼んできて、後一刻もしないうちに料理を作らなくちゃいけない。
穴が開いた着物があったからそれを繕うのも早くしておかなければいけないし、火鉢にくべる炭を作らないといけない。
忙しい。とはいえ、特に苦痛には思わない。元々動くのは嫌いじゃないからだ。


「ぬらりひょん、いる?」
「……ん、」
「……あら」


ひょい、と縁側に顔を出すと、そこには陽だまりの中横たわるぬらりひょんがいた。
肩が静かに上下している。寝ているのだろう。
ゆっくり昼寝をさせてあげたいところだけれど、さっき彼を探している妖怪もいたし、何よりこの気温の中で寝ていては風邪を引いてしまう。
私はぬらりひょんに近寄って腰を下ろし、そっと肩に手を置いた。


「ぬらりひょん、起きて」
「……ん、……すー……」
「ねえ、呼ばれてるのよ。ぬらり……きゃっ!」


名前を呼ぼうとしたその時、彼はいきなり、がばりと腕をこちらに伸ばしてきた。
驚いて声を上げる。彼はもぞもぞと動きながら、腕を私の腰に回すと、私の腿にのしかかってきた。


「ちょ、っと……貴方、起きてるでしょう!」
「……ばれたか」
「もう。……具合が悪いの?」
「おう。珀姫不足じゃ、慰めてくれ」
「あ、こら!」


具合が悪いなら布団を敷こうと思ったのに。暇なんだったらさっさと起きて行きなさいと、私はぺしりとぬらりひょんの頭を軽く叩く。
けれど彼は動くこともせず。それどころか、腕の力を更に強めてきた。


「ぬらりひょん、貴方ね……」
「珀姫」
「? 何……?」
「お前さん、ちょっと働き過ぎじゃ。少し休め」
「そんな事ないわよ。どこでも女はそんなものでしょう」
「いいやそんな事ある。いいから座れ」
「あんまり時間ないんだけど」
「いいから」
「……もう」


有無を言わせぬ彼の言い方に、私は渋々縁側に足を下ろした。
料理の時間に間に合うだろうか。流石に私がいなくては、人手不足で厨が回らない。
それでも手慰みにぽんぽんとぬらりひょんの頭を撫でていれば、彼はむくりと顔を上げた。


「珀姫。アンタここ一月ほど、食事と家事しかしておらんじゃろう」
「……? そう?」
「そうじゃ」
「そんなことないわよ、他のことだってしてるわ」
「例えば?」
「例えば、えっと……」


買い物……は料理の買い出しか。それと足りなくなった裁縫用具や雑貨の補充。
散歩……もあまりしていない。まあ買い物が散歩みたいなものだし。
後は、後は……? えっと……?


「……?」
「ほれ見ろ。動くのが悪いとは言わんが、腹に子がいることを考えんか」
「お腹が張った時はちゃんと休んでるわ。繕い物とかして」
「それは休んでるには入らん。ちゃんと休め」
「それより、小妖怪がぬらりひょんを呼んでたわよ。一緒に行きましょう」
「……。ったく……」


ぬらりひょんは呆れた様に目を眇め、よいしょと起き上がると。
今度は反対に私の体を倒して、彼の腿に頭を乗せるようにした。
ごつごつした感触が慣れなくて気恥ずかしい。起き上がろうとしても、手で押さえられて許してくれない。


「……恥ずかしいんだけど」
「言っても休まんアンタが悪い」
「……」
「……心配なんじゃ。ワシの気持ちも考えてくれ。な、珀姫」
「……分かったわ」


さらりと、ぬらりひょんの手が私の髪を掬っては、戻していく。
何だか寝かしつけられる幼子のようだ。暖かい日の光の中、髪を触られると眠たくなる。

まあ、ぬらりひょんの言うことも一理あるかもしれない。
腹に子がいるとは言え、動けるうちは動いていた方が安産になると。そう聞いてから、出来るだけやれることは自分でやるようにしていたけれど。
無理をしているつもりはないが、……でもこの子は、ぬらりひょんの子でもあるのだ。
心配になるのも、無理はない。


「髪紐、」
「ん……なあに?」
「この髪紐、京にいたころ、ワシが贈ったものか?」
「そうよ。……初めて、貴方から貰ったものだから。大切にしてるの」


ぬらりひょんに町に連れ出され、初めて彼がくれた、藤色の髪紐。
紐の端に端正な珠細工の付いたそれ。ずっとそればかり付けていては痛んでしまうけれど、でも仕舞っておくのも勿体なくて。
すっかり愛着が湧いてしまって、江戸に来てからも度々付けているのだ。
彼の手が、すっと髪紐を辿るのを感じた。


「別に髪紐くらい、いくらでも買ってやるぞ。簪でも、口紅でも」
「うん……。でも、これが一番、思い入れがあるの」
「そうか……嬉しいもんじゃな」


ああ、何だか本格的に眠たくなってきた。
うとうとしながら答えると、くつりとぬらりひょんが笑った。


「眠かったら寝ておけ。ワシも付き合ってやる」
「貴方は……呼ばれているでしょう。私も厨にいかなくちゃ……」
「だから休めと言うとるに。心配せんでも、雪麗やら女妖怪やらが何とかするじゃろ」
「雪麗じゃ料理が凍っちゃうのよ……冷たい料理ならいいけれど」
「じゃあ半刻。それだけ経ったら起こしてやるから、今は寝ろ」


ふわり、と肩に羽織が掛けられる。頭を撫でられて、目を閉じる。
半刻。半刻だけなら、いいかな。
でもぬらりひょん、呼ばれていたのに。拘束してしまう。
私は良いから行ってきて。そう言ったつもりだけれど、言えたかどうかは定かじゃない。
だって私が寝付くまで、彼が優しく頭を撫でる感触は続いていたのだから。






ずき、と感じたことのない痛みがやってきて。
ああ始まった、と他人事のように思った。


「っ、……ぐ、う……」
「珀姫様、まだ力んではなりませんよ」
「ちょ、ちょっと……大丈夫なのこれ。珀姫凄い顔色してるけど……」
「まだです。もう少し」
「わ、かったわ……っ、いっ……」


鼻から西瓜を出すようだ、と言ったのは誰だったか。
定期的な痛みと、股から水のようなものが流れる感覚。
呼んでおいた産婆が来る頃には、痛みも大分強くなっていた。

汚れてしまう可能性もあるから、普段使わない部屋でお産をしましょう。
そう言われて運び込まれたのは、離れにある一部屋だった。
勿論、毎日掃除はしているけれど。慣れない天井を見ながら、別の家のようだと思う。
身がちぎれるような痛みに、不慣れな部屋。いくら一人でないとは言え、出産の不安も相まって心細くなる。


「っふ、う……」
「珀姫、水はいらない? 汗を拭くからじっとしていて」
「ありがとう雪麗、大丈夫……」
「……珀姫様ぁ……!!」
「……大丈夫ですかー……!!」
「ったくうるさいわねあいつら……」


雪麗がぎろりと襖の向こうを睨む。
この部屋に来てからどれくらい経っただろう。痛みで時間も定かじゃないけど、大体三刻か四刻ほど、経つか経たないかくらいだろうか。
襖の向こうから聞こえる沢山の声は、奴良組の妖怪達のものだ。


「男共はうるさいばっかりで何の役にもたたないんだから……」
「心配してくれているのでしょう……ありがたいことだわ」
「心配するのは当たり前よ。ぎゃあぎゃあ言ってるだけじゃ意味ないでしょ」
「ふふ、手厳しい……っ、い……!」


ずき、とまた例の痛みが来る。
母は強しと言うけれど、こんな痛みを乗り越えているのなら納得も行く。
拳を握り締め、歯を食いしばって耐える。耐えるしかないのだ。だってそれ以外何も出来やしないのだから。
ああ、痛い。痛いどころじゃない。体が裂けてしまいそうだ。
くじけそう。くじけてもどうにもならないけど。そう思って自嘲気味に笑った、その時。


「――珀姫」
「!」


襖の向こうに、ぬらりひょんの気配がした。
痛みで全然気付かなかったけれど、もしかしてずっといたのだろうか。
少し続いて、痛みが遠のく。軽く息をついてから、私は襖の方に目を向けた。


「ぬ、らりひょん……?」
「すまねえな、変わってやれなくて」
「……いいの。それより、ずっとそこにいたの?」
「ああ。ワシは入るなと言われたからのう。せめてここにいたいんじゃ、何も出来ねェが」
「そう……」


今の時代、男の人がお産の場にいることはない。
手伝ってくれるのは産婆や親族の女性だけだ。ここにいるのは、呼んでおいた産婆と雪麗だけ。
それでも、何て頼もしいのだろう。
心のよすがになってくれるだけでありがたい。だって一人でいると、身が裂けて死んでしまいそうなんだもの。


「あ、っぐ……う、いっ……!」
「! 珀姫様、力んで下さい」
「り、きむ……」
「ええ、力を入れるのです。赤子を産むのです」
「ぎ、……っあ……!」
「そう、お上手ですよ」


痛みが来て、遠のいて、また痛みが来て。
その繰り返し。その度に、死にそうなほど苦しくなる。
……母様も、私を産む時そうだったのだろうか。
もう少し親孝行、してくればよかったな。


「……頑張れよ、珀姫」
「っう、あああ……!!」


それから、気の遠くなりそうな程時間が経って、そうして。














「……ぎゃぁああ、ふぎゃあああ!!」
「っ……ん、」


どうやら少しだけ、気を失っていたらしい。
聞こえる声に目を覚ます。すると雪麗が安心したように、息をついた。


「目が覚めたのね、珀姫」
「ええ……、っ! 私、お産の途中で気を失って……」
「大丈夫よ。ほら」


そう言って、雪麗が見せてくれたのは。
しわくちゃの顔をした、真っ赤な肌の赤子だった。


「この子を産んだ瞬間、アンタってば返事もしなくなっちゃって」
「私、どれくらい気を失って……?」
「ほんの二、三分くらいよ。大丈夫?」
「ええ……平気」
「珀姫様、おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
「おとこのこ……」


ほっと息をつく。どうなることかと思っていたけれど、無事産むことが出来たらしい。
産婆が手際よく赤子の体を拭いてくれて、おくるみに包んで、寝転がる私の腕の中に置いてくれる。
意外と重くて、でもとっても軽い。産まれたばかりの、私の子。
恐る恐る、つんと頬を突いてみる。小さな体に見合わぬ大きな泣き声に、安堵した。


「珀姫、珀姫!」
「ああもう五月蠅いわねさっきから!」
「珀姫が気を失ったのに静かにしてられるか! 珀姫は無事か!?」
「ぬらりひょん……?」


襖の向こうから声がする。中々聞かないくらい焦った声だ。
返事をすると、ぬらりひょんががたりと物音を立てた。


「! 珀姫、大丈夫か!?」
「……うん、入って来て頂戴」


すっと襖が開き、閉じる。足音がして、側に誰かが座る気配がした。
上を向く。ぬらりひょんが、不安そうな顔でそこにいた。


「体調は!? 大事ないか、珀姫」
「ええ……大丈夫よ。ほら、元気でしょう」


そう言って、赤子に目をやる。
ふぎゃあ、ふぎゃあとよく泣いている。良い子、と頭を撫でた。


「いや子が元気なのは何よりじゃが……アンタは? 平気なのか?」
「平気よ」
「産婆!」
「鴆様が来られてからの判断になりますが、今のところは大丈夫かと」
「そうか……」


ぬらりひょんがほっと息をつく。私の言葉を信用していないのだろうか。平気なのに。
……いや、信じられないのも無理はない。実際気絶していたから、不安になっても仕方ないことだ。


「それより、ねえぬらりひょん。抱いてあげて」
「へ、……い、いや……ワシがか?」
「貴方以外に誰がいるのよ。……私達の子よ、可愛いでしょう」
「う、うむ……」


恐る恐る、ぬらりひょんが子に手を伸ばした。
おっかなびっくりな手付きで、子を抱き上げる。泣いていた子は抱き上げられたのに気付いたのか、少し静かになった。
ぬらりひょんの眼が、子を辿って。ふ、と口元を緩めた。


「……ああ。可愛いな」
「ふふ、そうでしょう」
「おう。流石は天下一の美姫の子じゃな」
「そんなことないわ、ぬらりひょんにそっくりよ、その子」
「そうか……?」


目元とか、特に似ていると思う。
そう言うと、ぬらりひょんは不思議そうに首を傾げた。
そしてやっぱり抱いているのが少し怖かったのか、恐る恐る子を寝かせて。つんつんと無骨な指が、頬を突いた。


「柔らかいな……」
「赤子ですもの」
「小さいな……」
「赤子ですもの」
「珀姫に似ておる」
「え、そう?」


私と言うより、ぬらりひょんに似ているが。
泣き止んで、すうすう寝ている顔もぬらりひょんそっくりだ。赤子だから、もう少し可愛らしいけど。
……うん。本当に、とても可愛い男の子。産まれてきてくれて、よかった。


「……珀姫、ありがとうな」
「うん?」
「十月十日も頑張ってくれて、ありがとう。お疲れ様じゃな」
「……うん」


すり、とぬらりひょんの手が私の頬を撫でる。
悪阻があったり、結界術のための旅に出たり、色んな事があった。
全て楽だったとはとても言えないけれど、でも。

この子に会えたのなら、もう何でもいい。
それくらい、言葉に出来ないほど幸せだ。
今はもう、それだけでいい。












鴆の診断も終わり、赤子も私も大事ないと分かってから、ぬらりひょんは安堵の息を吐いた。
それから部屋の外で待っていた妖怪達に赤子をお披露目して、騒ぎすぎた彼等に再び子が泣いて。それに雪麗が激怒して。
氷の像がそこら中に出来るほどの大惨事になって、……大変だった。
まあ、今は奴良組揃って、大広間でどんちゃん騒ぎをしているようだが。


「貴方は行かなくていいの? この子の誕生祝いに」
「周りが騒いでおるだけじゃ。それに三日三晩続くじゃろうから、ワシがいなくてもあいつらは飲んどるよ」
「……それもそうね」


私もぬらりひょんもこの子もいないのに、大広間の騒ぎが離れのここまで聞こえてくる。平和で何よりだ。
雪麗の怒号が聞こえないと言うことは、お産の介助で疲れて寝ているか、酔っ払っているかの二択だろう。
彼女にも、後でお礼をしなくては。永久にも思える苦痛の時間、支えてくれたのだから。


「そういえば、ねえぬらりひょん。考えてくれた? この子の名前」
「ん? ああ。ばっちりじゃ」


口角を上げて、ぬらりひょんは得意げに言った。


「ずばり、奴良鯉伴!」
「ぬら……りはん?」
「ぬらりひょんの子、という意味で奴良鯉伴じゃ。字面はな、今日池の鯉にも子が生まれたようじゃから、そこから取った」
「鯉伴。……鯉伴、うん。素敵な名前だわ」
「そうじゃろう?」


奴良鯉伴。二代目総大将に相応しい名だ。
まあ、それもこの子が望むなら。望まないなら人間として生きてもいいのではないか、と私は思う。
好きに生きて欲しい。だってこの子は自由な妖怪、ぬらりひょんの子なのだから。


「鯉伴」


腕の中、すやすやと寝息を立てる赤子に呼びかけた。
産声を上げて暫くして、鯉伴は眠ってしまった。
ぬらりひょんに似た色の瞳は、今は閉じられて。可愛らしい、柔らかそうな頬がむにむに動いている。


「……よかった」
「うん?」
「無事に産まれてくれて。……本当に、よ、かった……」


思わず涙声になってしまって、誤魔化すように眼を拭った。
ご懐妊です、と言われた時の喜びと絶望は、今でも思い出せる。
愛しい人との間に出来た子。その子どもを、私のせいで殺してしまうのではないかという恐怖。
けれどこの子は、そんなものにも負けず、元気に産まれてきてくれた。


「……そうじゃな。アンタはいつも、頑張っておったから」
「貴方もよ、ぬらりひょん」
「何がじゃ?」
「私が妊娠してから、ずっと煙管を吸わなかったでしょう。前は何かと言えば吹かしていたのに」
「……あー、まあのう。悪影響があってはたまらんしな」


決まり悪げに、ぬらりひょんが言う。
こういうのを指摘するのは、無粋かも知れない。でも分かっていても言いたかったのだ。
京でも江戸でも、ぬらりひょんからは煙管の匂いがした。けれど私が妊娠してから、羽織から匂いはしても、彼が煙管を吹かす姿は見なかった。
それはつまり、遠慮してくれていたのだろう。私と、腹の中の鯉伴に。


「ありがとう」
「……おう」


微笑めば、ぬらりひょんは照れたようにそっぽを向いた。
彼のこんな姿は珍しい。思わずにこにこしながら見ていれば、不意に遠くの方に、陽の気を感じた気がした。


「……?」
「ん? どうした?」
「この、気配……」


顔を上げる。空に飛んでいたのは、風を纏った一羽の鳥だった。


「鳥……?」


風が吹いて、 花びらが舞う。その中で、鳥は優雅に、私達の側へと降り立った。
……間違いない、この気配は。
昔から慣れ親しんだ、間違えるはずもない、


「秀元……?」
「何?」


鳥がぼふんと、軽い破裂音を立てて爆発する。
その後に残ったのは、一枚の紙。


「これ、って……」
「手紙……?」


書いてあったのは、見慣れた字で、ただ一言だけ。
「おめでとう」、と。
その言葉だけが、流麗な文字で書かれていた。


「……どうやって知ったのかしら」
「まあ秀元じゃしな。どうにかして知ったんじゃろ」
「本当に底知れない人だわ。我が従兄弟ながら」


それでもその言葉から感じるのは、純粋なる祝いの気持ち。
私は花開院を捨てた身だから、手紙を送ることは出来ないけれど。
ありがとう。私は心の中で、そっと呟いた。
親愛なる従兄弟の、温かい気持ちに向けて。





「わー……」
「ちっちぇー……」
「手なんかオレの指くらいだよ……握りつぶせそう」
「お前それは……それはちょっと、分かるけど……」
「何だよ良いだろ別に」


鯉伴が産まれてから、少し経って。
彼は今や、奴良組一の人気者となっていた。

赤子と言うだけで、大抵の人は可愛がる。
それも総大将の子となれば、奴良組はもう皆目尻を下げに下げて可愛がるのである。

赤子用の布団に寝せて籠に入れた鯉伴を、奴良組の妖怪達は今日も取り囲み、ひそひそ話しながら見ていた。


「ふふ、人気ね鯉伴、良かったわね」
「珀姫様!」
「お体はもう大丈夫なんですか?」
「ええ、平気。それより、鯉伴の相手をしてくれていたのでしょう。ありがとうね」
「いやあ〜それほどでも」


くす、と微笑めば、彼等はでろんと照れたように頬を染めた。
鯉伴を覗き込むと、彼は不思議そうにこちらを見ている。頬を撫でれば、私の指をきゅっと掴んだ。


「ふふ、可愛い子」
「しかし肝が据わってますねえ、鯉伴ぼっちゃま。奴良組の妖怪なんて見た目怖いヤツばっかなのに」
「お前が言う?」
「うっせほっとけ」


言い出したのは奴良組でも鬼寄りの風貌を持った小妖怪である。
確かに普通の赤子なら、その顔に怯えを持つかもしれない。
それでもやはり、総大将の息子ということか。鯉伴は平然とした顔をしていた。


「珀姫、ちょっといいか」
「ええ、今行くわ」


ぬらりひょんに呼ばれて、その場を後にする。たちまち鯉伴の周りに妖怪達の壁が出来て、見えなくなってしまった。
随分と可愛がられている。良いことだ。
半妖、しかも花開院の血を継いでいるのだ。偏見を持つ者もいるのではないかと、心配していたけれど。
あの様子を見る限り、大丈夫らしい。


「どうしたの?」
「鯉伴の誕生祝いに、色んな妖怪達が服やらなんやら贈ってきててな。あんまりあるもんで、珀姫が気に入ったのだけ残そうかと思うてのう」
「あら勿体ない。いいじゃない、全部使えば。御厚意はありがたくいただくものよ」
「とは言ってものう。凄い数あるぞ、ほれ」


ぬらりひょんが指を指したのは、部屋の一角に積まれた箱の、山、山、山。
大小問わず大量にある箱。あれが全て誕生祝いだとは。
流石鯉伴、人気者だ。お礼の品も考えなくてはならない。


「開けても開けても次の品が届くもんだから、辟易してきた」
「あらら……」


心底参ったと言いたげなぬらりひょんの顔に、思わず苦笑してしまった。
ぬらりひょんは意外と顔が広い。下町に行くだけで色んな人から声を掛けられているのを見たことがある。
まして妖怪相手ともなれば、それはいかほどだろうか。
ぬらりひょんと共に誕生祝いの品に近付く。確かにこれは凄い。
どうしたものか。折角頂いたのに使わないのも勿体ないし、でもこれだけあるとなると使うのですら一苦労だ。


「取り敢えず、全部開けてみましょう。着物や反物なら洗い替えにどれだけあっても困らないし、玩具なら鯉伴に見せてみて、反応を見てから決めるといいわ」
「ふむ……そうじゃな。おーいカラス天狗」
「は、ここに」
「お前これ全部開けて品物別に並べといてくれ。頼んだぞ」
「え、全部ですか!?」
「おう」
「またカラス天狗に何でもかんでも押し付けるんだから……」


カラス天狗は真面目な性格だけあって、ぬらりひょんの頼みを全部こなそうとする。
それは結構なことなのだけど、如何せん負担が多すぎて、倒れてしまわないか心配だ。
彼がそんな柔な妖怪でないことは知っていても。こういうのは気持ちの問題なのである。


「うーん……そうねえ。じゃあ、こうしましょうか」
「ん?」
「式神、�鵠g」
「わ!」


ぼふん、と軽い破裂音を立て、�鵠gが姿を現した。
私の持っている式神の中で人型は彼だけ。奴良組本家で式神を使うのは如何なものかと思わなくもないが、先日までずっと出しっ放しだったので、奴良組本家の彼等はすっかり慣れてしまったらしい。


「珀姫様、何を……?」
「�鵠gなら、贈り物を開けることも出来ると思うわ。内容による選別もね」
「甘いのう珀姫は」
「私達の子に贈られたものなんだから当たり前でしょ」
「それはそうじゃが……」
「私も一緒にするから、貴方も……」
「ふにゃあああ……!」
「あら?」


言葉を遮るようにして聞こえてきたのは、赤子の泣き声。
この家に赤子は一人だけ。つまり、鯉伴の声だ。


「あー泣かせた! お前が大きな声出すから!」
「え、あ……た、助けて下さい珀姫様〜!」
「……ちょっと、行ってくるわね」
「御意」


助けを求めるような妖怪達の声に、頭が痛くなるような気がしながら振り向いた。
わんわん泣く鯉伴と、それにあたふたしながら右往左往する妖怪達。
近付いて行って抱き上げれば、鯉伴はぐすぐす鼻を鳴らしながらこちらを見た。
泣いているのに場違いかも知れないが、可愛らしい。まだ見えているのかすら怪しい視線が、うろうろと私の顔の辺りを彷徨っている。


「よしよし、鯉伴。良い子」
「ふ、えええーん」
「ふふ、可愛い子。どうしたの、そんなに泣いて」
「珀姫様すんません……オレらがちょっかい出し過ぎて」
「そんなことないわ、遊んでくれていたのでしょう。赤子は泣くものよ」


ゆらゆらと身体を揺らしてみても、鯉伴は泣き止まない。
赤子は泣くのが仕事。それはその通りなのだけれど、まあ泣いているのをいつまでも見ているのも忍びなく。
何かあっただろうか、と私は古い記憶を辿った。


「……ねーんね、なーされまーせ 今日は二十五ー日」
「ふ、ええ……」
「あーすはおまーえの 誕生日 誕生日」
「う……ぐす、すん」


これは何の歌だっけ。思い出せない。
ただ歌詞と曲調だけが、頭の中に流れてくる。
昔、母様に歌ってもらったような、そうでないような。誰かが歌うのを聞いて覚えたのだったっけ。
もうあやふやな中で、浮かぶ歌だけを口ずさめば、鯉伴は次第に泣くのを止めた。


「そう、鯉伴。良い子ね」
「珀姫様、それって京の子守歌ですか?」
「多分、そうだと思うわ。あんまり覚えていないのだけれど」


とん、とん、と。鯉伴の背中に回した手で優しく叩くと、落ち着くのか、とろんとした顔つきになる。
その顔が寝起きのぬらりひょんそっくりで、くすりと笑ってしまった。
そのままうとうとして、ついには寝てしまった鯉伴の額に、口付けを落とす。あどけない寝顔に愛しさを覚えた。


「寝ちゃった……」
「すげえ、流石珀姫様」
「暫くはゆっくり寝せておくわ。起きたらまた相手をしてくれる?」
「も、勿論ですとも!」
「ふふ」


起こさないようにそっと、布団の上に乗せて。
さあ贈り物のところへ、と振り向いた瞬間、ぽふんと何かにぶつかった。


「わぷ。……ぬらりひょん?」
「……」
「どうしたの、そんな所に棒立ちで。あ、鯉伴を抱っこする?」
「……狡くねえか?」
「何が?」
「今の口吸いじゃ」
「口吸い?」


って、今鯉伴の額にした、あれのことだろうか。
まさか、この人は息子にまで悋気を起こそうとしているのか。いや鯉伴がお腹にいた時から兆候はあったけれど。


「珀姫はワシにすら中々自分から口吸いをせんというのに……するのは褥の中だけ、」
「っ!!」
「痛え!」


思わず喰らわした平手打ちで、ばちんと良い音が鳴った。
顔がかああ、と熱を持つ。な、なんてことを。この広間、妖怪達だって沢山いるというのに。


「ご安心を、珀姫様。オレら慣れてますんでそういうの」
「なーんも聞いてませんから、はい」
「ほら。大丈夫じゃ珀姫」
「な、何にも大丈夫じゃないじゃない!」


大きな声を出してしまって、はっと口を塞ぐ。恐る恐る鯉伴を見下ろせば、彼はすやすやと寝息を立てていた。
ほっと一安心するも、それどころではないのだったと思いだし。
私はぷいと顔を背け、足早にその場を後にする。


「珀姫、」
「つ、着いてこないで!」
「そうはいかん」


小走りに廊下を進んでいたのに、あっという間に追いついたぬらりひょんに手を掴まれてしまった。
強く手を引かれ、振り向かせられる。まだ赤い頬を隠すように着物の袖をかざせば、ぬらりひょんはまるで子どものような顔で言った。


「仕方ねえじゃろ。ワシも珀姫から口吸いされたい」
「だ、だからってあんな、っ……人前で言うことじゃないでしょう!」
「それは……まあ、すまんな」
「……」


口吸い。言われてみれば、私からした記憶はほとんど無い。
というか、ぬらりひょんがしてくるから。私がしたいと思うより早く彼が動くせいで、する機会がないというか。

ちろ、とぬらりひょんを見る。彼は謝ってはいたけれど、まだ何と言うか、憮然とした表情のままで。


「……されたいの?」
「されたい」
「……どうしても?」
「どうしても」
「……っ、目、瞑ってて」
「! おう」


途端、ぬらりひょんが目に見えて上機嫌になる。
きょろきょろと辺りを見回しても、特に人影もなく。
……大丈夫、一瞬だ。一瞬、だけ。

私はぬらりひょんに近づき、背伸びをして、


ちゅ、と、口付けをした。


「……っ、これでいいでしょ」
「……いや頬じゃねえか」
「ほ、頬でいいじゃない!」


ぬらりひょんがとてつもなく分かりやすく、不満げな顔をした。
心臓がばくばく鳴っている。なのにこの人は。


「いいか珀姫、口吸いってのはな……こうするもんじゃ」
「な、んむっ!」


瞬間顎を掬われて、唇を奪われる。
反射的に目を瞑ってしまえば、後はぬらりひょんの好き勝手にされるまま。
押しても叩いても頑として引かないぬらりひょんが私を離したのは、それから大分後のことだった。


「ほれ、この通りにもう一度」
「で、出来るわけないでしょうこの馬鹿!」
「あいて!!」






よた、よた、と覚束ない素振りで、鯉伴が懸命に手足を動かしている。
手を差しだした状態で待っていれば、彼はこちらを見ながら懸命にはいはいで近寄ってきて、ぽすんと私の膝の上に到着した。


「上手ね、鯉伴」
「あ、うー」
「鯉伴様、成長早いですねえ。妖怪は人より早いけど、それ以上だ」
「流石は総大将のお子ですな」
「ふふ、そうね」
「まんま、だあぶ」


よだれを垂らしながら、鯉伴がもごもごと何か言う。
なあに、と目を合わせてみれば、彼は嬉しそうにきゃっきゃと笑った。


「かわいい〜」
「流石珀姫様の子〜」
「総大将だけじゃこうはならねえな」
「なんじゃと?」
「げ、総大将」
「なんでもありませーん」
「ったく……おう鯉伴、元気か」
「ばぶ」


ぬらりひょんがつん、と頬を突くと、鯉伴は返事をするように言った。
そのままぬらりひょんの指に手を伸ばし、ぎゅっと掴む。可愛らしい、赤子特有の仕草だ。
子どもの相手はそんなに得意そうには見えないけれど、ぬらりひょんは彼なりのやり方で鯉伴を可愛がっているらしい。


「総大将〜! 総大将〜!」
「なんじゃ、うるさいのうカラスよ」
「ここにいらっしゃいましたか総大将! やや、鯉伴様のお相手中で?」
「そうじゃ。じゃから仕事はせんぞ」
「お仕事はして貰わなければなりません! ですが今はそれどころではないのです!」
「何?」
「これを見て下さい」


カラス天狗が持ってきたのは、数枚の 紙だった。
よく見ると大きく 絵が描かれており、横に何やら解説が付けられている。
ぬらりひょんに習って私も覗き込めば、そこに書いてあるのは女の肖像画だった。


「これって……」
「今江戸の城下町では、この瓦版が大量に配られているのです!」
「……? それの何が悪いの?」
「よくご覧下さい珀姫様、こちらを」


カラス天狗がびし、と指した先。そこに書かれていたのは、「天下一の美姫」という言葉。
……何処かで聞いた事があるような宣伝文句である。


「これ……まさか、珀姫の肖像画か!?」
「左様。それも同一人物が、何枚も大量に描いては売っているようなのです。天下一の美姫と名を付けて」
「……本当に私? 別の人なんじゃなくって?」
「いいえ、この江戸で、というかこの日本で天下一の美姫と言えば珀姫様以外にはございません! こちらもその証拠で」
「! ……この髪紐……」


描かれた女が付けている髪紐は、以前ぬらりひょんがくれた藤色のものとよく似ている。
色だけでなく、紐の端に付けられた玉飾りまで、そっくりそのまま同じであった。


「珀姫の美人画か……」
「迂闊でした……。珀姫様が江戸に来られて、もう少しで一年が経ちます。それなのに噂が出回らないはずがありません。寧ろ遅すぎるくらいですよ!」
「ふむ……」
「人の口に戸はたてられないと言いますからな。元々噂にはなっていたのでしょうが、この絵が出回って一気に広がったと言うことでしょう」
「チッ、余計なことをしおって」
「この絵図も、大量に売られてはいますがその価値は未だかつて描かれた美人画とは比べものにならないほどであり、持つ者には幸せが訪れるとの話も」
「……はあ、下らない。そんなわけないでしょうに」


髪紐の絵を見る限りだと、どうやらここに描かれた女は私のようだけれど。
それでも確定事項ではないのだし、大体 絵を持つだけで幸せになれるなんてありうるはずがない。
だというのに。変な噂は京でも江戸でも出回るものらしい。


「カラスよ。これ以上話が膨らんで珀姫に影響が出る前に、この絵を描いた主を探せ」
「御意」
「そこまでする必要がある? 描きたいなら放っておけばいいじゃない」
「いや、このままじゃアンタの私生活にまで影響が及ぶ。これだけ売れているとなると、本人にまで粉を掛けようとする者もいるじゃろう。そうなってからでは遅いからのう」
「……影響ねえ」


私は正直話半分で聞いているので、どうでもいいのだけれど。
ちらりと鯉伴を見る。鯉伴は物珍しそうに 紙を弄っては、その感触にきゃっきゃと喜んでいた。

万が一。万が一、変な人が来たとしてだ。
鯉伴に影響が及ぶ可能性も、ないとは言えないのだとしたら。
……それは、由々しき事態である。


「……分かったわ」
「大急ぎじゃぞカラス」
「拝命いたしました」
「いやそこまで急がなくても……って聞いてないわね」


カラス天狗は風音が鳴りそうな勢いで飛んで行った。小さくなるその姿に鯉伴が手を伸ばす。
鯉伴を抱き上げ、もう一度紙を手に取った。

確かに立派な絵姿である。丁寧に描かれているし、それだけで価値があると思う者もいるだろう。
だけど本当に私のことが描かれているのだろうか。京では天下一と謳われても、江戸ではそれ以上の美姫がいる可能性だって大いにあるというのに。


「皆大袈裟ねえ、ねえ鯉伴」
「だあ」
「うふふ」


返事をするように声を上げた鯉伴をゆらゆらと揺らす。
まあ、この子に被害があってからでは遅いのだし。
カラス天狗の勘違いなら、全部が一気に解決するのだけれどな。












そんな私の願いは、僅か三日後に打ち砕かれることとなる。












「総大将〜! 連れて参りました!!」
「何じゃカラス、騒々しい」
「見つかりましたぞ! こやつが珀姫様の 絵を描いた下手人にございます!」


どたどたと、カラス天狗が大広間に連れて来たのは、縛り上げられた一人の男だった。
髪は随分と切っていないようで、顔の半分を隠している。ボサボサの前髪の下に、伸びっぱなしの髭。手に着いたままの墨汚れ。
若いのか年なのかも分からない。けれどその男からは妖気を感じた。


「……妖怪か」
「は。こやつ、画皮と申す者でございまして」
「画皮……聞いた事がある。他人の顔の皮を剥いで被る妖怪の名じゃ」


画皮。確か花開院秘録に載っていた気がする。
けれどあまり詳しいことは覚えていない。ぬらりひょんが言った様な妖怪ならば恐ろしい。
彼はぬらりひょんのひと睨みにも臆せず、ケッと唾を吐いた。


「何だってんだ、誰が下手人だと?」
「お前じゃ! 珀姫様の絵を勝手に描いていたじゃろう!」
「珀姫……っあー!!!!」


びく、と思わず肩を揺らす。彼の視線、というか髪で隠れて分からないがその瞳が、此方に向けられているような気がした。


「見つけた! オレの天女様!」
「は……? てん……」
「江戸の城下町でお見かけした時はついに妄想が形になったかと思った! アンタみたいな美人を探してもう三百年も生きている!!」
「え、」
「オレの理想通りの姿……ずっと絵に描いてきた女がようやく現れた! アンタはオレの運命だ、もう逃しはしない!」
「っ、」
「勝手なことを言うな、三下が」
「何だと?」


男の言葉が何だか恐ろしくて思わずぬらりひょんの袖を掴む。
ぬらりひょんは私をその男から庇うように一歩前に出て、画皮という妖怪を睨み付けた。
彼からどうしようもないほどの怒気を感じて、恐る恐るぬらりひょんを見る。顔は見えないが、彼は間違いなく怒っているようだった。


「この女はお前の運命などではない。ワシの女じゃ。分かったら消えろ」
「は……? ワシの女……って、アンタまさかその女の旦那か!?」
「そうじゃ」
「っく……そ、そんな……」
「は、そもそも江戸に連れて来た時点でこの女はワシのものじゃ。お前のではない」


滅多に聞かないほどの冷たい声だ。怒っている、なんて可愛らしいものじゃない。
確かにこの画皮という男は気味が悪い。知らない間に知らない人から欲求を向けられるなど気持ちの良いものではない。
あの 絵も、彼が描いたのだろう。私を思い出しながら描いたのだろうか。
……一つ一つ、丁寧に。

そう、丁寧だった。あの絵は、単に上手いだけではない。
心を込めて描いているのが分かる。誰もを虜にする魅力があった。


「……ねえ、貴方……」
「っっっ推せる!!」
「……は?」
「え?」
「こんな美丈夫が旦那!? つまり二人は夫婦!?」
「……な、何じゃこいつ……」
「だあぶ」
「! 鯉伴」
「あ、駄目ですよ坊ちゃん!」


聞こえてきた声に廊下を見れば、鯉伴がそこにいた。
妖怪達に世話を頼んでいたのに。ああでも、画皮が来ることを知らなかったのだからしょうがない。
興奮しきった画皮に近付けてはいけない気がして、私は慌てて抱き上げた。が。


「既に子どもまで!?!?!!」
「…………珀姫、鯉伴を連れて下がっておれ」
「…………そうするわ」


奇妙、なんて生易しいものではない。何と言うか、地味に恐怖を感じる。
悪意がないのは伝わるが。すすす、と後ずさりしている私を他所に、画皮はとてつもなく興奮しているようだった。


「うおおおおお滾ってきたあああ!! 縄邪魔!! 描かせろオレに!!」
「うわあ!」
「な、縄をちぎりおった……」
「……結界」


ぶちい、と派手に縄をちぎって拘束を解くと、彼は何やら蹲って 紙に何かを書き始めた。
念のため私と鯉伴の前に結界を張って。遠目に見ていると、彼が描いているのは二人の人物画のようだった。
……いや、その内の一人の手に、何かが抱えられているような。
あれって、まさか。


「……式神、水蓮!」


ぼふん、と猫が現れる。式神の水蓮である。
水蓮は画皮が描いた絵のうち一枚を咥え、とことこと此方に近寄ってきた。
持ってきてもらった絵を覗き込む。横からぬらりひょん、前からカラス天狗も一緒になって顔を見合わせた。


「……これって」
「総大将と珀姫様、それに鯉伴様に見えますな」
「だぶ」


見事な絵である。仲睦まじい家族のそれは、紛れもなく私達の姿だった。
……否、私の 絵は若干、というかかなり美化されているが。それはともかく、ぬらりひょんと鯉伴はそっくりである。


「似てるわね」
「うむ……珀姫の美人さをよく表しておる。ワシの色男っぷりもな」
「私は似ているかは……分からないけれど。貴方はよく似ているわ」


まじまじとその絵を見るカラス天狗達を他所に、画皮に目を向ける。彼は相変わらず絵を何枚も描き上げていた。


「……ねえ、貴方。画皮、と言ったかしら」
「! 天女……」
「天女じゃないわ。私は珀、と申します」
「あ、これ珀姫!」
「危のうございますよ!」
「大丈夫」


結界は張っているから。とは言わないが。
近付くと、彼はばっと顔を上げた。真っ直ぐな視線が突き刺さる。
私は腰を下ろし、座った状態の彼に目を合わせると、散らばった絵の一枚を拾った。


「見事な絵だわ。……でも、貴方はこれをどうするつもり?」
「どう……そうさな、売るだろうな。生計を立てるためにも」
「……そう。私の絵を勝手に描いていたのはどうして?」
「どうして? そりゃあ……アンタが美人だから。それに、美人の絵は広まるものだろう?」
「無断で?」
「……気を悪くしたなら謝るが」


つん、と拗ねたように画皮が口を尖らせる。謝るが、けれど悪いとは思わない。そういうことだろうか。
……まあ、別に気を悪くしたわけではないけれど。
使えるものは使い、貰えるものは貰っておくのが賢い生き方というものだろう。


「そうね。もし貴方が、これからも私の絵を描くというなら条件があります」
「条件?」
「そう。二つだけね。それを守ってくれるなら、私からは何も口出ししないわ」
「……聞こうじゃないか」


筆を置いて聞く体勢を取る画皮に、私はにっこりと微笑んだ。

















「あれでよかったのですか、珀姫様?」
「ええ、いいのよ」


不安げなカラス天狗に、ゆるりと笑みを浮かべてみせる。
私の手元には、大量の 絵があった。
それらの共通点は一つだけ。ぬらりひょん、もしくは鯉伴の絵が描いてあること。

私が画皮に出した条件は二つ。
私を描くというのなら、その代償にいくらかの金銭を払うこと。
そしてぬらりひょん、及び鯉伴が描かれた絵は、私にのみ売ること。
それだけだ。


「代償の金銭は分かりますが……総大将や鯉伴様が描かれた絵を買い取るというのは?」
「私程度であの騒ぎですもの。あの二人が描かれた絵なんて出回ったら大変なことになるじゃない」
「ふむ……総大将ならのらりくらりと畏れを纏って躱しそうではありますがな」
「そうかもしれないわね。でもぬらりひょんは私の亭主でしょう。なら態々誰かにひけらかすこともないわ」


私自体が広まることは、正直言ってどうでもいい。
あの絵は確かに見事だった。あの絵と私を結びつける人は、多分あまりいないだろう。
京でならともかく、江戸で天下一の美姫の名が広まっても、私の名前が出ていないのであれば、私に危害は及ばないと考えた。
ぬらりひょんは渋い顔をしていたが、画皮には私の名を出さないよう約束してもらったから大丈夫だと思う。
彼も彼で、自分の絵を広めることを目的としているようだったから。


「要するに、総大将の絵姿が広まるのがお嫌だったと?」
「あら、カラス天狗。そんなに女心を解説しようとするなんて、無粋なんじゃなくて?」
「は、これは失礼を。……しかし、総大将も愛されておりますな」
「ふふ」


否定も肯定もしないけれど、まあカラス天狗の読みは当たっている。
ぬらりひょんや鯉伴の姿が広まることを良しとしない。それだけだ。理由は何であろうと、好き勝手言ってもらって構わないけれど。

私は手元の絵の中で、特に気に入った一枚を手に取った。
金髪に金の目をした伊達男。……実に見事な絵である。
これが広まってしまうのは、少々勿体ないと思わせるくらいには。
別に誰かに損をさせるわけでもなし。これくらいはいいだろう。

私だって、彼の事は憎からず思っているのだから。




さあっと、大きく吹いた風が髪を靡かせた。
思わず目を閉じ、数度瞬きをする。遠くに、桜色の衣が見えた。


「珱姫!」
「!」


名を呼べば、彼女も気付いたように此方を向いて駆け寄ってくる。
少しだけ大人びた、けれどあの頃と変わらない愛らしさを持って、彼女は私を呼んだ。


「珀姉様!」


依然として変わらない、鈴の鳴るような美しい声で。


「久し振りね、珱姫。元気にしていた?」
「ええ、姉様! 姉様も、お元気でいらっしゃいましたか?」
「私は相変わらず」
「妖様や奴良組の方は? それに……お生まれになった、姉様のお子様は?」
「もう五月蠅いくらい賑やかにしているわ。鯉伴……子は、連れては来られなかったのだけれど。でも、少しずつ大きくなっているの」
「わあ……! いつかお会いしてみたいです、きっと姉様譲りの美しい子なのでしょうね」
「ふふ、相変わらずみたいね、貴女の方も」


そう微笑むと、珱姫はくすぐったそうに笑った。


江戸の中心部に来る用事が稼業の方であるから、少しだけでも会えないだろうかと。
そういった旨の手紙が届いたのが、およそ一月前。
是非、と返し、それから何度か手紙のやりとりをして、そして今日。
ようやく、婚儀の時ぶりに珱姫に会う事が出来た。


桜色の衣を纏った彼女は、少しだけ髪が短くなっていて、そして少しだけ背が伸びていた。
今日一日だけ休みを貰ったのだという珱姫に、じゃあ沢山話せるわね、と返せばまた笑う。
珱姫は少女から少しだけ成長して、綺麗な女性になっていた。


「ふふ、姉様とこんな風に連れ立って歩くなんて、京以来ですね」
「そうね。懐かしいわ」
「京では姉様お勧めの茶屋に連れて行っていただきましたね。今度は私がお連れ致します!」
「あら、素敵な茶屋を知っているの?」
「はい! 何度か来たことがあって。こっちです!」


珱姫の導きに連れられて、見慣れない道を進む。
ここまで来るにも地図とにらめっこだったというのに。江戸の中央ともなれば、随分と道が入り組んでいる。
珱姫はよく来るようで、すいすいと慣れた様子で歩いて行った。


「いらっしゃい。おや珱ちゃん。また来てくれたのかい」
「はい! こんにちは」
「いつもどうもね。それに……その方は?」
「私の姉様です!」
「こんにちは、初めまして」
「あらまー、こりゃまた別嬪な……」


珱姫の後を追って着いたのは、昔ながらの茶屋だった。
店名を見ると、何処かで聞いたような感覚を覚える。確か、奴良組の妖怪の中にもここの菓子がお気に入りという者がいた気がする。
茶屋は店主の老婆がやっているようで、それに加えて若い男が手伝いをしているようだった。


「これ、佐吉! おいで」
「なんだいばあちゃん?」
「挨拶をし。珱ちゃんの姉様だそうだ」
「よ、珱姫様の!?」
「ふふ。こんにちは、珀姫と言います」
「こ、こんにちは」


老婆が佐吉と呼ぶ、その男。どうやら彼女の孫らしい。
清潔感のある顔立ちで、体格もよい。にこりと微笑めば、彼は顔を赤くした。


「佐吉です。珱姫様はここの常連様でして、贔屓にして頂いています」
「もう、佐吉さん。様はいらないのですよと何度も言っているのに」
「し、しかし珱姫様……」
「何なら店主さんのように、珱と呼んでいただいても構わないのですが」
「恐れ多いですよ、あはは」


珱姫が話しかけた瞬間、ぼしゅんと爆発するように顔を真っ赤にする佐吉という男。
……これは、もしかして。いや考えすぎか?


「し、しかし珱姫様、お姉様がいらしたんですね。やはりというか、綺麗な人で」
「! そうでしょう、そう思いますよね! 姉様は京で暮らしていた時から美人と評判で……」
「噂が膨らんだだけです。実際は珱姫の方が可愛いわ」
「もう、姉様ったら。姉様の方がお綺麗に決まっています」
「そんなことないわ。ねえ、佐吉さん。貴方もそう思われるでしょう?」
「へ!? あいや、自分は、えっとその……」
「姉様ですよね、佐吉さん?」
「よ、珱姫さま近い、ちかい……」


興奮した様子の珱姫が近付き、佐吉さんはますます顔を赤くする。
珱姫の言うことを否定はできないが、珱姫より別の女が綺麗とは言えない。そんなところだろう。
分かりやすい人だ。随分素直で、初心な性格らしい。


「ふふ。まあそれは置いておいて。珱姫、貴方のお勧めをいただこうかしら」
「はい、姉様! 佐吉さん、店主さん、いつものをお願い致します」
「毎度。少々お待ち下さいませ」
「腕によりを掛けて準備するからね」


何が来るのだろう。楽しみである。
店の奥に行った店主達を見送って、珱姫に目をやる。彼女は笑みを浮かべて店主達を見ていた。


「素敵なお店ね。私も探しておこうと思ったのだけれど、珱姫の方が詳しいみたい」
「無理もありません、姉様は婚儀やご出産で大変でしたから」
「子がもう少し大きくなったら、次こそ私がお勧めの茶屋を紹介するわ。今はまだ、住んでいる町の周辺しか分からなくて」
「姉様の町……以前お伺いした時は、少ししか見て回れなかったんです。今度遊びに伺いますね」
「それはいいわね。私も珱姫の町に行ってみたいわ」
「はい、是非!」


にっこりと笑う珱姫は、昔より少し笑顔が柔らかくなったみたいだ。
父親の管理を外れて、自由に生きるようになって。大変なこともあるだろうけれど、その分楽しい日々を送っているらしい。
愛おしく感じて頭を撫でれば、珱姫は照れたように笑った。


「珱姫、今は楽しい?」
「はい、姉様。稼業の手伝いも随分上手くなったんですよ」
「そう」


実は少しだけ、申し訳なさを感じていたのだ。
あの時、珱姫の屋敷を妖怪が襲撃した時、もし私がその妖気を感じ取れていたなら。
妖怪の接近に気付いて、お父上ごと逃がすことが出来ていたなら、と。

もしもなんて下らない。それでも考えずにはいられなかった。
だから珱姫が少しでも楽しく暮らせているのなら、それでいい。


「お待たせしました、団子になります」
「わ! ありがとうございます」
「あら、美味しそう」


持ってきて貰ったのは、串に刺さった二本の団子だった。
四つの小さな団子が刺さっていて、半分は普通の餡だが、半分は桜色をしている。


「これ、桜色のほうって……」
「それ、お勧めなんです! 是非召し上がって下さい」
「頂きます。……! 桜餡ね」
「そうなんです」


嬉しそうに笑って、珱姫も団子にぱくついた。
桜色の方は恐らく、塩漬けにした桜の 花を材料に使っているのだろう。仄かに桜の香りがする。
珱姫にぴったりだ。勧めるのも頷ける。


「これ、私がこの茶屋に来るようになって、少ししてから出来た新しい品なんですよ」
「そうなの」


……桜の花のような姫が、来るようになってから。
あの佐吉さんの反応と言い、もしかしてこれは珱姫から着想を得た物だったりして。
ちらりと奥に目をやると、ぼうっと此方、というか珱姫を見ていた佐吉さんが見えた。
成る程。どうやら彼は、本格的に珱姫に懸想しているらしい。


「確かに美味しいわ。お茶との相性もぴったりね」
「そうでしょう? 私の一番お気に入りのお菓子なんです」
「ふふ。珱姫に似合うものね」
「え? そうですか?」
「ええ」


にっこりと笑えば、珱姫はよく分かっていないような顔をしながらも微笑んだ。
珱姫は顔立ちは勿論の事ながら、性格も明るくて優しい。それだけでなくしっかりとした芯を持つ女性だ。
だから恋愛や結婚もするだろうな、と思っていたけれど。どうなることやら。
珱姫が幸せになるなら、私は何も文句はないのだけれど。


「そうだ。珱姫、折角江戸の中央に来たのだから、ちょっと見たいものがあるの」
「そうなのですね。何をお探しなのですが?」
「……まだ、品は決まっていないのだけど。ぬらりひょんへの贈り物を考えていて」
「贈り物?」
「ええ。婚儀を挙げて一年になるから、その記念と……後は、日頃のお礼も兼ねて」
「まあ、素敵ですね!」


珱姫はぱちんと手を合わせ、可愛らしく微笑んだ。

婚儀の夜にぬらりひょんから贈られた着物や簪の礼も含め、彼には返しきれない恩が山ほどある。
私の手持ちの金はそんなに沢山あるわけじゃないけれど、先日画皮から受け取った分のものと、京から持参したものを合わせれば、何か一品くらいはあつらえられる。
江戸はどんどん大きな町になっているから、その中央なら何かいいものもあるかもしれないと。
そう思って、贈り物をずっと考えていたのだけれど。


「でも肝心の品が思い当たらなくて。あの人はこだわりのある品を持つから、それも考えると中々……」
「妖様なら、姉様からの贈り物と言われれば何だってお喜びになりそうですが……」
「それは……まあ、否定しないわ。でもどうせなら気に入ってほしいじゃない」
「そうですねえ……」


ぬらりひょんは何も、高い品だけを持つわけではない。
奴良組傘下の組から贈られた品でも、むやみやたらと身につけるわけではないし。かと思えば、首に獣の妖怪を襟巻き代わりに巻き付けることだってある。
まあどちらかというと派手な方が好きらしいが。だからといってごてごてと派手なものよりは、品のあるもののほうが似合うから。
どうしたものかと溜息をつくと、珱姫はくすりと笑った。


「ふふ、思い出します。妖様も昔、京にいたころ、姉様への贈り物を私に相談しに来られたことがあるのですよ」
「贈り物?」
「ええ。確か髪紐を贈られたと仰っていましたね」
「あの髪紐、そういうことだったの」
「姉様と妖様、似た者同士ですね」
「……そうね」


ぬらりひょんは女に人気の出そうな見目だから、贈り物なんて相談せずとも分かるだろうに。
……それとも、それだけ手に入れたがっていたということか。
まあ、そんなことを今考えたって仕方ない。今考えるべきはぬらりひょんへの贈り物である。


「では姉様、これから店を巡ってみましょう。私も 男性用品が売られている店は中々見ないのですが、場所は分かるのでお力になれるかと」
「あら、いいの?」
「勿論です!」
「ありがとう珱姫、助かるわ」


にこりと微笑めば、珱姫は照れたように頬を染めた。

お勘定をして、暫く道を歩く。
江戸の中央だけあって、進めど進めど店が建ち並んでいる。


「反物で着物を作って差し上げるのはいかがでしょう?」
「そうね、いいかもしれないわ」
「妖様のお好きなお酒などもありますよ」
「お酒……は、止めておこうかしら。すぐに宴を始めようとするのよ、あの人」
「あとは……うーん、何がいいでしょうね」


反物やら髪紐やら、後はぬらりひょんの好物の食材やら。
色んな店を覗いてみるけれど、これ、というものは思い当たらない。
反物も候補の一つだけれど、いいものをとなると天井知らずだ。流石に極限までいいものを買うほどの財布はない。
けれどやっぱり、上質なものがいい。出来ればこの先ずっと使えるような。


「ぬらりひょんなら羽織とか、あとはたまに髪を結っていることがあるから髪紐とか……?」
「沢山種類があって迷ってしまいますね」
「そうねえ……」


きょろきょろと店を行ったりきたりしながら歩くこと、一刻。
珱姫をいつまでも付き合わせるわけにはいかないし、けれど妥協はしたくないし。
どうしよう、とほとほと困ってしまった時、不意にすれ違った男性が持っていたものに目を止めた。


「……」
「……姉様? どうかされました?」
「あ、ごめんなさい。いえその……ちょっと候補が浮かんで」
「候補?」
「ええ、あのね珱姫……」


こそ、と耳打ちしてみる。すると珱姫は、ぱっと明るい笑顔を浮かべた。


「いいかもしれません! 日常使いが出来ますし、上等なものもありますしね!」
「でもああいったものってどこで売っているのかしら……」
「ふふ、それなら姉様、こちらへ」
「あら、なあに?」


珱姫に手を取られ、先導されるままに進んでいく。
いくつかの通りを抜けた先、そこにあったのは露店だった。


「まあ……」
「実はここ、私が引き取られた親戚筋がやっているお店なんですよ!」
「そうなの? ということは……」
「はい、外つ国から仕入れたものや、それを使った品が並んでいるんです!」
「素敵ね。見ても良い?」
「是非」


並んでいる品は、あまり見たことのない材料で作られている。
水晶や銀のみならず、透明な石のような、不思議な素材もあった。


「これはなあに?」
「これは硝子の中に 花びらを閉じ込めたものです。女性から人気があるんですよ」
「綺麗。あら、こっちは?」
「それはですね……」


珍しいものばかりで、つい目移りしてしまう。
硝子や青銅などで作られた、見事な意匠の小物。
男性向けのものもあるけれど、女性用の手鏡なんかもある。
日本ではあまり見ないつくりの、けれど美しい形のものばかり。
その中でもいっとう目を引いたのは、まるでぬらりひょんの瞳のような――


「これ……」
「! 素敵。妖様によく似合いそうです」
「そう……そうよね。ぴったりだわ」


黄金に輝くその色は、ぬらりひょんにあつらえたような具合でしっくりくる。
これを彼が使っている姿を脳裏に浮かべ、ふっと微笑んだ。


「これ、いただくわ」
「はい、毎度あり! です!」


珱姫はにっこりと、可愛らしく笑った。









「只今帰りました」
「おう、珀姫。お帰り」
「お帰りなさい、珀姫様」
「ええ。はいこれ、お土産」
「きゃっほう! ありがとうございます!」


出迎えてくれた小妖怪達に土産を渡す。小躍りしながら運んでいく様子にくすりと笑った。
毎度酒になってしまうのも味気ないので、今回は珱姫お勧めの茶菓子の詰め合わせである。
まあ酒でも彼等は喜ぶだろうが、毎回酒だと健康面で心配だし。


「珱姫はどうじゃった?」
「ええ、元気にしていたわ。随分長く話し込んじゃった」
「ええことじゃな。どれ、貸してみな」
「あ、いいの。自分で持つわ」
「そうか?」
「ええ。貴方はゆっくりしていて」


微笑んで、部屋までの道を歩く。
ちらりと、買ってきた贈り物に目をやった。
やはりというか、かなりの上物だったようで、気合いを入れて包装をしてある。
黒の桐箱に入れて、紅の紐で結んで。

気に入って、くれるだろうか。
……否、珱姫だって素敵と言ってくれたじゃないか。
それに相手が気に入るかと言うよりは、私がぬらりひょんに使って欲しくて買ってきたものだから。
ああでも、やっぱり気に入られたいな。折角だから。

部屋について、荷物を置いて。
よそ行きの着物から普段着に着替え、ぬらりひょんの部屋に向かう。
少しだけ、心臓が早鐘を打っている。
どきどきして、緊張して。でも喜んでくれると良いなと思う。


「ぬらりひょん、少し良いかしら」
「ん、珀姫。いいぞ、入れ」
「失礼します」


襖を開けると、ぬらりひょんはのんびりと煙管を燻らせていた。
彼に似合う、黒塗りの煙管。
長年使っているのだろう、大分使い込まれた様子がある。
ごく、と思わず喉を鳴らすと、ぬらりひょんがきょとんとした顔をした。


「どうした?」
「……あの、その」
「うん?」
「……笑わないでね?」
「何をじゃ?」
「その……」


一度深呼吸して、私はぬらりひょんと目を合わせた。


「婚儀を挙げて、もう一年になるでしょう」
「そういえばそうじゃな」
「その間、貴方には色々世話になったわ」
「……珀姫?」
「だから、その……」
「……待て珀姫。何を言う気じゃ」
「こ、これ!」


ばっと勢いよく差しだした、黒の桐箱。
僅かに手が震えている気もするが、今はそんな事気にしてられない。


「買ってきたの。その……お礼に」
「……お礼?」
「そ、そう。……いつもの感謝をこめて」
「感謝……。開けてもいいか?」
「え、ええ」


しゅる、とぬらりひょんの無骨な手が紅の紐をといていく。
どうだろう。私としては、ぬらりひょんにぴったりだと思ったのだけれど。
気に入ってくれるだろうか。


「……これは」
「その……これなら、普段使いできるかなって、思って……」


ぬらりひょんが、目を見開いた。
黒の桐箱の中に入っていたのは、金と漆黒の硝子で出来た煙管だ。
吸い口と雁首は金で、羅宇の部分は硝子で出来ていて、羅宇には龍を模した装飾が施されている。
一目見ただけでぬらりひょんに似合うだろうと思った。彼に使って欲しいと思った。


「……これはまた、見事じゃな。くれるのか?」
「ええ……その、使ってくれる?」
「勿論じゃ」


そう言って、ぬらりひょんは口角を上げた。
ようやく肩の荷が下りた気分になって、私もほっと息をつく。
ああやっぱり、ぬらりひょんによく似合う。いい買い物が出来た。


「いやしかし驚いた。別れを切り出されるのかと思ったぞ」
「別れ!? ど、どうして……」
「いや今まで世話になったなんぞと言うから。……ありがとうな、珀姫」
「……貴方から貰ったものに比べれば、……大したことないかもしれないんだけど。でも、この一年本当に楽しかったのよ。だからお礼に」
「くく……そうか。ワシこそあんたには貰いすぎておるのにな」
「え?」


何もあげてはいないのに。そう思ってぬらりひょんを見ると、彼は優しい顔をしていた。


「アンタが来て、奴良組は間違いなく活気づいた。くるくるよく働く姿も、出入りの後出迎えてくれる姿も。奴良組中が元気付けられておる」
「大袈裟ね」
「大袈裟なんかじゃねえさ。それに……鯉伴もな。珀姫のおかげで、奴良組はこの先もっと大きくなるじゃろう」
「……私の力じゃないわ。皆が頑張っているのよ」
「そうかもな。でも大本は間違いなくアンタじゃ」


そう、だろうか。
奴良組はまぎれもなく総大将によって活気づけられていると思う。ぬらりひょんがこれまで組を引っ張ってきたのだ。
それでも、その一助になれているというのなら。そんなに嬉しいことはない。


「ありがとうな、珀姫」
「お礼を言うのは私の方なのに」
「いいじゃねえか。……これも、ありがたく使わせてもらうとするかのう」
「そうしてくれると嬉しいわ」


ぬらりひょんが桐箱から、そっと煙管を手に取った。
金も硝子も、長い間持つものだ。
私が死んだその先も、彼に使って貰えたなら。きっと彼は、時々だとしても、私のことを思い出してくれるだろう。なんて。
そんな思惑も、この贈り物には含まれているのだけれど。
それは、私だけの中に留めておくとしよう。







ごく、と喉を鳴らす音がして。

畳の上、小さな小さな足に、ぐっと力が入った。


て、てと、て。と。


「あ、歩いた……!!」
「歩いた、歩いたよ珀姫!」
「ええ、見ていたわ雪麗……! すごい子ね、鯉伴」
「きゃっきゃ」


まだおぼつかない足取りだけれど、二、三歩だけれど。それでも歩いていた。
感動して思わず抱きしめれば、鯉伴はくすぐったそうに笑う。
人間より成長速度が速いとは聞いていたけれど。もう歩けるようになっただなんて。


「ぬらりひょん達にも言ってやらなきゃ」
「驚くでしょうね」
「そりゃあね。偉いぞ鯉伴」
「だ」


つんつんと雪麗が頬をつつくと、鯉伴は不思議そうな顔をする。
産まれたころより重くなったし、大きくなった。言葉が少しずつ出てきて、歩けるまでになった。
我が子の成長はこれほどまでに嬉しいものなのか。


「鯉伴。今日は外に出てみましょうか」
「う?」
「今まで庭程度だったもんね」
「ええ。お買い物……は無理でも、近くに素敵な場所を見つけたの。どうかしら」
「あい!」
「はは、行きたいって。折角だからぬらりひょんも誘って行ってきなよ」
「ワシがどうかしたか?」
「あ、地獄耳」
「ぬらりひょん」


雪麗の言葉に呼ばれたかのように、ぬらりひょんが廊下からひょっこりと顔を出す。
鯉伴を抱き上げて、私はぬらりひょんに微笑んだ。


「鯉伴をね、外へ連れて行こうかと思っているの。もう歩けるようになったし、そろそろいいかなって」
「何!? 歩けるようになった!?」
「さっき初めて歩いたのよ」
「くっ……何故ワシがいないときに……」
「……見てみる?」
「おう!」
「鯉伴、さっきのお父様にも見せてあげて」
「と、と?」
「そう、ととにね」


鯉伴を立たせてみて、少し離れて手を差し出す。
おいで、と手を鳴らすと、鯉伴は再び足に力を入れて、そして。

てとてとと、覚束ない足取りで、けれど確かにこちらへ歩いてきた。


「すげぇじゃねえか鯉伴!」
「きゃっきゃ」
「さすが、総大将の子ね。運動神経が良いわ」


ぽす、と私に倒れ込んできた鯉伴を、ぬらりひょんが抱き上げて褒める。
鯉伴はうれしそうに笑った。可愛らしい。


「それでね、もし良かったら、お寺まで鯉伴を連れて行こうかと思って」
「寺……ってーと、あの山吹が咲いてるところか?」
「そう。あそこの近くに野原もあったし、鯉伴にも新しい空気を吸わせてあげたいわ」
「おう、分かった」


黄金の山吹が咲き誇る、綺麗なお寺。
比較的近くにあるそこは、何回か訪ねたことがある。
鯉伴は山吹を見たことがないから、連れて行ってみたい。野原の感触も味わわせてあげたい。


「あ、でも貴方、お仕事は?」
「んなもんどうにでもなる」
「カラス天狗に後で怒られたりしない?」
「そうなったら珀姫が慰めてくれ」
「もう、調子の良いこと」


いいのかな。……まあ、後でカラス天狗に怒られたとしたら、私も一緒に怒られよう。
今のところ、急ぎの仕事はなかったと思うし。


「じゃあ行きましょうか、鯉伴」
「う?」


こちらを不思議そうに見てきた鯉伴に、私は微笑んだ。
















「いつ見ても、ここの山吹は見事だわ」


金色の花が道の端に咲き、通行人の目を楽しませている。
まだ何回かしか来たことがないけれど、やはり美しい。
鯉伴を抱き上げた状態でそっと山吹に近づければ、彼は不思議そうに手を伸ばした。


「鯉伴、これは山吹というお花よ」
「やー?」
「そう、山吹。綺麗でしょう」
「きゃい!」


鯉伴はきゃっきゃと笑う。こんなに沢山の花を見るのが初めてで、物珍しいのだろう。


「これは一重山吹じゃな」
「一重?」
「八重山吹というのがあって、そっちは花は咲いても実はならん。この山吹は実をなすんじゃ」
「へえ、物知りね」
「そうじゃろう」


きっとどちらも綺麗だろうけれど、せっかくなら実をなす方が縁起が良い。
奴良組の庭には桜が咲いているし、奴良組を見下ろせる丘には藤が咲いている。そしてここには山吹が。
花に囲まれるとは縁起が良い。それに何だか、心も明るくなる。


「かか、やー、やー」
「? 何じゃ?」
「やー、って山吹のこと?」
「んー!」


鯉伴は一生懸命、山吹に触っている。というか、引っ張っている。
これはつまり。


「鯉伴、山吹の花がほしいの?」
「あい!」
「そう……。でも駄目よ、これはお寺のだからね。勝手に摘んだらいけないのよ」
「やー!!」
「駄々をこねないの」


綺麗な物がほしいのは分かる。でも出来ることと出来ないことがあるのだ。
必死にほしいとねだる鯉伴に、どうしよう、と困ってしまったとき。


「鯉伴、いいぞ」
「え、ちょっとぬらりひょん?」
「今し方、寺の住職に聞いてきた。一房だけなら持っていっていいとのことじゃ」
「そうなの? ありがたいわ」


住職さまが言うなら大丈夫だ。赤子がほしがるというのを聞いたのだろうか。
見事な山吹の中で鯉伴が手を伸ばした一房を、優しく切り取った。


「はい、鯉伴」
「きゃー!」
「はは、喜んでおるな」
「ええ、ありがとうぬらりひょん。住職さまにもお礼を言わないとね」


鯉伴の手に持たれる山吹の花は、不思議と咲いているときより綺麗に見える。
親の欲目か、そうでないかは分からない。でも鯉伴に山吹は、あつらえたようにぴったりきた。
大事にしてね、とささやく。鯉伴はうれしそうに、「あい!」と返事をした。










鯉伴が産まれてから、何度目かの春が来た。
彼はすくすくと大きくなり、私やぬらりひょんだけでなく、奴良組中の妖怪から存分に愛されて育ち。
今は少しやんちゃな、普通の男の子になった。


「ぬらりひょん、いる?」
「おお珀姫か、入れ」
「ええ」


ぬらりひょんの部屋の襖を開ける。そこには鯉伴もいて、何やら本を広げていた。


「母さん!」
「鯉伴、ここにいたの。ぬらりひょんと何かしていたの?」
「おう。妖怪について教えてもらってたんだ」
「これは?」
「カラス天狗が持ってきてくれた。妖怪について書かれてる書物だ」


広げられていたのは、絵図付きで妖怪について説明された書物だ。
そういえば花開院にもこれがあった気がする。誰が書いたか知らないけれど、かなり詳しく書かれているのだ。
開かれている頁は、「滑瓢」と書かれている。滑瓢ーーぬらりひょんだ。


「ぬらりひょんの項目ね」
「でもこの本、ぬらりひょんは盗み食いをするって書いてあるんだぜ。ひどいよな」
「あら、その通りじゃない。ぬらりひょんも貴方も、ご飯時に厨につまみ食いしに来るでしょう」
「い? いやー、あれは……つい」
「気付いとったんか」
「数が少なくなってるもの、すぐに気付きます。足りないならもっと多めにご飯をよそうのに」
「あれはワシらの習性みたいなもんじゃからな」


困った習性だこと。
長くなった鯉伴の黒髪をなでる。やめろよ、と照れた様子で鯉伴は手を払った。


「それで珀姫、どうしたんじゃ?」
「? 何が?」
「何か用があって来たんじゃねえのか? ワシに会いに来たのなら大歓迎じゃが」
「ああ、そうだった。これから買い物に行くから、何か足りない物があったらと思って」
「買い物!? 町!?」
「え? ええ、そうよ」


頷くと、鯉伴の瞳がきらめいた。
鯉伴は好奇心旺盛な性格で、何かと言えばすぐぬらりひょんと一緒に出かけている。
江戸の町を見たり、知らない物を知るのが楽しいのだと思う。いいことだ。


「俺も行く!」
「あら、夕餉の材料を買いに行くだけよ?」
「いいの」
「……何も買わないわよ?」
「へへ、いいの」
「……ならいいけど」


鯉伴は口がうまいから、何かと言えばお菓子やらなにやら、ほしいものをねだってくる。
毎回応じるわけにはいかないが、たまに買ってしまう。やっぱり子供が甘えてくるのは可愛いから。
私だけじゃなくて雪麗や一つ目、牛鬼に木魚だるままで同じようなことをするのだから、鯉伴がどれだけかわいがられているかは分かると思う。ぬらりひょんは言わずもがな。


「じゃあ羽織を持っていらっしゃい。玄関で待っているわ」
「はーい。じゃあな、親父」
「おう。珀姫に迷惑かけねえようにしろよ」
「分かってら」


鯉伴が廊下をかけていく。途中でカラス天狗の、「廊下は走ってはなりません!」との声が聞こえてきた。
成長して、鯉伴はどんどんぬらりひょんに似てきている。まだ子供とはいえ、ふとした瞬間ぬらりひょんに重なる。
妖怪としてはまだまだ術なんかは使えないけれど、多分そうかかることでもないはずだ。


「成長が楽しみね」
「ああ、あと十年もしないうちに成人じゃしのう」
「……妖怪の成人って人間と同じ?」
「ん? ちと違うな。妖怪は13歳で成人じゃ」
「そうなの? まだまだ子供じゃない」
「妖怪の成長は早いぞ。成人する頃にはワシと同じくらいの背丈になるじゃろうな」
「まあ……」


ぬらりひょんと同じ、ということは私より大きくなると言うことだ。
今はあんなに可愛いのに。成長したらきっとぬらりひょんそっくりになるだろう。


「お嫁さんを連れてきたりするのかしら」
「気が早いのう。だがまあ、そうなるじゃろうな」
「楽しみね、ぬらりひょん」
「おう」


くす、と笑って、ぬらりひょんの部屋を出る。
鯉伴の未来が楽しみだ、と思った。











「あ、団子」
「今日は青物屋さんに行くのよ。お団子は買いません」
「ふーん。あ、せんべい」
「こら」
「美味そうだなって見てるだけだよ」


どうだか。
鯉伴を連れて、町を歩く。もう見慣れた風景も、鯉伴にとってはまだまだ珍しいようだ。
それにこの通りは、食材を買うときくらいしか通る機会もない。ぬらりひょんと来たりもしないのだろう。


「今日は何買うんだ?」
「お野菜をいくつかと、あとお醤油ね」
「醤油……ってあれ?」


鯉伴が指さした先にあったのは、お醤油屋さん。
いつも買っているお店だ。


「そうよ。でもお醤油は重いから、帰りに買うわ」
「……なあ母さん。俺醤油持つよ。先買おうぜ」
「あら、本当? 助かるわ」
「その代わり、さー……団子、食いたい」
「買わないって言ったでしょう」
「えー、いいじゃん。もう八つ時半刻は過ぎてるし、夕餉までまだあるだろ?」
「それは……」
「なー、野菜も持つからさー」
「まったく……調子の良いこと。……解ったわ。但し一つだけよ」
「やりい」


鯉伴がにししと笑う。口のうまい子だ、ぬらりひょんに似たのだろう。
一つため息をついて、頭をなでて。お醤油屋さんによって、いつもの醤油を買う。


「っと……重いな」
「大丈夫? 私持ちましょうか」
「これくらい平気だよ」


昔は重い物なんて持てなかったのに。これも成長だ。
とはいえ野菜はもてなさそう。ま、いいか。


「後は青物屋か」
「ええ。あそこよ」


青物屋に行くと、顔見知りの店主が声をかけてきた。


「らっしゃい、姫さん。おや、今日は坊ちゃんも一緒かい?」
「こんにちは、ご店主さん。そう。鯉伴、ご挨拶なさい」
「奴良鯉伴。よろしく!」
「これ、目上の人には敬語を使いなさい。ごめんなさいね、ご店主さん」
「子供は少し生意気なくらいが元気があっていいさ。それで、今日は何を買いに?」
「えーっと……」


どうせだから足りない野菜を買っていってしまおうと、少し多めに頼む。


「蕪とほうれん草と……」
「ふんふん」
「茄子と……あ、胡瓜も下さいな」
「あいよ」
「それから……」


ひとしきり足りない物を告げて、店主に選んでもらう。
ここの人は目利きが上手で、綺麗で美味しい物を選んでくれるのだ。
そして支払いを済ませ、籠に野菜を詰めて。


「さ、行きましょうか鯉伴……鯉伴?」


ふと気付けば、鯉伴の姿が見えなかった。


「なんだ、坊ちゃんどっか行っちまったのか?」
「もう、しょうがない子。探しに行かなくっちゃ。それじゃあ、ありがとうございました」
「あいよ。毎度あり」


鯉伴は賢い子だ。だけどぬらりひょんの特性故か、そういう年頃か、ふらふらどこかへ行くことがある。
ぬらりひょんもそうだから一概に責めることは出来ないけれど、ちゃんと手をつないでおくべきだった。
……いや、今のあの子は手をつなぐのは恥ずかしがるか。目を離すべきじゃなかったのだ。

辺りを見回してみても鯉伴の姿は見えない。
意識を集中させて、鯉伴の妖気を探す。すると少し離れた場所に、それは見つかった。


「何であんな所に……」


足を進めつつ考えながら、ふと思いだす。そういえばあそこの近くにお団子屋さんがあったんだった。
おおかた、先に行って選んでおこうとでもしたのだろう。

もう夕方、逢魔が時だ。西日が濃い。
鯉伴はぬらりひょんの血を継いでいるとはいえ、まだ未熟。一人は心配だ。
急いで鯉伴の元に行けば、何故か奥まった路地に鯉伴の後ろ姿が見えた。


「りはーー」


声をかけようとして。
鯉伴の向こうに、ゆらりと揺れる影を見た。


「っ!!」


咄嗟に路地に飛び込んで、結界を張る。
キン、と音を立てて、結界が刀に切り裂かれた。


「……チッ、女か」
「母さん!」
「鯉伴、無事?」
「あ、ああ……」


見たことのない妖怪だ。けれど鯉伴に手を出そうとしたのなら、奴良組の妖怪じゃないだろう。
相手は刀を持っている。鯉伴を後ろに下がらせながら、私は息を吐いた。

戦うのは避けたい。妖怪とて、殺したくはない。
逃げ切れるだろうか。


「鯉伴、何があったの」
「な、なんとなくぶらついてたら、ここにうずくまってる奴がいて……声かけたら、その……」
「襲ってきたのね」
「ああ……」


説教は後だ。目を離した私にも責任がある。
ともかく、この妖怪はやけに攻撃力が強いようだ。結界を切るなんて。
ぬらりひょんのように陽の力を無効化する特性があるのだろうか。


「鯉伴、すぐにそこの大通りにーー」


ちらりと鯉伴に目をやった、その一瞬。
少し離れたところに居たはずのその妖怪が、私と鯉伴の足をつかんだ。


「!」
「か、かあさ……!」
「ケヒ、ケヒヒ!! 覚悟!!」


鯉伴に刃が向けられる。
震える鯉伴。笑う妖怪。
冷静に判断を下す暇など、なかった。









「ーー式神、�鵠g!!」











足が痛い。胸が痛い。
鯉伴を抱えて走る。後ろなど振り返る暇はない。
は、は、と息が切れる。赤い液体が広がる光景が、脳裏から離れなかった。


バン、と勢いよく門を開ける。慣れ親しんだ妖気を感じた。奴良組だ。


「珀姫様!」
「奥方さま、どうなさったのです!」
「は、……っは、……ふ、」


全速力で走った所為で、言葉が出ない。
鯉伴を抱きしめる力も、制御が出来なかった。


「帰ってきたの、珀姫……って、アンタ……」
「……せつら、」
「ちょっと、酷い顔してるわよ!? 何が……」
「りはんを、お願い……」
「あ、ちょっと!」


押しつけるように、雪麗に鯉伴を託す。
よろよろと、力が抜けそうな足を叱咤して歩いた。


「珀姫様、どうされたのですか」
「……ちょっと、……一人にしてちょうだい」
「珀姫……?」
「か、かあさ……」
「……っ、ごめんなさい……」


その謝罪は、誰に向けた物だったのか。
鯉伴か、雪麗か。いや、きっとーー。


あの、襲ってきた妖怪に対してだ。


























部屋に戻る。
力なく座り込んで、ふと鏡台を見ると、随分と酷い有様だった。
全力で走った所為で、髪は荒れ放題、体は汗だくだ。顔は青ざめていて、表情も暗い。

さっきの光景が、忘れられない。

咄嗟に呼び出した�鵠g。繰り出した刃。
妖怪の血が、飛び散る光景。


「……っ、……う」


きもちわるい。
また、殺してしまった。

もう殺したくなかった。二度と手を血に染めたくなかった。
たとえあの場では、ああするしかなかったとしても。

花開院を離れ、京を離れ。
妖怪を滅することから離れ、これでいいと思っていたのに。
結局私は、何も変わっていない。
妖怪を殺す力を持っていて、それを使役する。妖怪だって心もあるし痛みも感じるのに。
それって、人殺しと何が違うんだろう。

は、は、と呼吸が荒くなる。手が血にまみれている気がしてならない。
周囲が見えない。自分の呼吸音しか聞こえない。
息が、苦しい。


「……め、……姫、」
「…………」
「珀姫!」
「…………あ、」


自分の名前を呼ばれている、と認識するまで少しかかった。
顔を上げる。いつの間に部屋に入ってきたのか、ぬらりひょんが目の前に居た。


「ぬら、りひょん……」
「大丈夫か珀姫、酷い顔色じゃ……何があった?」
「……わ、わたし、」
「……落ち着け珀姫、ゆっくり聞くから。……話せるか?」


そっと、ぬらりひょんが私の手を取ってくれる。
なにが、あったのか。

話して良いの? 話して、大丈夫なの?
貴方と同じ妖怪を、殺してしまったと。
そう言ってしまって、いいの?
嫌がられてしまったら。嫌われてしまったら。
そうなったら、どうしよう。


「う……わ、たし…………っ」
「……話したくないなら、無理に話す必要はねえ。じゃが……」


ぬらりひょんが、目を合わせてくる。
暗い部屋の中、彼の金の双眸がうっすらと光って見えた。


「アンタが一人苦しんどる姿を見るのは、つらい」
「……っ」
「珀姫……」


ぽろ、と目から雫が零れる。
ぬらりひょんが、苦しそうな顔をした。


「……っ、ぬらりひょん……」
「うん?」
「おねがい……きら、わないで……」


最初に出てきたのはその言葉。ああ、何て最低なんだろう。
それでもぬらりひょんは目を見開いて、それから真剣な瞳で言った。


「ワシがアンタを嫌うなど、天地がひっくり返ったってありえんさ」
「……ほんと?」
「ああ、本当じゃ。ワシを信じられんか?」
「……」


ふるふると首を振る。ぬらりひょんを信じられないなんて、まさかあるはずもない。

私はそっと、口を開いた。









「……そうか、そんなことが」
「……また、殺しちゃった」
「……珀姫」
「……最低ね。もう二度と誰も殺さないって決めたのに。それも……鯉伴の前で。母親失格だわ」


敵であろうと殺したくない。妖怪であろうと殺めたくない。
あの子の前で、母親が誰かを殺す瞬間など見せたくなかった。

自虐的に笑おうとして、笑えなかった。
唯一の幸いは、鯉伴が生きていたこと。
ああ、でもどうしよう。これからどう、あの子と向き合えばいいのだろう。
あの子に恐怖のまなざしを向けられたら、どうしたらいいんだろう。


「鯉伴を守るためじゃ。よくやった、珀姫」
「……結界を張りながら逃げるとか、もっとやり方はあったはずだわ」
「咄嗟のことにそんな判断はできんさ。甘いやり方じゃ、アンタの身も危なかったはずじゃ」
「……そっちの方が、よっぽど」
「珀姫」
「!」


突然厳しい声色になったぬらりひょんに、びくりと肩が震える。


「それ以上言ったら怒るぞ」
「あ……ご、めんな、さい」


彼の目は本気だった。
震える声色で謝った私を、そっとぬらりひょんは抱きしめる。
あったかい。


「無事で何よりじゃ。鯉伴も、珀姫も」
「……うん」
「後のことはワシが対処する。何も心配するな」
「……ごめんなさい」
「珀姫。もう謝るな」


大丈夫、と。
ぬらりひょんが告げた言葉に、体の力が抜ける。
殺してしまったのは事実。変えられないこと。
忘れてはいけないこと、だけど。


「それにな、珀姫」
「……?」
「アンタがそんなんじゃ、鯉伴も心配するぞ。のう鯉伴」
「……え?」
「!」


突然鯉伴の名を呼んだぬらりひょんに、私は首をかしげる。
すると彼はそっと腕を解いて、後ろを振り返った。
ぬらりひょんの後ろ、廊下に面したふすまがすっと小さく開いて――

――そこには、鯉伴がいた。


「……りはん」
「か、母さん。……ごめんなさい」
「……え、」
「……俺が勝手な行動したから、あんなことになっちゃって」
「そんな、」
「でも、」


鯉伴は、そろそろと部屋に入ってきて。
私の前に立ち、強い瞳で見つめてきた。


「守ってくれて、ありがとう」
「……!」


その言葉で、全てが救われた気がした。

鯉伴は照れたように、頬をかく。


「俺、確かにびっくりしたけど……でも、母さんのこと母親失格なんて思ってない」
「鯉伴……」
「母さんが……その、陰陽術……だっけ? それ使ったのは、俺のせいだろ」
「そんなこと」
「親父が言うように、一歩間違ったら俺も母さんも危なかったんだ。母さんは殺したくなかったかも知れないけど……俺は、助けてもらって良かったよ」
「……っ」


滲んだ視界を、ぐっとこすって。

鯉伴はいつの間に、こんなに立派に育っていたんだろう。
私は殺してしまったことに罪悪感を覚えて、そのことで皆に嫌われることに恐怖を覚えて。
そんな自分のことばかり考えるような人間なのに。
鯉伴は、こんなにもきちんとした子に育っている。


「……鯉伴」
「ん?」
「……おいで」
「? うん」


近寄ってきた鯉伴を、私は。


「わ!」


ぎゅっと、強く抱きしめた。
温かい。とくんとくんと、鼓動が聞こえる。
生きている。
……生きていて、良かった。


「か、かあさ……」
「無事で良かった……鯉伴」
「! ……うん」


今はもう、それで十分だ。
殺した妖怪のことを、忘れることはない。多分、一生。
それでも鯉伴が無事で、何より良かった。

鯉伴がそっと、恐る恐る、私の背中に腕を回す。
その、瞬間。


「!」
「え、うわ、何だこれ」
「……? っ!」


光の球がぶわりと溢れだし、私の体に吸い込まれていく。
これ、って……。


「神通力……!」
「鯉伴、お前……」
「これ、母さんの……え、俺……」
「鯉伴も……使えるようになったのね」


受けたことはないけれど、間違いない。
段々と力が回復してくる感覚。温かくて、心地よい。
これは私の神通力と、全く同じものだ。
まさか、遺伝していたなんて。

これを、彼が使えると言うことは。


「鯉伴」
「ん?」
「ごめんね。……ありがとう、鯉伴」
「! うん」


へへ、と照れたように彼が笑う。

この神通力は、相手を何より大切に思わないと使えない。
あんなことをしてしまった私を、鯉伴はこんなに思ってくれているのだ。

立ち直るには、少し時間がかかるかもしれないけれど。
私も、しっかりしなければ。
いつまでも過去のことにとらわれているわけには、いかないのだから。








――さあ、疾くやっておしまいなさい。

――何をためらっているのです。

――これは、花開院家としての使命なのですよ。

――珀姫様。



「っ!」


がば、と勢い良く起き上がった。
きょろきょろと辺りを見回して、見慣れた寝室だと気付く。
ゆめ、か。

随分と、昔の夢を見た。
心臓が嫌な音を立てている。胸を押さえ、ため息をついた。


「珀姫」
「! ぬらりひょん……」
「大丈夫か?」
「ええ……ごめんなさい、起こしてしまったかしら」


隣で寝ていたぬらりひょんが、私の肩に羽織を掛けてくれる。
枕元の明かりをともせば、真っ暗だった寝室はいくらか明るくなった。


「……酷い顔をしとる」
「……ちょっと、嫌な夢を見て」
「昼間にあんなことがあったばかりじゃからな。無理もない。大丈夫か?」
「……」


すり、とぬらりひょんの手が私の頬をなでる。温かい。
そのまま肩を抱き寄せられ、私は抵抗することなく彼にもたれかかった。


「……昔の夢を見たの」
「昔?」
「私が……花開院家に引き取られた後の話」


神通力が使えるようになってまもなくして、私は本家に引き取られた。
母様と父様と離れることは淋しくて、数えるほどしか行ったことのない本家に行くのはちょっぴり恐くて。
それでも秀元や是光兄様が歓迎してくれたから、私は意を決して行ったのだ。


「秀元や兄様は稽古ばかりしていたけれど、私はそうでもなくて。最低限の稽古と花嫁修業の合間に、京の町をぶらぶらしていたの」


ご当主様が、私に言ったのだ。
お前の稽古は、最低限で十分だと。
秀元や兄様を羨ましく感じながらも、私はそれに反抗する気は起きなくて。
ついてくる護衛もうっとうしくて、こそこそと町に出ていたのを思いだす。


「�鵠gを、覚えてる?」
「�鵠g? アンタの式神のか?」
「そう。……彼は、私が作った式神で……そして、元になった人がいたの」
「……」
「�鵠gは……彼は、私が初めて殺した妖怪だった」
「!」


今でも、昨日のことのように思い出せる。

町外れで出会った、見慣れない浮世離れした雰囲気の男の人。
困った顔をしながらも、私が行くといつもおしゃべりに付き合ってくれて、隠れてしていたお稽古も付き合ってくれて。
秀元や兄様とはまた別に、随分と慕っていたと思う。
その存在を、花開院家に知られるまでは。


「……分からなかった、とは言わないわ。なんとなく、気付いていたの。彼は普通の人間ではないと」
「妖気、か?」
「……ええ。でも随分薄くて、……幽霊だったのよ。腰に刀を携えていたけれど、使う所なんて見たことなかった。優しい人だった」


気付いていながらも、楽しい時間を失いたくなくて。
年の離れた兄のような彼を、失いたくなくて。
けれどそんな私を、花開院家は酷く叱って――そして、言ったのだ。

『妖怪と仲良くするなど花開院家の沽券に関わる』
『二度とそんな気が起きないよう、滅してしまいなさい』
『珀姫様、貴女自身の手で』


「なんじゃと?」
「断ったけど……駄目だった。貴女がやらないなら、拷問にかけた上で実験に使うと言われたわ」
「実験?」
「当時の花開院家は、そういうこともしていたのよ。何も綺麗な部分だけを持っていたわけじゃないわ」


どんな妖怪に、どんな術が効くのか。
どこが急所で、どこを責めればより苦しみを与えられるのか。
花開院秘録に記載されているそれらの事実。
記載されていると言うことはつまり、実験したことがあるということだ。


「そんなの耐えられなかった。私と関わったせいでそんな目に遭うなら、いっそ私が――」
「……」
「そう思って、震える手で攻撃の手を向けた私に、彼は何一つ反撃しなくて」


いつも通り、優しく笑って。
抵抗など、何もしなくて。
ごめんねと。
さようならと。
それだけを、言って。


「……そして、私は彼を殺したの」
「……それが、�鵠gか」
「そう。�鵠gはあくまで彼を元にした式神で、彼自身じゃないわ。それでも……あのときの私には、彼を失うことが酷く恐かったの」


彼を失ってすぐ、私は�鵠gを作り上げた。
彼にそっくりな、私の式神。
�鵠gを使って妖怪を退治するのは、心苦しかったけれど。
それ以上に、偽物でもいいから、彼を失いたくなかった。


「それをこの年まで手放せないでいるの。笑えるでしょう?」
「……笑えるもんか」
「……」
「ようやく分かった。だからアンタは、妖怪を滅するとき、いつも謝っていたんじゃな」
「……うん」


滅してしまう妖怪相手にも、そんなことに使ってしまう�鵠gにも。
申し訳なく思いながら、止めることなどできなくて。


「……すまなかったな、珀姫」
「え?」
「ワシはアンタを守ると約束したのに……」
「……? どこも怪我はしていないわ」
「心の話じゃ。……辛かったな」


ぎゅっと、抱きしめられて。
彼の温かい体温が、私を包んでいることに安心して。
それから。


「……っ、」
「……」


ぬらりひょんの肩に顔を埋め、私は震えるように泣いた。
これで最後にするから。明日からは元の私に戻るから。
だから少しだけ、弱くなっても、いいかな。

花開院家にも奴良組の奥方にもふさわしくない、弱い姿。
ぬらりひょんの前だけでなら、見せられる気がした。
きつく私を抱きしめる腕に、すがるように。
私は声を出さないまま、泣き続けた。








「鯉伴様ー、鯉伴様ー!?」
「……あら」
「鯉伴様、どこでございまするかー!!」


繕い物をしていた手を止めて、私はふと顔を上げた。
廊下から聞こえてくる声は段々と近づいてくる。布を置いて、そっとふすまを開けた。


「鯉伴さ……」
「カラス天狗」
「! 珀姫様、鯉伴様をお見かけしませんでしたか?」
「いいえ、見ていないわ。また抜け出したの?」
「左様で。困ったものですな、総大将に似た脱走癖は」
「ごめんなさいね、迷惑をかけてしまって」
「いえ、珀姫様が謝罪なさることでは」


カラス天狗が鯉伴を探すのは、何も珍しいことではない。
ここ数年で鯉伴は随分成長して、いつの間にか生まれてからの年数の方が成人するまでの年数より多くなった。
となれば自然と生まれてくるのが、次期総大将としての期待である。
おまけに鯉伴は妖怪と人間の間の子。であれば人間としてのある程度の知識も持っていなくてはならない。
ということで、私は適任であろうと思われるカラス天狗に講師を依頼したのだけれど。


「勉強、嫌いなのかしら……」
「妖怪の方の勉強は楽しそうにしているときもありまするが……やはり実践がお好みのようで。座学となればなかなか……」
「実践……妖怪の技のことはぬらりひょんに一任しているから、分からないのだけど……今はどのような感じなの?」
「そうですね、妖怪ぬらりひょんとしての技はかなり筋が良く、身につけているようです。尤も総大将としては、成人するまではまだ妖怪を率いることは早いとのお考えのようですが」
「そうなの……」


頬に手を当てて、首をかしげる。実践の方が楽しいのだろうか。
人間としての知識を身につけるようにと言ったのは私だ。あの子には人間も妖怪も、両方の血が流れているから。両方の目で見て、物事を考えて欲しい。
けれど自由奔放が売りの妖怪として、じっと座って話を聞くのは退屈なのかも知れない。


「ともあれ、私は鯉伴様を探しに行きます。町の方に出ているかもしれませんからな」
「ええ、お願い」
「は」


カラス天狗を見送って、ため息をつく。
町は随分と治安が良くなった。以前も悪かったわけではないけれど、私が妖怪を滅してしまった事があってから、ぬらりひょんがシマをより警備するようになったと聞く。
私のためだ。また奴良組じゃない妖怪が現れて、私が殺してしまうのを防ぐため。
あれからもう数年経つというのに、優しい人。


「それで? 鯉伴、貴方はカラス天狗を引っかき回して、何をやっているのかしら」
「! なんだ、バレてたのか」
「これでも貴方の母親ですもの。分かります」
「ちぇっ」


ひょっこりと箪笥の影から顔を出した鯉伴は、以前より大分あどけなさがなくなっていた。
その面持ちは随分とぬらりひょんに近づいている。私の要素など髪色くらいなものだ。


「いやだってさ、毎日毎日机に座ってカラス天狗のながーい話聞くのつまんねーんだもん」
「それにしては、ぬらりひょんの技が随分と上達してるらしいじゃない」
「あ、それは別。楽しいし」
「楽しいことだったらやりたいの?」
「そりゃそう。あ、そうそう。それでさ、俺母さんにも教えて欲しいことあったんだよな」
「教えて欲しいこと?」


私がこの子に教えられることなんて、何があるだろう。
首をかしげた私に、鯉伴はにっと笑って言った。


「陰陽術! 教えてくれ!」
「却下」
「ええー! なんでだよ!」
「何でって、鯉伴、貴方ね……」


むすっとむすくれた鯉伴。その様子に頭を抱える。


「陰陽術がどんな術なのか、分かって言ってるの?」
「んー? 式神とか、結界とかだろ?」
「そうじゃなくて。あれは、妖怪を殺す技なのよ」


鯉伴は妖怪と人の子だ。しかも私の子。
使おうと思えば、陰陽術だろうと使えるかも知れない。けれど。


「危険すぎます。自分に跳ね返ってきたときの被害を考えていないでしょう」
「でも昔もいたんだろ、陰陽術使う半妖!」
「いたことはいたけれど、その人達はどちらかに振り切っていたのよ。妖怪なら妖怪、陰陽術なら陰陽術。どちらも使いたいなんてのは通用しません」
「ええー!!」


ますますむくれる鯉伴。最近少しだけ顔つきがぬらりひょんに近づいてきたけれど、まだまだ子供だ。

その頬をつんつんとつつきながら、私はくすっと笑った。


「鯉伴、私の可愛い子。もし私が教えた陰陽術で貴方が傷つくことがあったら、私は自分をとっても責めてしまうわ」
「……」
「だからお願い、私のために、陰陽術を学ぶのは止めて頂戴な」
「……ちぇ。分かったよ。母さん泣かせたら親父に殺されるしな」
「殺されはしないけれど……ごめんね」


頭をなでる。止めろよ、と振り払われたけれど、つやつやの手触りは私に似ている。

ふと思う。この子は数年前のあの事件を、覚えているのだろうか。
目の前で妖怪を殺してしまったあの日。何年経っても後悔しない日はない。
幼い時分ではあったけれど、だからこそ心に刺さって抜けない思い出でもあるのではないだろうか。


「……ねえ、鯉伴」
「ん?」
「陰陽師だった私が言うのも変な話だけれど……妖怪は、絶対に悪というわけでもないし、絶対に善というわけでもないの」
「……? うん」
「私の実家は、妖怪は黒……悪だと決めつけていたけれど。奴良組の皆を見ていれば分かるでしょう」
「あはは、そうだな」
「うん。だからね、鯉伴。貴方もぬらりひょんの跡を継いで、総大将になる日が来たら。誰かと戦う日が、来たら」


考えたくはないけれど、きっとその日はやってくる。
ぬらりひょんのように、鯉伴もきっと誰かと敵対する日がやってくる。


「短絡的に、殺してしまわないで。相手の事情を少しだけ考えて、本当に相手が悪なのか考えて。それから――」


それから、願わくば。


「救ってあげられるなら、救ってあげて欲しい」


牛鬼を救った、ぬらりひょんのように。


「救う? 何から?」
「何……そうね、その人が抱えている、苦しみから……かしら」
「……難しくてよくわかんねー」
「ふふ、そうかもね」
「……母さんも、救われたの?」
「私?」


きょとんとして、目を瞬く。
救われた。そう、そうかもしれない。
誰にと言えば、勿論。


「……そうかもね、ふふ」
「あ、今母さん親父のこと考えてるだろ」
「あら、どうして分かったの?」
「分かるよ。母さんも親父も、お互いのこと考えてるときすっげーわかりやすいぜ」
「あら……」


思わず頬に手を当てる。そんなにわかりやすかっただろうか。


「勿論、貴方は貴方でいいのよ。ぬらりひょんの真似をしなさいって言っているわけじゃないの」
「……うん、分かるよ。俺は俺なりに、立派な総大将になる」
「ではそれには、まず勉学からですな」
「げ」
「あら」


ぬ、と縁側から顔を出したのは、カラス天狗だった。


「見つけましたぞ鯉伴様! お勉強の時間です」
「やべ、じゃあな母さん」
「あらあら、ふふふ。またね鯉伴」
「お待ちくだされ鯉伴様! 逃がしませんぞ!」


カラス天狗の伸ばした手をすかっとすり抜けて、鯉伴は走って行く。
廊下は走らない、と注意する声はとうに彼には届かない。

鯉伴が総大将になったとしたら、奴良組はどうなるのだろう。
どう、変わっていくのだろう。
その日が少し楽しみで、私は笑ってしまった。
きっと良い未来が来る。私のこの予感は、きっと間違っていないだろう。








「では、改めまして――鯉伴様、ご成人おめでとうございます!!」
「おめでとうございまーす!! かんぱーい!!」
「おうよ」


いつもぬらりひょんが座っていた、大広間の一番上の席。
そこに今日は、鯉伴の姿があった。

鯉伴が生まれてから、十三年たった四月九日。
彼はすくすくと成長し、今や私の背丈を超え、ぬらりひょんとよく似た顔つきの男の子――いえ、男性になった。
くっと軽く杯を上げた鯉伴は、そのままぐいっと酒を飲む。
十三才なんてまだ子供だと思うけれど、妖怪の成長は早い。見た目はすっかり青年だ。

この日ばかりは私も腕によりをかけ、鯉伴の大好物ばかりが並ぶ食卓を作り上げた。
少しばかり表情がわかりにくくなったけれど、嬉しそうに食べる鯉伴に、私も横から見ながらくすりと微笑む。


「鯉伴も十三才か。速いもんじゃのう」
「そうね。生まれた日がついこの間のようだわ」
「庭の桜の木から落っこちかけて泣いとったんが懐かしいな」
「あれは心臓が凍るかと思ったわ。やんちゃな子なんだから」
「親父、母さん。俺もうついに総大将なんだぜ。子供扱い止めてくれよ」
「あら、ふふ。失礼」


くすくすと笑えば、鯉伴は肩をすくめる。随分と大人びた仕草をするようになったこと。
お酒だって飲めるようになったし、妖怪としても一人前と言えるほどの術を使えるようになった。
彼はもうあの小さかった鯉伴じゃない。奴良組を率いる、総大将なのだ。

その証としてか、鯉伴の腰元に下がるのは、ぬらりひょんが成人の祝いに与えた鵺切丸。
そして髪には私が贈った朱色の髪紐と、上質な反物で縫い上げた羽織。
そのほかにも、奴良組の妖怪達や、果ては珱姫まで祝いの品を贈ってくれた。
珱姫も今や結婚し、子どもも生まれててんやわんやらしいというのに、それでも祝ってくれるところが珱姫らしい。


「いやあ、それにしても鯉伴様は、総大将……っと、失礼、先代にそっくりですなあ」
「まったくだ。髪色と……目のあたりは珀姫様似だが、それ以外は生き写しだな」
「男前になれてよかったじゃない、鯉伴」
「へいへい」


私達だけじゃない、カラス天狗も、牛鬼も雪麗も、皆が鯉伴の成人を祝っている。
何て素晴らしい日なんだろう。誰も彼もが笑顔で、もう悩みなんて吹き飛んでしまうほど。


「妖怪は長い時を生きるから、無理にとはいわないけれど……私が生きているうちに、鯉伴のお嫁さんを見てみたいものね」
「……止めてくれよ母さん、今すぐ死ぬみたいな言い方は」
「あら、そんなつもりはなかったのだけれど」
「嫁、ねえ……鯉伴、アンタ最近江戸の町で鯉さんって呼ばれて、黄色い声浴びてるんだって?」
「何で雪麗は知ってんだよ……」
「知ってるに決まってんでしょ。ったくあのチビ助が調子に乗っちゃって」


えいえい、と雪麗に小突かれ、鯉伴は少し眉根を寄せる。
そうか、でも考えてみれば無理もない。ぬらりひょんそっくりということは色男なのだ。人気も出るに決まっている。


「……鯉伴、いいこと。無責任にあっちこっちの女性をたぶらかすのはおやめなさいね」
「そんなことしねえって。親父だって母さん一筋じゃねえか」
「ぬらりひょんは昔遊び人だったのよ、貴方もそうならないように気をつけなさい」
「う、珀姫、その話は……」


ぬらりひょんは私がこの話をすると、いつも気まずそうに目を逸らす。
昔のことなんだからもう悋気なんて覚えないのに。まあ、愛情の裏返しとでも思っておこう。


「何はともあれ、今日はめでたい日ですからな! ささ、鯉伴様、もう一杯」
「飲め飲め鯉坊〜! ワシがついでやる!」
「おわっ! 押すな溢れる!」


わいわいがやがや、まったく賑やかだこと。
妖怪達にもまれて見えなくなる鯉伴にくすりと笑い、私も少しだけお酒を飲んだ。


「……ふう」
「珀姫、アンタはあんまり飲むな。酒に弱いじゃろ」
「そう……? そんなことないと思うのだけれど……」
「いやわかりやすいぞ、酔ったときのアンタは。ぽやんぽやんして隙だらけじゃ」
「ぽやんぽやん……」


まあ確かに、お猪口一杯分で頭はぼうっとするけれど。
めでたい席だし少しくらいいいだろう。そう思ってもう一杯だけ注ごうとすれば、ぱっとぬらりひょんに酒瓶を獲られた。


「あ……」
「言った側からったく……。ほれ、風に当たりに行くぞ」
「大袈裟ね……」
「大袈裟なことはない。立てるか珀姫?」
「ええ……」


ぬらりひょんの差し出した手に掴まって立ち上がると、少しだけ頭がくらりとした。
……本当に私、お酒弱いのかも。
鯉伴は、と見るとまだまだ皆に揉まれている。人気者は辛いわね、と微笑んだ。

廊下に出ると、活気のあった大広間とは違ってまだ少し肌寒い。
ほてった頬に当たる風が気持ちよくて、ぬらりひょんが私の肩を引き寄せるのに素直に従った。


「……のう、珀姫」
「なあに……?」
「鯉伴ももう、成人じゃ。……早いのう、時の流れは」
「そうね……あの子が生まれたのが、つい昨日のことのようだわ」
「羽衣狐と戦って……アンタを娶って、子どもが成人か。……ほんにワシは果報者じゃな」
「あら、それを言うなら私の方がそうだわ」


きっと子どもの頃の私に話しても信じない。
妖怪と恋に落ち、結婚し、子どもをもうける。そんなの陰陽師としてあり得ない生き方だからだ。
でもこの上なく幸せな日々だった。色んな事があったけれど、生きてきて良かったと思える。


「……ねえ、ぬらりひょん」
「なんじゃ?」
「私、今日が今までで……今までの人生で一番、幸せだわ」


その、瞬間。
どくんと、心臓が大きな鼓動を立てた。


「か、はっ……!!」
「珀姫……? おい、どうした……!?」
「う……あ、っ」


かくんと膝が折れて、廊下に倒れ込む。
まるで心臓に、棘の生えた蔦が巻き付いて縛り上げられているかのように。
体が苦しい。息が、苦しい。


「珀姫、珀姫……! しっかりしろ!」
「あ、ぬ、ら……」


大丈夫。そう言いたいのに。笑って安心させたいのに。
ぬらりひょんにすがるように伸ばした手は、届かなくて。
意識が、静かに暗転した。

遠くで、狐の声が聞こえた、気がした。








「……っ、う…………」
「! 珀姫!」
「母さん!」


目を開ける。途端眩しい光に目がくらんで、目を閉じた。
ゆっくりとまた瞼をあげると、そこには天井を背景にした、ぬらりひょんと鯉伴の姿が見えた。


「ぬら、りひょ……りはん……」
「無理に起きるな、珀姫」
「母さん……」


ああ、よく似ている。よく似た二つの顔が、私を見下ろしている。
不安げに揺れるまなざしも、そっくりだ。

私は何をしていたのだっけ。ああそうだ、鯉伴の成人の祝いで、酒を飲んで、それから――。


「わ、たし……」
「……随分と苦しんでおった。鯉伴の成人の祝いから、もう今日で七日目じゃ」
「七日……!?」


嘘でしょう、まさか。
羽衣狐に腹を刺されたときだって、三日で目を覚ましたのに。
いくらあのときは珱姫の力があったとは言え、そんなの。
じゃあ、まさか。


「り、鯉伴のお祝い、どうなったの……?」
「それどころじゃねえだろ。待ってろ母さん、今鴆を呼んでくるから」


鯉伴は答えてくれなかったけど、分かってしまった。
盛り上がったところで私が倒れ、きっとそのまま祝いの儀は中断されてしまったのだろう。
……折角の、お祝いだったのに。
私のせいで、台無しにしてしまったのだ。
急いだ様子で部屋を出て行った鯉伴を見ながら、ため息を吐いた。


「珀姫、気分はどうじゃ。どこが痛い?」
「今は……どこも。大丈夫」
「じゃが……随分と、うなされておったぞ」
「うなされて……」


そういえば、何か夢を見ていた気もする。なんだったっけ。
……駄目、覚えてない。気だるさに全身が支配されているみたい。
ゆっくりと布団から上半身を起こす。くらりと脳が揺れた気がした。


「っ……」
「珀姫、寝てろ。無理するな」
「平気……それより鯉伴に、」
「鯉伴?」
「何だ母さん? 俺に何か……あ! 起き上がったら駄目だろ! 寝てろ!」
「貴方たち、同じ事言うのね……」


丁度鯉伴が戻ってきたところだったらしい。私の姿を見るなり鯉伴は慌てた声を出した。
思わずくすりと笑ってしまう。ぬらりひょんに似て優しい子だ。
鯉伴は鴆を連れてきてくれて、彼に少し問診を受け、いくつかの診察を受けた。けれど。


「…………」
「……鴆、どうなんじゃ。珀姫の容態は」
「…………」
「鴆!」
「……わかり、ませぬ」
「……なんじゃと?」
「珀姫様の症状が現れる病は、いくつかあるのです。あるのですが……どれも、今の珀姫様に現れたものとは、いささか異なるものがあって……」
「……つまり?」
「……申し訳ございません、珀姫様、先代、鯉伴様。今の状態では、珀姫様がお倒れになった原因が何か……私には、分かりませぬ」
「チッ!」
「……ぬらりひょん」
「……悪い」


ぬらりひょんの舌打ちに、鴆が申し訳なさそうに眉間にしわを寄せる。
けれど悪いのは鴆ではない。彼が分からないなら誰も分からない。
重い病ではないことを願うしか、ない。


「……今は大分、気分もいいわ。また症状が出たら報告するから、気付いたことがあったら教えて頂戴」
「御意」
「あと……こんなこと言っても気休めにしかならないかもしれないけれど。……あんまり、気に病まないでね」
「しかし……」
「鴆」


名前を呼ぶと、鴆が此方を向いた。
ゆるりと口角を上げ、ねだるように微笑む。


「お願い」
「……わかり、ました」
「それから……鯉伴、ごめんね」
「は? 何が?」
「……折角の、成人のお祝いだったのに」
「……っ」


鯉伴は、くしゃっとした顔をした。
昔から変わらない。大人になっても。
泣き出す直前のような顔だ。
この子はいつも、悲しいときこの顔をする


「いいんだよ、そんなの。その代わり……元気に、なってくれよ」
「……ふふ、そうね」


顔を俯かせた鯉伴に頭を撫でてやる。ぬらりひょんとはまた違う、手触りの頭だ。
いつももうそんな年じゃないと手を振り払われるのに、此度ばかりは彼は大人しかった。


「……暫く珀姫は療養じゃな。ここの部屋でもいいが……離れの方が日当たりがいいから過ごしやすいか?」
「そう……そうね。流行病だったとしても安心だし」
「そういうことじゃねえんだが」
「あら、失礼」


私が考えているより、ぬらりひょん達はもっと事態を重く受け止めているらしい。
……まあ、7日間目覚めなければそうなるか。
元気づけたくて微笑んでみたけれど、ぬらりひょんは困ったように笑うだけだった。









“療養”生活は、思っていた以上に大変だった。
料理も掃除も洗濯もできない。というか、離れの部屋から出ることすらろくに出来ない。
お手洗いにでも行こうと部屋を出れば、たちまち女妖怪達が着いてくる。
平気よ、と言っても、倒れられては困りますと返され、部屋に戻るまで離れないのだ。
そして意外にも、一番それが顕著だったのが、雪麗だった。


「珀姫、入るわよ……あ! あんたまたそんな薄着して! 窓開けるんなら羽織着てなさいって言ったでしょ!」
「母親みたいな事言わないでよ雪麗。今日は暖かいから大丈夫……」
「大丈夫じゃない! ったくもう!」


がば、と雪麗が着ていた羽織を肩にかけられる。ほのかに香の匂いがした。

雪麗は一日に何度も、私の様子を見に離れに来てくれる。
ご飯を持ってきたとか、お茶を持ってきたとか、大人しくしてるかどうか確認しに来たとか。
それらしい理由をつけては会いに来るのが、素直じゃない雪麗らしい。


「はいこれ」
「? 手紙……と、小包?」
「そう。珱姫から届いてたわよ」
「! ありがとう」


珱姫にも、普通の……いわゆる一般的な、式神を使わないやり方で手紙を書いた。
体調が優れないこと。しばらくは、式神を使ったやりとりができないこと。
けれどもしよければ、飛脚に運んでもらうやり方で手紙を送りたいと。
珱姫はすぐに返事をしてくれて、今もやりとりは続いている。
とはいえ珱姫も今や一児の母。忙しく、前ほど頻繁に送ってくるわけではないけれど。


「あら、香炉だわ」
「うわ、これまた高そうな……こういうとき、あの子いいとこの出なんだって実感するわね」
「ふふ、そうね」


小包を開けて出てきたのは、藤の花の描かれた香炉。
香炉を選んでくれたのはきっと、香炉の煙を浴びると体調がよくなるという話に基づいたものだろう。
香も二種類、藤色と桜色のものが用意されている。遠き地にいる妹姫の心遣いを思って、私は微笑んだ。


「珀姫、って雪女……お前まーた珀姫の部屋に籠もりきってからに」
「何よぬらりひょん、珀姫が一人でいたら淋しいだろうと思って来た心遣いじゃないの。なんか文句あるの?」
「ワシが来る度おるじゃろお前。ちっとは夫婦関係に気を遣わんか」
「はあ? 妾がいるときに来るぬらりひょんが悪いんじゃない」
「まあまあ二人とも……というか、雪麗はやっぱり私のことを考えて来てくれてたのね。手紙を届けに来たんじゃなくて」
「うぇ!? な、別にそういうわけじゃ……」
「ふふ、ありがとう雪麗。嬉しいわ」
「うぐ……」


笑いかけてみれば、雪麗は眉根を寄せて顔を染めつつそっぽを向く。
そうじゃないかと思っていたけれど、実際そうだと聞くとやはり嬉しい。
離れの部屋はどうしても皆が住む所からは距離があって、賑やかな声だけを聞くのは寂しいのだ。


「珀姫」
「なあに、ぬらりひょん」
「ワシは?」
「……? なあに?」
「ワシが来るのは嬉しくないのか」
「……貴方時々子どもみたいになるわよね。10年以上夫婦やってるんだから、私の事くらい分かるでしょうに」
「雪女に対してはそんなに素直なのにワシに対してはつんつんじゃからの」
「はいはい、嬉しいわよ貴方がいるのも」


むすっとむくれた顔は鯉伴そっくりだ。いや鯉伴がぬらりひょんそっくりなのか。まあそこはどちらでもいい。
宥めるように手を伸ばせば、ぬらりひょんはすり寄るように頬を寄せた。


「ったく……邪魔者は退散した方がよさそうね」
「あ、待って雪麗」
「? 何よ」
「もし皆に私の事聞かれたら……」
「ああ、はいはい。元気だったって言っとけって言うんでしょ」
「そう。お願いね」
「……ホントに元気になれば良いのに」
「……」


最後にぼそりと呟かれた言葉を、私は聞き逃さなかった。
困ってただ笑みを浮かべると、雪麗は微妙な表情を浮かべて去って行く。
今日は本当に元気なんだけどな。


「……すまん、珀姫」
「あら、何が?」
「アンタの病が何か……全力で調べてはおるんじゃが、どうにもわからん……。江戸の名医にも聞いてはおるが……」
「いいのよ。今日は随分体調もいいし……」
「……だが、アンタ毎晩うなされておるぞ」
「え、嘘」
「本当じゃ。自分じゃ気付いておらんかったのか?」
「え、ええ……」


その、時だった。
ゆらりとぬらりひょんの姿が揺らぎ、黒い靄のようなものが辺りを漂っているように見えた。


「あら……?」
「ん? どうした?」
「……? いえ、見間違いだわ」


ぱちくりと瞬きをすればそれは一瞬のうちに消えてしまう。
何だったのだろう。見たことのない姿だった。
……まあ、気のせいだろう。きっと。


「それより、鯉伴は元気? 総大将になって忙しくしているそうだけど、体調は大丈夫?」
「アンタに比べりゃ元気も元気じゃ。まあまだ危なっかしいとこもありゃするが、そこは周りが補佐してくれておるからの」
「良かったわ」
「……なんじゃ、アイツは顔も見せにこんのか?」
「いいえ、毎日来てくれてるわ。毎日神通力を使ってくれてる。でも忙しそうなのに変わりはないし……。貴方は? 鵺切丸鯉伴に渡しちゃったけど、良かったの?」
「ワシはもう隠居じゃ隠居。ぬらくら好きなように暮らすだけじゃ」
「ふふ、いつも通りじゃない」
「くく、言いおる」


くすくす笑いつつ、私はふと思う。
私のこの症状が病だとして、あとどれくらい生きられるのだろうか。
あとどれくらい、こうしてぬらりひょんと一緒にいられるのだろうか。

……止めよう。考えても意味がない。


「珀姫」
「なあに?」
「大丈夫じゃ。ワシがなんとかしてやる」
「……」


一瞬考えた、暗い未来。
それもぬらりひょんにはお見通しだったらしい。


「……うん。でも、…………ううん、何でもないわ」
「……」


言おうとして、止めた。
私は絶対、貴方より先に死んでしまうと。速かろうと遅かろうと。
だから無理して調べなくてもいいのだと。そう言おうとして、口をつぐむ。
ぬらりひょんはそれを分かったのか、分からなかったのか。
ただそっと、私の肩を抱き寄せた。








「っぅ、あ……けほ、っぐ、う……!」
「珀姫、しっかりしろ、おい!」
「珀姫様……!!」
「う、っ……た、い……」


い、たい。いたい、くるしい……!
思わず掛け布団の上から胸を握りしめるも、症状は何ら変わらない。
心臓が握りつぶされそうに痛い。
呼吸をする度、肺に痛みが走る。

療養生活は、何も調子の良いときばかりではない。
外を出歩けそうなくらい元気なときだって、勿論あるけれど。
今日のように苦しくて、目を開けるのすらやっとの時だってある。


「う、……っは、……っ」
「母さん……!」


ぬらりひょんと、鯉伴。それから……鴆?
名を呼ばれるのは分かるけど、返事が出来ない。
は、は、と呼吸に集中しようとしたって、それすら痛みが走る。
……しにそう。


「ゆっくり息を吐いて、それから此方を吸って下さい。楽になります」
「う……」


瞼を開けると、かすむ視界の中で、鴆が口元に何かを当ててきた。薬だろうか。
苦しい呼吸の中で必死に吸う。吸入薬だ。
それから少し経つと、息をするのが幾分か楽になるのを感じた。


「……あ、りがと……ぜん……」
「いえ……申し訳、ございません……」


ああ、少し楽だ。痛みが軽くなった。
瞼を閉じ、ゆっくりと息を吐き出す。
何の病か分からなくても薬を作れるなんて、鴆は本当に名医だと思う。
彼は、私の病が分からないことに苦しんでいるけれど。


「珀姫……」
「母さん……」
「へいき……だいじょうぶ、構わないで……」
「何が平気じゃ! 体がこんなに冷たくなって……!!」


す、と手を取られる。あつい。
これは……ぬらりひょんの手だろうか。
まるで熱が出ているように熱いけれど、私の方が冷たいのだろうか。わからない。


「ぬら、あつい……手、はなして……」
「やかましい。アンタが冷たいんじゃ」


ぎゅ、と握られる手が、若干震えている気がする。
……気のせいか。妖怪の長がそう簡単に震えるわけがない。

わずかに開けた瞼の隙間から、ぬらりひょんの顔が覗く。
へら、と笑って見せたのに、彼は悲しそうに眉をひそめた。


「……親父、母さんの病気はまだわかんねえのか?」
「……ああ。江戸の名医にも訪ねたが、……まだじゃ。範囲を広げるか」
「大丈夫だって……言って、るのに……」
「大丈夫じゃねえだろ」


ぴしゃりと鯉伴の声が聞こえた。厳しい子。
総大将の業務がただでさえ大変そうなのだから、あまり迷惑はかけたくないのだけれど。
それに、と私は鯉伴に目を向けた。


「…………っ」
「母さん、苦しいのか? 水飲むか?」
「いえ、……なんでも」


鯉伴の体を囲うように、黒い靄が見える。
ぬらりひょんと、鯉伴。
私が倒れてから、症状のあるときにはいつも、この靄が見えた。
何なんだろう。他の人には見えていないみたいだ。
あまり、良いものではない気もするけれど。わからない。

ふう、と息を吐いて。静かに目を瞑った。
きっと数日経てば、また平気になる。いつもそうだ。
私の症状には波があって、一月に一回か二回、こうして酷くなることもあるけれど。
少し経てば、大丈夫になるから。
だから心配しないでと、言いたかったのだけれど。
それを言う前に、私の意識は暗転した。










鯉伴の成人の祝いから、何度か季節が巡った。
体調は一進一退という感じで、良くなったり悪くなったりを繰り返す。
結局病名は分からないまま、鴆は焦っているようだ。
けれど鴆だって必死にやってくれているのだし、聞けば彼も体の弱い妖怪だというから、あまり無理はさせたくない。


「いて」
「? どうしたのぬらりひょん」
「爪切っておったら肉まで抉った。ほれ」
「やだ、痛そう。ちょっと待って」


今日も今日とて離れまで足を運んでくれたぬらりひょん。鯉伴が跡を継いでからすっかり隠居生活だ。
というかまあ、私のためではあるのだけれど。

戸棚から薬箱を取りだし、薬と清潔な布を用意する。
ちょいちょいと薬を塗って布で覆うと、じわりと血が滲んだ。
後はぬらりひょんの背中に手を回し、神通力を使えば終わりだ。
ふわ、と浮かんだ光の球がぬらりひょんに吸い込まれていく。この力だけは、体調がどうなろうが衰えない。
……良かった、と思った。


「……相変わらずすげえな、アンタの力は。ほれ、もう傷が塞がった」
「それは貴方が妖怪だからよ」
「だが……神通力を使って体に負担はないのか?」
「負担があるとかないとか、そういう時期はもう通り過ぎているわ。初めて力が発現したときは発熱したりもあったけれど、今は平気」
「どれ」


こつん、とぬらりひょんの額が私のそれと合わさった。
眼前に迫った整った顔に、どきりと胸が鳴る。
もう夫婦になって何年経つというのか、という話なのに。


「……熱はないようじゃな」
「…………ぬらりひょん、いきなり顔近づけるの止めて」
「なんじゃ、照れておるのか? 流石のワシでも病床の妻に無体は働かんよ」
「そういうことじゃないんだけど……」


ぬらりひょんは距離が近いというか、何のためらいもなくこういうことをやってのける。
はあ、とため息をついて、ぬらりひょんの血が滲んだ布を回収した。


「母さん、悪い、ちょっといいか」
「あら鯉伴。どうしたの?」
「刀の手入れしてたら指切っちまって。薬とかねえかな」
「ふふ、親子揃って。丁度出したところよ、いらっしゃい」
「悪い」


鯉伴の傷の治りは、一般的な妖怪よりやや早い。
おそらくは私の血を受け継いでいるからだと思う。私より治るのは遅いけれど。

鯉伴の傷にもぬらりひょんと同じ薬を塗ってから布を巻き、神通力で治療を行う。
そして血がついた布をとれば、傷は綺麗に治っていた。


「……母さん、神通力使って大丈夫なのか?」
「貴方たちって本当にそっくりね……。同じ事ぬらりひょんにも聞かれたわ、大丈夫よ」
「親父」
「一応熱はなかったぞ」
「ならまあ……平気か」
「ちょっと鯉伴?」
「いやだって母さん平気で嘘つくし……」
「…………」


本当にぬらりひょんに似ている。腹が立つくらい。
もう、と見つめていれば、鯉伴は誤魔化すように笑って見せた。


「総大将ー、総大将ー! どちらですかー?」
「呼ばれてるわよ鯉伴、行ったら」
「怒るなよ母さん、悪かったって」
「怒ってないわ。ぬらりひょんで慣れたもの」
「お、ワシに流れ弾が来たか」


つん、とそっぽを向いてみせる。別に怒ってないけど、形だけだ。
鯉伴はくつくつと、ぬらりひょんと同じような笑い方をして立ち上がった。
そのまま部屋を出て行こうとして――ぴたりと、止まる。
そして此方を振り返り、優しく笑った。


「母さん」
「なあに?」
「母さんの願い、叶えてやれそうかもしれねえ」
「……? 願い……?」
「ああ」


鯉伴はそれ以上何も言わず、部屋を後にする。
願いって何の事だろう。何か願ったかしら。
心当たりがない。


「ぬらりひょん、鯉伴の言った意味分かる?」
「さあ? ワシの血が流れてるんじゃ、適当に言ってるだけの可能性もあるぞ」
「……それもそうね」
「おい」


くすくす笑えば、ぬらりひょんはつんと頬をつついてきた。
その指には、さっき怪我した跡はもう残っていない。

私はそっと、自分の手のひらに目をやった。

……良かった、力が残っていて。
何も出来ず、毎日布団からほぼ出ることもなく。
これで神通力まで失ってしまえば、本当に役立たずになってしまう。それだけは避けたい。
お荷物になることだけは、避けたかったから。








その日はよく晴れた日で、雲一つない青空が広がっていた。
ぼんやりと 窓から外を眺めていると、縁側の方の障子から「母さん」と鯉伴の声がした。


「今良いか?」
「ええ、ちょっと待って」


今日は体調もいいし、ちょっとくらい動いても平気だろう。
そう思って障子を開けた先、鯉伴の隣には一人の女性が立っていた。
誰だろう。思わず視線を向けると、彼女もまた此方を向いていた。
長い黒髪は艶やかで、真っ白な肌に黒曜石のような瞳。
視線が合った瞬間、その瞳が見開かれる。


「綺麗……」


……?
今、思わず口に出したかと思った。
けれど今聞こえた声は、私のものではない。
今までに一度も聞いたことのない、けれど透き通った美しい声。
これは……。


「山吹?」
「! す、すみません……。つい……お綺麗な方だと、声に出てしまって」
「あら……」


彼女は思わずと言った様子で口を押さえる。
その様子が何だか可愛らしくて、くすりと笑ってしまった。


「私も、同じ事を考えていたわ。綺麗な方ね」
「え……?」
「初めまして。鯉伴の母の、珀と申します。鯉伴、この方は?」
「ああ、この人は……」
「山吹乙女、と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ。……ところで鯉伴、女性をわざわざ私の所まで連れてきたって事は、もしかして……」


無意識のうちに、期待するような目を向けてしまう。
鯉伴はそれに応えるように、こくんと頷いた。


「母さん。オレ、この人と 結婚しようと思うんだ」
「まあ……!」
「結婚!?」
「え?」
「あら、ぬらりひょん」


予想通りの言葉に思わず手を合わせて笑顔を浮かべれば、驚いたような声が横から聞こえた。
見ればそこにいたのはぬらりひょんだ。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。


「なんだよ親父、聞いてたのか」
「聞いてたのか、じゃねえ! 鯉伴、お前いきなり娘っ子連れてきて結婚たあどういうことじゃ!」
「それは親父も同じだろ。雪麗に前聞いたぞ、母さん宴の場に連れてきていきなり求婚したって」
「ぐ……雪麗め、余計なことを……」
「二人とも、喧嘩はそこまでになさい。お客様の前でしょう」


私は一つため息をついてから、改めて山吹乙女と名乗った彼女に目を向けた。


「騒がしくてごめんなさいね。とりあえず、縁側でする話でもないし、部屋を用意するわ。鯉伴、離れじゃなくて、元の私の部屋にご案内差し上げて頂戴」
「おう」
「私は厨に行ってくるわ。 お茶とお茶菓子を用意しないと……ええと、山吹乙女さんと言ったわね。甘いものはお好きかしら?」
「は、はい」
「待て珀姫、アンタ厨まで一人で行く気か。倒れたらどうする」
「今日は大丈夫よ。心配なら貴方も一緒に来る?」
「……おう」


立ち上がって廊下を歩いて行けば、ぬらりひょんが後から着いてくる。
ちらりと振り返って見た二人は、本当に幸せそうに笑っていた。








……ううん、気になる。
部屋の障子も襖も全部閉めているのに、のぞき込むような視線を感じる。
あと大量の妖気も。まあ総大将が女を連れてきたとなれば気になるのは当然だけれど。
盗み見している子達が沢山いるみたいだ。全くもう。


「それで、結婚とか言ったが。鯉伴、お前本気か?」
「おう。本気じゃなきゃ連れてこねえよ」
「……しかし……」
「あら、いいじゃない」
「え?」
「私は良いと思うわ、ぬらりひょん」
「珀姫……」


用意したお茶を啜りながらそう告げると、ぬらりひょんは驚いたような声を出した。


「……良いのか?」
「ええ。鯉伴が選んだ人ですもの、いい人に決まっているわ」
「母さん……」
「……アンタはいいのか? こいつの嫁は……ちと大変だぜ?」
「はい、妾は。ふつつか者ですが……よろしくお願い致します」


そう言って、山吹乙女さんが頭を下げる。
淑やかな仕草。艶やかな濡れ羽色の髪。
本当に綺麗な人だ。鯉伴の横に並び立つとあつらえたように美しい。


「ふふ、それにしても鯉伴が、こんなに綺麗な人を連れてくるような歳になったのねえ。何だか感慨深いわ」
「成人してから何年経ったと思ってるんだよ、母さん」
「親にとっては、子どもはいつまで経っても子どもなのよ」
「ったく……」


でもそうか、見られるのか。
腹を痛めて産んだ我が子のお嫁さんが、ついに。
私は改めて、山吹乙女さんに目を向けた。


「ええと……乙女さん、と呼んでもいいかしら」
「はい」
「差し支えなければ、色々お話を聞きたいわ。それから、その……」
「……? 何でしょう」
「もし良ければ、なのだけれど。鯉伴と結婚するということは、私の義理の娘になるということだから……私の事は、母のように思って頂きたいのだけれど……」
「! よろしいのでしょうか、私が……」
「勿論。あ、嫌だったらいいのだけれど……」
「いえ、嬉しいです……! その、お義母様、とお呼びしても……?」
「ええ、是非……!」


まさかこんなにも素敵な娘が出来るなんて。
笑顔を浮かべれば、乙女さんもまた柔らかく微笑んだ。


「ふふ、嬉しいわ。これからよろしくね、乙女さん」
「はい、お義母様」


目線を合わせ、ふっと微笑み合う。
山吹の名の似合う、可憐な人だと思った。


「時間はまだたっぷりあるし、もっとお話しして仲良くなりたいのだけれど……その前に」
「……?」
「いい加減、出てきたらどうかしら。盗み見なんて趣味が悪いわよ」
「え……?」


その途端、がらりとふすまや障子が開いた。
そろそろ、というかぞろぞろと出てくるのは、気まずそうな顔をした小妖怪達。
後から後から沸いて出て、終いには牛鬼やカラス天狗、木魚達磨まで姿を見せた。


「あ、あの……皆さん、このおうちの方なのですか?」
「そうなんだけれど……。ごめんなさい、礼儀がなってなくて……」
「いや珀姫様〜、違うんですよぉ」
「鯉伴坊ちゃまが女の子連れてきたってんのに仕事なんかしてらんないじゃないですか〜」
「鯉の坊の嫁さんとくりゃ見ねえわけにはいかねえよ」
「珀姫様の元気なお姿も久しぶりに見れたし……」
「そ、それにしてもよく我々がいることに気付かれましたな、流石は奥方様! お見事!」
「煽てても駄目です。貴方たちには後でお話がありますからそのつもりでいなさい」
「…………ハイ」


ぴしゃりと言えば、彼らは揃って縮こまった。
全くもう、とため息をつく。すると乙女さんが、くすくすと肩をふるわせた。


「ふふふ、賑やかなおうちですね」
「賑やか……まあ、賑やかなことに変わりはないわね……」
「鯉伴様がお育ちになったおうち、という感じがします」
「そうかしら……?」


まあ、鯉伴も大分自由な子だし。
この家で育てばそりゃあ自由になるか。躾はきちんとしたつもりだけれど。
こほん、と咳払いをして、私は彼女に目を向けた。


「改めて。奴良組へようこそ、山吹乙女さん」
「はい。こちらこそ、よろしくお願い致します」


開いた障子から、一陣の風が吹き込んだ。
新たな門出を祝うような、穏やかで、爽やかな風だった。








それからの日々は、つつがなく進んでいった。
私とぬらりひょんの婚儀の経験があったからだろうか。
婚儀の日取りが決まり、準備も滞りなく進み、そして婚儀の日も何もなく。
いつかのように妖怪達が乗り込んでこないよう、結界を張るのも忘れずに。
紋付き袴を着た凜々しい鯉伴と、白無垢を着た美しい乙女さんは、眩しいほど幸せそうだった。

けれど。


「っごほ、けほっ……げほ、かはこほ、っ……」


婚儀の後の宴が終わり、その直後。
離れに戻った私を襲ったのは、止まらない咳と、いつもより苦しい肺の痛み。
口元に当てた手には濡れた質感。見れば、赤い血液が手のひらを覆うほど付着していた。


「……っ」


……もう、あまり長くないのかも知れない。
鯉伴がこの時期にお嫁さんを連れてきてくれて良かった。
あの子の晴れ姿を見れたのだ、心残りはもうほとんどない。

懸念すべきは、ひとつだけ。
ぬらりひょんに、そして鯉伴にまとわりついていた、あの黒い影だ。
あれは一体、何なのだろう。
奴良組の誰も話題にしないことを考えれば、きっと見えているのは私だけ。
死ぬ前に解決できればいいけれど、誰に相談しようもない。
勿論誰だって親身になってくれるだろうが、存在さえ感知できないそれを解決するのは容易ではない。


「……困ったものね」


ふう、と息をつく。
もう床につこう。ずっと起きていれば、また咳の音で誰かに心配をかけてしまうだろうから。

ああ、それともうひとつ、やることがあったな。
私は京から持参した包みに、目を向けた。
















「急に呼んでしまってごめんなさい、乙女さん」
「いえ……それよりもお義母様、体調は大丈夫なのですか? 鯉伴様に伺いましたが、その……」
「……あまり、優れてはいないわね。だからこそ、貴方をこうして呼びつけるような真似をしてしまったのだけれど」
「呼びつけるだなんて、そんな……」


婚儀から少し経って、乙女さんが奴良組になじんできた頃。
私は布団の上に座ったまま、彼女を自室に呼んだ。


「実はね、貴方にもらって頂きたいものがあって」
「妾に、ですか……?」
「ええ。鯉伴が奴良組の総大将を受け継いだとき、ぬらりひょんから刀をもらったのは知ってる?」
「はい、聞いております。確か……鵺切丸、だと」
「そう」


総大将が持つべきだと、ぬらりひょんは鯉伴にそれを渡した。
妖怪だけを斬る、陽の気を持つ刀。
特別な刀だ。それは誰もが知っている。
そしてもう一つ、特別な刀を私は持っていた。

す、と京から持ってきた包みを開き、一番上に乗せていたそれを手に取る。
乙女さんの前に差し出せば、彼女はぱちくりと目を瞬かせた。


「これは……日本刀、ですか?」
「そう。これはね、私の従兄弟が作ったもので……藤霧、というの」
「藤霧……」
「これを、貴方にもらって欲しくて」
「え!? これを、ですか……!?」


驚く乙女さんに、私は微笑みを浮かべて頷いた。
私が死んだら、これの所在もどうなるか分からない。
その前に、渡すべき人に渡さなければ。


「何故、妾に……?」
「これはね、霊力を込めれば、どんなものでも斬れる刀と言われているの。乙女さんは幽霊だから、少しだけ霊力が使えるでしょう?」
「は、はい……少しだけ。けれど、妾、刀は使ったことがなくて……」
「ええ、それはなんとなく分かっているわ。でも使えるのは貴方だけだし、それに……念のために、持っていて欲しいの」
「念のため……?」
「そう。奴良組総大将の妻となるということはね、危険と隣り合わせになるということだから」


私は陰陽術が使えたから、以前妖怪に襲われたときもなんとかなった。
けれど、彼女は?
幽霊はわずかに霊力が使えるが、そのほかの力は微力なものだ。化けて出て人を脅かしたり、人魂を使ったり、それくらいしか出来ない。
とどのつまり、戦闘に向いていない妖怪なのだ。


「勿論、鯉伴は貴方をきちんと護ると思うけれど……万が一、ということがあるから」
「……お話は、分かりました。ですがお義母様、妾がこれを頂いてしまえば、お義母様はどうやって身を守るのですか……?」


恐れを帯びた声に、私は思わずふっと笑った。
聡い子だ。


「私には……もう、必要ないから」
「それは、どういう……」
「…………」


何も言わずにただ微笑めば、彼女は完全に察したようだった。
すっと息をのむ音がして、乙女さんは目を見開く。


「……そんなに、状態が悪いのですか……?」
「……ぬらりひょん達には内緒にしてね、きっと大袈裟に騒ぐと思うから」
「そんな、ぬらりひょん様や鯉伴様にこそお話すべきです……!」
「……ううん、いいの。貴方には……ちょっぴり、面倒な秘密を背負わせてしまうけれど……」
「お義母様……そんな、」
「ごめんね、乙女さん。でも、……言わないで。この通りです」


もしかしたら、あの二人も察しているかも知れない。
私は以前と比べれば随分とやつれたし、日に日に動ける時間も短くなっているから。

頭を下げれば、乙女さんは困ったように両手を出した。


「あ、頭をお上げ下さい……!」
「……貴方が、いいと言ってくれるなら」
「そんな、そんなの……」
「ごめんなさい、狡いのは分かっているわ。でも、知らせたくないの。余計な心配をさせたくない」
「……お義母、様……」


彼女の良心につけ込んだ、卑怯な手だと思う。
それでも言いたくなかった。
認めたくなかったのかもしれない、自分でも。
もう、あまり時間がないことを。


「……わかり、ました」
「! ……ありがとう、乙女さん」
「いえ……いいえ、お礼など……」


乙女さんの声が、若干潤んでいたのは気のせいだろうか。
優しい子だから、辛い事を頼んでいるのは分かっている。
分かっていても、なお頼む私は、酷い女だろうか。


「……その刀ね、刀身が綺麗なのよ。藤色をしているの」
「……そう、なのですか」
「開けてみて、乙女さん」


乙女さんが白い手で、刀を持ち上げる。
すっと、鞘が動いた。


「! 綺麗……」
「ふふ、そうでしょう」
「刀をじっくり見るのは初めてですが、本当に綺麗ですね……。っ!」
「……?」


そっと刀身に手を這わせた乙女さんが、ぱっと手を放す。
何だろうと見てみれば、彼女の白い指先に薄く血が滲んでいた。


「あら大変、斬っちゃったのね。待ってて、薬箱があるから」
「あ、いえ、たいした怪我では……」
「痛いものは痛いでしょう? ええと、ああ、これだわ」


薬箱を取り出し、薬を塗って布を巻く。
じわりと滲んだ血に、そういえばこの間同じ事があったなと思いだした。
彼女は刀に触れるのに慣れていないのだから、注意をするべきだったのに。


「乙女さん、ちょっと失礼するわね」
「え……? あ……」


すっと手を伸ばし、彼女を優しく抱きしめる。
目を伏せて、相手のことを思う。そうすれば光の球が浮かんで、彼女の体に吸い込まれていった。
……よかった、まだ使えて。


「これ……! 鯉伴様の、」
「そう。あの子の力と同じものよ。急に抱きしめてしまってごめんなさいね」
「いえ……いいえ、」


手を放す。するとぽたりと、畳に雫が落ちた。


「! ど、どうしたの……?」


乙女さんの白い肌に、涙が伝っていた。
柳眉を寄せて、彼女ははらはらと涙をこぼしている。
そんなに怪我が痛かっただろうか。それとも急に抱きしめたのが不躾だっただろうか。
慌てて涙を拭おうと手を伸ばすと、乙女さんは私の手を両の手で包んだ。


「……鯉伴様に、聞いたことがあるんです。この力は、相手を心から大切に思わないと使えないと……」
「え……? ええ、そうね……?」
「お義母様……っ、本当に、本当にもうどうにもならないのですか……? お義母様がそんなにも妾を思って下さっているのに、妾はお義母様に、何も出来ないのですか……?」


ぽたぽたと溢れる涙を、止める術はない。
彼女が泣いているのを、私は驚きながら見つめていた。
……ああ、残酷なことを頼んでしまった。
この子には、優しすぎるこの子には、……あんなこと、頼むべきじゃなかったのかも知れない。

それでも、言ってしまったことは取り消せない。


「いいの。いいのよ、乙女さん。貴方はそんなこと、気にしなくて」
「でも……」
「じゃあ、一つだけ。……この刀、大切にしてくれる? たとえこの先、貴方がどんな波乱な運命に巻き込まれても、これだけは持っていてほしいの。肌身離さず」
「……もちろん、もちろんです」
「ありがとう。……貴方みたいな優しい娘を持てて、私は幸せ者ね」


ひっく、ひっくと乙女さんがしゃくり上げる音が聞こえる。
頭を撫でようと、そっと手を伸ばしたとき。
彼女の姿が、ぐらりと黒く揺らいだ。


「…………!」











血を垂らした墨に、筆を浸す。
正方形に切り取った和紙に陣を描き、更にそこにもう一滴の血を垂らし。
そして霊力を込めると、和紙に書かれた紋様がぼんやりと光を帯び。
それは一つの文章を象った。


「…………」


ああ、まさか。
まさかとは、思っていたけれど。
見ないふりをしていたのかも知れない。





――呪うてやる、呪うてやる……!! おぬしらの血筋を未来永劫呪うてやる!! 何世代にも渡ってな!!!

――おぬしらの子は、孫は、この狐の呪いに縛られるであろう!!!






私のこれは、病でも何でもない。
大阪城で羽衣狐から受けた、呪いだ。

羽衣狐は千年を生きる大妖怪。
その彼女がかけた呪いを、私はあまりにも軽く見過ぎていたのかも知れない。

鴆が分からないはずだ。だって病じゃないのだから。
……おそらくは、ぬらりひょんや鯉伴、乙女さんのあの黒い靄も、きっと呪いなのだろう。
調べる術がないから、どういう呪いかは分からないけれど。




「……っ」


わたしの、せいだ。
あのとき、羽衣狐に捕まらなければ。
いや、そもそもあの夜、宴に誘われたとき、ぬらりひょんについていかなければ良かったのだ。
陰陽師の末裔の分際で、分不相応な夢を見た。
私を一人の人間として見てくれるぬらりひょんに、分不相応にも恋をした。
その結果が、これだ。


ぽたぽたと、畳にシミが出来ていく。
拭っても拭っても、涙が溢れる。
そんな権利すら、私にはないというのに。


「珀姫」
「!」


ぬらりひょんの声だ。
私は咄嗟に、開いていた紙を閉じて隠した。


「入っていいか?」
「……ちょっと待って」


ぐい、と涙を拭う。何度か深呼吸をして、溢れ出そうな涙を止めた。
どうぞ、というとふすまが開く。
ぬらりひょんは片手に盆を持っていた。茶でも持ってきてくれたのだろう。


「気分はどうじゃ? 最近寒くなってきたからのう、温かい茶でも…………珀、姫?」
「なあに?」
「……どうした? 何があった?」
「……何って、なんのこと?」
「隠すな。……涙のあとがある」


盆を置いて布団の横にしゃがんだぬらりひょんが、するりと私の頬を撫でた。
誤魔化すように笑って、なんでもないと。そう言おうとして、また咳が出る。


「げほっ、けほごほっ、う……」
「珀姫、大丈――――血……?」
「え……?」


見れば、口元を押さえていた手に血がついている。
ああ、またか。そう思う私とは裏腹に、彼は酷く狼狽していた。


「ぜ、鴆を――」
「いいのぬらりひょん、大丈夫」
「大丈夫なわけがあるか! 泣くほど辛いんじゃろう!?」
「……でも、……もう薬も効かないと思うの」
「……は、やってみなければわからんさ」


そう言って彼は慌てて部屋を出て行った。鴆を呼びに行ったのだろう。
でも鴆だって、薬を調合してくれている。それでも良くならないから、こうなっているのだ。

ぬらりひょんも、きっとそれは分かっているだろうに。認めたくないのだろう。
彼は妖怪のくせに情が深い。私を失うのをおそれている。
きっと遅かれ速かれ、そのうちにその日がやってくるだろうと知りながら。

ふう、と息をついて、さてどうしようかと思考を巡らせた。
彼らが呪われたのは私のせい。私が呪われようが死のうがそれは自業自得だからどうだっていいけれど、ぬらりひょん達は違う。
けれど、こんな話誰に相談しようもない。
なんせこの奴良組で最も呪いに詳しいのは、 花開院の出である私なのだ。
その私が分からないのだから、きっと誰にも分からない。

花開院家とはもう縁を切っているし、誰に聞きようも――――。


「……あ」
「大丈夫か珀姫、鴆を呼んできたぞ!」
「珀姫様、すぐに調薬致しますので少々お待ちください」
「あ、え、ええ……ありがとう」


いた。
一人だけ、というか一つだけ。
もしかしたら、頼りになるかもしれないものが。






ちょきん、とはさみの音がした。
数度、短く音がして。
ごくん、と白い喉が動いた。












「あ、雨降ってきたわね……」


雪麗は、厨の窓から外を見てぽつりと呟いた。
もう冬だ。雨が降ってきたと言うことは気温が下がる合図。
特に最近は、今のような昼下がりの時間帯でも酷く冷える。雪女の雪麗にとっては生きやすい季節だが、いかんせん病人にとっては厳しい季節だ。


そう、病人。
雪麗にとって最も大事な人間である、奴良組前総大将の妻、珀姫。
彼女はもう何年もずっと、治らない病に悩まされていた。

始めに倒れたときは7日間、目が覚めなかった。
それから元気になったかと思えばまた倒れ、倒れたかと思えばまた元気になり。
しかしその元気な期間は少しずつ、だが確実に短くなっていった。
元々細めだった体躯は、骨の形が分かるほど痩せ細っていき。
色白だった肌も、病的なほどに青白くなり。
ぬらりひょん曰く、最近は血を吐くこともあったという。


――もう、長くはないと思います。


そう、鴆が告げた日を思いだす。
それでもぬらりひょんは諦めなかった。ぬらりひょんだけでなく、奴良組皆がだ。
だって一番最近――と言ってももうずいぶん前になるが――入ってきた鯉伴の妻、山吹乙女ですら、珀姫のことをすっかり信頼するほど慕っているのだ。
奴良組の中で、特に本家にいる者にとって珀姫はいっとう大事な存在であり、病だからと言って諦めるわけには行かないのだ。

雪麗が出来ることは、精々見舞いに行って薬を飲ませたり、氷嚢を作って熱を出した彼女を冷やしたりすることくらいだが。
後はしょんぼりと肩を落とす男妖怪共の尻を蹴っ飛ばして元気づけてやることだろうか。
夫のぬらりひょんも息子の鯉伴も気丈に振る舞っているというのに、本家や奴良組の男共は珀姫の事を話題に出す度眉根を下げる。涙をこぼす者もいるくらいだ。
縁起でもない。しみったれた顔は止めろ。きっと良くなる。そう檄を飛ばしたのも一度や二度ではない。


珀姫が冷えないよう、夜には温かい粥でも作ってやろう。
これでも大分上達したのだ。前は料理となると冷たいものしか作れなかったが。
妖気を操る術を学び、珀姫から料理のいろはを教えてもらい。
今度は自分の番だと、雪麗はたすきを掛けた。






だが。








「やだ、雨酷くなってきてる……ちょっと妾珀姫に茶でも差し入れてくるから、ここ頼んだよ」
「はい、雪麗様」
「お任せ下さいな!」


ぱらぱらと降っていた雨がしとしとになり、そして盥をひっくり返したかのような豪雨になり。
雷まで鳴り始め、何だか化物でも出そうな雰囲気のある夜だ。

山吹乙女や他の女妖怪に厨を任せ、雪麗は盆の上に茶をのせて珀姫のいる離れへと向かった。


「珀姫、開けてもいい?」


そう告げると、いつもならすぐに「どうぞ」と返答がある。
だが妙だ。今日は何だか静かで、寝ているのだろうかと雪麗は首をかしげた。


「寝てるの? ……開けるわよ?」


そう言って、雪麗はふすまを開ける。
だがそこに、珀姫の姿はなく。
しきっぱなしの布団と、彼女の式神だけが残されていた。


「……厠かな?」


誰かが付き添いで行っていればいいが。
あのお姫様はすぐ無茶をするというか、自分を軽んじるところがあるから。一人で行ったのかも知れない。
ったく、と眉を寄せ、雪麗は盆ごと茶を部屋の中に入れてから、厠へと向かう。

しかし。


「いない……」


そこに珀姫の姿はなかった。
ざあざあと降る雨の音も相まって、何だか不安になる。
ならぬらりひょんの部屋か。そう思って訪ねるも、そこにはぬらりひょん一人だった。


「なんじゃ雪麗、何か用か?」
「……いないわね」
「誰がじゃ?」
「珀姫よ。部屋にいなくて、厠にもいないから、てっきりここかと思ったんだけど」
「――何じゃと?」


ぴくり、とぬらりひょんの眉が動く。
彼もどうやら、異変を感じ取ったらしかった。


「鯉伴の部屋かも。行ってみるわ」
「待て雪麗、ワシも行く」


そうして二人揃って鯉伴の部屋を訪ねたが、そこには鯉伴しかいない。
こうくるともう心当たりがない。

――珀姫が、消えた。

嫌な不安が、嫌な予感になって。
雪麗の心の中で、靄になる。

天気も相まって空は暗く、太陽がないから正確な時刻は分からないが、黄昏時は過ぎているだろう。
なのに彼女がいない、なんて。
おかしい。どう考えても変だ。

ぬらりひょんも考えることは同じなのか、「カラス!」とカラス天狗を呼んでいた。


「ここに。どうされました、先代」
「珀姫が消えた」
「珀姫様が……?」
「屋敷のどこにいるか、しらみつぶしに探せ」
「は」


そうして、本家に静かに、しかし段々とざわめきは広がっていく。

――珀姫様が消えたそうじゃ。

――厨にいるのではないか?

――本家のご自身のお部屋では?

――もしや物置などにいるのでは。


そのどれもの予想が外れ、本家の部屋は全てが開け放たれていく。
だがどの部屋を探しても、彼女の姿はない。


……まさか、外か?
いや、まさか。
珀姫は外に出られるほど元気ではないし、そもそもこの大雨だ。
それに奴良組の警備をかいくぐって彼女をさらう輩も、この江戸にはいるはずもない。
なら、どこに。


その答えは、翌日、最悪な結果として奴良組にもたらされた。







「総大将ー!! 総大将ー!!」



「…………なん、じゃと……?」








翌日の朝、すっかり雨が上がった奴良組本家に、ぬらりひょんが一人の女を抱えて帰ってきた。

長い黒髪は墨を溶かしたように黒々としていて。

白皙の肌には、痩せていてもなお見惚れるほどの造形をした顔があり。

間違えようもないほどに、目映いほどに美しいその女は。


奴良組で最も大切にされてきた人間の、変わり果てた姿だった。









カラス天狗からその言葉を聞いたとき、ふざけるなと叫びたかった。
まさかそんなことあろうはずもないと、怒鳴りたかった。
それが出来なかったのはひとえに、カラス天狗がそんな笑えない情報を持ってくるような妖怪ではないと知っていたからだ。


ぬらりひょんは走った。
雨の中、傘も差さず。


――川の下流で、死体が上がったそうです


気配も消さず、妖力もだだ漏れで。
走る、走る、走る。


――その死体は、溺死にしては酷く綺麗で、そして……


その話が、嘘であると信じたくて。
嘘であってくれと、願いながら。


――天下一と言って良いほどに美しい、女の死体だと……


けれど。
現実は、いつだって無情なもので。


「は、は……」


川の下流にたどり着くと、そこには既に人がわらわらと集まっていた。
木々を押しのけるように人の間に割り込んで、ずんずんと進んでいく。
息が荒い。走ったからか、それとも別の要因か。
野次馬の一番前に出て見つけたのは、


「…………珀、姫……?」


見間違えるはずもない。

長く艶やかな濡れ羽色の髪。
白いかんばせに、魂消るほど美しい顔。
開かれた瞳には、既に光はなく。


「っ、ア…………!!」


ぬらりひょんが唯一惚れた、人間の女。
一生笑って生きていこうと約束したはずの、伴侶。

珀姫に、違いなかった。


「あ、おいアンタ! 危ないよ!」
「…………」
「昨日の雨で川が増水して……聞いてんのかい?」


誰かに肩を引き留められた気もしたが、そんな力でぬらりひょんはとまらない。
ずんずんと足を進め、ざぶんと川に足を踏み入れる。
触れた肌は、とうに凍るほど冷たくなっていた。


「珀姫……珀姫、珀……起きろ……」


返事は、ない。


「珀姫……!」


当たり前だ。
だってもう、死んでいるのだから。
どんなに呼びかけたとて、その瞳が再び光を宿すことはない。


「珀……」


ぶらん、と。
持ち上げた手首が、重力に従って揺れる。
ぬらりひょんは力なく、肩を落とした。








――奴良組総大将の奥方が、死んだ。


その訃報は、瞬く間に奴良組中へと伝えられた。
奴良組の本家だけでなく、奴良組に籍を置く妖怪達全てに。
そしてやがて、奴良組と懇意にしていた組の妖怪達にも、じわじわと。
まるで真白の布に、墨を垂らしたように。

奴良組にとって過去最大で最悪な知らせは、ゆっくりと、しかし確実に様々な妖怪が知るところとなった。



――何故、どうして。

――人間だからか。弱いからか。

――しかし奴良組総大将の奥方だろう、守られていたのではないのか。

――守り切れなかったのだろう。


――人間は、彼が思っていたよりずっと弱かったのだろう。



誰もぬらりひょんを責めることはしなかった。
お前がいたのにどうしてと、そんな声は上がらなかった。

奴良組総大将という責任を負っていた彼の強さは、誰もが知っていたから。
彼が弱いせいで護れなかったのだとしたら、他の誰が守れたのだろう。

奥方の死に方は、奴良組本家の者しか知らなかった。
それを知らない者達はほとんどが、病か討ち入りかで死んだのだろうと噂した。
総大将がどうにも出来なかった死に方など、それくらいしか思い浮かばなかったから。

けれど奴良組本家では、それと全く異なる騒ぎが巻き起こっていた。


「――何、それ……っ」
「珀姫様が、川で溺れた……?」
「まさかあの珀姫様が、あんな大雨の日に……?」
「大雨の時には川には近寄らない。子どもでも知っていることなのに……」


「本当に、事故だったのだろうか……?」



ひそひそと静かに、さわさわと風の吹くように、噂は本家の中を駆け巡っていた。
ぬらりひょんや鯉伴、山吹乙女や雪麗のような、特別彼女と親しかった者に対しては、誰もそんな話はしなかった。
示し合わせたわけではない。ただ誰もが彼らに気を遣ったのだろう。

けれどそれは、まるで腫れ物に触るかのようで。
そしてその様は、彼らにとっても酷く苦痛でしかなかった。


何故、彼女が死んだのか。
死因は溺死だ。それは分かる。鴆だってそう言っていた。
問題は、彼女があの日あのとき、何故あの場所にいたのか。

誰も、珀姫が家から出て行くところを見なかった。
当然のように離れにいるものだと考えていた。
だって、自力で動ける体ではなかったのだから。
なら、誰が。


「……ッチ」


苛立ち紛れに舌打ちしながら、ぬらりひょんはキセルをふかす。
手下の全力を使って調べさせているのに、かけらの一つも見つからない。
あの日は生憎の大雨で、だからこそ外に出ている者もおらず。
珀姫を見かけたという情報すら、出て来ない。

勿論ぬらりひょんだって自分でも調べている。
鯉伴だって雪麗だって、山吹乙女すら力になってくれている。
なのに一つも分からない。見つからない。


「……珀姫、何があった?」


持ち帰ったずぶ濡れの体を、丁寧に丁寧に拭き上げて。
濡れた 着物も乾かして、濡れた黒髪も乾かして。
そうして見た彼女は、溺死体とは思えぬほど美しく、今にも生き返りそうで。

キセルをおいて、そっと横たわる彼女の頬に手をやる。
けれどそこにあったはずの体温はない。ただ冷たい肌があるだけだ。

豪雨の中、冬の川で死ぬのは、どれほど辛かっただろう。


「……冷たかったろうな……苦しかったな、珀」


もっと早く、探しに行けば良かった。
雨など気にせず、川の周辺まで行っていたら。
もしかしたら、死ぬ前に助けられたかもしれないのに。


長くはないと知っていた。
それでも最後まで生きて欲しかった。
きちんと、看取ってやりたかった。
あんな川の中で、一人で死なせずにすんだのに。


「…………」


火葬しなければならないのは分かっている。
死体はいずれ腐り、異臭を放ってハエがたかる。
そんな姿など見たくない。見たくない、けれど。

生きているように美しい死体を燃やすなど、今のぬらりひょんには出来なかった。


「……親父、ここにいたのか」
「鯉伴か……何か分かったか?」
「…………いや、何も」


鯉伴は珀姫を挟んで、ぬらりひょんの正面に座る。
その顔には隈ができていて、少し痩せたようだった。


「……母さん、綺麗だなあ…………」
「……そうじゃな」
「……幽霊にでも、なってくれればよかったのに」
「……そう、じゃな」


ぽたりと、鯉伴の着物に雫が垂れる。
ぬらりひょんはそれを一瞥しただけで、何も言わなかった。


「…………親父、母さんをちゃんと弔ってやろう」
「…………」
「ちゃんと供養して…………墓を作ってさ」


ああ、と思った。
ぬらりひょんが思うより、鯉伴はずっと大人になっていたのかも知れない。
息子に言わせてしまったな、と後悔した。

鯉伴は珀姫が大好きだった。
その鯉伴に言わせてしまうほど、きっと今のぬらりひょんは酷い顔をしているのだ。


「……そうじゃな」


幽霊にならなかった彼女と、きちんと踏ん切りをつけて別れなければ。
人はいずれ死ぬ。知っていたけれど、知らないふりをしていた。
でももう、きちんと目を向けなければ。向き合わなければ。

それが最後に、彼女にしてやれることだから。


















墓は、珀姫がいっとう気に入っていた藤棚の近くの墓地にした。
ぬらりひょんの部屋に仏壇を作って、特注で藤の紋様をいれた。


「……必ず、アンタが死んだ理由を突き止めてやるからな」


何年経っても、何十年経っても。
何百年経とうと、ぬらりひょんの中から珀姫が消えることはない。

大好きだった。愛していた。
ちょっとだけ素直じゃなくて、あまのじゃくで、笑顔がとても可愛らしいあの姫君を。
きっとぬらりひょんは、ずっと愛し続けるのだろう。


彼の思いに答えるように、風が吹いた。
冷たい風のはずなのに、まだ藤の季節ではないはずなのに。
花の香りのする、暖かな風だった。




番外編




「天下一の美姫、じゃと?」
「はい、最近巷で飛び交っている噂ではありますが」


猪口を差し出すと、鴉天狗は頷きながら酒を注いだ。
京に来て何度目かの出入りが終わり、いつもの店で飲んでいる時の事だった。
仄かに酔った赤ら顔の鴉天狗は、そう前置きしてから切り出した。
現実主義者の此奴が噂話とは、珍しいこともあるもんだ。


「なんでも、その珀姫というのが類い希なる美貌を持っているそうで」
「ほお……」
「長く艶やかな髪に大きく切れ長の瞳、まさにその姿は天女のごとき……という話です」
「天女か。そりゃあまた、随分と綺麗な姫らしいのう」


酒をあおり、くくっと笑う。
噂は当てにならない。それくらい知っている。
天女というのも、噂を流し始めた者が勝手に言い出したことに尾鰭がついただけだろう。
妖怪の世界にまで話が上る姫にも興味はあるが、さてどこまで信じていいものか。


「しかも彼女、どうやら神通力の持ち主だとか」
「神通力、じゃと?」
「ええ。相手の力を増幅させ、治癒力や回復力を立ち所に高めてどんな傷でも癒やすという力です」
「そりゃまた随分と凄い力だが……そんな姫、たちまち妖に襲われるんじゃねえのかい?」
「……まあ、普通ならそうでしょうね」


鴉天狗は言葉を濁した。
最近の京では、生き肝信仰の妖が増えていると聞く。
その天女とやらが死んでしまうのも惜しい気はするが、かといって太刀打ちできそうでもあるまいに。


「……実は、その珀姫とやら、どうも花開院の血筋らしく」
「花開院? ってーと、あの陰陽師の花開院か?」
「そうでございます。京妖怪達が唯一恐れる、由緒正しい陰陽師の本家……その血を引いているそうで、彼女自身も陰陽術を使うらしいのです」
「……なるほどのう。襲ってきた妖を叩き付けるなんざ、随分面白い姫じゃねえか」


興味が沸いた。
噂になるほどの美貌を持ちながら、しかし妖にも立ち向かうお転婆姫。
京妖怪を見くびっているわけでも自分の力を過信しているわけでもないが、自分なら簡単には倒されまい。
猪口を置いて立ち上がると、鴉天狗はぎょっと目を見開いた。


「そ、総大将!? どこへ……」
「ちょっくら出てくる。なに、そうかからずに戻るさ」
「まさか姫のところへ!? ワシの話聞いてました!? 陰陽師なんですってば!」
「おう、聞いとった聞いとった」


羽織の裾を翻すと同時に畏れを纏う。途端、鴉天狗の意識の中から自分の存在が消えた。
花開院の場所は分かる。姫がいるかどうかはさすがに分からんが、まあ何とかなるだろう。
花開院珀。名前の字面通りなら、美しいことこの上ないのだが。一体どんな女なのか、一目見ておくのも悪くない。
まだ見ぬ姫に思いを巡らせ、ぬらりひょんは喉でくつくつ笑った。










暫く歩いていると、やがて人気のない暗い道に出た。
こういうところは京妖怪のたまり場だ。火事と喧嘩は江戸の華、とはいうものの、むやみに争いを仕掛けるのは利口じゃない。
畏れを纏ったままうろついていると、少し先の方に嫌な気配を感じた。
強い妖ではない。が、決して弱い者でもない。このままひっそり通り過ぎるが得策だろう。


「――、――……!」
「っ……!!」


邪気の含まれた声が聞こえてきた。それとは別の、人間の声も。
京妖怪が人間を襲っているのだ、と理解するのは早かった。かといって、飛び込んで助けるほどお人好しじゃあない。
様子を見て、遊べそうなら遊んでいくか。無理なら畏を発動させて逃げればいい。
そう、ぼんやりと考えていた時。


「――式神、�鵠g!!」


透き通った、しかし芯のある声が耳を打った。
少し高めの、女の声だ。まるで管楽器のように、どこまでも美しく響く音。
進む足が自然と速くなる。何かに取り憑かれたかのように、身体が動いていく。
角を曲がったその先、瘴気の向こうに見えた人間の姿を認識した瞬間、頭の中が真っ白になった。

紫水晶のような澄んだ瞳に、目を奪われた。人間の物とは思えぬほどに、真っ直ぐな光を宿したそれ。
暗闇の中で仄かに浮かび上がる白皙の上に乗った双眼に、動きが止まってしまう。
墨を流し込んだような緑の黒髪も、細くしなやかな体躯も見事ではあったけれど。何より瞳の輝きから、目を離せない。
狐に化かされたのではと疑うくらいに美しい姫が、そこには立っていた。


「…………珀、姫……」


聞かずとも分かる、是が噂の姫なのだと。
天女だなんて、生ぬるい。本物の天女ですら、こんなにも美しい者はいるまいに。
女は持っていた式神を袂にしまうと、憂いを含んだ息を漏らした。


「……ごめんなさい……」


囁くように、呟くように言われた言葉が、空気に溶けていく。
その声でぬらりひょんは、ようやく気を取り戻した。
ごめんなさい? 流れから言えば、彼女が言っているのは妖怪のことだ。

だが、それとすると随分おかしな話でもある。
彼女は陰陽師。妖怪を滅するのが仕事のはずだ。
なのに、どうしてその言葉は後悔するような響きを持っているのだろう。


「…………なるほど、なぁ……」


興味が沸いた、としか言いようがない。
人間に興味が沸くというのも珍しいが、嫌ではなかった。
元々好奇心は強い方だ。ただ、やたらめったらに発揮されないだけで。
にい、と口角を吊り上げ、ぬらりひょんは女の後を追って夜の闇へと消えていった。





「京の女というものは、何をすれば喜ぶんじゃ?」
「…………え?」


ぽかんとした顔の姫君を、男は至極真剣な顔をして見つめた。














「きゃあっ!!」


それは、美しい音を鳴らす鈴が、力任せに振り回されたかのような悲鳴であった。
三日月の輝く夜のこと。静かな空を引き裂くように上がった悲鳴は、京のとある武家屋敷からのものだった。
重厚な門構えの奥の、そのまた奥に位置する部屋。主人の部屋に続いて守りの堅いそこにいたのは、部屋の主の姫君、だけではなく。


「く、曲者っ!!」


彼女を壁に追いつめるように立ちはだかるは、金髪に金の瞳という、およそ人間らしくない色彩を持った男だった。
気丈にも刀を構える姫君に対し、男は愉快そうに口元を歪める。整った顔に浮かべられた笑みは、けれど男の容姿も相まってか、一層彼を怪しげに見せるだけで。


「――珱姫か。成る程、京一の美姫というのは嘘じゃあないらしい」
「……っ!!」


低く色気のある声色で紡がれた自身の名に、姫君――珱姫はきっと男を睨んだ。
今の今までそこにはいなかったはずの存在。怪しげな雰囲気。人とは思えないようなその気配。
珱姫は妖怪には詳しくなく、自分を襲ってきた者を一度見たことがあるだけ。それでも彼女は一瞬にして、男がその妖怪であると分かった。
ねえさま、と震える唇が声にならない声を漏らす。しかし珱姫が助けを求めて呼ぶその声に、答える者はここにはいない。
チャキ、と薄く開かれた刀が月明かりを反射し、きらりと光る。その様子を見て、男はふっと鼻を鳴らした。


「止めておけ。アンタにそれは扱えん」
「な、」
「刀なんぞ使ったこともないじゃろう? 見りゃ分かる。下手すりゃ怪我すんのはアンタ自身じゃぞ」
「え……っ」


恐れるような色が瞳に映り、刀を持つ手が怖じ気づいた様に強張る。
それを見やってから、男は「まあ、」と姫君を追いやっていた体制を解いた。
自分の上から退く影に、珱姫が訝しげに眉を顰める。
向けられるその視線には構わず、男は珱姫から少しだけ距離を取って座りこむ。
そしてくるりと振り返ると、毛を逆立てる猫のような顔をする姫君に、くいと指で近付くよう示した。


「今日は何も悪さをするつもりで来たんじゃねえ。アンタに聞きたい事があったのさ」
「……聞きたい事?」
「ああ」


にやりと笑む男に、珱姫が不安そうな顔つきになる。
珱姫は武家屋敷の姫君だ。けれどしていることと言えば、父親が連れて来た病人や怪我人を神通力によって癒やすことだけ。
他に稼業や花嫁修業なんて一切していない。ちょっとでも他のことをすれば、父親から危ないことはお止めと止められるためだ。
それ以外に知っていること、と言えば……。珱姫の視線が、そっと刀に向けられた。

普段珱姫の周りにいるのは、父親、患者、そして花開院家の者達だ。
父が護衛で雇った陰陽師達。名も知らない彼等や、是光。そして珱姫にとって誰より大切な、姉のような存在――花開院珀。
珀姫と呼ばれる彼女もまた、珱姫同様不思議な力を持っていた。
けれど彼女は珱姫のように護衛がいるわけではない。
彼女の弱みなんて聞かれたらどうしよう、そんな事言えるわけがない。でも自分にこの妖怪を追い払えるだけの力があるかと言えば……。
ぐるぐると珱姫の頭の中を後ろ向きな考えが巡る。けれどそれを口に出す前に、男が先に口を開いた。


「京の女というものは、何をすれば喜ぶんじゃ?」
「…………え?」


そして冒頭に戻る、という訳で。

思いも寄らなかった言葉に、珱姫はぽかんとした顔で男を見つめた。
珱姫のその視線に、男もきょとんとして見つめ返す。
何か変な事を言っただろうかと言いたげな男に、珱姫は口をもごもごと動かし、けれど何も言えずに困った顔をした。




男はぬらりひょんと名乗った。
珱姫は妖怪には詳しくないので分からなかったけれど、話を聞いていくとどうやら男は妖怪だったらしい。
やっぱり、と思った。珱姫の家を警護してくれている是光という陰陽師から聞く妖怪と、男の雰囲気があまりにも似通っていたからだ。
――怪しげで恐ろしく、けれど何処か此方を圧倒させるような強さがある存在。
ぬらりひょんは正にその典型だった。成る程これが妖怪かと、疑いようもなく思えるような存在。

だからこそ、珱姫はぬらりひょんの口から出た言葉が信じられなかったのである。
何も返せずに困った顔をして、そうして珱姫は首を傾げた。


「えっと……いくつか、お伺いしてもよろしいですか?」
「ん? おう。構わんぜ」
「女を喜ばせる方法と言うのはつまり、相手と想いを通わせるための、と言うことでしょうか。それから……そもそも何故私にお聞きになるのですか?」
「んー……」


ぬらりひょんはよいしょと胡座をかいて座った。長くなりそうだと、寛げる体勢を取ったのだ。
珱姫はその妖怪の、妖怪らしくない仕草に少し戸惑ったけれど、彼女は育ちが良いので特別相手の態度に何か言うことはしなかった。


「一つ目の問に関しては、その通りじゃ。京の女に興味が沸いたんじゃが、生憎こっちの女は相手にしたことがなくてな」
「は、はあ……」
「二つ目は、そうじゃな。アンタ、京一の美姫と呼ばれておるじゃろ。それなら色んな男から求婚やら何やらされておるじゃろうし、男と女の惚れた腫れたには詳しいかと思ってな」
「…………」


ぴっと指で指されながら言われ、珱姫は更に困った顔をした。
それなら私よりもっといい人がいますよ、と言おうと思って口を閉じる。
彼女の脳裏に浮かんでいたのは珀姫のことだった。天下一の美姫という名が、滅多に外出しない珱姫の所まで届いてくるのだから、その評判はもはや京のみに留まってはいないのだろう。
けれど態々彼女の元に妖怪という存在を向かわせることもあるまい。珀姫は確かに陰陽師の一族ではあるけれど、でも珱姫同様姫君なのだから。
彼女に相談するのは、もっと困ったことが起きた時でいい。珱姫はそう結論づけて、静かにぬらりひょんを見据えた。


「私は、男性から想いを向けられたことはございません」
「……は? 何の冗談じゃ?」
「本当でございます。……その、姉様が仰るには、父上のところで全て止められているのだろうと。……過保護なものですから」
「……ふうん? 過保護、ねえ」


品定めするような視線を向けられ、居心地悪く思いつつも、珱姫は視線を逸らさない。
妖怪と会ったらおそれてはいけない。おそれを表に出してはいけない。
そう、珀姫から言われたことを思いだしたからだ。


「それから、京の女性に興味が沸かれたとのことですが。……お相手は、人間ですか?」
「ん? おう」
「失礼を承知で申し上げますが、……もしや、そのお方に上手く取り入って、生き肝を食べようなどとお考えでは、」
「んなわけあるかい」


ぬらりひょんが眉を顰めて即座に切り捨てる。その返答に、珱姫はほっと息をついた。
嘘をつかれている可能性もなくはない。けれど、あまりにばっさりとした答えだったから、その可能性は薄いだろうと踏んだのだ。


「まあ巷にゃ、そんな奴らもいるにはいるがな。ワシは生き肝信仰の妖怪じゃねえよ」
「……そう、なのですか」
「おう。知らんのも無理はねえが、何も全部が全部生き肝信仰ってわけじゃねえ。ワシみたいなのもいるのさ、京では少ねえかもしれんがな」
「はあ……」


こっくりと頷く。よかった、と思った。
もし何も知らずにあれこれ教えていて、その裏で人の命が奪われているとでもなったら大変だ。
あくまで女性を振り向かせる方法を知りたいだけらしいその妖怪に、珱姫はそれならと頭を回した。


「そうですね……。では伝え聞いた話にはなりますが、いくつか女性が喜ぶ方法をお教え致します」
「ああ、頼んだ」
「女性が喜ぶ、と言えばやはり、贈り物ではないでしょうか。世の男性が女性を振り向かせる、喜ばせるのに使われている、最も一般的な方法かと存じます」
「贈り物か……」


珱姫の元にも、そして他の姫君達の元にも、贈り物をしたという男性の話は聞いたことがある。
残念ながら珱姫自身は受け取ったことがないので、その真相は定かではないが。何度も聞く話ならば信憑性は高いだろうと思ったのだ。


「京の女が喜ぶのは何じゃ?」
「京の女性も、他の場所の女性も、おそらくはそう代わりはないと思います。化粧道具や簪、帯や着物など、身を飾るものを喜ぶのではないでしょうか」
「ふむ」


指を立てて数え上げるように贈り物を挙げていけば、ぬらりひょんは成る程と頷いた。
なら当たりが付けられそうじゃというぬらりひょんに、珱姫は思い当たった懸念事項を述べる。


「……ただその、妖怪向けの店というのは、人間向けの店とは異なった趣向のものを置いているかも知れませんので、そこは確認なさった方がいいかと」
「つーことは、人間向けの店で買った方がいいってことか」
「はい、できれば。後は、そうですね。どの女性にも好みというものがございますから、その方がどんなものを喜ばれるのかについては、予め調べておいて下さい」
「ああ、そうじゃったな」


女は好みに五月蠅い。表面上だけでなく内面まで喜ばせようとなれば尚更だ。
けれどその点については、ぬらりひょんも分かっているようで、確かにと呟いている。
色男と呼んで差し支えない彼だ、恋愛経験の一つや二つあってもなんら不思議ではない。その辺は彼自身の感覚に任せるべきだろうと、珱姫は結論づけた。


「それからもう一つ。……その、これは私の主観が入ってしまうかもしれないのですが」
「構わんぜ。アンタの意見を聞きに来たんじゃからな」
「では……、妖様の興味のある女性がどの立場かにもよるのですが、普段あまり行けない場所、見られない光景などを見せて差し上げると、喜ぶかも知れません」


それは、珱姫にとって紛れもない本心であり、かつ彼女が心の奥底で一番望んでいることだった。
珱姫は家から出られない。父親や陰陽師達に迷惑を掛けてしまうからだ。
彼女がもし妖怪に襲われて命を落とせば、彼等にとってどれほどの影響があるか、考えるまでもない。
自由に出かけるとなると、今の京では陰陽師の護衛も不可欠だ。けれどそうまでして出かけたいとは、珱姫は考えない。
心優しい姫君は、自身の行動で他者が苦労するのを嫌うから。だから心の中で、こっそり思うだけに止めておくのだ。


「……行けない場所、か」
「はい。……是非、連れて行ってくださいませ」


まるで願うように、珱姫はそう呟いた。
もし彼の思い人が、自分と同じように囲われた立場だったらと、そう思いを馳せて。


「……分かったよ。ありがとな、珱姫」
「いえ。……お役に立てることを、願っております。妖様」


すっくと立ち上がって笑うぬらりひょんに、珱姫はそう美しい笑みを返した。
京一の美姫と謳われる、美しい微笑みを。


「じゃ、そろそろ帰るとするか。あんまり長居すると、アンタのとこの陰陽師達がやってきそうじゃしのう」
「え、」
「ん?」
「い、いえ。……そうですね。気を付けてお帰り下さいませ」


ぬらりひょんの言葉に、珱姫は胸に寂しさが過ぎったのを感じた。
久し振りの来客。しかも自分と話すことを目的に。
ずっと家の中に閉じ込められている自分にとって、それがどれほど嬉しいことか。
父親を恨む気は決してないけれど、でも。……もう少しだけ、楽しい時間を続けたかったと。
そう思う気持ちに蓋をして、珱姫はにっこりと微笑んだ。

……けれど、


「……お、そうじゃ」
「はい? どうかされましたか?」
「アンタにも礼をせねばな。近いうち、ワシの仲間のとこに連れてってやるよ」
「…………はい?」
「『ここは息が詰まる』んだろ? なあに、ワシに取っちゃ簡単なことさ、任せとけ」


それは、ぬらりひょんが現れるその直前に、珱姫が呟いていた言葉。
聞かれていたのかと、珱姫は咄嗟に口を押さえる。けれど今となっては何の意味もなく。
「じゃあな」と消えるように去って行ったぬらりひょんの姿を確認した後、珱姫はゆっくりと息をついた。

自分にはまだ妖怪の相手は難しいと苦笑して。

そして、彼の思い人が、彼に振り向いてくれることを願って。




『ねえ、珱姫。いつか、絶対にまた会いましょうね』

『それから……秀元様、是光様。今まで、本当にお世話になりました。御達者で』


その言葉を残し、妖怪の船の中に乗り込んだ珀姫は、そのまま東の空へと消えていった。
船の姿が見えなくなるまで、否、見えなくなった後も、名残惜しげに東の方を見つめる珱姫に従って、秀元と是光も少しの間その場に残っていたのだが。


「それじゃあ珱姫ちゃん、もうそろそろ行くでー」
「……はい……」
「申し訳ない。気持ちは分かるが、まだ今の京は安全ではないのです」
「あ……いえ、そうですよね。分かりました」


流石に姫君をいつまでも外に置いておくわけにはいかないと、彼等は珱姫に声を掛けた。
春も近付いたとは言えまだ夜は冷えるし、妖怪が襲ってこないとも限らないからだ。
例え京の中で最も安全な、花開院家当主の側にいるとしても。やはり花開院家に戻った方が、幾分かは安心できるのである。
奴良組も去ったことだし、近いうちに螺旋の結界を作る作業は大詰めに入るから、もう少しすれば話はまた変わってくるのだが。

三人は、秀元の操る牛車型の式神へと歩を進めた。
まだ未婚の乙女である珱姫に配慮して、いつもの物より大きい作りになっているそれに乗ずる。
中は広々としていて、珱姫は中々経験することのないその牛車に楽しそうな声を上げた。


「わ、素敵ですね……! 牛車というのは、みなこのような作りなのですか?」
「んー、これは式神やから、多少簡略化されとるよ。本物はもうちょい豪華になっとるんやけど、まあそこまで再現しとく必要もないやろってことでな」
「そうなのですね。でもとても精巧で、式神とは思えないくらい綺麗……」
「秀元の式神ですから。式神というのも陰陽師の力に左右される物です。他の、力のない陰陽師がしたところでこうはなりません」
「流石秀元様。花開院当主の成せる技なのですね」
「いやあそれほどでもー」


照れるわぁ、と秀元は全く顔色を変えずにけらけら笑う。
その様子にもとうに慣れたのか、珱姫は小さく微笑んでから、近くにあった窓から外の様子を見始めた。
式神の牛車は通常のそれとは異なり、浮遊して移動する。けれどこの時代、そんな移動形式の乗り物など他にはない。まして外に出ることの少ない珱姫ならば尚更だ。
中々見られない風景に小さく歓声を上げてはしゃぐ珱姫を微笑ましそうに見た後、是光は誰に言うでもなく呟いた。


「……行ってしまったな」
「珀姫ちゃんのこと?」
「ああ」


それに反応した秀元をちらりと一瞥し、是光は再び前へと向き直る。


「あの子は、俺かお前か、はたまた他の陰陽師か。いずれにせよ、花開院の人間と結婚するものだと思っていた」
「まあ、あれくらい力のあるお姫さんやったら、普通はそうやねえ」
「もし違ったとしても、何処かの名家に嫁ぐものだと。……そう、思っていたのだが」


その声は哀愁漂っていて、何処か物寂しい。
娘を嫁にやった父親の声にも似たそれを、秀元は珍しく茶化さない。
彼も何か思うところがあるのだろうかと是光は察して、そのまま話を続けた。


「まさか妖怪に嫁ぎ、江戸に行くとは。夢にも思わなかった」
「あはは、そらそうや。蘆屋の頃から考えても、妖怪んとこに嫁に行った姫さんなんてほぼおらへんしなあ」
「やはり反対するべきだったのだろうか。妖怪なんぞに嫁いで、珀姫は本当に幸せになれるのか……?」
「兄さん、その話もう十回は聞いたで? ええかげんにしいや。後悔せえへんって珀姫ちゃんも言っとったやろ」


呆れた秀元の声を聞き流しながらふと見れば、いつの間にか珱姫は窓辺にもたれ掛かって寝ていた。
普段であればとうに床に着いている時間だ。おまけに今日は遠出をしたし、疲れがあっても無理はない。
牛車の中は外よりもいくらか暖かく、短時間であれば寝るのも問題は無いだろう。
着いたら起こせば良いかと、是光は珱姫から視線を戻した。


「だが秀元、お前が反対しなかったのは正直意外だったぞ」
「そう? でも僕、兄さんよりはぬらちゃんと仲ええよ?」
「それはそうだが、珀姫が外に……妖怪の所に嫁に行くと言うことは、陰陽術の流出の面から考えても危険が高いだろう」
「ああ、珀姫ちゃん昔はよう稽古してはったしねえ。でも今のあの子には、それほど陰陽術は備わっとらんよ。前当主様に禁止されとったからねえ」
「……? ならお前は、その事で反対していたのではないのか?」
「反対? 僕なんか反対しとったっけ?」


こて、と秀元が首を傾げる。
だがその様は、本当に疑問に思っているのか、それともはぐらかしているだけなのか、一見しただけでは判断出来ない。
そのため是光はいつものように、疑問に思っていた場合の答えを返した。


「珀姫に来ていた縁談のことだ。全国から来ていただろう、天下一の美姫、などという名前が付いてからは特に」
「……あー」
「だがお前は、どんなに立派な家の申し出だろうが、珀姫にその話を持ちかけることなどなかったじゃないか。自分のところで断ってばかりで」


そのせいであの子は、自分がどれほど魅力が――価値がある人間なのか気付かないまま、嫁に行ってしまったと。
そう、愚痴のようにも聞こえる声色で是光は言った。
責められているようにすら受け取れるその声を、けれど秀元が意に介することはなく。
肩を竦めてやり過ごすと、そのまま窓辺に頬杖をついて言った。


「あれはなあ……何て言うか、仕方なかったんよ」
「仕方がない? どういう事だ、何か理由があったのか?」
「んー……」


珍しく歯切れの悪い秀元を、是光は不審そうな顔で見つめる。
秀元が煙に巻こうとしているわけでもなしに、こう言った言い方をすることは珍しいからだ。
基本的には頭も悪くない男だし、何より花開院当主である。そういった立場故か、うやむやにする物言いはあまり好まれないのだ。秀元自身がどうしたいかは別として。


「これ、他言無用でお願いしたいんやけど」
「任せろ。口は堅い方だ。……で、何だ?」
「珀姫ちゃんを他所に嫁がせるのを禁止したんは、僕やのうて前当主様なんや」
「……は!?」


思わず大きな声で言ってしまって、慌てて口を塞ぐ。
恐る恐る目を向けた先の珱姫は、相も変わらず寝こけていて、是光はほっと肩を下ろした。


「もー、兄さん声大きすぎ。他言無用やって言ったばかりやのに」
「す、すまん。つい……。……だが、それはどういう事だ? 前当主様が当主をなさっていた頃は、まだ珀姫は何処かに嫁ぐような年齢ではなかったはずだろう?」
「そやねえ。でも、珀姫ちゃんが本家に来てちょっと経った頃から決めてはったらしいで」
「本家に来た時……ってまだ凄く小さかった頃じゃないか……!」


過保護にも程がある。情報漏洩防止目的なら更に酷い。そんな小さな頃から警戒していたなんて。
他の花開院の姫君は、少なくともここ十数年の間は珀姫ほど力のある者はいない。
それでも多少なりとも陰陽術が使える者達ばかりだというのに、彼女達は普通に他の家に奉公に出たり嫁いだりしていた。にも関わらず。


「そんなに珀姫は重要視されていたのか? 確かに力は強いが……」
「うーん、それはちょっと違ってな。珀姫ちゃんが制限かけられとった理由は、霊力の方やなくて神通力の方なんや」
「神通力……?」


いよいよ話が分からなくなってきたと、是光は腕組みしながら眉を顰める。
神通力を他所にやりたくないというのは、まあ分からないでもない。あれは正に神のごとき力だ。珱姫の親がそうだったように、内で囲んで利用しようという考えを持つ人間がいるのは理解できる。
だが前当主はそんな利己的な人間ではなかった、はずだ。当主と言うだけあって考えの読めない人だったが、少なくとも悪人ではなかったはずだと是光は記憶している。
じゃあ一体何のために、制限が掛けられていたのだろうか。


「それは、どういう……?」


その時、がたんと小さな揺れと共に牛車が止まった。
外を見ると、そこは花開院本家の前であった。話をしている間に、本家の前まで来ていたらしい。
だがまだ話は終わっていない。珱姫を起こそうとする秀元に、是光は待ったをかける。


「秀元、最後まで言え。神通力と珀姫の結婚の制限、どういう繋がりがあるんだ?」
「えー……あんまり言うと前当主様に怒られそうなんやけどなあ。一応これ、当主にしか伝えられとらんことなんよ?」
「なら話せる部分だけでいい。珀姫は俺にとっても大事な妹だ、知る権利はあるだろう」
「……じゃあ、これだけな」


一つ指を立て、秀元は口角を上げる。
聞き漏らすまいと真剣な顔で耳を傾けた是光に、秀元は何処か楽しげに告げた。


「珀姫ちゃんの制限は、あの子を守るためにあったんや。僕がぬらちゃんとの結婚を許可したんも、ぬらちゃんなら珀姫ちゃんを守れるやろって思ってのことやねんで」
「守る……?」
「ほらほら、珱姫ちゃん。起きてえな、着いたでー」
「! ま、待て秀元、まだ話は……」
「……これ以上は秘密や。どうしても知りたかったら、花開院の書物を読みあさってみ。そしたら何か分かるかも知れへんで」


に、と秀元はいつもの飄々とした顔で笑った。
こうなればもうどれだけ問い詰めたところで無駄なことを、是光は今までの経験からとうに知っている。
声を掛けられた珱姫も起きはじめてしまったし、この話はもう当分する機会がないだろう。
だが一つだけ分かったこと、それはこの何を考えているか分からない当主があの子を嫁にやったのは、ただ彼女の幸せを願ってのことだけではないかもしれないということだ。
そうなると、珀姫の幸せを心から願う是光としては、やはり知れる限りのことは知っておきたいと思うわけで。
取り敢えず花開院秘録から手をつけようと、最後に見せた珀姫の笑顔を想いながら考えるのだった。



「珀姫ちゃん、はいこれ」
「あら、なあに?」


大阪城での一幕が終わり、傷も大分回復した頃。
唐突に私の部屋にやってきた秀元は、懐から何かを取り出して私に差しだした。


「! これって……」
「これ、珀姫ちゃんのやろ? 込められとる陽の気が、いかにもって感じやもん」
「そうよ、ありがとう。……秀元が持っていたのね」


受け取ったのは、小さな白い紙。
長方形で、中央に印が描かれたそれは、かつて私が作った、手を触れずとも操れる式神だった。
私が大阪城に連れて行かれる時に唯一残せた、伝言の手段。
きっと後で珱姫の屋敷に来るであろう花開院の人間に伝われば、と。それだけを思って落とした、紙だった。


「面白いなあ、それ。触らんでも操れるん、ある意味強いやん。ま、伝言しか残せんのは残念やけど」
「そうなのよね……。ぬらりひょんに対抗しようとして作ったのよ、意味なかったけれど」
「どうやって作ったん? 式神作りの本にそんなん載っとったっけ?」
「いえ、自己流よ」
「……ふうん」


式神作りはいくつか手順があるけれど、これはあくまで自己流のやり方で作ったものだ。触らないで操れる、なんてそんな都合のいいものは文献にはなかったから。
そのせいで発揮できる能力は今ひとつだし、誰か明確に宛先を作って伝言を託すことも出来ないし。
自分で何かを生み出すというのはとことん難しい、と私は苦笑いを零した。


「あの時な、兄さんが珱姫ちゃんの屋敷に行ったんよ。そんでこれ拾うて、めちゃくちゃ真っ青んなって僕んとこ駆け込んできてん」
「是光兄様が? それは……ご心配をおかけしたことでしょうね」
「もうえらかったで。まあ花開院の陰陽師殺されまくっとるとこに落ちとったんが珀姫ちゃんの式神、なんておっそろしいやろなあ。兄さん、珀姫ちゃんの事大事にしとるし」
「ええ、それはもう十分感じているわ。後でお礼を言っておかないとね」


式神を袂に戻しながら、私は兄様の顔を思い浮かべた。
兄様は普段は冷静だけれど、感情の起伏が激しいところがある。しかも懐に入れた人間には甘いから、私のことをそれはもう心配してくれたのだろう。
謝罪の言葉もいるし、なんなら怒られる準備くらいしておかなければならないかもしれない。と思ったところで、秀元が「珀姫ちゃん」と名を呼んだ。


「なあに?」
「珀姫ちゃんって、破軍は使えたんやっけ?」
「破軍? いえ、そんなまさか。私に使えるわけがないじゃない」
「ふーん」


破軍は花開院陰陽術の中でも群を抜いて難しい術だ。使えるのは今の花開院家だと、前当主様と秀元だけ。
過去の当主を呼び出す、なんてある意味黄泉がえりの術。そんなものひょいひょい使えてしまえば、彼岸と此岸の兼ね合いが取れなくなってしまう。


「教えてもらったこともないしね。秀元だって前当主様から直々に教わったのでしょう?」
「うん。僕と兄様と、あと何人か。そういやあの場に珀姫ちゃんおらへんかったなあ」
「あの前当主様が、私なんかに破軍の使い方を教えると思う?」
「……ま、無理やろな」


前当主様は線引きをきっちりなさる方だった。秀元や是光兄様を含め、花開院当主になりそうな見込みのある子どもに教えていたのだろう。
門外不出の技だから、そう簡単に教えてしまうわけにもいかないし。
ましてや私は女だし、陰陽師にはなれないと言われていたし。教えられていた方が驚きである。


「……教えたろか、使い方」
「は!? な、何言ってるの貴方」
「いやほら、珀姫ちゃん危ない方にほいほい行くくせあるやん。炎に集まる虫みたいに」
「例えが最悪なんだけれど」
「せやからちょっとくらい教えといたほうがええかなって思て」
「ちょっとくらいって……」


破軍をそんな言い方するの、秀元くらいだ。思わず溜息をついて、私は秀元を見る目を眇めた。
そりゃあ昔の私なら、喜んで教わっただろう。陰陽術に関わることを勉強するのが嬉しくてたまらない時期もあったから。
それでも今となっては昔の事。そもそも妖怪に嫁に行くというのに、そんな技教えていいわけがないのではなかろうか。


「そもそもそんな、ちょっと教えられただけで出来るものなの、それって?」
「兄さんは28年修行したけどできへんかったなー」
「じゃあ無理に決まってるじゃない」
「いや分からへんよ、案外珀姫ちゃんにおっそろしい才能が眠ってはるかも」
「私に才能があったら、前当主様が見いだしてらっしゃるわ」


けらけらと笑う秀元は、全くもって冗談を使いこなして生きているらしい。
破軍は秀元並みの才能があって初めて使いこなせる。勿論彼だって努力をしているし、私が一朝一夕練習したところで身につくはずもない。


「ま、やり方だけ教えといたるわ。こう、手をかざしてむむむっと力を込めるんや」
「説明が雑!」
「ほんで心を静めて、力を強くしたいと願えば――あら驚き、歴代の当主の登場や」
「簡単に言ってくれるけどねえ……」


言っていることは分からないでもない。破軍だって陰陽術の一貫だ、使い方は他の術と通じるところもある。
とはいえ練習を死ぬほどこなさなければならないし、それには相応の霊力がいる。
私は霊力が多い方だけれど、でも破軍を出す前に切れてしまうだろうことは想像に難くない。


「……ま、何かあったらいつでも連絡しいな、珀姫ちゃん。そや、破軍の使い方載っとる花開院秘録あげよか」
「貴方はいい加減門外不出って言葉を覚えなさい!」
「あはは、冗談やーん。堅いわ〜珀姫ちゃん」
「是光兄様が聞いたら激怒なさるわよ」


最後の手段として兄様の名前を出してみても、秀元はどこ吹く風である。
大体この先、私が破軍を使う必要がある場面が出てくるかすら分からない。
そしてその時は、恐らく来ないであろうと予測できる。

私ですら分かるのだから、秀元が分からないはずもないのに。
なのにどうしてこの時秀元が強く勧めてきていたのか、この時の私は分からないままだった。




月が雲から顔を出し、煌々とした灯りが周囲を照らす、そんな夜。
私は布団の上で、かちこちになったまま正座していた。
目の前にはぬらりひょん。灯籠の明かりのせいか、夜という妖怪にとっての生きやすい時間のせいか、今日の彼はやけに色気がある。男の人に使う言葉かは知らないが。


「……珀」
「っ! ……は、い」
「……くく、ガチガチじゃな」
「し、仕方ないでしょ……! 経験、ないんだもの……」


婚儀を挙げてから始めての夜。つまり初夜。
そんな夜に、夫婦となった者達が何をするのか。それくらいは、母から教えられて知っていた。
そう、知ってはいるのだ。ただ、経験が微塵もないだけで。

私が纏うのは先程送られたばかりの小袖。それから藤の花を模した簪に、唇には小町紅の色。
どうぞご自由に、好きにして下さいと言わんばかりの格好。ご自由にとまでは言わないけれど、でも大体そう言う意図で着たものだ。
……だけど、時間が経つにつれて冷静になってくる。もしかして、私は今、凄くはしたない格好をしているのではないだろうか。


「……ぬらりひょん」
「ん?」
「……その、……やっぱり私、これ……脱ごうかしら」
「は? なんでまた」
「だ、だって……! なんだか、……誘ってるみたいで、恥ずかしい……」


女側から褥に誘うなど、由緒正しい花開院の人間のやるべき事ではない。
昔母様から言われた言葉が脳内で反芻する。いや、私はもう花開院じゃないけれど。
……ない、けれど。
やはり淑女として、ありえない試みなのでは。


「言ったじゃろ。着物を送るのはそれを脱がせたいからじゃ」
「ぬっ……!」
「だからアンタが脱ぎたいというならワシが脱がせてやろう。ほれ、来い珀姫」
「ま、待って……まだ駄目……」
「……」


腕を開かれ、ぬらりひょんの方は準備万端らしいが。
生憎と、私は未経験である。
女に貞節を求めるこの時代、結婚するまで未経験なのは大した問題ではない。
……ないのだが。


「……経験がないの」
「おう、さっきも聞いたぞ」
「……知識も、ろくにないの」
「まあ女子はそんなもんじゃろ」
「……満足、させられるかどうか、分からないの……」
「……満足、ねえ」


初めては痛いと聞く。それは仕方ないこと。
でも痛いと訴えて、相手方が気分を害したら。
黙って耐える? ……耐えられるだけの痛みなのか?
分からない。こういうときの正解が分からない。ああもう、もっと母様に聞いておくんだった。淑女としてのたしなみを。

思わず額を押さえる私を他所に、ぬらりひょんはさも面白いことを思いついたと言いたげに口角を上げた。


「珀姫」
「……なあに」
「満足ってのはな、男が女にさせるもんじゃ」
「……?」
「つまり、」
「きゃっ!」


ぐい、と手を強い力で引かれる。
痛くはない。でも咄嗟のことで踏ん張りが利かなくて、私は引っ張られるままに、ぬらりひょんの胸元へと体を落とした。
途端、ふわりと香る煙管の匂い。ぬらりひょんの、いつもの香り。
普段なら落ち着くはずのそれに、やけに距離の近さを感じてしまって、私は顔が熱くなるのを感じた。


「ぬ、ぬら……!」
「珀姫。アンタは全部、ワシに任せりゃええ」
「ま、任せるって……」
「力を抜いて。ワシのやることに抵抗せず、身を任せりゃええと言っておるんじゃ」
「ち、力を……」


力を、抜く。このガチガチの体から。
……どうするんだっけ。普段どうしているんだっけ。
考えようとするのに、ぬらりひょんとの距離の近さで頭が全く回らない。
えっと、力を抜くには、ええと……え? どうするんだっけ。


「え、えと……」
「……ちと難しいか。ならば、」
「んっ……!」


唐突に唇がふさがれる感覚に、私は思わず目を見開いた。
咄嗟に身を引こうとするけれど、彼はそれを読んでいたようで、後頭部と背中に手が回されて叶わない。
抵抗しようとしてぬらりひょんの胸に手をついたけれど、力を入れようとする前に、ぬらりひょんがぺろりと私の唇を舐めた。


「っん! ん、う……っ」
「は、っ……珀、口開けろ」
「ふ、あ……」


くち。あける?
口吸いの合間に落とされた指令に、混乱しながらも答えようと、唇を薄く開く。
途端、口の中にぬるりとした熱いもの。……ぬらりひょんの舌だ。
びくっと肩が揺れて、目を瞑ってしまう。けれど、彼は全くそれを気にした様子もなく、口内を好き勝手に蹂躙し始めた。


「ん、や……ぁ、ふ……むうっ……」
「……っ、ふ……は……」
「ちゅ、んんっ……や、ぬら……は、んっ……」


頭がぼうっとする。上顎を舐められて、何だが背筋がくすぐったい。
だけど熱に浮かされているようなこの感覚は、嫌いじゃない。
抵抗するために出していた手が、いつの間にか縋るようにぬらりひょんの着物を掴んでいた。


「……っは……はは、とけた顔じゃな」
「……ん……?」
「力が抜けた。そのままいろよ、珀姫」


思考が回らない。ふわふわする。お酒を飲んだ時みたいだ。
もっとして欲しい。どうして離してしまったの。
そこまで考えて、はっと我に返った。
わ、私、今……何を考えて……!


「〜〜っ!!」
「ん? どうした?」
「な、なんでもない……!」


顔が熱い。女子として有り得ない思考をしてしまった気がする。
ああどうしよう、こんなの……呆れられてしまう。はしたないって、思われる。
……なのに。

そっと、唇に触れてみた。
先程まで感じていた熱はない。当たり前だ。
でも、それがやけに寂しく感じる。


「……」


こんなこと、皆やっているのだろうか。
恥ずかしくて、はしたなくて……なのに、ふわふわする。
……これが普通なの? 経験がないから分からない。
変な事、してないだろうか。


「……あのなあ、珀姫」
「!」
「そんな顔されたら、ワシの方が持たねえんだが」
「そ、そんな顔って何……?」
「……そうさな。ワシのことが欲しいって顔じゃ」
「な、そんなこと思ってないわ……!」
「出た、嘘吐き」
「嘘じゃない!」


嘘じゃない、そんなこと思ってない。
……思ってない、はずだ。


「ふーん……まあええさ。続けるぞ」
「続ける、って……っひ!?」


べろ、と突然耳に変な感触が走る。思わずぎゅっと両の拳を握ってしまい、びくんと揺れた身体にぬらりひょんが手を回した。
ま、まさかこの人、今……!


「な、なんで耳、なめ……んっ!」
「はは、感度がいいな」
「わ、笑わないで、んうっ……!」


そんなとこ舐めたって、楽しくも何ともないだろうに。
なのにぬらりひょんは楽しげに言いながら、片方を舐め、もう片方をいじってくる。
普通なら、何も感じないはずの場所、なのに。


「や、ひっ……ん、んっ……」


なんだろう、くすぐったい……? わからない、わからないけど、なんだか。
背筋がぞわぞわする。なんだっけ、この感覚。
確か、そう。ぬらりひょんに初めて会った時。耳元で囁かれた時と、同じ感覚。


「や、ぬらりひょん……っ」
「んー?」
「なめないで、さわらないでっ……!」
「無茶を言う」


無茶じゃない!
背筋の下から上まで痺れが走って、抱きしめられてなかったらすぐにでも倒れてしまいそう。
でもそれが、嫌じゃないから困るのだ。
必死にぬらりひょんを遠ざけようとするのに、叶わないから。


「じゃあこっちか?」
「へ、ひゃっ!」


つ、と舌が伝っていったのは、私の首筋。
思わず顔を背けるけれど、そんなの何の意味も成さない。
じう、なんて吸われる小さな音と、微かな痛み。んっ、と声を上げてしまうも、今何をされたのかまでは分からない。


「な、何を……」
「んー? そうじゃな、ワシのものっていう印……かの」
「しるし……?」
「まあ、明日の朝、鏡を見てみたらええ」


印って、何。
そう、聞きたかったのに。
ぬらりひょんの無骨な手は、私の背に回ると、しゅるりといとも簡単に帯を解いてしまった。


「っ! や、駄目……!」
「駄目ってこたあねえだろう?」
「だ、だって……脱げちゃう……」
「そのために解いたのさ」
「馬鹿……!」


押し問答する間も、ぬらりひょんの手は止まらない。
帯を解いて、腰から外して。それから彼は、さも当然のように、着物の合わせ目に手を入れた。


「ひ……!」
「……触るぞ」
「さ、触りながら言わないで……っ!」


顔がずっと熱い。こんな、こんなことを私が誘っていたの? 嘘でしょう?
あまりにも恥ずかしい。裸なんて、好きな人の前で見せるものじゃない。
別に傷とか、隠したいものがあるわけじゃないけれど。……いや裸は隠したいけれど!

襦袢一枚になった私を、ぬらりひょんは獣のような目つきで見つめると、静かに肩を押してきた。


「え、え……!」
「はは……良い眺めじゃな」
「な……っ」


抵抗も碌に出来ずに押し倒される。ぬらりひょんの影が、私の体に重なった。
そして彼は、ついに、私のたった一枚残った砦さえ、解いてしまうのだ。
襦袢の合わせ目に手を入れて、それから胸元へと、手を伸ばして。


「んっ……!」
「珀姫、力を抜け」
「で、できない……!」
「産じゃのう」


私が産なんじゃなくて、貴方が慣れすぎているのだ。
そう言いたいのに、胸元をゆるゆると動く手に、言葉も碌に発せられなくて。
無遠慮に、けれど宝物を触るような手付きで、彼はやわやわと胸を揉んだ。


「……ふ。柔らかいな」
「……っ、んぅ……」
「気持ちいいか?」
「わ、分からない……」
「ふむ……まあそりゃそうか、初めてじゃしな」


その言葉に、ツキンと胸が痛んだ。
はじめて。そう、初めてなのだ。
でも、ぬらりひょんはそうじゃない。
私は初めて男の人に胸を触られて、いっぱいいっぱいなのに。ぬらりひょんは慣れた手付きで弄っている。
……慣れて、るんだろうな。


「あっ!?」
「痛いか?」
「いっ、たくない、けど……っ、あっ……!」
「すぐに好くなる」


ぴり、と電流のような刺激。反射的に目を向ければ、ぬらりひょんの手が、私の胸の先端を摘んでいた。
ゆるゆると動かされる片手と、きゅ、と強弱を付けて弄られる胸の頂。
風呂なんかで自分で触ったって何ともないのに、ぬらりひょんに触られるだけで、なんだか、なんだか……。


「や、やあっ……!」
「嫌か?」
「触らないで……っ」
「何故」
「は、はずかしい……」
「ならいいじゃろ」
「よくない……!」


泣きそうだ。こんなことで泣いてしまうなんて情けない、と思うのに。
頂を弄られただけで、背筋に刺激が走って。なのにぬらりひょんは、いつものように飄々としたままで。
視界が、じんわりとぼやけた。


「っう……」
「ん? っ!? な、どうした珀姫!?」
「ど、どうもしてない……っ」
「何じゃ、痛かったか? 嫌だったか? 謝るから泣かんでくれ……」


ぼろぼろと零れる涙。泣くなんて卑怯だと思うのに、涙は止まってくれない。
必死で拭うけれど、その手をぬらりひょんに止められて。
不明瞭な視界で見たぬらりひょんは、焦ったような顔をしていた。


「……だって」
「うん?」
「私、……いっぱいいっぱいなのに。余裕ないのに……」
「うん」
「貴方は……何だか、慣れてるから……」
「慣れて……? そうか?」
「そ、そうよ……。皆言ってたもの、総大将は遊び人だって」
「は!? い、いやそれは昔の話で……今はアンタ一筋じゃぞ!?」
「……」


やっぱりそうなんだ、とじとりとした目で見上げれば、ぬらりひょんは気まずそうに頬を掻いた。
昔の事にあれこれ言うのは良くない。分かってる。
でも、と思ってしまうのだ。これほど見目のいい男の人に経験がないなどありえないと、分かっていながら。
昔の人と比べられて、飽きられたらどうしよう、なんて。
怖いのだ。涙はいくら拭っても、後から後から湧き出てきて。
襦袢の前を広げた格好で泣くなんてなんだか無理矢理されているみたいだ。そんなこと、ないのに。


「……ごめんなさい」
「アンタが謝ることじゃねえだろ。……気にしてたのか?」
「……だって。……私、……貴方の過去の人より、魅力があるなんて思えない」
「は?」
「……貴方は、いい人だから、そんなことないって言ってくれるかもしれないけど。でも……」


勝てるとしたら天下一と言われたこの顔だけだ。でも顔なんて、男の人にとっては些細な問題だろう。
こういうのは結局相性だとも聞くし。
そう思いながらすんと鼻を啜れば、ぬらりひょんは呆れた様に息を吐いて、言った。


「あのなあ……。散々伝えたじゃろ、アンタがどれだけ魅力的か」
「でも……」
「大体アンタ以上の女がいたらとっくに夫婦になっとるぞ。アンタ以上はいないと思ったから結婚したんじゃ」
「そ……それは、……でも、そんなことないじゃない」
「そんなことある。……珀姫」


す、と頬に手が当てられる。自然とぬらりひょんの方を向くと、彼は優しい目をしていた。
温かい目。妖怪なのに、ちっとも怖くない。私を安心させる目だ。


「泣かんでくれ。アンタに泣かれると、どうしたらいいかわからん」
「……大袈裟ね」
「大袈裟じゃねえさ。……それに」
「?」
「ワシもあんまり余裕はない」
「え? ……っひゃ!」


ごり、と太股に当てられた、硬い物。何だろうと一瞬疑問に思ったけれど、これは……あれだ。
顔がぶわりと赤くなる。これは、つまり。
ぬらりひょんが、私に対して欲情していると言うことだ。
咄嗟に足を動かして避けようとするけれど、いつの間にか足の両側にぬらりひょんの脚があって動かせない。


「分かったか?」
「わ、わかった、分かったから……!!」


こ、こんなの無理だ。だってこんなの、母様にだって聞いてない!
こんなに恥ずかしいのに、でも、ぬらりひょんの余裕がないという言葉が本当であると言うことが分かって。
……少しだけ、嬉しい。


「それに、恥ずかしがる事ねえじゃろ」
「え、あ……」
「綺麗じゃ。滑らかで傷もねえ、大事にされてきた娘の体じゃな」
「ん……っ」


つ、とぬらりひょんの手が腹をさする。薄くて平たいそこは触ったって楽しくも何ともないだろうに。
傷はない。羽衣狐に付けられた傷は珱姫が綺麗に治してくれたし、それ以前だって怪我をすることはなかった。
その事に対してなんとも思っていなかったけれど。ぬらりひょんの言う通り。……大事に、されてきたのかもしれない。


「……触っていいか?」


どこを? と聞こうとしたのに。
それを聞く前に、ぬらりひょんの手は私の脚に伸びて。
無骨な手がしゅるりと、太股を撫でた。


「あ、」
「……なあ、珀姫」
「っ……! や、聞かないで……」
「ふ……分かった」


そんな恥ずかしいこと、自分の口から言えるわけがない。
拒絶しているわけじゃない。ただ本当に恥ずかしいのだ。
赤い顔を隠すようにそっぽを向けば、ぬらりひょんはくつりと笑って手を伸ばしてきた。


「あっ……!」
「……最初はここの方がええじゃろ」
「や、そこ……っあ、んんっ……」
「声を抑えるな。喉を痛めるぞ」
「そん、っ! ひ、ああっ……!!」


触られたのは秘裂の上の突起。はしたない声なんて聞かせたくなくて、必死で声を抑えようとするのに、痺れるような感覚がそれを許してくれない。
こんなの知らない。どうすれば良いか分からない。
捏ねるように弄るぬらりひょんは酷く楽しげで、こっちは大変なのにと文句を言いたくなる。
だけど口から出るのは嬌声ばかりで、思わず口を両手で塞ぐと、ぬらりひょんはぴくりと眉を動かした。


「おい珀姫」
「ん、んんっ……」
「声」
「い、やっ……!」
「……強情者め」
「んうっ……ん、んんっ……」


ぞわぞわと背筋に走る感覚。分からないけれど、多分これが快感だ。
でも快感って、気持ちいいものじゃないの?
こんなに圧倒的で、逃げたくなるようなものなの?
そんなことを考えていれば、ぴん、と唐突にそこを指で弾かれた。


「ひゃんっ!」
「集中しろ」
「やだ、んっ、あ、ねえ、いや……っ」
「いや?」
「声、で、ちゃう……っ」
「出しゃあいいだろ。ワシしか聞いてねえ」
「それがいやなん、ひゃあ!」


ぐり、と強く押されて、反射的に声が出た。だから嫌って言ったのに。
ぬらりひょんはくつくつと笑っている。さては狙って出させたわね。


「気持ちいいじゃろ?」
「んっ、ぞわぞわ、する……」
「覚えろ。それが、気持ちいいってことじゃ」
「あっ、ひ、っ、や……」
「やじゃねえだろ。こういうときは良いって言うんじゃ」
「良くない……!」
「ったく……」


首を振る私に業を煮やしたのか、ぬらりひょんは弄る手を止めた。
ふ、と息を吐いた、その瞬間。


「ひあああっ!」


べろん、なんて湿ったものがそこを這う感覚に、溜まらず私は声を上げた。


「な、何して、んあっ! ぬ、らあっ……!」
「嘘吐きには仕置きじゃ」
「や、ひんっ、あっ……やめ、んああっ……!」


咄嗟に目をやった先、脚の合間に動く金色はぬらりひょんの頭だ。
信じられない。そんな、そんなとこ。
人に見せたり、まして舐めさせたりするようなところじゃない。


「やだ、ねえっ、ひっや……!」
「だからやじゃなくて」
「ぬら、おねが、あ、あっ……!」


だめ、なにか、なにかがくる。
来ちゃ行けないものがきそうで、必死にやめてと言ったのに。
かり、と擦ったぬらりひょんの歯。その擦るような刺激が、敏感なそこには強すぎて。


「っぁああ!」


背筋を仰け反らせるほどの、強い感覚。
足先から頭まで走った快感に、私はたまらずびくんと体を震わせた。


「……気をやったか?」
「あ……っ、は……」


は、はっと息を吐いていれば、ぬらりひょんの顔が眼前に帰ってきた。
その口元は、濡れていて。それが何で濡れているのかなんて考えなくても分かる。
泣きたくなるほど恥ずかしくて、私は襦袢の袖口でごしごしとそれを拭った。


「い、っ珀、もう少し優しく……」
「し、しんじられない……あんな、〜〜っ!」
「なんじゃ、良かったじゃろ」
「良くないわよ……!」


あんな、あんなの……! 思い出すだけで頭が沸騰しそう。
というかこの人慣れすぎじゃなかろうか。あ、あんなところに口を付けるなんて信じられない。


「でも気をやったじゃろ」
「〜〜っ!!」
「ほれみろ、良かったんじゃねえか」


気をやった。さっきのあの感覚のことだろう。
それは、確かにそうだけれど……! でもだからといって、あんなこと!


「……どすけべ」
「酷い言いぐさじゃな」
「変態。嫌って言ったのに」
「ほーん。体は正直じゃがな」
「ひっ!」


つ、と下半身に妙な感覚。割れ目を指がなぞっているのだ、と気付いたのは一瞬後のこと。
まだ敏感なのが残っているのに、そこを割開くようになぞられれば、私はまたびくりと体を震わせるしかない。


「あ、ぬ、ぬらりひょん……んっ、い……っ!」
「痛いか?」
「す、少し……」
「まあ初めてじゃしな。出来るだけ力を抜け」
「ん……」


快感、というより違和感。自分でだって指を入れたことのないそこに、一本だけとはいえ指が入れられている。
もぞもぞと動く指は生き物のようで、出し入れされる度にぴくぴく体は揺れるけれど、でも気持ちいいというより不思議な感覚。
なんというか、体を暴かれるというのが適切な表現だと納得するというか。


「痛みは?」
「今は……ん、っ……大丈夫」
「じゃあ増やすぞ」
「あ、あっ!」


指が一本、そして二本と増やされる感覚。やだ、逃げたい、助けて。そう思ってぬらりひょんに手を伸ばせば、その手は絡め取るように握られて、そっと布団に押し付けられた。
体の中を動く指は奇妙に、けれど的確に、“そういうところ”を触っていく。


「んあ、や、ああっ、っひん……あっ」
「痛くはないか?」
「い、たくない、けどっ……」


痛いとか、痛くないとか、もうそう言う問題じゃないのだ。
ぞわりぞわりと、また変な感覚が足元から忍び寄ってくる。
声なんて出したくないのに、否が応でも出してしまう。
あ、やだ、だめ、駄目っ……!


「っあ、ああっ……!」
「ん? 気をやったか?」
「じ、実況しないで!」


図星だから余計に恥ずかしいのだ。この人には何百回のうちの一回でも、私にとっては初めての一回だというのに。
いやもう、この際ぬらりひょんの経験値がどうとか、そんなことは考えない。考えるだけで恥ずかしい。
ぜえぜえと息を切らしていれば、太股にぬるりと何かが伝った。


「……? なに……」
「そろそろいいじゃろう? のう、珀姫」
「良いって何が……っひ、」
「わしも良くしてくれ、な」


ほとに当たったのは、たぶん、というかおそらく、というか、十中八九、ぬらりひょんのそれ。
ず、ず、と、少しずつ、けれど着実に中に入ってくる、何だか大きなものの感覚。
苦しい。痛い。そんな思いが顔に出て、思わず顔を顰めてしまえば、ぬらりひょんが心配そうに頬を撫でた。


「大丈夫か? 痛いか?」
「い、った、くない……」
「嘘つけ。顔が痛いと言うとる。とすると……」
「っひあ!」


不意に擦られたのは、穴の上の秘芽。
先程より少しだけ強くて、痛いとか痛くないとか、そんなことを考える余裕がなくなる。


「や、ああっ、ぬら、あっ……」
「ほれ、柔らかくなった」
「んあっ、あ、あああっ……だ、だめ……!」
「珀姫」


布団の上で身悶えしていれば、不意に顔の前に落ちた影。
ふ、と目を開けた先にあったのは、ぬらりひょんの嬉しそうな顔。
仄かに赤らんでいる頬に、欲を映した瞳。その欲の向かう先が自分だと思うと、たちまち恥ずかしくなる。


「入ったぞ」
「へ、あ……」
「苦しいか?」
「す、すこし……」
「そうか。なら少し待つとしよう」


言われてみれば、さっきより圧迫感がある。
あるんだけれど、でも痛みがあまりない。
そういえばぬらりひょんが柔らかくなったと言っていたような……柔らかくなったって何? 何が? 知りたくないんだけれど。
かあ、と顔が赤くなる。羞恥のあまり思わず涙が滲んで、それを隠すように手で覆えば、ぬらりひょんがごくんと息を飲んだ。


「……悪い、少しだけ動かせてくれ」
「え、あ、ああっ……!」
「すまん、っ……珀姫、」
「や、むり、あ、ああ……っ」


流石に痛くて、でもそれ以上にぞわぞわして。ぬらりひょんが言うには、これが「気持ちいい」だという。
こんな、こんな感覚、しらない。誰も教えてくれなかった。
背筋が仰け反って、体の上から下まで痺れが走って。たまらずにぬらりひょんにしがみつくと、彼の動きが余計に激しくなった。


「ひ、やああっ……ぬら、ぬらりひょん、っんああ!」
「っは……珀姫」
「あっ、いや、もっと、ゆっく……り、あ、あっ!」
「悪い、余裕がねえ」


そう言ったぬらりひょんの瞳は、欲に塗れていた。
この人も男の人なのだと、唐突に思い出す。
私に触れる指先の堅さも、腕の力強さも。私はどうしようもなく女で、彼はどうしようもなく男なのだ。


「……はっ、は……はは、可愛いな、珀姫」
「まって、なにか、ああっ、や……っ」
「っく……出る……」
「あ、あ、っ……あああ!」
「……愛してるぞ、珀姫」
「っひ……!」



その言葉が、耳に囁かれた瞬間。
奥で何かが、溢れるような感覚がして。
目も開けていられないような電流が、頭の天辺から爪先まで一気に走って。
けれど、何故か凄く、……すごく、幸せだと思った。







「……きて、ねえ、貴方」
「…………ん、」
「起きて、……もう、ぬらりひょんったら!」
「!」


柔らかい、けれど澄んだよく通る声が、耳を打った。

聞き間違えるはずもない。この声は。


「……珀、姫?」
「やっと起きた。もう朝餉の時間よ、お寝坊さん」
「…………」
「……? どうしたの?」


目の前の存在が信じられず、ぬらりひょんは何度も目をこすった。

さら、と肩から流れる艶やかな黒髪。
健康的だが日にあまり焼けていない白皙の肌。
こちらをまっすぐに捉える、紫水晶のような瞳。

何もかもが整った、誰もを虜にするような女。
人の目を何よりも引きつける、その容姿。


「……珀姫、珀姫か?」
「……? 他に誰だって言うの?」
「いや…………だって、アンタ……」


しんだ、はずじゃ。


「……顔色があまり良くないわ。珍しいわね。悪い夢でも見てたの?」
「……ゆめ、」


夢、か。
そうだ、夢だったのか。

鯉伴の誕生日に倒れたことも、段々と床に伏せる時間が長くなっていったことも、気遣わしげに微笑むあの顔も。


冬の大雨の中、川で溺れて、帰らぬ存在になったことも。


悪い夢だったのだ。


全て。


「……は、はは」
「? どうし、きゃっ!」
「……そう、そうじゃな。夢を見ておったようじゃ」
「ちょっとぬらりひょん、放し……」


ぎゅうっと抱きしめられて抵抗しようとした彼女の声が、ぴた、と止む。
わずかに震える、ぬらりひょんの体に気付いたのだろうか。


「……そんなに、恐い夢を見たの?」
「…………ああ」
「貴方がそこまで怯えるなんて。……大丈夫? どんな夢を見たの?」
「どんな、…………いや、」


言えなかった。
たとえ夢だとしても、最愛の女が死ぬなんてこと、口に出したくも無かった。


「…………」
「……言いたくないなら、無理には聞かないわ。でも、悪い夢は所詮夢よ。大丈夫、現実じゃ無いわ」
「……ああ」


温かくて、柔らかくて。
腕の中のこの存在がいなくなる、そんなのは夢だった。

ああ、よかった。


























「……珀姫、」
「ぬらりひょん様〜! 朝でございますぞ!!」
「…………っ!!」


がば、と跳ね起きた。
腕の中にいた存在が、ない。
どこへ行った。今の今までここにいたのに。

温もりが、消えている。


「……珀、珀姫……?」
「……ぬらりひょん、様?」
「からす、天狗……」
「どうか、なさいましたか」


こちらを見つめる、カラス天狗の瞳。
その声に被さるように聞こえる、激しい雨音。


ああ、そうだ。


「……なんでもねえ。夢を見てただけじゃ」


夢だった、なんて。馬鹿らしい。
アレこそが夢。もう、彼女はこの世のどこにもいない。

それを証明するかのように、ぬらりひょんの部屋に作られた仏壇は、藤の紋様が彫られている。


「……左様でございまするか。顔色があまり良くありませんが、朝餉はどうなさいますか?」
「ああ……食う。雪麗に言っておけ」
「かしこまりました」


カラス天狗が去って行く。それを見送って、ぬらりひょんはぐしゃりと自身の髪を掴んだ。

また、都合の良い夢を見た。
彼女が現れて、優しく起こしてくれて、微笑んでくれる夢。
死んだのは嘘、全部なかったこと。本当は生きているのだと証明してくれるような――


――そんな、残酷すぎる夢だ。


彼女が死んで、もう一年になる。
あの日のように激しい雨の日は、いつもこの夢を見る。
そして起きて、彼女が腕の中にいないことに気付いて初めて、夢だったと悟るのだ。


「……なあ、珀姫」


仏壇に、そっと問いかける。


「アンタを殺したのは、誰なんじゃ?」


何も答えが返ってこないことを知りながら。


「……ワシは、いつかアンタを忘れてしまうんじゃろうか」


それは、ぬらりひょんにとって最も恐ろしい事だった。

声を、香りを、そしていつか姿形まで、全てを忘れてしまうのでは無いか。
否、今現在覚えている彼女の姿すら、忘れた物を脳が適当に作り上げた偽物なのでは無いか。

そうでない証拠がどこにある?

彼女が自分の脳みそからも消えてしまえば、いよいよぬらりひょんは気が狂ってしまうのではないかと。
ずっと、そう思っている。


「……会いたい、なあ」


ぬらりひょん、と呼ぶ声は今も耳の奥に残っている。

つうっと頬を伝った雫が、静かに布団の上に落ちた。
















「ねえ、珀姫」
「なあに?」


それは、羽衣狐の攻撃を受けた私が目覚めた、次の日。

未だ花開院家に残っていた雪麗が、私の部屋でさも自分の居場所のようにくつろいで、どこからか――おそらくは厨から勝手に――持ってきた煎餅を食べながら言った。


「実際のところ、あんたってどれくらい求婚されてたわけ?」
「げほっ!」


げほごほと飲んでいたお茶で咽せる私に、大丈夫〜? なんて思ってもなさそうな声が飛んでくる。
大丈夫じゃない。咳もそうだけど、心が。

な、なん……。


「なんてこと聞くの……!」
「え? 別にいいじゃない」
「よくないわよ……」
「だって噂だと、あの珱姫はかなりの数の婚姻の申し込みを受けてたんでしょ?」
「詳しくは知らないけど……まあ、そうでしょうね」
「だったら!」


びし、と眼前に人差し指を突きつけられ、私は思わず口をつぐむ。


「あの京一の美姫がそんなにすごいんだったら、天下一の美姫のあんたはどのくらいすごいのか、興味がわくのも当然でしょ!?」
「え、いや……うーん……」
「ほぉ……?」
「きゃっ!」
「うわっ!」
「面白ぇ話をしておるのう?」


耳元で声がして思わず飛び退けば、そこにいたのはぬらりひょんだった。
……笑っているけれど、笑顔なんだけど、なんか……なんか、笑って、ない?
というか、怒ってる?


「ワシも聞きてぇなあ。教えてくれねえか、珀姫」
「なんで貴方達、そんなことに興味あるのよ……」
「いいじゃねえか。なあ?」
「そうよ」


……おかしいな。この二人、そんなに恋愛話好きだったかしら。
妙な圧力をかけてくるぬらりひょんに、逃げ道はないと早々に悟る。
私ははぁ、と溜息をついて言った。


「ないわよ、そんなもの」
「……は?」
「……ひとりも?」
「そうよ、一人も」


こく、とお茶を飲む。……視線が痛い。


「嘘つくんじゃないわよ。流石に妾でもあり得ないって分かるわ」
「珀姫。無駄な隠し事はするんじゃねぇ」
「嘘じゃないわ、本当のことよ。……悪い?」
「はあ……?」


雪麗があんぐりと口を開ける。ぬらりひょんの眼光もなぜか鋭い。
ことりと湯飲みを机において、私は開けっ放しの雪麗の口をそっと閉じた。


「天下一の美姫に、求婚が、ない……? ひとつも……? どういうこと、それ?」
「知らないわよ……」
「……珀姫、本当か?」
「本当だって言ってるでしょ」


なんでこんなにも疑り深いんだか。
まあ、でも。


「噂なんて所詮尾ひれがつくものよ。珱姫は噂に違わぬ美しさだったから縁談もたくさん来たんでしょうけど、私は期待はずれだったんでしょうね」
「んなわけあるかい」
「そんなわけないでしょ」
「貴方達……」


ぬらりひょんと雪麗が同時に否定する。
そんなわけあるから言ってるのに。


「ともかく、そういうことよ。期待に添えなくてごめんなさいね」
「あ、ちょっと珀姫!」
「湯飲み、片付けてくるわ」


私は早々にその場を後にする。
なんだか面倒な気配がするこの話題を、これ以上引き延ばしたくなかったのだ。















「……ねえ、どう思う。さっきの話」
「……珀姫は嘘つきなところもあるが……あれは嘘を言ってる顔じゃねえな」
「じゃあホントにあの子に縁談がなかったって言うの? 馬鹿言わないでよ」
「……うーん……」
「教えたろか?」
「うわ!」
「なんじゃ、秀元。何か用か?」
「用っていうか、ここ僕ん家やねんけどな」


珀姫が去った後。
ぶつぶつと話していた二人の後ろからひょこっと顔を出したのは、花開院家当主の秀元だった。
雪麗がぬらりひょんを盾にするように、顔をしかめながら下がる。
珀姫はもういいとして、花開院当主はやはり妖怪としては警戒するのだ。


「来とったで、縁談。この京や、国だけやなくて、海の向こうからも。そらもう熱烈なんがぎょうさん」
「やっぱり!」
「……じゃあ珀姫は嘘を?」
「いや、珀姫ちゃんは嘘なんかついてへんで」
「……どういう意味よ」


雪麗のいぶかしげな視線に、秀元がくすりと笑う。
ぴ、と口元に人差し指が立てられた。


「あの子は知らんねん。自分に来とった縁談なんて。ただの一つも、あの子に知らされることはなかったからなあ」
「……は、」
「……なぜじゃ?」
「そらぁ企業秘密ってやつやな。けどまあ、前の当主様も僕も、珀姫ちゃんに求婚の申し込みを通すことはなかったんよ」


けらけらと、秀元が笑う。その様子に、雪麗が眉根を寄せた。


「……アンタ達、そうまでしてあの子を、珀姫をこの家に囲ってたっていうわけ? それはちょっと、悪趣味が過ぎるんじゃないの」
「いややわあ、誤解せんといて。何も意地悪でそうしたわけとちゃうんよ」
「じゃあ何でなのよ」
「それはちょっと教えられへんのやけど」
「何なのよアンタ!」
「怖いわあ」


怒る雪麗に、秀元はますます冗談めかして笑う。
と、そこで秀元は、何も言わないぬらりひょんに目を向けた。


「ぬらちゃんは何も言わへんねんな。珀姫ちゃんのことやで?」
「……前当主様はしらねえが、秀元、お前が珀姫に酷い扱いをするわけがないじゃろう?」
「……。僕意外と信用されとるん?」
「ふん。まあそのおかげで、珀姫がそこらの馬の骨に手垢つけられてなかったことは事実じゃからな」
「…………あ、そ」


意外そうな秀元をよそに、ぬらりひょんはよっと声を上げながら立ち上がる。


「どこ行くのよ」
「珀姫のところに決まっとるじゃろう?」
「ああ、聞くだけ野暮だったわ。はいはい、好きに行くといいわよ」


しっしっと、雪麗が犬にでもするような手つきで彼を追い払う。
それを気にせず去って行くぬらりひょんを、秀元は見つめていた。


「君に託したのは間違いやないって、証明してくれな……ぬらちゃん」


その声がぬらりひょんに届いたのかどうかは、彼しか知らない。

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