家に着いた頃には、もう日はとっくに沈んでいた。
残り香のように空を僅かに染める橙色が黒と混ざり合った紫の空に、点々と星が浮かんでいる。
部屋に入ると、開いた窓から入り込む月明かりで随分と明るかった。
灯りを点けずに窓枠にもたれ掛かり、空を見上げる。
月は紫がかった薄い雲に所々覆い隠されてはいたが、それくらいが今の気分には丁度良かった。
足を曲げ、組んだ腕の上に顔を乗せて深く溜息をつく。
脳裏に浮かぶのは、息絶えた妖の姿。


「……また、殺した……」


これで、一体どれくらいになるのだろう。
勿論、本家の陰陽師達は、私なんか比べものにならない位の数の妖怪を滅してきていることは分かっている。
それが、良いことなんだということも。
でも、それでも私は……。
そう思って、そっと目を瞑ったときだった。


「……月夜に浮かぶ憂い顔が、こうも美しいとはな」
「!?」


気配を、まるで感じなかった。つい今まで、そこには何もなかったはずだった。
振り返った先に見えたのは、部屋の隅に座る男の姿だ。
暗くて顔は見えないけれど、どう考えたって普通の人間じゃない。
反射的に袂に手を伸ばし、式神が手に触れると同時に叫ぶ。


「っ、しき――」
「おっと、そいつは駄目だ」
「は……っ!?」


ひょいと、人型の紙が手から奪われた。
式神を取り出すまでの、一瞬の隙。
同時に視界がぐるりと反転し、気が付けば天井を背景に男に見下ろされていた。
手首が畳に縫い止められるように掴まれ、身体の上に乗られる。
重たくはないけれど動くことは出来ない。式神も、もう使えない。
嫌な音を立て始める心臓を、必死で押さえつける。落ち着け、まだ殺されたわけじゃない。
落ち着いて、冷静に状況を把握しなければ。

この男……人間ではないはずだ。妖気は確かに感じる。
なら、どうしてこの陰陽師の本家である、花開院に入ってこられたのだろう。
ここには結界も張られているし、何より陰陽師だらけのこの家では一度見つかれば妖怪の命などないというのに。
いや……それが、この妖怪の特性だとしたら……?
男はそんな私の考えを知りもせず、腕を緩めることもしないまま口を開いた。


「花開院……確か、珀姫と言ったか」
「! どうして私の名を……! 貴方、妖なんでしょう…!?」
「ああ、そうじゃ。なあに、大したことじゃねえ。ワシらの間でも、お前さんのことはちょっとした噂なのさ。相手の力を増幅させる神通力を持った、天女のごとき美貌を持つ姫ってな。だが……」
「っ……!」


顎を掬われ、妖の顔が、息がかかりそうなくらいにまで近付いた。
此方を見つめる金の双眼から、目が離せなくなる。
……なんて綺麗な、瞳だろう。人ならざる者だけが持つ、禍々しくも美しい眼光。曇りのない、真っ直ぐな目。


「……美しいのう。噂なんか当てにならねえと思っておったが……噂以上じゃった。こりゃあ、天女も裸足で逃げ出すわい」
「!! あ、やかしに褒められたって、何も嬉しくない……!」
「怒るな怒るな。美人が台無しじゃぞ? と言いたいが……アンタは怒っても絵になるなあ」


口角を少しだけ上げて言う妖に、顔が熱くなるのを感じて睨み付ける。
ああもう、調子が狂う。式神さえこの手にあれば、すぐにでも反撃できるのに。
家中の陰陽師に見つかることなく入って来た妖だ、元より助けが来るとは期待していない。
無事この場を抜け出せたら、手を触れなくても具現化出来る式神を考えなければ。
睨み付けたまま、私はゆっくりと口を開いた。


「……目的は何?」
「目的?」
「態々花開院まで来るなんて、余程何か大事な目的があったんでしょう? ……私の生き肝でも、狙いに来たって言うの?」


少しだけ、声が震えた。
勿論、死ぬ気なんて毛頭ない。それでも、もしも敵わなかったら、なんて情けない考えが脳裏をよぎったのだ。
だけど妖は僅かに目を見開いたかと思えば、くつくつと楽しそうに笑い始めた。
邪気の抜けた笑い顔に、こちらまで気が抜けそうになる。


「何を言うかと思えば……随分弱気じゃのう? 安心せい、ワシは生き肝信仰じゃねえよ」
「……本当に?」
「言っただろ? アンタのことは噂になっておると。…見に来ただけじゃ、妖の世界まで話が届く、姫の美貌をな」
「……!」


また、頬に熱がともる。例え妖だとしても、男にそんなことを言われたのは初めてだった。
暗くて私の顔色なんか分からないはずなのに、夜目が利くのだろう、妖はそれを見て満足そうに笑んだ。
言いようのない恥ずかしさを感じ、ふいっと顔を背ける。
すると視界の端で妖の顔が動く気配がして、艶っぽい声がすぐ側で聞こえた。


「……なあ、珀姫」
「え、ちょっ…!」


ち、近い…!
唇が耳に触れるか触れないかの、すれすれのところにまで近付いた妖の顔。
妖怪だと分かっているのに、整った顔立ちに顔がじんわりと熱くなる。
妖はそのまま顔を近付け、耳元で呟くように言う。


「ワシは、アンタが欲しい」
「ひ……っ!」


ぞわり、と、背筋を何かが駆けた。
悪寒や嫌悪の情じゃない。そんなものよりもっと熱くて、もっと甘美なものだ。
訳も分からず、ただ恥ずかしくてたまらない。


「な、に……いって、」
「……駄目か?」
「…っ、や……放して…!」


身をよじってそう言うと、妖はすんなりと拘束していた手を放した。
すぐさま耳を押さえる。まだ、耳元で囁かれる感覚が残っている。
顔がとんでもなく熱かった。心臓が爆発するんじゃないかと思うくらい鳴っている。
頭が真っ白で、もう何も考えられなかった。
妖は私の顔を見て笑みを深めた後、手を差し出して立ち上がらせると、窓の近くまで行ってから振り返った。


「ぬらりひょん。……人はワシをそう呼ぶ。また来るぞ、珀姫」


言い終わると共に、妖はどこかへ飛び去っていった。
追いかける気力も、誰かを呼びに行く体力も、もうない。
私はただ顔を赤くしたまま、妖の消えた先を眺めていた。






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