――奴良組総大将の奥方が、死んだ。


その訃報は、瞬く間に奴良組中へと伝えられた。
奴良組の本家だけでなく、奴良組に籍を置く妖怪達全てに。
そしてやがて、奴良組と懇意にしていた組の妖怪達にも、じわじわと。
まるで真白の布に、墨を垂らしたように。

奴良組にとって過去最大で最悪な知らせは、ゆっくりと、しかし確実に様々な妖怪が知るところとなった。



――何故、どうして。

――人間だからか。弱いからか。

――しかし奴良組総大将の奥方だろう、守られていたのではないのか。

――守り切れなかったのだろう。


――人間は、彼が思っていたよりずっと弱かったのだろう。



誰もぬらりひょんを責めることはしなかった。
お前がいたのにどうしてと、そんな声は上がらなかった。

奴良組総大将という責任を負っていた彼の強さは、誰もが知っていたから。
彼が弱いせいで護れなかったのだとしたら、他の誰が守れたのだろう。

奥方の死に方は、奴良組本家の者しか知らなかった。
それを知らない者達はほとんどが、病か討ち入りかで死んだのだろうと噂した。
総大将がどうにも出来なかった死に方など、それくらいしか思い浮かばなかったから。

けれど奴良組本家では、それと全く異なる騒ぎが巻き起こっていた。


「――何、それ……っ」
「珀姫様が、川で溺れた……?」
「まさかあの珀姫様が、あんな大雨の日に……?」
「大雨の時には川には近寄らない。子どもでも知っていることなのに……」


「本当に、事故だったのだろうか……?」



ひそひそと静かに、さわさわと風の吹くように、噂は本家の中を駆け巡っていた。
ぬらりひょんや鯉伴、山吹乙女や雪麗のような、特別彼女と親しかった者に対しては、誰もそんな話はしなかった。
示し合わせたわけではない。ただ誰もが彼らに気を遣ったのだろう。

けれどそれは、まるで腫れ物に触るかのようで。
そしてその様は、彼らにとっても酷く苦痛でしかなかった。


何故、彼女が死んだのか。
死因は溺死だ。それは分かる。鴆だってそう言っていた。
問題は、彼女があの日あのとき、何故あの場所にいたのか。

誰も、珀姫が家から出て行くところを見なかった。
当然のように離れにいるものだと考えていた。
だって、自力で動ける体ではなかったのだから。
なら、誰が。


「……ッチ」


苛立ち紛れに舌打ちしながら、ぬらりひょんはキセルをふかす。
手下の全力を使って調べさせているのに、かけらの一つも見つからない。
あの日は生憎の大雨で、だからこそ外に出ている者もおらず。
珀姫を見かけたという情報すら、出て来ない。

勿論ぬらりひょんだって自分でも調べている。
鯉伴だって雪麗だって、山吹乙女すら力になってくれている。
なのに一つも分からない。見つからない。


「……珀姫、何があった?」


持ち帰ったずぶ濡れの体を、丁寧に丁寧に拭き上げて。
濡れた着物も乾かして、濡れた黒髪も乾かして。
そうして見た彼女は、溺死体とは思えぬほど美しく、今にも生き返りそうで。

キセルをおいて、そっと横たわる彼女の頬に手をやる。
けれどそこにあったはずの体温はない。ただ冷たい肌があるだけだ。

豪雨の中、冬の川で死ぬのは、どれほど辛かっただろう。


「……冷たかったろうな……苦しかったな、珀」


もっと早く、探しに行けば良かった。
雨など気にせず、川の周辺まで行っていたら。
もしかしたら、死ぬ前に助けられたかもしれないのに。


長くはないと知っていた。
それでも最後まで生きて欲しかった。
きちんと、看取ってやりたかった。
あんな川の中で、一人で死なせずにすんだのに。


「…………」


火葬しなければならないのは分かっている。
死体はいずれ腐り、異臭を放ってハエがたかる。
そんな姿など見たくない。見たくない、けれど。

生きているように美しい死体を燃やすなど、今のぬらりひょんには出来なかった。


「……親父、ここにいたのか」
「鯉伴か……何か分かったか?」
「…………いや、何も」


鯉伴は珀姫を挟んで、ぬらりひょんの正面に座る。
その顔には隈ができていて、少し痩せたようだった。


「……母さん、綺麗だなあ…………」
「……そうじゃな」
「……幽霊にでも、なってくれればよかったのに」
「……そう、じゃな」


ぽたりと、鯉伴の着物に雫が垂れる。
ぬらりひょんはそれを一瞥しただけで、何も言わなかった。


「…………親父、母さんをちゃんと弔ってやろう」
「…………」
「ちゃんと供養して…………墓を作ってさ」


ああ、と思った。
ぬらりひょんが思うより、鯉伴はずっと大人になっていたのかも知れない。
息子に言わせてしまったな、と後悔した。

鯉伴は珀姫が大好きだった。
その鯉伴に言わせてしまうほど、きっと今のぬらりひょんは酷い顔をしているのだ。


「……そうじゃな」


幽霊にならなかった彼女と、きちんと踏ん切りをつけて別れなければ。
人はいずれ死ぬ。知っていたけれど、知らないふりをしていた。
でももう、きちんと目を向けなければ。向き合わなければ。

それが最後に、彼女にしてやれることだから。


















墓は、珀姫がいっとう気に入っていた藤棚の近くの墓地にした。
ぬらりひょんの部屋に仏壇を作って、特注で藤の紋様をいれた。


「……必ず、アンタが死んだ理由を突き止めてやるからな」


何年経っても、何十年経っても。
何百年経とうと、ぬらりひょんの中から珀姫が消えることはない。

大好きだった。愛していた。
ちょっとだけ素直じゃなくて、あまのじゃくで、笑顔がとても可愛らしいあの姫君を。
きっとぬらりひょんは、ずっと愛し続けるのだろう。


彼の思いに答えるように、風が吹いた。
冷たい風のはずなのに、まだ藤の季節ではないはずなのに。
花の香りのする、暖かな風だった。










back
ALICE+