「……きて、ねえ、貴方」
「…………ん、」
「起きて、……もう、ぬらりひょんったら!」
「!」


柔らかい、けれど澄んだよく通る声が、耳を打った。

聞き間違えるはずもない。この声は。


「……珀、姫?」
「やっと起きた。もう朝餉の時間よ、お寝坊さん」
「…………」
「……? どうしたの?」


目の前の存在が信じられず、ぬらりひょんは何度も目をこすった。

さら、と肩から流れる艶やかな黒髪。
健康的だが日にあまり焼けていない白皙の肌。
こちらをまっすぐに捉える、紫水晶のような瞳。

何もかもが整った、誰もを虜にするような女。
人の目を何よりも引きつける、その容姿。


「……珀姫、珀姫か?」
「……? 他に誰だって言うの?」
「いや…………だって、アンタ……」


しんだ、はずじゃ。


「……顔色があまり良くないわ。珍しいわね。悪い夢でも見てたの?」
「……ゆめ、」


夢、か。
そうだ、夢だったのか。

鯉伴の誕生日に倒れたことも、段々と床に伏せる時間が長くなっていったことも、気遣わしげに微笑むあの顔も。


冬の大雨の中、川で溺れて、帰らぬ存在になったことも。


悪い夢だったのだ。


全て。


「……は、はは」
「? どうし、きゃっ!」
「……そう、そうじゃな。夢を見ておったようじゃ」
「ちょっとぬらりひょん、放し……」


ぎゅうっと抱きしめられて抵抗しようとした彼女の声が、ぴた、と止む。
わずかに震える、ぬらりひょんの体に気付いたのだろうか。


「……そんなに、恐い夢を見たの?」
「…………ああ」
「貴方がそこまで怯えるなんて。……大丈夫? どんな夢を見たの?」
「どんな、…………いや、」


言えなかった。
たとえ夢だとしても、最愛の女が死ぬなんてこと、口に出したくも無かった。


「…………」
「……言いたくないなら、無理には聞かないわ。でも、悪い夢は所詮夢よ。大丈夫、現実じゃ無いわ」
「……ああ」


温かくて、柔らかくて。
腕の中のこの存在がいなくなる、そんなのは夢だった。

ああ、よかった。


























「……珀姫、」
「ぬらりひょん様〜! 朝でございますぞ!!」
「…………っ!!」


がば、と跳ね起きた。
腕の中にいた存在が、ない。
どこへ行った。今の今までここにいたのに。

温もりが、消えている。


「……珀、珀姫……?」
「……ぬらりひょん、様?」
「からす、天狗……」
「どうか、なさいましたか」


こちらを見つめる、カラス天狗の瞳。
その声に被さるように聞こえる、激しい雨音。


ああ、そうだ。


「……なんでもねえ。夢を見てただけじゃ」


夢だった、なんて。馬鹿らしい。
アレこそが夢。もう、彼女はこの世のどこにもいない。

それを証明するかのように、ぬらりひょんの部屋に作られた仏壇は、藤の紋様が彫られている。


「……左様でございまするか。顔色があまり良くありませんが、朝餉はどうなさいますか?」
「ああ……食う。雪麗に言っておけ」
「かしこまりました」


カラス天狗が去って行く。それを見送って、ぬらりひょんはぐしゃりと自身の髪を掴んだ。

また、都合の良い夢を見た。
彼女が現れて、優しく起こしてくれて、微笑んでくれる夢。
死んだのは嘘、全部なかったこと。本当は生きているのだと証明してくれるような――


――そんな、残酷すぎる夢だ。


彼女が死んで、もう一年になる。
あの日のように激しい雨の日は、いつもこの夢を見る。
そして起きて、彼女が腕の中にいないことに気付いて初めて、夢だったと悟るのだ。


「……なあ、珀姫」


仏壇に、そっと問いかける。


「アンタを殺したのは、誰なんじゃ?」


何も答えが返ってこないことを知りながら。


「……ワシは、いつかアンタを忘れてしまうんじゃろうか」


それは、ぬらりひょんにとって最も恐ろしい事だった。

声を、香りを、そしていつか姿形まで、全てを忘れてしまうのでは無いか。
否、今現在覚えている彼女の姿すら、忘れた物を脳が適当に作り上げた偽物なのでは無いか。

そうでない証拠がどこにある?

彼女が自分の脳みそからも消えてしまえば、いよいよぬらりひょんは気が狂ってしまうのではないかと。
ずっと、そう思っている。


「……会いたい、なあ」


ぬらりひょん、と呼ぶ声は今も耳の奥に残っている。

つうっと頬を伝った雫が、静かに布団の上に落ちた。

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