水を制する者・前

*小十郎以外の伊達三傑、喜多さんがちらりと登場します
(もちろん小十郎も登場します)

***

私の父上はいわゆる「お殿様」だ。
まだ若いときにご当主さまになって、たくさんの戦いに勝って、新しい田んぼを作ったり、他の国に売るものを作ったりして国を大きくしてきたらしい。
でも、兄上とけんかして雨の夜に泣いている私の部屋に来てくれて、昔話をしてくれる父上は、みんなに聞くようなすごい人には見えない。ただの優しい父上だ。
そんな父の話は、その夜はいつもと少し違っていた。

***

日照りが続いている。

「このままだと田の水が干上がってしまいますな」
「例年だともっと雨が降っているはずなのですが」
「降りすぎて川が溢れても問題ですが、このままでは……」

川が溢れているというのなら対策の講じようもあるが、水がないのはどうしようもない。いっそこの俺が山に入って新しい水源でも探してきてやろうか、と思いながら会議をお開きにした。

「政宗様、いかがいたしますか」

空気を通しておいたのに、執務室の中は暑い。側近の眉間の皺を見ていたらさらに暑気が増す。

「小十郎、お前はどう思う」
「気休めにでも雨乞いの儀式を行いますか」
「違う、その話じゃない」
「は、それでは……」

扇子を閉じる。パチン、と乾いた音がした。

「俺が竜王なんて名乗ったから、龍神がお怒りになったって言う噂だ」

小十郎は眉間の皺を深くした。その額にも汗が光っている。梅雨の時期なのに雨が降らず、この地には珍しいほどの暑さが体に堪える。

「そのような世迷言を」
「No. 俺が言ってるわけじゃねぇよ。聞こえてきただけだ」
「名乗りを撤回するおつもりもないなら、聞こえないフリをなさることだ」

何か言いたそうな小十郎から目を逸らし、立ち上がる。向かう先は決まっていた。


「殿、丁度良い時に御渡りに」

奥に渡っていけば、女中が駆け寄ってくる。

「目を覚ましたか」

奥と言っても、女子どもが住んでいるわけではない。己は未だ縁談を受けていない。空いた奥棟に住まわせているのは、妻でも子どもでもない。

「おい」

衝立の向こうに布団がのべられている。そこで体を起こしているのは名も素性も知らぬ小娘だ。年は十を過ぎたくらいか、抜けるように肌の色が白く、長い髪の色は黒というより茶に近い。

「起きたのか」

小娘は瞬きを繰り返しながら俺を見上げてきた。色の淡い目には恐れがない。夏の暑さに溶けてしまいそうなほど儚げな美しい娘だ。五年もすれば縁談には事欠かないだろうが、その色白の顔には表情が無い。

「あなたは」
「ああ」
「私を助けてくれたのですか」

随分しっかりとした話し方をする娘だ。

「ああ、覚えているか」
「少しは。奥州と羽州の間に戦があり、出羽守が鉄砲を用いた」
「そうだな」
「私はその弾に当たったようです」

近隣の村には早めに避難するように触れを出したし、戦闘は町でも田畑でもなく川辺だった。だが、この娘は戦場に倒れていた。複数の銃弾を体に受けて。
つい数日前のことだ。この者は保護してからずっと眠り続けていたと聞いている。

「お前は羽州の者か」
「いえ……強いて言えば、奥州の者です」
「強いて言えば?」
「あなたは、この地の主、伊達政宗様ですね。お助けいただき、ありがとうございました」

褥を抜け出し、畳に額づく。おかしい。背後に控えていた女中に退がるように命じ、襖を閉めた。娘の前に座り込む。

「もう体が動くのか」
「はい」
「顔を上げろ」

娘が顔を上げる。作り物のように整った顔立ちだが、やはり表情がない。

「右腕を出せ」

細い腕に巻かれている包帯をとる。包帯には血が滲んでいるのに、その肌には血が滲んでいない。うっすらと、銃弾が掠めたような直線が白い肌を赤く走っている。ほぼ塞がっている。この傷は最も浅いものだろうが、それでも。

「お前、何者だ」

傷の治りが、早過ぎる。
腕だけでなく、脚や腹にも銃弾を受けていた筈だ。上等な白縹の着物は真っ赤に染まっていた。もう回復はしないのではないか、と言う者も多く居たが、倒れている民、しかも子どもを捨て置けず、城まで連れてきた。

「何者でもありません」
「何?」
「名乗るほどの者ではないということです」
「着ているものは上等に見えたが」
「血で見誤ったのではございませんか。この身を保護して頂き、本当にありがとうございました。噂通り、民にもお優しいお方なのですね。大変お世話になりました」

子供の癖に、大人のような目で物を語る。小娘はゆっくりと立ち上がった。いや、立ち上がろうとした。
声にならない悲鳴を上げて倒れてきた娘を、受け止める。驚くほど軽い体だった。触れたところはどこも冷たい。

「まだ、体は効かねぇみたいだが」
「そう、ですね……」
「あれだけ血が流れたんだ。もう少し養生していけ」

すぐ近くから、目を見張って見上げてくる。

「気味が悪いでしょう」
「からくりがあるなら教えて欲しいが、異形には慣れててな」

この右目で武家を継いでいる方が異形だ。俺の意図がわかったのか、娘は首を横に振った。

「私と比べれば、あなたなどは全く」
「言ってくれるな。お前、名は何と言う」
「美黎です」

娘は静かな、子どもらしからぬ声で答えた。



娘は確かに変わっていた。
傷は医者に診せずに喜多に見てもらったが、その傷痕はすべて塞がっていた。ただし、血を失ったためか思うように動けないらしく、日がな一日眠ったりぼうっと景色を眺めたりして暮らしている。
娘は自分の素性を一切語らなかった。近隣の村にも使いを送ってみたが、子どもが居なくなったという家はない。間者ではないかと疑う者も家中に居たが、その割には最初の怪我が酷過ぎる。そして、目覚めてからも何も行動しようとしない。
日照りの件もあって忙しく、暫くその件は放っておいたが、ある日喜多が報せを持ってきた。

「水を多く飲むのです」
「水を?」
「一日五升ほどは飲んでいます」
「Ha! とんだ酒豪だな」

扇子で首元を扇いで肘掛に凭れ、袴をつけぬ脚を投げ出したまま話を聞いていると、傍らの小十郎が目配せしてきた。行儀が悪いと言うのだろうが、無視する。この暑さでは仕方のないことだ。

「飯は食っているのか」
「はい、あまり多くは食べませんが」
「割と華奢だしな」
「政宗様、やはり、間者なのではございませんか?」

小十郎が膝を進める。

「城の井戸の水を飲み干して、奥州の滅亡を狙ってるってことか。That's nonsense!」
「されど……」
「私は、傷の治りのほうが気になります」

喜多も首を傾げて表情を曇らせる。姉弟揃って心配症だ。

「気にすんな」
「あれは、妖の類かもしれませぬ」
「座敷童子か」

小十郎に笑い、扇子を閉じて立ち上がる。

「Good. それなら、伊達の家は益々栄えるな」
「放っておいてよろしいのですか?」
「騒ぎにしないように隠してはやってほしいが、好きなだけ飲ませてやれ」
「されど、水が……」
「ケチケチすんな、小十郎。いつまでも雨が降らなかった試しはねぇ」

上の者が狼狽する姿を見せてはならない。亡き父の言葉を思い出しながら、喜多を従えて奥へと歩んだ。


「Hey. 調子はどうだ」

縁側に座り込んで素足をぶらぶらさせている様は、どこからどう見てもただの子どもだった。が、隣に座り込んで息を呑む。
この暑さなのに、小娘は汗ひとつかいていない。

「政宗、様」
「今、呼び捨てにしそうになったな」
「申し訳ございません」
「別に怒ってねぇよ」
「お世話になっている身ですのに」

日陰でもじりじりと暑い。懐の扇子を取り出して扇ぐ。喜多が大きな器に水をなみなみと注いだものを二つ運んできて、退がって行った。

「奥州のお殿様は、随分とお心が広いお方だったんですね」
「子ども相手にそう簡単に怒るか。俺のことはいい。下の者を悪く言われる方が腹が立つ」

淡い色の目を見開いて驚いてみせる。子どもの無邪気な驚きには見えなかった。座敷童子という者は幾つなのだろうか。

「あなたは……今まで聞いていたお噂とはまた違う。上に立つべきお方なのですね」
「天はそうは思ってねぇらしい」
「とは?」

蒼い空を鷹が滑空している。

「この日照りは、俺が竜王を名乗ったせいだとよ」

その鷹にも、庭の木々にも、農民達にも等しく強い光が降り注ぐ。

「分不相応な名乗りに天が罰を与えた、そう言っている奴も居る」

喜多が置いていった白磁の器を取り上げ、ごくごくと喉を鳴らす。冷たい。これもいつか枯れるのか。
ふと小娘に目をやると、顔を歪めていた。泣きそうなほど。

「どうした。傷が痛むのか」
「痛みません」

娘も両手で器を持ち、水を飲み始めた。小さな体にみるみるうちに吸い込んでいく。そう、飲む、というよりは吸い込む、という言葉が合う。

「水が好きか」
「水がないと生きていけません」
「Me too. 誰でもそうだろう」

娘は唇を引き結んだ。庭に目を戻せば、半ば程まで咲いた立葵が萎れそうになっている。

「枯れるな」
「花のことですか」
「庭に撒く水を減らすように言った。枯れたら俺のせいだ」

立葵がてっぺんまで咲いたら夏が来ると言うが、全ては咲かずに枯れてしまうだろう。

「竜王が、聞いて呆れる」

言ってからはっとした。これではまるで弱音ではないか。こんな子どもに。
娘は無言のうちに素足で庭に降り、立葵の前まで歩いた。小さな白い手を花にかざす。
息を呑む。
萎れそうになっていた紅色の花がみるみるうちに息を吹き返し、天に向かって咲いた。

「私には、まだこのくらいしかできませんが」

娘が大人びた目でこちらを見つめてくる。表情はないが、眼差しに決意がある。

「もう少しお待ちください」

何を、とは問うことができなかった。