■ 後

「さて軍師様、話しの続きをしましょうか」

 酒場の賑わいを遠くに聞きながら、なまえはシュウの元へと足音を響かせていた。

 夜明けは遠く夜更けまでももうしばらくという時間である。場内には人の声が響いているが、さすがに気難しいと評判の軍師の部屋をこの時間に訪れようとする者はそうそう居ない。
その例外は無敵の盟主だとか、可愛い妹分だとか、真面目な弟子だとか、そんなところなのだが彼らがそうするのも余程の事態くらいである。
 そして、その条件に加えていつかのように高らかな三回のノックとくれば、シュウにとって相手を誤る可能性などまずない。
 昼間は突如向けられた矛先に珍しく狼狽をみせてしまったシュウは、今ではもうそんなことなど忘れたように澄ました顔でなまえを招き入れた。


  ***


 いつものように勝手に椅子を使うところはなまえらしくはあったが、けれど見れば見るほど彼女が纏う雰囲気は異なっていた。
 シュウは目の前の女をまるで見知らぬ女のようだと思いかけ……直後にその思いつきを否定する。
 そもそも、女どうこうという次元ではない。これは、魔物だ。

「お前の条件を確認しておきたい。まず、お前はエルネスタや同盟軍自体ではなく、俺個人との契約を望むということでいいのだな」
「……契約ね。なるほど契約と言うのがわかりやすいわね」

 なまえは何度か契約という言葉を反芻し、気に入ったと笑みを浮かべた。にぃぃっと歪められた唇からこぼれ始める声まで普段とは異なるトーンで空気を震わせる。

「そう。これは契約なのですよ。『あなたが私を望むとなれば、私はあなたのために力をふるってあげる』っていう契約。それが結果的に誰のためになろうとも、例えば国や軍や、エルネスタのためになろうとも、私はあくまで貴方のためにだけ働くわ」

 芝居がかった口調で朗々と話すなまえを、けれどもシュウは冷静に見つめていた。
「それで、お前は俺に何を望む」
 ここ数か月で気まぐれに干渉する人外を数例見てきたシュウである。
 乙女に膝を折りたがる無害な聖獣もいれば、他者の嘆きに愉悦を覚える悪鬼も存在するということを重々承知していた。そして目の前の存在が代償もなく力を貸す類とは到底思えなかったし、実際その通りであった。
「やあねぇ、そんなに警戒しなくても、何も命を寄越せなんて言わないって」
 ケラケラと作られた笑い声の後で、なまえはすっと勢いを落として告げる。

「私が欲しいのは、貴方の"時間"と"こころ"と"からだ"。そうねえ、まあ、私のお食事相手になって下さいねっていうのと、せっかくなら私を気分よく働かせてねってことで……ざっと端折れば、要は"恋人契約"とでも認識してもらえればいいのよ」

 爛々と瞳を輝かせ、それでいて声だけは甘く囁くように、魔物は誘惑の言葉を紡ぐ。

「何も難しいことはないでしょう? 他の女を愛さないようにすればいいだけ……だもの」
 まあ別に他の女に惹かれようが愛そうが、本当のところは別にいいんだけどね。その時は報いを受けてもらうだけだし。貴方がちゃんと私を見ていれば、私は貴方を助けてあげる。盾にも剣にもなってあげる。ただし、火遊びだろうが気紛れだろうが一度でも気を逸らしたら……そこでお終い。ね、単純でしょう?

 魔物の甘言を聞きながら、シュウは冷静な頭で考えを巡らせていた。
 狙いが自身だとわかった時から、条件を確かめるまでもなく答えは殆ど決まっていた。この戦に勝つためならば、払う犠牲も自身の穢れも厭わないと決意したのは随分と前のことである。魔物が他の仲間達でなく、大切なリーダーでもなく、他ならぬ自分を気に入ったことですら、シュウに取っては僥倖だった。
 取引の代償が自分の持ち物だけで足りるのなら、過ぎた力の弊害が他の仲間には及ばないのなら、恐れるものは何もないに等しい。
 そして実際に魔物が告げた要求は、想定していた数々の条件の中でもかなり甘いものだった。当然、断る理由など無い。
 軍師として立つことを決めた瞬間に定めた生き方からすれば、色恋沙汰とは切り捨てるべきものの筆頭である。あえて自分から弱みを作る必要などどこにもないのだから。けれど、不要と切り捨てかけた部位を使って見合う以上の利得が上げられるとなると話は別である。

 そして。
 念を押すように「軍師様」と呼びかけたなまえにも、そんなシュウの考えは織り込み済みだった。
 軍師として軍と盟主を優先する彼は、軍のために自身を利用することすら容易く出来てしまう。自身の枷という代償と、それによって見込める全体の利潤を冷静に判断することができ、そうして導きだされた結論に従ってしまえる男だ。


  ***


 とんだ茶番だとお互いに白々しさを覚えつつも、形式としてのやり取りを二人は続けていた。
 若き城主なら「力を貸して。仲間になってよ」と直球で決着をつけられるのだろうが、この二人ではそうはいかない。お互いに見えている落としどころへ、お互いに気づいていないふりをしながら、じわじわと論点を近づけていく。まどろっこしくて滑稽でじれったくて浅ましい、けれどもお互いがお互いをそうさせ合うのだ。

「なまえ、俺にお前を委ねてもらえないだろうか」

 契約の決定打として"言わされた"シュウの口説き文句に対してなまえが返した承諾の口づけによって、ようやく部屋から圧迫感が消える。離れ際に軽くシュウの唇を傷つけたなまえは、すっかり気が済んだようにあっさりと離れ、ふわりふわりと舞うように扉へと手をかけた。
 そのまま「じゃあまた明日ね」と踵を返したなまえはもうただの、いつもの軽い彼女であったので──残されたシュウは深く息を吐き出した。

 予定調和の色が強いとはいえ、さすがに魔性を隠さない存在と対峙したことは若き軍師の心労となっていた。己の疲労を自覚している軍師は、彼にしては珍しく思考を練ることを諦め、今日の所は大人しく寝台へと向かうことにする。

 ……今感じている疲労の理由の大部分が、文字通り接吻によりなまえに喰われたからだと軍師が知るのは、数日後の"食事"の時のことである。



(2013)
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