「だーかーら、もう行くって言ってんだろ!!」
 離せよ、と自分の腕を掴む手から逃れようとしたが、ますます力が強くなるばかりで新一はこっそりため息を吐く。どっからそんな力が出てんだよ、疲れてんじゃねーのかよと内心ぼやきながらも抵抗するのを諦めて体の力を抜いた。
 逃げられないようしっかりと新一の腕を掴むのは恋人である降谷零だ。
 容姿端麗、頭脳明晰、警察庁の警察庁警備局警備企画課に所属する公安警察官でおまけに料理上手でテニスもボクシングもできて何でもそつなくこなすミスターパーフェクト。それが降谷零だと新一はずっと思っていた。……恋人になる前までは。
 俯いているので新一からは彼の表情は見えない。それでもこの手を離すものかという気持ちだけは伝わってくる。
 再びため息を吐きそうになるのを堪えて新一は口を開いた。
「……なぁ、零さん」
「……なに」
「オレこれから待ち合わせなんだけど」
「……知ってる」
 ぽつりと呟かれた声にいつもの覇気はない。
 これは相当疲労が溜まっているらしい。早く寝かせなければとは思うが、いかんせんこちらも時間がなかった。依頼人との待ち合わせの時間が迫っている。
 新一は一年ほど前に大学卒業してそのまま探偵事務所を開いた。それを聞きつけた警察やFBIがぜひ我が組織へと勧誘もあったのだが、幼い頃からの夢を叶えるため新一はそれらを全て断り探偵となった。
 恋人である降谷も本当は新一が警察官に、はっきりいえば自分と同じ警察庁へ、とも考えてはいたらしい。けれど新一の夢を誰より理解していた彼はただ笑って「新一くんらしいね」と背を押してくれた。
 だから新一は探偵である自分を誇りに思っているし、降谷もそれを知っているはずなのに、だ。
 まるで駄々っ子のように降谷は新一の腕を掴んで離さない。
「零さん、離して」
 本当に遅刻しちゃうから。
 静かに諭すかのような新一の声に降谷がぴくりと反応する。ゆっくりと顔を上げた彼の目の下にはくっきりと隈が浮かんでいて、新一は苦笑する。これは思っていたより重症かもしれない。
 本当は今すぐ彼をベッドに連れていって一緒に眠ってしまいたいけれど、時間は迫っている。
「ほら、零さんだって眠いだろ。少しでもいいから寝ろよ。零さんが起きる頃にはオレだって帰ってくるしさ」
 ぽんぽんと空いたほうの手で降谷の背を宥めるように叩くと、彼はきつく唇を噛みしめる。
「……別に新一くんに仕事に行ってほしくないわけじゃないんだ」
「……うん」
「……僕なりに新一くんの仕事のことも理解しているつもりだし」
「……うん」
「いつだって真実を追い求める君が僕は好きだし」
「……うん」
「…………ただ」
 そこで一度言葉を切ると降谷がぐっと顔を新一に近づけ、逃げないよう手で新一の頬をがっちりと固定した。そのままキスされるかと新一がどぎまぎしたのも一瞬で、完全に目が据わっている恋人の姿にぎょっとする。慌ててて逃げ出そうにも降谷の手が緩む気配はなかった。
 新一の顔を見つめにっこりと甘い笑みを浮かべてはいるが、その実目は全く笑っていなかった。
 「ねぇ、何で新一くんはそんな可愛い格好してるのかな?」
 降谷がするりと新一の着ているブラウスの襟を撫でつつ耳許に口を寄せると、びくりと新一が体を震わせる。
「ねぇ、教えてよ」
 何で女の子の格好なんてしてるの? 僕にもわかるように説明してほしいな、と可愛らしく首を傾げる降谷に新一は返す言葉を見つけることはできず、ただ項垂れるしかなかった。




 話は数日前に遡る。
 今回の依頼は大学時代の友人からで、最近女性からストーカー紛いのことされているかもしれないと新一に電話がかかってきたのが始まりだった。
 その女性は友人から見ればただの同僚なのだが、相手はそう思っていないらしい。友人に恋人がいると知りながらアピールしてくるようになったのだという。
 最初は些細なもので昼休憩を一緒に取ったりするぐらいだったが、退社後待ち伏せされたり彼女とのデート中に現れたりと、さすがに友人も怖くなったらしい。
 仕事でたまたま彼女をフォローしただけなんだけどな、と暗い顔をした友人を見かねて新一が一肌脱ぐことにしたのだ。もちろん友人といえどきちんと依頼をとして受けている。
 そのことは降谷にも話してあったし、苦笑しながらも「無理はしないでね」と言ってくれたのに。
 にこにこと安室を彷彿させる笑みを浮かべながらも降谷が新一の腕を掴む手に力がこもったままだし離す気もさらさらないらしい。目の下の隈もあいまってなかなかの迫力だった。
「……前に話したと思うけど、今日は友達のストーカーの件で待ち合わせをしてて」
「それは知ってる」
 ぽつぽつ話し出した新一に降谷も頷く。それは新一から聞いていた話だし、心配が全くないというわけではないけれど彼なら上手くやるだろうということもわかっている。
 わかってはいるけれど!!
「なら、何でそんな格好……」
 してるんだ、という降谷の声に新一が一瞬きょとんとしてから首を傾げた。
「いや、女性のストーカーらしいから、オレが女装してラブラブっぷりを見せつけてやれば相手も諦めるかなと思って。オレならまぁ何とかなるしな」
 さすがに友人の恋人にこんな無茶はさせられないという自覚はあるらしい。
 白のシンプルなブラウスにロングスカートと、なるべく男らしい骨格を誤魔化すために選んだであろう服はとても新一に似合っていた。肩より少し伸びた艶やかな黒髪のウィッグも彼の瞳とあいまってとても美しく見える。首もとには変声機と思われるチョーカーもあり、より彼を魅力的に見せていた。
「零さん?」
 黙り混む降谷を心配そうに見つめながら、新一がそっと彼の頭を撫でる。
「……零さん疲れてんだよ。とりあえず寝ろって」
 あやすような優しい声音に降谷は首を振って彼の手から逃れた。
「……いやだ」
「零さん」
 なおも抵抗する降谷に新一がため息を吐く。
 新一の言いたいことは降谷にもわかる。何いい年をして駄々をこねてるんだと思っているんだろう。
「……行かないでよ、新一くん」
 彼を掴む手を引き寄せ、降谷はぐっと新一を抱き締め、さらさらの髪に顔を埋める。彼を抱く腕に力を込めれば新一もそっと腕を降谷の背に回した。
 ウィッグのせいで雀のしっぽみたいな新一の髪が見られないことを残念に思いながら降谷は新一の耳許で唸る。
「……まだ僕だってそんな可愛い格好した新一くんとデートしたこともないんだけど!!」
「そっちかよ!!」
 バッカじゃねーのと吐き出して新一は降谷から距離を取る。
 さっきから何をぐだぐた言ってるんだと思っていたらそういうことか。
「本当にあんたって人は……」
 ガシガシと頭をかきむしりたいのを我慢して新一は降谷に向き直る。代わりに一息吐くのを見て、降谷の顔が強ばるのが見えた。
 本当この人ってたまにアホなのか頭が良いのかわからないよな、などと恋人に向けるにしてはやや辛辣なことを考えつつ口を開いた。
「零さん、今日で何徹目?」
「……3、いや4かな?」
 自分でもいつ寝たのかわからないような人間の頭がまともに働いているわけがなかった。
「とにかく寝ろよ。さっきも言ったとおり零さんが寝てるうちに全部片付けてくるし」
「でも」
 なおも反論しようとする降谷の気持ちが新一にもわからないわけではない。恋人の珍しい姿(女装ではあるが)に何か思うことがあるのもまぁ理解できるから。
「だから、オレも早く帰ってくるからさ。零さんがいい子で寝てくれたら、そうしたら」
 このままでしてもいいぜ、と新一は恥ずかしさに顔が赤くなるのを感じ、まともに降谷の顔が見れなくて俯く。
 だが、さすがに女装したままでの行為はまずいかと思い直した新一が訂正しようと口を開きかけた時。
「…っ、する!!」
 するから、と必死な様子で自身のネクタイをほどきながら、降谷の足は寝室へと向いていた。
「いい子で寝るから、だから」
 早く帰ってきてね、と先ほどまでとは一転してご機嫌な降谷が新一の頬にキスを落とし、にっこりと微笑む。
 いそいそと寝室に向かう降谷に早まったかと一瞬後悔した新一だったが、ふとあることに気づき苦笑いする。
「そういやあの人徹夜が続いてた時に寝ると爆睡してなかなか起きないんだよな……」
 先ほどは新一なりに必死で忘れていたが、今回もなかなか疲れていたようだし、そのことに全く気づいてなかったし、とまで考えて新一は用意していたバッグを手にして玄関へと向かう。
「……まぁ、そん時はそん時だな」
 急がないと本当に待ち合わせに遅刻してしまう。
 バタバタと慌ただしくしながら靴を履き、玄関をドアを開く前に新一は振り返った。
「じゃあ、言ってくるぜ、零さん」




 その後新一の予想通り爆睡した降谷が起きた時には新一はメイクを落とし服もいつも通りの姿を見た時の降谷は何徹目かをした時よりも絶望で酷い顔色だったことをここに記しておく。






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