「はい、どうぞ」
「わぁい、ありがとう。安室さん」
 目の前に置かれたアイスコーヒーを手にコナンはにっこりと笑った。こうしているとただの小学生にしか見えないが、彼は安室が恐れる男のうちの一人だ。そう言っても誰も信じないだろうが。
 アイスコーヒーだなんて子供らしくないね、なんてからかったのはいつだったか。
 子供だってアイスコーヒー飲みたいんだよ。飲んじゃダメなんて言われたら悲しいよと目を潤ませた子供に少しからかいすぎたかと反省して、ポアロに自分とコナンしかいない時は何も言われなくてもアイスコーヒーを出すようにしている。
 今だって満面の笑みを浮かべるコナンに安室は自分の判断が間違っていなかったことに安堵して、洗い物に手を伸ばした。
「今日も暑かったね。熱中症は大丈夫だった?」
 皿を洗う手を止めないまま尋ねるとコナンがストローから口を離して頷く。
「うん、ちゃんと水分取ってたし帽子も被ってたし。ちゃんと涼しいところでも休んだりしてたよ」
 だから大丈夫、と笑うコナンが嘘を吐いているようには見えず、顔色も良かった。
 そもそも熱中症の疑いがあるようなら安室だってアイスコーヒーなんて出さない。
 汗をかくグラスに手をあて美味しそうに飲む姿を横目で確認し、皿の泡を落としていく。慣れた手つきでシンクの中のグラスや皿を全て片付け、一息ついた。
 コナンからの視線を感じつつも気づかないふりをして手を拭くと、ちょいちょいと手招きされた。
「どうかした? コナンくん」
 何かあっただろうかと首を傾げつつも彼の隣に立ち目線を合わせる。
「……安室さん」
「何?」
 すっと腕を広げたコナンに安室は一瞬対応に迷う。
 それにじれたのかコナンは困ったように眉を下げた。
「ぼく、今日転んで足が痛いんだよね。だから椅子から下ろしてほしいの」
 だから、抱っこして、と腕を伸ばされて慌ててその小さな体を抱き止めた。
「こら、椅子から落ちるよ」
 危ないだろう、とコナンを再び椅子に戻す。足を怪我しているならなおのこと気をつけなければならないのに、と注意しようと体を離そうとした安室の背にまわった小さな手がぽんと優しく叩き、そっと撫でた。
「コナンくん?」
 優しく撫でられたと思ったのは一瞬のことだった。そのままコナンは安室から距離を取る。
「ごめんなさい、安室さん」
 早く下りたくて焦っちゃった。
 あはは、と自分の失敗を誤魔化すように苦笑いしたコナンが、叱ろうとした安室の顔を覗き込む。
 怒ってる? と目で訴えられて、安室は気持ちを落ち着かせるために息を吐く。
 ……そんな顔をされたら怒れるものも怒れないじゃないか。
「……そんなに早く下りたかったの?」
「うん」
 ごめんなさい、と繰り返されれば、それ以上は何も言えなくなる。反省しているならと彼の頭を撫で、そっと椅子から下ろしてやった。





 それからもたびたびコナンに抱きしめられているのでは、と思ったことが何度もある。そのたびに気のせいかと思いながらもその小さな腕を、あやすような優しい手を忘れることができなかった。
「零さん?」
 そんなこともあったなとぼんやり思い出す降谷の顔を新一が怪訝そうな顔で覗き混む。
 久しぶりの休日。
 仕事柄なかなか決まった休みの取れない降谷は恋人である新一と今日一日のんびり過ごした。
 組織に潜入していた時には考えられないことだったが、その組織が壊滅してもう数年が経っている。その間に腹の探りあいをしていた子供は元の姿を取り戻し、今は降谷の恋人となっていた。
 夕飯を一緒に食べてお風呂にも入って寝るまでのひととき。お気に入りのソファにもたれてゆったりとした時間を過ごす降谷は好きだった。
 まだ寝るのはもったいない。もう少し恋人とゆっくり過ごしたい。
 そんな降谷の考えを察したかのように手にマグカップ二つ持った新一が降谷にそのうちの一つを渡し、隣に座る。
「ありがとう、新一くん」
「……ぼーっとしてたけど何かあった? 心配事?」
 ぼんやりと器の抜けた降谷の姿に新一は見ていて気になったらしい。
 仕事で何かあったのかと気遣わしげな新一の視線に降谷は首を振る。
「そんなんじゃないよ。大丈夫。君が心配することじゃない」
「……それならいいけど」
 でも何かあったんなら言えよ。言えるとこまでで良いから。
 降谷の仕事柄どんなに親しい人でも、それが愛しい人だとしても話せないことがある。それは新一もよくわかっている。
 それでも、話せることだけでも話して少しでも気持ちが楽になるようにと気づかう新一の姿に愛しさが込み上げてきて、降谷は新一を腕の中に閉じ込めた。
「零さん?」
「……君が小さかった時にこんな風に抱きしめてもらったなって思い出してね」
 降谷の声に新一が息をのむ。
「……気づいてたのかよ」
「それはもちろん」
 いつ盗聴器を付けられるかとひやひやしてたんだ。
 そっと新一の耳元で囁くとびくりと体が震える。腕の中で体を強ばらせる新一の背を優しく撫でてやりながら降谷は続ける。
「……でも、それだけじゃないのも知ってるよ」
 降谷は知っている。あの少年がどれだけ自分に心を砕いてくれていたか、今ならわかる。
「……ハグをすることでストレス緩和するんだって君は知っていたんだね」
 だからコナンは折に触れ安室の体を抱きしめたのだ。自分の意図には気づかれないように気を使いながら、安室の心が壊れてしまわないようにそっと優しく背を撫でてくれた。
 それにどれだけ救われたのか。泣きたくなるほど幸せだったのかをきっと新一は知らない。でも、それで良かった。
「……ありがとう、新一くん」
「……うん」
 ありがとう、と繰り返して降谷は抱きしめる手に力を込める。
 あの頃の小さかった少年はもういないけれど。腕に閉じ込めた彼の温かさだけが今の降谷の全てだった。





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