工藤新一と降谷零の関係は曖昧である。
 友人というには歳も離れているし今の現状を思えば何だかしっくりこない。また知人というにはお互いのことを知りすぎている気もする。もちろん家族ではないし恋人でもない、となると二人の関係は何といえば良いのだろう。
 そんなことを考えながら新一は手にした洗濯物を丁寧にたたんだ。下着や靴下を同居人と自分の二つに分け、立ち上がる。
 自分の分は自室のクローゼットに、もう一人分は彼の部屋に置いておく。これがここしばらくの新一の日課でもあった。
 できるものが無理のない範囲で家事をする。この同居が決まった時に二人で決めたことだった。
 黒の組織の壊滅したのはほんの二ヶ月前のこと。組織がなくなり幹部がほぼ逮捕か死亡となったが、一般人である新一が深く関わりすぎたとしばらくの間公安の監視下に置かれることとなった。
 赤の他人と暮らすなんてと新一も最初は渋っていたものの、その条件が駄目ならアメリカに来て一緒に暮らしましょうよという母の言葉に本気を感じ取り、それならば監視兼同居を受け入れることにしたのだ。
 公安の人間と一緒に暮らすなんてと身構えていた新一も相手が降谷だと知って、驚きつつも肩の力が抜けたことを今でもよく覚えている。
 ポアロを辞めた降谷と会うことはもうないと思っていた。忙しい人だと知っていたし、また潜入するとなればなおさらだろう。
 だが彼はそんな素振りも見せず、ポアロで見せていた柔らかい笑みを浮かべる。
 安室透だった時には見ることのできなかった灰色のスーツとまっすぐ伸びた背にやはり彼は警察の人間だったのだと実感した。
「これからよろしくね」
 差し出された手を恐る恐る取ると温かかく、この手に何度も助けられたことを思い出し、新一はようやく笑うことができた。
「こちらこそよろしく。降谷さん」
 そうして始まった同居生活は二ヶ月が過ぎ、順調に過ごしているとは思う。喧嘩をすることもなく穏やかに。
 新一の姿に戻ってからも捜査一課の手伝いは続けている。コナンになる前には調子にのってマスコミに取り上げられることもあったが、今は目立つ行動はしたくないと全て断っていた。
 それを降谷も知っているのか、警察の捜査に関わることに口を出すことはなかった。
「君は探偵だからね。無茶さえしなければいいよ」
 本当は監視を理由に捜査の協力をすることを止められると思っていたから驚かなかったといったら嘘になる。コナンの時の無茶を彼は知っているから余計に。
 謎を解くのは新一の一部のようなものだった。推理をしていれば嫌なことも忘れられたし、捜査協力することで苦しむ被害者の心を少しでも救うことができるのなら、それが一番良かった。自分を頼ってくる人を見捨てることはできないと降谷もわかっている。
 新一の良き理解者であろうとしてくれる降谷を困らせたくはない。だから、なるべく目立たないよう無茶をしないよう心がけている。
「今日は帰ってくるかな」
 夕食一緒に食えるかな。何か作ろうかとキッチンへ向かい、肉やじゃがいも、にんじん、玉ねぎと必要なものを取り出して、皮を剥く。
 カレーなら簡単だし保存もきく。多めに作ればもし今日降谷が帰ってきたとしても一緒に食べることができる。一石二鳥だよな、と新一は適度な大きさに切り分けながら思う。
 初め二人の暮らしは順調だった。定時上がりとまではいかないが早く帰宅できた時にはご飯を作ってくれたり、彼が淹れてくれたコーヒーを飲みながら学校での出来事なんかを話したりと穏やかに過ごせていた。
 彼との探りあいも嫌いではなかったが、想像以上に降谷との生活は楽しかったのに。それも暮らし始めてから一ヶ月までのこと。
 ここ最近の降谷の仕事が忙しいらしく、なかなか帰ってこない。帰ってきたとしても新一が眠った深夜で、新一が起きる前には家を出ていってしまう。洗濯物が脱衣場にあるからかろうじて帰宅しているのがわかるぐらいで。
 今の住居はセキュリティがしっかりしているので降谷がずっと傍にいなくても安心なのだとは聞いているけれど、これじゃ監視になっていないのではと思わなくもないが、高校と自宅を行き来するぐらいだからまあ大丈夫だろう。
 軽く肉と野菜を炒め煮込み始めた鍋に蓋をして弱火にする。このカレーは彼に食べてもらえるのだろうか。それとも多忙でそれどころではないか。それとも。
 もしかしたら帰ってきたくないのかもしれない。自分と一緒に暮らすのが嫌になったのかもしれない。
 ふととそんなことを考えながら、新一は深く息を吐き出した。





 結局、深夜になっても降谷は帰ってこなかった。余程忙しいのだろう。体を壊さなければいいけどと思いつつベッドに潜り込んだ。
 自分では疲れていた自覚はなかったけれど、すぐに睡魔がやってくる。うとうとと微睡みながら明日のことを考える。
 洗濯物を干して、天気が良ければ布団も干して、近所の本屋へ新刊を買いに行く。カレーも残っているしそれを食べて本を読みながらのんびりするのも悪くはない。もしかしたら一課から捜査の連絡があるかもしれないけれど、その時はその時だ。
 明日のことを考えるとますます眠くなって、夢か現かわからなくなった頃にカタンと小さな音がした。
 はっと一瞬で目が覚めて、体を起こす。
 リビングに人の気配がして降谷が帰宅したのだとわかった。微かに衣擦れの音もする。
 ベッドから抜け出し時計を見ると日を跨いでから一時間と断っていなかった。
 夕食は食べたのだろうか、まだならカレーを食べてもらおう。
 リビングへと向かうとスーツを脱いだ降谷が新一の姿を見つけ目をみはる。
「……ごめん、起こしたかな?」
「大丈夫。起きてたから」
 困ったように笑う降谷の目の下に隈を見つけ、新一はそっと息を吐く。そうとう忙しかったらしい。
 ようやく家に帰る目処がついたのだろう。早く休ませなければ、明日に響く。
「夕飯は?」
「軽くだけど食べたよ」
「なら、風呂を沸かすから」
「いや、着替えを取りに来ただけだからすぐに戻るよ」
 新一の言葉を遮って降谷は自室へと足を伸ばす。
「は……?」
 何を言っているんだ。そんなに疲れているのに。そんなにオレと顔合わせるのが嫌なのかよ。
 よれたシャツの背中を見つめ、新一は彼に近づき腕を掴む。
「工藤くん?」
 降谷の困惑した声は無視する。
 苛々して今声を出したら怒鳴ってしまいそうだった。
 疲れているくせに、本当は自室でゆっくり休んだ方がいいとわかっているくせに再び職場へ戻ろうとする彼に腹が立った。
 もしかしたら降谷は新一に気づかれなかったから自室で休んだのかもしれなかった。でも気づかれたから着替えを取りに来ただけだと言うのだ。
 腹がたって仕方ない。そこまで嫌われていたことにも。それを隠して同居を続けていることにも。
 ぐっと唇を噛んで新一は自室へと足を踏み入れる。そのまま降谷の肩を押してベッドへと腰かけさせた。
「く、工藤くん?」
「寝ろ」
 降谷の腕を掴んだままぐいと肩を押し、自分のベッドに寝かせる。このまま逃げられるのも癪なので新一も横になった。
 降谷がネクタイを取っていてくれて助かった。シャッターなどは皺になってしまうだろうが、クリーニングに出すから構わないだろう。
「工藤くん。離して」
 くれないかと続けることはできなった。むぎゅと新一に鼻を摘ままれて黙り込む。
「何度も言わせんなよ。寝ろっつてんだよ」
 そっと鼻から手を離し降谷の目を見たくなくて、そのまま彼の瞼を隠した。
「オレと暮らすのが嫌ならとっとと出ていくから、とりあえず寝ろよ」
「……は?」
 降谷の目元を隠しているので表情は見えないが、低い声が響き、新一は体を震わせた。気のせいかとも思ったが、逆にがしっと腕を掴まれる。逃れようにも掴む力が強く、ゴリラかよと心の中で毒づいた。
「……ふ、ふるやさん?」
「……誰と一緒に暮らしたくないって」
 唸るような苦しげな声に新一は首を傾げた。隠していた降谷の目元から手を離すと彼は痛みを耐えるような表情をしていたので驚く。
 どんなに辛い任務であっても、それこそ黒の組織に潜入するという任務中でも彼のそんな顔を見たことはなかった。
「降谷さん」
 もしかしたら自分が降谷を苦しめてしまったのだろうかと不安になる。
「降谷さん、オレ」
 何かしましたか、という声は降谷の肩に飲み込まれた。ふわりと汗と降谷の香りがして、新一の心臓が跳ねる。
「……君がポンコツだっていうのは知ってたけど。勘違いさせたのなら謝るよ。ごめんね」
 別に君と一緒に暮らすのが嫌だったから帰らなかったわけじゃないよと耳元で囁かれ新一の体が強ばる。心臓がばくばくするし、降谷の体温と匂いが気になって軽くパニックだ。
「本当に忙しくてね。でも、決して君と会いたくないなんて思ったことはないよ」
「……でも」
「本当だよ。信じてほしい。ただどうしても不規則な生活だから、新一くんに迷惑をかけたくなくて」
 君には学校もあるしね、と優しく頭を撫でられ、コナンの時と同じ手のひらの温かさにホッとする。
「今日もね、着替えを取りに来てすぐに戻ろうかとも思ってたんだ。でも……」
「でも……?」
「新一くんの顔を見たら戻りたくなくなっちゃった」
 君のせいだ、と降谷は新一の頬をつねる。柔らかい笑みを浮かべつつも目は眠そうで、新一はそっと降谷の背を撫でた。
「……もうすぐで落ちつくから。その時はまた一緒に夕飯を食べよう」
 新一くんの話が聞きたいんだ。
 そのまま穏やかな寝息が聞こえて、新一は閉じられた瞼を指先でそっと触れる。
「オレも。オレももっと降谷さんと話したいよ」
 話したいことがたくさんあるし、降谷の話もたくさん聞きたい。
 まだ一緒に暮らし初めて二ヶ月しか経っていないし、もっともっと降谷のことを知りたい。
「早く仕事を終わらせてくれよ」
 ここであなたの帰りを待つから。
 温かな降谷の体温に引きずられるようにして、新一もそっと瞼を閉じた。




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