「田舎に引っ越してぇ」

デスクワーク中にそう呟いた隣の彼に、僕はパソコンの手を止めて横を見た。
昔ながらの湯飲みからはいつもの緑茶が入っているのだろう。湯気が出ていないということは随分前に熱は冷めてしまったらしい。
乱雑に積まれた書類に埋もれるように置かれたパソコンの画面は、僕らが作業にとりかかったときからさほど変わっていなかった。ということは全然書類整理が進んでないということが見てとれる。

「田舎ですか?」
「そう田舎。緑に囲まれた閉鎖的な土地で自由気ままに作物育てたり馬と遊んだり近所のじっちゃんばっちゃんとお茶飲みてぇ」
「書類整理が終わってからいくらでも楽しんでください」
「だっておれパソコン苦手だし…変わりに滝夜叉丸がやってくれよ」
「その様子じゃ今日中には無理ですね」

はぁ、とため息をついてうつ伏せに仕事を放棄した彼は、見た目に反して中身がとても古風な人間だった。ポニーテールにされた灰白色の髪が、彼が羽織っている紺色のジャージに散らばった。
コーヒーよりお茶、都会より田舎、パソコンより手書き、計算機よりそろばん。服だってスーツを着たがらない。着物のほうが動きやすいだのなんだの、ぶつくさ言いながら着替えてる姿を目にしたこともあった。変わった人だ、と何度思ったことか。

でも一番変わってるのは、僕のことを滝夜叉丸と呼ぶところだ。
今では彼が僕をそう呼ぶことに対し自分自身慣れてしまったし、周りももう何も言わなくなったけれど、僕の名前の何がどうなって滝夜叉丸になったのか全然理解できない。本人に聞いても一向に教えてくれないし、声がどうのこうのと言って直してもくれないのだ。
半分諦めているが、できればちゃんと本来の名前で呼ばれたいとこっそり思っている。彼が僕のことを滝夜叉丸と呼ぶとき、僕じゃない誰かを通して話されている気がしてならないのだ。

思えば初対面のときからその片鱗はあったのだと今になってわかる。
僕がこの捜査一課に配属されたとき、既に彼は在籍していた。興味なさそうに目暮警部の話を聞く彼を視界におさめながら、歓迎されてないんだなと漠然と思った。
そんな職場でこれからやっていけるだろうか、と不安になりながらも、何もそういう人ばっかりじゃないはずだと自分の士気を下げないように気を付けた。
僕が自分で自己紹介を話し始めたとき、弾かれたように彼が顔をあげて僕を見た。その突然の動きに僕も彼を見た。彼は酷く驚いた顔をしながら、僕を凝視していた。
そのことを不思議に思い自己紹介を止めた僕の視線の先を、周りの人たちが一斉に辿っていく。そうして行き着いた彼の表情に、目暮警部が「どうしたのかね?」と困惑気味に問いかけた。しかし彼はそれに答えることなく、ゆっくりと僕の前へと足を運ばせる。そしてわなわなと微かに震えながら、彼は僕の目を真っ直ぐに見てこう言った。

「お前っ…、平滝夜叉丸かっ!?」
「いやさっき高木渉って自己紹介しましたけど…警部も言ってくれてましたし…」
「君、わしの話も聞いてなかっただろう…」

僕の話はおろか、最初に軽い紹介をしてくれた警部の話すらも聞いていなかったということが全員の前で露見したにも関わらず、彼はずっと僕から視線を外さなかった。

「お前、戦輪の輪子はどうした?」
「は?せん、りん?りんこ?」

彼の言っていることが全く理解できず、首を傾げた。そんな僕の様子を見て、彼は少し寂しそうに笑って「そうか…」と言った。そのあまりにも泣きそうな表情に、思わずその場だけでも話を合わせたほうがよかったのかもしれないと少しだけ後悔した。
それでもすぐに気持ちを切り替えて今度はちゃんと笑って僕を見た彼は、先ほどの寂し気な空気を一切まとっていなかった。

「またよろしくな」

懐かしむように細められた目で優しい顔つきになった彼はそう言った。今日初めて会ったというのに、"また"という言葉が何故出てくるのか。

「時友名前だ。おれのことは時友先輩って呼べ」

そう言って握手を求めてきた彼の手に、曖昧に返事しながら自分のものを重ねた。

「はぁ…、よろしくお願いします。時友、先輩…」
「ん」

彼は満足そうに笑うと、唐突に後ろを向いて「ハチ!」と声をあげた。蜂が飛んでたのだろうか、と思った矢先、軽快な足取りでこちらに向かってくる一匹の犬が見えた。
大きな尻尾をゆらゆらと揺らしながら彼の周りをくるくると回ると右側にすっと座る。一見オオカミかと見間違うほど、その犬の容姿は凛々しく気高かった。
ずっと彼を見上げていたその犬は彼が握手を交わしている僕を視界にいれた瞬間、ピリッとした空気になった。思わず一歩下がりかけた足が、彼が握手で繋ぎ止めていたことでその場に縫い付けられた。

「そう怒るな。こいつは滝夜叉丸だ」
「いやだから違いますって」
「いやうん…違うんだけど違わないんだよ」
「えっと…おっしゃってる意味がよくわかりません…」
「こいつはハチって言ってな。おれの相棒なんだ」
「(あれ?スルーされた?)」
「時々この部屋にいるけど気にしないでくれ。あと噛まれるだろうから触ることはお勧めしない」
「えぇ!?き、危険じゃないんですか?」
「お前が余計なことをしなければ基本大人しいから大丈夫だ」

そう言って笑った彼の言葉の真意を探るために、ちらりと目暮警部のほうを盗み見れば苦笑いをするだけで一切否定しないところを見ると、どうやら本当のことらしい。先が思いやられそうだ、とげんなりして気付く。彼はいつまで僕の手を握っているのだろうか。
少し躊躇ったような顔で、言葉を選ぶように視線を彷徨わせた彼は、僕の手をぐっと握った。

「いつか…、杯を酌み交わそう。その時はそうだな…、お前は何が好きだったっけな?あぁ確か濃い目の梅酒が好きだと言っていたな。最高に美味いものを用意しといてやるよ」

そう言ってようやく僕の手を放した彼は、ハチを連れて捜査一課の部屋から出て行ってしまった。
その背中をぽかんと見送っていると、目暮警部がふいに僕に訪ねてきた。

「高木君。君は梅酒が好きなのかね?」
「え?いや…飲めないことはないですが個人的にビールのほうが好きですね…」
「………」
「え。なんかまずかったですか?」
「いや。いいんだ。まぁ、無理にとは言わんが付き合えそうなら付き合ってやってくれ。彼の持ってくるものに外れはないそうだからな」
「?、はぁ…」

人の名前は憶えないわ、全然違う名前で呼ぶわ、勝手に話を進めるわ、挙句の果てに好きな酒の種類ですら間違っているわで、彼への最初の印象は決して良いものではなかった。
けれどここでの仕事に関しては確かに彼が先輩なことには変わりないので指定された通り『時友先輩』と呼ばせていただくが、なにか腑に落ちないものがあった。

あれからいくつかの季節が過ぎたけれど、彼が僕を滝夜叉丸と呼ぶことも、僕が彼を時友先輩と呼ぶことも変わりない。違和感も疑問も腑に落ちない感情も、すっかり慣れによって有耶無耶になってしまった。慣れって怖いと改めて思う。

「お茶淹れてこよ」

そう言って席を立った彼の言葉により、随分と長く過去を振り返っていた自分の意識が呼び戻された。初めて会った日のことを思い出したもんだから、色んなことが懐かしく思えて笑ってしまいそうになる。
今じゃハチのいる空間が当たり前で、ハチも僕のことをこの部屋の一員として認めてくれた。それでもちょびっとしか触らせてくれなかったけれど、あの時のふわふわさらさらした感触は非常に心地良いものだった。それをわしゃわしゃと無遠慮に撫でまわす彼をどれほど羨ましいと思ったことか。

「ほい」
「え…」
「お前の分。ちょいと休憩な」
「あ、ありがとうございます…」

彼とは違って片付いている机の邪魔にならないところへ置かれた湯飲みには、彼が淹れたお茶がゆらゆらと湯気をのぼらせていた。いつもはコーヒーを飲みながら一息つくけれど、彼が一緒の時はこうして僕の分のお茶を淹れてきてくれる。
彼の淹れるお茶は雑味がなく、少し薄い色だがしっかりと茶葉の味がして結構美味しいのだ。熱すぎない温度を保つお茶を体へ流し込むと、胃に落ちた瞬間からじんわりと体が温かくなるのを感じた。

「いやぁ、やっぱりお茶はうめぇ…」

しみじみとそう呟かれた言葉に「ですねぇ」と緩み切った僕の返答を聞いた彼が、とても嬉しそうに肩を揺らして笑った。その動きに合わせてさらりと揺れ動く灰白色の髪は、紺色のジャージによく映えてとても綺麗だった。
見覚えがないはずなのに、どこか見たことある景色のような、そんな不確かで不明確な一瞬だった。これを『懐かしさ』と表現するのは少しだけ違うと思ったけれど、彼が僕にしてるように、僕も彼を通して誰かを重ねているのだろうか、と。柄にもなく思ってしまったのは秘密だ。



こじつけでも構わない

back