実践演習から自分のデスクに帰ると小綺麗な和紙に包まれた一升瓶が置かれていた。
思わず首を傾げた俺の隣で萩原も「何だそれ」と呟く。その様子を見ていたのか、給湯室から出てきた同僚が「それな、」と一升瓶を指差しながらコーヒーを一口飲んだ。

「なんかお前にって持って来たんだ」
「そんなの見りゃわかる。誰が持ってきたんだ?」
「さぁ?名前は知らん」
「はぁ?」
「ライトグレーの髪の長い青年だったな」
「「!」」

それって、と顔を見合わせた俺と萩原が思い描いた人物は同じだっただろう。初めて顔を合わせてから偶然か意図的か、未だに再会を果たしていないあの灰白色の髪をした彼の顔が一瞬で蘇った。
あの時去り際に口にした強めの辛口を用意してくれたのだろう。「これ絶対美味いぜ」と笑う同僚は更に肩を揺らして彼のことを面白い奴だと言った。

「なんかあったのか?」
「松田を訪ねて来たくせに松田の名前が言えないんだよ。グラサンかけた癖毛のやついるか?って言われて、まぁそんな特徴ある奴お前しかいねぇから名前言われなくてもわかるけどよ」
「あのヤロゥ…」
「松田陣平のことか?って聞いたら少し考える素振りをしてそんな名前だった気がするって自信なさげに言うもんだから腹抱えて笑っちまった。そんな名前も覚えてない相手になんで一升瓶を渡すんだって聞いたらさ、再会を祝うためだって言うんだ。尚更名前くらい覚えといてやれよ、ってな!」

彼の言葉の節々には身に覚えのないものが多く含まれる。再会を祝うため、と彼は言うが、次に顔を合わすのが二度目となるのに意味がわからない。
眉間にシワが寄るのを感じながら一升瓶を睨んでいると、底に何かが挟まっているのが見えた。それを見ようと手を伸ばしたのと同時に同僚が「そういえば」と言葉を続けた。

「置き手紙書いてたぞ」
「ああ、これだろ?」

裏返しにされていたメモを表にし、ざっと目を通す。思わずグラサンをとりまじまじと見る。俺の様子に荻原が「内容は?」と聞くが、俺はメモを睨むようにして言った。

「読めん…」
「「は?」」
「なんて書いてんだ?全く読めん」
「嘘だろ?お前…爆弾ばっかり解体してるからついに日本語も読めなくなったのか?」
「あ゙?じゃあお前読めんのかよ」
「ったく、貸してみろ。んー………、うん。読めんな!」

萩原に渡しても読めないメモを「俺にも貸して!」と騒ぐ同僚に渡しても読めないことはわかってる。
決して汚いから読めないのではなく、彼の書く文字が達筆すぎるのだ。まるで歴史の巻物に出てくるような繋げ字は本当に日本語かどうか疑うほど読解不能だった。ここまでくると最早ただのアートだ。

「これ上司の更に上司くらいに見せないとわからないんじゃないか?」
「いやーそれでも読めるとは思えないけどな…」

同僚と萩原の会話を聞きながら俺は一升瓶を持った。包み紙として使われている、金箔が散りばめられた白を基調とした和紙すらも上質なものだった。
メモになんて書いているのか。ここで読めない三人が騒いだところで読めない事実は変わらない。
唐突に背を向けて歩き出した俺に、萩原のどこ行くんだ、という質問が飛んだ。

「本人に直接聞いたほうが早い」

そう言って一升瓶を持ったまま向かった先は、現在彼が所属している組織犯罪対策部の部屋だった。俺がいる課と階が違うため、滅多に足を踏み入れない場所に妙に浮足立つ。
自分が思ってる以上に名前が知れ渡っているのか、すれ違う所々で噂話のように自分の名前が誰かの口から呟かれるのを聞いた。それにいちいち反応していたらキリがないので、適当に無視を決め込みお目当ての部屋を探し出す。

ふと視界に入った扉の前に、一匹の犬が寝そべっていた。
なんでこんなところに犬が?と驚いていると、気配を感じたのか閉じていた瞳が開かれ、俺を視界に入れた瞬間耳をピンと立たせた。ヒクヒクと鼻を動かし匂いを嗅ぐと、ウォン、と一度だけ吠えた。
それが合図だったかのように、犬が守るようにして背にしていた扉から、探していた人物がひょっこりと顔を出した。そうして棒立ちする俺を見るとニッと笑って「入れよ」とドアを開け、犬も中に入れた。その時に「教えてくれてありがとうなハチ」と犬の頭を撫でる彼の姿に、余計に疑問が沸くばかりだった。

あれだけ会わなかったのが不思議なほど、やけに簡単に彼に会えたことに、なんだか釈然としなかった。
まるで俺が来ることを知っていたかのように出迎えられ、誘われるがまま中へ入ると、いかにもな強面のおっさん達の視線が集中した。本当に警察か?と疑いたくなるほどの大人たちの中で、やはり彼だけが異質だった。
案内されたソファーへ腰を下ろすと同時に、妙な疲労感がぐっと押し寄せてきた。

「アッハッハッハ!」
「笑い事じゃねぇ」

ここに来るに至るまでの事の顛末を彼に伝えると声をあげて笑われた。
会うのが二回目だと思えないくらい、彼の態度は随分とフランクなものになっていた。出会った時から畏まった態度ではなかったが、妙な余所余所しさはすっかり抜けきっていた。
盛大に笑って満足したのか、笑いすぎて目尻にたまった涙をぬぐいながら、彼はようやく一息いれた。ジト目で睨む俺の視線を気にする様子は一切なく、彼はソファーの間にある机に置かれた一升瓶をゆるりと撫でた。

「てっきりおれは置き手紙を読んで来たのかと思ったぜ。まさか理解できてないまま訪ねてくるとはね」
「何だと?」
「"今夜開いてるならあの時の約束を果たそう"と書いたんだけど…ふふっ、まさか、読めてないなんて…ふはっ」
「もっと一般人にもわかるように書いてくれ」
「ん?今夜飲もう!って?」
「字だよ!字!もうお前部署メールで送ってくれよ。それが一番わかる。誰でもわかる」
「生憎おれはパソコンを扱うのがてんでダメでメールもまともに送れないんだが、その場合はどうしたらいいんだ?」
「………まじかよ」

俺より若く、しかも警視庁で働いているにも関わらずパソコンができないだと?
ふと視界に入った机は物が乱雑に積まれており、その中心にあるパソコンの画面すら確認できないほど書類とファイルで覆われていた。その机の傍らに先ほどドアの外に寝ていた犬が大人しく座っていた。その視線はずっと彼へと注がれていた。

「まさかとは思うが、あの机お前のか?」
「ん?あぁ、そうだ。よくわかったな?」
「嫌でもわかるわ」

最早パソコンに触る気もないのか、片づけることもせず部下に回してるという横暴な一面を見せてくれた。こりゃ部署メールなんて一生来ないな、と思った俺は、早々にその思考を諦めた。

「せめてもっと読める字を書いてくれ。あんな草みたいなひょろいのじゃ誰もわかんねぇよ」
「お!よく理解してんじゃねーか。あれ『草』に『書』って書いて『草書』って言うんだよ」
「知りてえのはそこじゃねぇ」
「いやぁいつもの癖でさ。意識せずに字書くとああなっちゃって。よく上司に怒られんだよねー。読めねぇから書き直しって」

ほらな。結局上司に聞いたって上司の上司に聞いたって彼の書く字を読める奴はいねぇんだよ。

「癖強いからなぁ。い組の二人には特によく怒られてたよ」
「あ?誰だって?」
「ん?あぁ、いや…」

言うはずじゃなかった言葉を言ってしまったような、気まずそうな顔でそらされた視線に深く掘り下げようとしてやめた。
そんなことをしても俺にはなんの得にもならないような気がしたから。

「お前普通の字書けんの?」
「書けるぞ!ちょっと待ってろ!」

散らかった机に向かって適当な紙とペンを探す彼にゆるやかに尻尾を振るハチと呼ばれていた犬。
なんで部屋、というか警視庁の中で犬が自由に歩き回ってんだか。その自由が許される位置にいる彼だから仕方ないと言われればそうなんだが。

「なぁ、その犬触っていいか?」
「ん?ハチのことか?うーん…まぁいいぞ」
「なんだその間。噛むならやめとくが」
「いや。多分噛みはしないが…お願いしないと触らせてくれんだろうからな」
「ふーん…」
「だがまぁ、まじないをかけてやろう」
「まじない?」

紙は見つけたがペンを見つけることができなかった彼は探すことをあきらめて隣の机から拝借していた。
足元にピッタリとくっつくハチと目線を合わせるようにしゃがんだ彼はハチの耳元で言い聞かせるようにこう言った。

「ハチ、あいつは小平太だ。だから行ってやってくれ」

彼の目をじっと見つめていたハチだったが、何かを観念したように乗り気しない足取りで俺のほうへと近づいてきた。
まるで人語を理解しているような、それでいて確かな人格があるような、犬らしくない気高さをもった犬だった。

シベリアンハスキーのような顔立ちに体の大きさだが、彼曰くオオカミ犬らしい。そこにいるだけで気迫がある目だ。

おもむろに伸ばす俺の手の行方を追って動く瞳は彼の瞳と同じ綺麗な灰色をしていた。
たくさんの空気を含んだあの感触を、一度味わったら忘れられない手触りを、いつだって無遠慮に撫でまわすことができる権利を持ってる彼が心底うらやましいと思った。
っつかあの野郎、さっき俺のことまた”小平太”って言わなかったか?だから誰だよ小平太って。ほんと意味わかんねぇなコイツは。



ほとんどあなたのせい

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