ティーネイジ1 「おはよ、おつかれ」 「ういーす」 目の前の椅子が私の机にぶつかる。跳ね返ることなく止まった椅子にどさっと彼が座ると、背もたれの端がセーターの背に引っかかるのが見えた。気づかない様子のその背中は構わず床に置いたエナメルバッグに手を伸ばす。プチ、とベージュの繊維が切れる音が聞こえてきそう。彼の広い背の、ちょうど椅子の端が沿う部分にだけ少し毛玉ができているのを見ていた。ここ数日、そればかりを眺めている気がする。 朝のショートタイム前の教室はとても賑やかで、前後の席でも話かけるには少し声を張らなければならない。もとより小さな地声ではないし、なんのことはないクラスメートとの世間話だというのに、ましてや挨拶だって済んでいるのに、私はためらったのちに開きかけた口をつぐんだ。 らしくない。友達に話したらそう言われてしまいそう。奥手なんかじゃないし、大人しくなんかないし、異性と話すのが苦手なわけでもない。むしろ彼みたいなタイプとは自分から仲良くなりにいく方。だと思う。自分でもそう思うのに。 「松岡」 低い声が降ってくる。バッグから教科書やノートを数冊つかみ出す彼の手元から自分の視線が離れて、ぐいっと上に引き上げられた。 同じ高さの椅子に座ってるはずなのに、声を発する顔は頭ひとつ分上にある。 「リーディングの予習見せてくんね」 「…やってないの」 「やってあるに決まってんだろ?確認だよ確認」 俺きょう日付的に当たんだよー。あんま自信ねーし、見るだけ見るだけ。 ニッと歯を見せる笑い方は、彼の癖のようなものだった。わたしは自分がこの男のことを好きだとかどうだとかはわからなかったけれど、この表情はとても好きだった。 「…ちゃんと返してね」 「サンキュー」 横向きに座って自分のノートと私のノートを見比べる。パラパラとページをめくる指先は私の何十倍も逞しかった。 バレーって、指先まで鍛えられるんだ。 かっこいいなあ、なんて、思ってるのがバレてしまわないようポケットを探りながら視線を外した。こんなことになるんなら、もっと綺麗にノート取っとくんだった。予習ももっと丁寧にやっとくんだった。取り出したスマートフォンの画面を指で流して、全く頭に入ってこない文字に目を滑らせる。 三年生になって、初めて同じクラスになった。男子バレー部のキャプテン。その役職に違わぬ体格と、おちゃらけているようでどこかしっかりしている彼のキャラクターは男女ともなく人を集めた。それまでほとんど話したことはなかったが、だからと言ってお互い内気なわけじゃなかったから初対面から特に難なく会話は成立した。”イメージ通りのいいやつ”という印象が変わってきたのは、わずか2週間前の席替えからだった。 「あのさ」 机上に私のノートが弾む。「ここってなんでこの訳になんの?」彼は肘ごとわたしの机にもたれて指でノートを指した。青い鳥のタイムラインからノートに目を移すと「ここ」と長い人差し指がトントンと紙面を叩く。ちらりと目だけで黒尾の表情を窺った。伏し目でノートを見る彼は、いつもどおり飄々としていて余裕があるように見える。…わたしも、どちらかといえばそういう態度が得意なはずなんだけど、 「これはたぶんこのitがこっちの文の意味で…」 黒尾がわたしの視線に気づく前に、考えてることを探られる前に、なんにもありませんよって顔で受け答える。悔しいから、恥ずかしいから、何か言われたら困るから。 「ほえー」 間抜けな声で口角を下げる黒尾がなんだか可笑しくて口元が緩んだ。「ほえーって、なにそれ」体躯に見合わぬ言動に思わず笑うとふと黒尾がワンテンポだけ動きを止めた気がした。 「んーじゃ これは?」 止めた気がしたけど、わたしが疑問に顔を上げる頃にはもう彼は次の言葉を発していて、釣られて私もノートに視線を戻した。 横向きに座っていた黒尾が背もたれを脚で挟むように座り直す。身体ごとこちらに向けて頬杖をつくとさっきよりもぐっと顔の高さが近づいた。 脚、ながい。そりゃそうか 身長が身長だし。 …なんか、顔近い。 顔近いし、すごい見られてる気がする。 気のせいかもだけど… 心乱されてることを悟られないように、気にしてない素振りで口だけ達者に回った。いっそ顔が近いことに気づいてませんみたいな風を装って、黒尾の顔を視界に入れないように話した。 # 進級してから初めての席替えで、新しく誰かと仲良くなれるかなーなんて少し期待していた。前後左右を確認して、親しくなれそうな雰囲気に心を弾ませる。座席の位置的には真ん中後列っていう微妙な位置だけど、あんまり話したことないけどノリの合いそうな顔ぶれが揃っていていい感じだ。 「よろしく松岡チャン」 目の前の椅子を引いたのは背の高い黒髪で、 「そのさあ、黒尾くんってのやめね?」 「ガラじゃないっしょ〜」 「部活行かなくていいの?」 「今日はミーティングだけなんです〜」 「…そのミーティングにキャプテンがいなくていいの?」 「どうせ海と夜っ久んが仕切ってくれるし、今度の遠征の連絡共有だけだから問題ナシ」 「ふーん」 「日直だから遅れるって言ってあるし」 「部活のことはあんまよくわかんないけど、あんま海くんと夜久に迷惑かけないようにね」 「ただでさえいつもお世話になってんじゃん、夜久とか」 「いつもは俺がお世話してるんですー」 キャプテンなめんなー? 「まあ、部活のことはよくわかんないから、黒尾がそう言うんならそうなのかもしんないけど」 「………。」 「なに」 「いんや?」 「……なに」 「別に?なんでもねえよ」 「さっさと書きなよ…」 にこにこにこ 「…帰っていいかな?」 「わかったわかったすぐ書くって」 「そんな怒んなよ、可愛い顔がもったいねーぞ」 「おつかれ」 「ストップストップ」 「早く書いてよ、何分かかってんの」 「あと今日の一言だけ!」 「…松岡さあ、」 「……」 「夜久と仲良いよな」 「…どしたの、急に」 「別に?気になっただけ」 「仲良いっていうか、一年の時同じクラスだったからその延長って感じだけど、」 「ふーん」 「おやおや?」 「黒尾くん、ヤキモチですかあ?」 「 そうだけど? 」 「…愛が深いねえ、バレー部は」 「………」 「夜久が鬼嫁で黒尾がダメ亭主かな?」 「何言ってんのお前」 「確かに夜久は可愛いよねえ」 「お前、わかって言ってんだとしたら相当性格わりーな」 「…なんか怒ってる?」 「あー、まぁいいや」 「ちょっと、気になるじゃん」 「言い方を変えてやろう」 「夜久と俺だったら、どっちがいい」 「…なにそれ」 「そのまんまの意味ですー」 「何を基準に良し悪しを決めればいいのよ」 「そりゃ男としてに決まってんだろ」 「何企んでんの」 「なーんにも?」 「夜久かな」 「って言ったら、落ち込んでくれんの」 「キレる」 「短気かよ」 「とりあえず夜っ久ん一発殴ってから帰る」 「じゃあ黒尾だよ…」 「そーんな当てつけみたいに選ばれても嬉しくねー」 「なんなのあんた一体」 「”夜久より黒尾のが好き”って言ってみてよ」 「…なんか夜久のことけなしてるみたいで嫌」 「じゃあ”黒尾のこと好き”でもいいや」 「…意味変わってきてない?」 「いいじゃん、言ってよ」 「やだよ」 「照れんなよ」 「いや普通に恥ずかしいでしょ」 「照れんなよー」 ← → back |