碧落のあなたへ

 息を深く吸い込むと、生薬の独特な匂いが鼻をついた。青い香りが混ざり合い肺を満たす。千早はそんな匂いが嫌いではなかった。花のように馥郁ふくいくとしたものではないが、その匂いは彼女に落ち着きを与えてくれる。
 千早は一息つくと作業に取り掛かった。問屋で買い付けた生薬をひとつひとつ、百味箪笥に書かれた薬種の札を頼りに仕舞っていく。小さな抽斗ひきだしが沢山ついたそれは目当ての名前を探すだけでも一苦労だ。

 しばらくそうしていると戸を開く音が耳に届いた。丁度作業を終えた千早が後ろに視線を向けると、そこに立っているのは沈んだ表情をした少女だ。
 千早はその表情で全てを察したように口を開いた。「千鶴」と彼女の名を呼びかけると、俯いたままだった彼女の視線が千早のものと交わる。

「今日も綱道さんからの手紙はなかったんだね」

 千鶴は暗い表情で頷いた。よほど胸を痛めているのだろう。それは千早も同じだった。

 綱道とは千鶴の父であり、この雪村診療所を営む蘭方医だ。そして、両親を失った千早の面倒を見てくれた命の恩人でもある。
 彼はお上からの命により、娘と千早に診療所の留守を任せ京へと発った。筆まめな性格だった彼はよく手紙を寄越していた。数日おきに飛脚問屋に寄るのが二人のお決まりになるほどだ。
 ところがある日を境にそれが止んだ。筆を執る暇もないほどに御勤めが忙しいのかと暫し待ってはみたが、一向に手紙が届く様子はない。二人の心には、日に日に憂いが募っていった。特に千鶴にとっては唯一無二の父だ。毎日のように飛脚問屋を訪れては肩を落とす彼女を、千早は見ていられなかった。

「千早さん」
「どうしたの?」
「私……私、京に行きます」
「えっ、京に?」

 思いもよらぬ言葉に、千早の声が裏返る。まっすぐと千早を見つめる目は、真剣そのものだった。
 一体いつから、一人でそのようなことを悩んでいたんだろうか。思い詰める彼女の様子に気付いていながら、何もできないでいたことが内心恥ずかしくなる。これでは千鶴の姉貴分として失格じゃないか!
 自責の念から黙り込む千早の様子に、千鶴は慌てたように声を上げる。

「あ、あの! 勝手なことを言ってごめんなさい……千早さんには、診療所の留守を任せしてしまうことになりますが……」
「千鶴。本当に一人で京に向かうつもり?」
「……はい」
「知っていると思うけれど、京は物騒なところだよ。尊皇攘夷を掲げる過激な浪士も多い。道中だって賊や雲助に捕まるかもしれないし、そもそも関所を抜けられないかもしれない」
「……わかっています」

 千鶴がぐっと着物を握るのが目に入る。厳しい言葉かもしれないが、きっと彼女だってわかっているはず。それでも綱道の身を案じ考え抜いた結果があの言葉だったのだろう。彼女がそれだけの覚悟を決めていることは、その強張った顔から、握りしめた手から、真っ直ぐな瞳から見て取れる。
 千早は唇をぎゅっと結ぶと、意を決して声を上げた。

「私もともに行きます」
「え?」
「千鶴が京に行くのであれば私が同道いたしましょう」
「でも、それじゃ千早さんに迷惑が……」
「迷惑だなんて。妹分が危険に晒されている中一人平然と診療所に居られるほど、私は無情ではありません。それに……」

 「胸騒ぎがするんです」千早は調子の低い声でそう告げる。確信的なものではない、漠然とした不安。そんなものが千早の中でうごめいていた。
 千鶴が固唾を呑むのを横目に見た千早は、緊張した空気を晴らすようにぱちんと手を打った。努めて笑みを作り明るい声を上げる。

「そうと決まれば支度をしないとね」
「……ありがとう、千早さん」
「いいよ、気にしないで」

 千早がそういうと、千鶴の顔からは緊張の色が消え、代わりに安堵したような笑みを浮かべる。決意をしたとはいえ一人旅ということで不安があったのだろう。それもそのはずだ。お伊勢参りとはわけが違う。一人での旅は宿でも嫌がられるというし、京に辿り着く前に行き倒れるかもしれない。
 それにしても…どうしようか。千早は一人考え込んだ。二人になったとはいえ、千早も千鶴も女である。女のみの旅は珍しく、目をつけられやすいだろう。宿を借りるのも難しいかもしれないし、そもそも入鉄砲出女と言うだけあって関所を抜けることすらできないかもしれない。
 男であれば二人旅は珍しくない、むしろよくあることだろう。例えば弥次喜多のように。

「そっか、それだ」
「千早さん?」
「千鶴、男装はしたことある?」
「男装……?」
「そう、男装」
「ないです」
「だよねぇ」

 「おいで」と千早は千鶴の手を引き、診療所の奥に向かった。
 奥にある二人の寝室に隣接した納戸に入ると、埃っぽい空気が二人を迎える。千早は「確かこの辺にあったような」と記憶を頼りに隅に置かれていた行李を引っ張り出した。柳で編まれた丈夫なそれを開くと、中から出てきたのは袴だ。
 千早は幼い頃からよく男装しては剣術の稽古を受けていた。綱道のもとに身を寄せてからもそれは同じだ。出てきた袴は、千早が千鶴と同じ年頃の時によく身につけていたものだろう。

「これは確か……千早さんが着ていたものですよね?」
「そう。お下がりで申し訳ないけれど、これを着ていこうか。女の格好で歩いていると何かと面倒だからね」
「確かに……こっちの方が動きやすそうですし、そうしましょう!」
「慣れない格好をさせてしまってごめんね」
「気にしないでください、身のためですから」
「ありがとう。着付けはできる?」
「ええと、多分。試しに着てみます」

 行李から出てきた袴を千鶴に手渡すと、自分の袴を引っ張り出す。男装するのはいつ振りだろうか。ここ最近は綱道に変わり診療所の往診に行ってばかりで、剣の稽古にも久しく行っていなかった。
 中に残っている着物を一瞥し行李の蓋を閉じる。襦袢や小袖は普段使っているもので大丈夫だろう。

 行李を元あった隅に戻すと、納戸を出る。早速袴を着付けようとする千鶴を一目見ると、床の間に置かれている二振りの刀へと視線を移した。一振りは千鶴の刀、もう一振りは千早の刀だ。しばらく手に取っていなかったこの刀も携えた方が良いかもしれない。

(それよりも、問題は…)

 千早は鏡台の前に膝をつくと鏡を覗き込む。こちらを見つめる女は、まるで老婆のように色の抜けた髪をしていた。父にも母にもなかったこの髪色は、何代か前の先祖譲りのものらしい。いわゆる先祖返りとかいうやつだろう。
 鏡の中の女はため息をつくと、軽く結っただけの髪を摘んだ。この髪だと目立って仕方がない。二十余年と付き合いの長いこの髪が嫌いなわけではないが、馴染みのない場所で向けられる好奇の目は嫌だった。

「いっそ黒油でも買おうかな……」
「ええっ染めちゃうんですか!?」
「目立つし、その方がいいかなって」
「綺麗な色なのに……染めるなんて勿体ない!」
「そう言ってくれるのは千鶴くらいだよ」

 千早が笑いを浮かべると、鏡越しに見える千鶴がむっと顔を顰める。実際に綺麗だなんて言ってくれるのは千鶴と綱道くらいだった。二人は千早の髪をまるで月の光のようだと褒める。その度に千早はどう言葉を返していいかわからなくなり、照れたような困ったような笑みを浮かべるのだ。

「染めても洗えば落ちてしまうし、その度に染め直すのは手間じゃないですか?」
「確かに、何度も小間物屋に寄るのもな……」
「髪は手拭いや頭巾で隠してはどうですか? それなら髪を染めるような手間もかからないですし」
「……そうしようかな」

 手近にあった手拭いを取ると、髪を覆うように頬かむりをする。これならば髪も隠せて寒さも凌げる、一石二鳥だ。確かどこかの行李に黒頭巾が入っていた筈だ、それも使えるだろう。
 頬かむりを外すと、後ろにいる千鶴へと視線を向ける。

「どう? 着られる?」
「袴紐の結び方が……」
「どれ」

 千鶴の正面で膝をつくと、手早く紐を一文字に結んだ。千早が「これでよし」と結び目をぽんと叩くと、千鶴は鏡に映る見慣れない姿の少女をしげしげと見た。

「とりあえず丈とかは問題ないな。細かい結び方は後で教えるよ」
「はい、ありがとうございます!……ところで、千早さん」
「はあい?」
「京に向かうのはいいですが……どうやって父様を探しましょう」
「それなんだけど……いつだったかの手紙に、何かあったらこの方を頼りにするようにとか書いてあったような。名前は確か……」
「あぁ、それなら確かこの辺りに」

 千鶴は文机に置かれている文箱を開くと、中に入った沢山の紙の束を手に取った。何度も読み返された綱道からの手紙は随分と草臥れている。千鶴はその中から一つの手紙を取り出し開いた。手紙には例の御仁の名前と診療所の場所などが記されている。 

「これだ。松本良順先生……」
「綱道さんと同じく、お上に仕える蘭方医の方ですか……」

 二人で文を覗き込むと、まるで目に焼き付けるようにじっと見つめた。
 この名が、綱道に繋がるかも知れない唯一の糸なのだ。か細く頼りない四文字に、今は縋る他なかった。


Hocus Pocus