芒種
わたしにはヒモの才能がある。
まず第一に、とても重要なことだが無職であるということに全くの抵抗がない。どうやら世の中の多くの人は全く働かない状況が長期間続くと精神的に参ってしまうらしい。
働かないのが一番楽でいいよね、とヒモ仲間と笑い合っていたがそんな彼女もこの間久しぶりに連絡をとってみたところ今はかなり追い込まれているみたいだった。とんでもないお金持ちの家に転がり込むことができたとすごく喜んでいたはずなのに。この家から逃げたい、と涙声で語っていたがいったい何が不満だったのだろう。お金持ち特有の変な趣味の餌食にでもなってしまったのかもしれない。
もったいないなあ、と思いながらわたしはアイスコーヒーにさしたストローに口をつけた。
チェーン店で買ったその中の氷はずいぶん溶けてコーヒーは味が薄くなっている。不味いというほどでもなく、かといって美味しいとも言えないそれをちびちび飲みながらテラス席から街の雑踏をぼんやりと眺めた。
わたしにはヒモの才能がある。
年上のお姉さんたちに可愛がられ養ってもらい寝る場所も食べるものも服や化粧品にだって困ったことはなかった。他人から尽くされるのがとても上手だと自負している。それに他人への奉仕が好きな人を見つけるのも得意だった。
けれど、そんな才能あふれるわたしでもダメなときはダメなのだ。
ちょっと前までわたしのことを養ってくれていたお姉さんは歴代でもトップクラスに好条件だった。毎日お小遣いをくれるしわたしが好きなものを何でも買ってくれた。夜だって楽しませてもらった。嫌なことなんて何ひとつなかった。
でも、お姉さんはわたしに本気になり過ぎてしまったのだ。将来について熱く語る彼女の様子に関係性の終わりを感じた。わたしたちの関係は一時的なものでなくてはいけない。コーヒーチェーン店の期間限定のメニューを毎日飲み続けるものではないのと同じだと思う。高カロリー高脂質で砂糖まみれが許されるのはそれをたまにしか口にしないからだ。
だからこれ以上はダメだな、と思って一週間前にお別れをしてきた。お姉さんは泣いていたので彼女に買って貰ったハンカチでその涙を拭いてあげた。ちょっとだけ可哀想だと思ったけれど、わたしは私物(やはり彼女に買ってもらったものがほとんど)を詰めたキャリーケースを片手にお小遣いを握り締めて家を出た。お姉さんは追いかけてこなかった。
わたしはヒモの才能がある。
寝床を提供をしてくれる知り合いならたくさんいるのでこの一週間はそんな家を転々としていた。このまま一緒に住む?と言ってくれるひとも何人かいたけどいまいち乗り気になれずあちこちの家にふらふらと向かった。次のひとをそろそろ探そうかな、という気も起きなかった。
前のひとにたっぷり甘やかされてしまったせいで次の人へのハードルが上がってしまったのだ。やはり砂糖の摂り過ぎはよくなかった。お別れはそんなに悲しくはなかったのに彼女の甘さはずっと後を引いている。
そんな甘ったるさを断ち切るようにカップに残ったアイスコーヒーをすべて飲み干した。氷がほとんど解けてしまいもうコーヒーとは言えない液体になってしまっていた。喉は潤っても舌はまだ苦味を求めている。
ふいに、小さな笑い声が聞こえた。不思議と街の喧騒に飲み込まれないその声に思わず周囲を見渡すと隣のテーブルの人が新聞片手にこちらを見ていた。グレーのスーツにハットを合わせたそのお姉さんは涼し気な目元を細めている。そして押し殺すような笑い声のあとに言葉を続けた。
「失礼。ずいぶんと不味そうにコーヒーを飲んでいたものだったから」
顔に感情が出やすいのはある意味自分の長所だと思っている。その方がなにかと都合がいい。
そんなことよりもだ。
隣にこんな人がいるのにどうしてわたしは気が付かなかったのだろう。
陽の光を弾く金の髪、挑戦的で怜悧な瞳、ピンと伸びた背筋、新聞を持つしなやかな手、タイトスカートから覗く組んだ脚。
美しいひとだ。
わたしは言葉のキャッチボールも忘れてしばらく見つめることしかできなかった。
「待ち人来ず、といったところか」
そう言ってお姉さんは艷やかな唇に笑みを浮かべた。どきりと心臓が一度大きく跳ねて、その色に思わず釘付けになる。彼女の唇や瞼にのせている色をわたしは持っていないしこれから持つこともないだろう。人を選ぶ色だ。いや、お姉さんが選んだ色だからこんなにも似合うのだ。
帽子の影に隠れた左目の上には何か光るものがあって、アクセサリーの一部かと思ったけれどそれは蜘蛛のような銀色の線だった。わたしの視線の動きに気付いた彼女は親切にも見やすいように帽子の鍔を少し上げてくれた。
「お姉さん、すごく素敵だね」
自然とそんな台詞が出た。わたしは自分が気の利いた褒め言葉を言える方ではないことをこの時初めて後悔した。彼女の魅力を伝える言葉を知らない不勉強さを少し恨んだ。
それでも気を取り直していつもそうするように話しかけてみる。
「ねえ、素敵なお姉さん。どうしてわたしに声をかけてくれたの?」
「何故だと思う」
「わたしがかわいいから?」
ごく当たり前のことを言うと、お姉さんはまた笑った。今のは笑う場面だったのかな。
「そうか、そうだな。お前が可愛らしいからだということにしておこう」
分かりきったことでも褒められると嬉しいのでお礼を言う。
「ありがとう」
そう言ってわたしは立ち上がるとお姉さんの向かいの席に座る。許可は貰わなかったけれど拒否するような雰囲気でもなかったのでその態度に甘えることにした。
さっきよりもお姉さんが近くにいる。やっぱり近くで見ても美しさは変わらなかった。むしろ細部のつくりの丁寧さが際立つ。隙なんてものも全く見当たらない。
顔に落ちる睫毛の影をじっと見つめながら、わたしはお姉さんにまた質問をする。
「新聞、なにかおもしろいこと書いてあった?」
「ちなみに興味がある分野は?」
写真と小さな文字で埋まるそれに一瞬目を向ける。見出しには狂瞳病患者に対する新しい政策がなんとかかんとかと小難しい表現で書かれていた。そして改めてお姉さんと視線を合わせる。
「お姉さんが興味あるものをおもしろいと思いたいな」
「ふふ、なるほどな。可愛らしいことを言ってくれる」
また褒められたのでわたしはにこにこと笑う。
今は興味がないことでもお姉さんが教えてくれた内容ならきっとおもしろいと感じられると思う。
学生時代にだってちゃんと授業を聞いていたのはわたしが好きだと思った先生のものだけだった。好ましい相手が喋る内容ほどわたしの胸に響くものはない。
なによりこのお姉さんは声までもが素晴らしい。ハリがあって、力強く、たっぷりと余裕がある。彼女が喋るたびにわたしの内臓を震わせる。言葉のひとつひとつがわたしの頭の中に深く刻まれるようだった。
そうしてわたしは熱心にお姉さんを見つめながらさらに会話を続けてみる。彼女を知りたいというよりもその声にじっと耳を傾けてお姉さんの纏う雰囲気に浸りたかった。
お姉さんからすればわたしはかわいい野良猫のようなものだろう。気まぐれに少し相手をしただけなのに人懐こく足元に擦り寄って腹まで見せて甘えてくる。
わたしはそうやって無防備さを発揮することで相手の懐に潜り込むのだ。拾ってやらないと野垂れ死にそうだと思わせるのだ。
するとお喋りの最中にお姉さんは急に無言になった。わたしもそれに倣って黙ってみる。
視線だけでやり取りをしてみるけれどわたしにはお姉さんの考えが読み取れず瞬きを繰り返すだけだ。
そして、お姉さんは組んでいた長い脚をほどくとそのまま立ち上がる。わたしは座ったまま彼女を見上げると逆光に顔が浮かんでいた。
「もう少しマシなコーヒーを飲む気はないか?」
お姉さんは少しだけ顔を傾けてそう言った。その動きに合わせるようにピアスが揺れて光を反射する。返す言葉なんて決まっていた。
「お姉さんの家でだしてくれるならいいよ」
自分ができる限りの最高にかわいい笑顔を浮かべる。
そうしてわたしはこの最強に刺激的なお姉さんの家に転がり込むことに成功したのだった。
やはり、わたしにはヒモの才能がある。back>
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