トプシー
世の中には、血と臓物がぶちまけられる瞬間を恍惚として見入るような人種がいる。
私はそんな悪趣味な連中を悦ばせるためだけに毎夜毎夜ステージに立つ。
怯えた目をした鹿を鎖で繋ぎ、樹の枝のように生えた角をハンマーで折り、鉈で首を切り落とす。唸り声を上げる大型犬の口を拘束具で固定し、手足を潰してから腹を大きな鋏で切り裂いて臓腑を引き摺りだす。羊を、馬を、鳥を、猫を、あらゆる生き物を嬲る。
暖かな体温をもったそれらが血を吹き出し悲痛な声を上げるたびに観客たちは歓声と拍手をステージへと贈る。私はそれに応えるように生首や臓物を銀の皿に載せて口づける。そうして舞台は最高潮を迎え幕を下ろす。
シャワーのバルブをひねり、頭から冷水を浴びて血と肉片を洗い流す。ボトルを何度もプッシュして出したボディソープを泡立てて全身をこする。白い泡と赤が混じり排水口へ流れていく様を見つめる。髪から爪先まで執拗に洗っても生臭さが取れた気がしない。ずっと、慣れない。積み上がった動物の死体も、悪趣味な連中の視線も、血と臓物の温かさも。
シャワーを止めてバスタオルで大雑把に体の水分を拭き取る。インナーを身に着け、そのまま寝室へ足を運ぶ。濡れた髪から次から次へとしずくが滴り落ちるが乾かすような気力は残っていない。とにかく一刻も早くベッドに飛び込み泥のように眠ってしまいたかった。
寝室の扉を開き視界に飛び込んできた不法侵入者の姿に私は眠気を吹き飛ばし身を強張らせたが、その正体に気が付いた瞬間に脱力する。
「ナチャ、どこから入って来たの?」
一応、問いかける。すると彼女は美しく飾り立てた指先で窓をさした。
「蛇はどこからでも入ってくるのよぉ?」
くすくすと笑うナチャは我が物顔で私のベッドに腰かけて脚を組んでいる。彼女の道化めいた容姿と生活感のある部屋のギャップが凄まじく何かの合成映像にすら見える。
ナチャ。ファントムエンタメの超売れっ子にして猟奇パフォーマー。同じ芸能事務所に所属しアニマルスナッフを売りにしている私からすれば仕事を奪い合うような関係だがその人気は比べるまでもない。
「ベッドから下りて。そして速やかに出ていって」
ベッドの上の蛇女を追い払うようにシッシッと手を動かす。相手は自分より遥かに売れているパフォーマーだがそれで引け目を感じるような感性ではこの世界では生きていけない。
「嫌よ」
ナチャはゴロンとベッドに倒れ込むとうつ伏せになってこちらを見上げる。蛇のように縦に開いた瞳孔が獲物を見定めるように私に向けられた。
「寒いわぁ。眠ってしまいそう。空調を入れてくれないかしら」
「私は寒くないから問題ないわ」
ベッドに近づき、シーツにくるまる侵入者を部屋から摘まみだそうと手を伸ばす。しかしナチャに指先が届くよりも先に彼女の手が私の手首を掴む。ひやりとした蛇のような体温だった。本当に外見も体質までも蛇のような女だと少しだけ感心していると、その華奢な体格からは想像も出来ない力強さでベッドへと引きずり込まれた。
突然の出来事に私は混乱し動きを止める。気が付くと蛇女は私に馬乗りになってこちらの顔を覗いていた。エメラルドグリーンの鮮やかな髪が重力に従って私の体に落ちてくる。天井からぶら下がる照明を背景に女の顔が浮かぶ。
「シャワーを浴びてきたんじゃなかったの?こんなに冷たい」
ナチャの指先が頬を撫でる。彼女も人のことを言える体温ではないだろうに。
「髪も濡れたままだし」
可愛らしく唇を尖らせたその姿は猟奇パフォーマーの一面からは想像できないものだった。しかしその意図が読めなければうすら寒い行動なだけだ。
私は彼女のことを何ひとつ理解できていないのだ。
他人の部屋に勝手に侵入する理由も、こうして私に関わる理由も何も知らない。ただの暇つぶしだと片付けてしまえばそれで終わりではある。けれど私は、理由を探している。
ナチャはいつも、私の心身が疲弊しているときに限ってやってくる。普段なら強引に追い返すことができるだろうが、流されるようにこうして居座ることを許してしまっていた。
「どうして」
「ん?」
濡れた私の髪を指先で弄んでいたナチャが首を傾げてこちらを見る。
「私で遊んで楽しいわけ?」
すると女はぱちくりと目を瞬かせ、笑みを浮かべた。狂乱と慈愛の混じり合う異様な表情だ。
「違うわ。私はあなたに幸せをあげたいだけよ」
ナチャは私に頭を近付け、そして首筋に顔を埋めて軽く息を吸い込む。湿った吐息が肌に触れた。
「血と内臓と石鹸の匂い。あなたの匂い」
彼女が呼吸するたびに大きな帽子とリボンが動いて髪が揺れる。喋る度に唇が素肌にあたった感覚があった。甘ったるい声は劇薬のように鼓膜を犯す。そうすると私は体の自由を奪われたように動けなくなる。
鋭く整えられた爪先が私の肌の上をすべった。首筋から鎖骨、そして剥き出しの肩へと。くるくると円を描くように爪は皮膚を引っ掻く。痛みはなくむしろくすぐったいくらいだ。
「明日の夜は何を殺すの?犬?猿?山羊?それとも熊かしらぁ」
インナーの中に手のひらを差し込みながらナチャは問いかけてきた。不埒な手を払い除ける気力はなく私は取り繕うこともせずに答える。
「蛇よ」
ナチャの動きが止まる。
「大きな蛇。人を飲み込めるくらいに」
首筋に埋まっていた顔が持ち上がり、蛇の目が私を見下ろす。
「子羊を飲み込んだ蛇を解体するのよ。皮膚を割いて、内臓を切り開いて、消化されかけてる子羊を引き摺り出すの」
悪趣味だ、と頭では思っている。けれど明日になれば私は滞りなくパフォーマンスを完遂するだろう。
「子羊を飲み込んだ蛇の」
ナチャは私の台詞を繰り返しながら、インナーの内部に侵入しかけていた手を引き抜くと唇に触れてきた。
「内臓を割いて」
唇から指先が動き、喉からみぞおちの下までたどり着く。布地越しに力を込められ皮膚が沈んだ。
「子羊を引き摺り出す」
さらに力が込められ息が詰まる。けれどそれは数秒のことで苦しみは長く続かなかった。
もしかして彼女は怒っているのかもしれない。ナチャのパフォーマンスは蛇と共にある。彼らと同種の生き物が嬲り殺しにされるなど気分のいい話であるはずがない。
けれど、私に決定権はない。依頼に従って猟奇的に動物を殺すことしか能のない女だ。そういう生き方を選ぶしかなかった。両親から押し付けられた借金を返すために手段など選んでいられない。悪趣味な金持ち連中を悦ばせるためなら悲鳴や血と臓物の匂いに耐えて笑顔を浮かべなければならない。泣き顔など連中を萎えさせるだけだ。
思わず大きくため息を吐いた。
嫌で嫌で仕方がない現実だが、逃げたところで行く宛もない。借金取りに殺されるか売り飛ばされるのが関の山だ。少なくとも現状が一番マシなことは明らかだった。
でも、明日のことを考えるといつにも増して憂鬱になる。全部この蛇女のせいだ。よりにもよってどうして今日なのだ。明晩の仕事中にきっと私はナチャのことを思い出す。蛇の牙を見て彼女に口付けたときに唇に当たる犬歯を思い出すだろう、蛇の腹を割くときには彼女の薄い腹の感触を思い出すだろう。最悪だ。
「最悪」
思わず口から出た言葉にナチャは冷血な蛇の瞳を細める。
「かわいそうに」
狂気に甘さが混ざった声が降り注ぐ。
「もう、いいじゃない。全部忘れて幸せになりましょう」
これは彼女がよく口にする台詞だ。これに「はい」と答えればナチャの言う通りになるのだろうという理由なき確信があった。
「今は、まだその時じゃないわ」
そして私はいつもこう返す。
「やり残してることがあるとぐっすり眠れないタイプだから、私」
「真面目な人って損な性格よねぇ」
あーあ、とでも言うようにがっかりした様子でナチャは再び私の体に倒れ込む。先程とは違い首筋でなく胸元に顔を埋めた。
「ごめんね」
「謝るくらいなら私にあなたを幸せにさせて欲しいわ」
蛇が纏わりつくように私の首に彼女の細い腕が回されたので抱きしめ返すようにナチャの背中に手を添える。華奢な背中は少し力を込めただけで折れてしまいそうだった。実際はそんなことありえないだろうが。
「私が本格的におかしくなって趣味で動物を殺すようになったら好きにしていいから」
「言質、とったわよ」
ナチャは顔を少しだけ動かして私を見上げる。気のせいかもしれないが狂乱の中に僅かに年相応の感情が見えた気がした。
どうやら獰猛な蛇を宥めることになんとか成功したらしい。けれどいつまで続くかは分からない。相手は私を丸呑みにしようと虎視眈々と狙っている。腹を捌いて助けてくれるようなモノ好きもいないだろう。
首に絡みついていた腕はいつの間にか離れていた。その代わりに蛇の牙が私の肌をなぞり、冷血動物の指先が衣服をゆっくりと時間をかけて剥いでいく。
「蛇は寒いと冬眠してしまうけれど、今晩はずっと起きていられそうだわぁ」
頬を薔薇色に染めた蛇は、私の体に巻き付いて朝まで離れることはなかった。
次の日、ショーで使う予定だった蛇の檻は何者かによって大破され中身は行方不明となってしまっていた。これでは仕事にならない。
──余談ではあるが、近いうちに床暖房完備の物件に引っ越すことを検討している。back>
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