キスシーン
どんな時に幸せを感じるの?と問われた私は少し考えてから『あなたとキスする時』と答えた。
それに対してナチャはどこか不満そうな、そして不可解そうに眉をひそめてこちらを見た。お気に召さない答えだったのだろう。私の本当の幸せは別の場所にあると信じて疑っていないようだ。
けれど私からすれば彼女を抱き締めてその低い体温を自分の熱で温める行為や、ひんやりとした唇に触れる瞬間に確かに幸福を感じていた。
薄々感じていることだがナチャと私では感覚や思考に大きく隔たりがある。そのギャップを埋めることは私には到底できないのだろうと半ば確信もしていた。私が当たり前に持っているものを彼女は失くしてしまっていて、あるいは初めから欠落していて、それを指摘するのも同情するのもあまりにも傲慢だろう。
私が彼女に分け与えることができるのは自身の体温だけだった。それに幸福を感じることは悪趣味でなんと独りよがりなことか。
ナチャはこんな酷い人間に幸せを与えようとしてくれている。キスしてくれたら幸せだ、と言えば彼女はその理由を理解できずとも唇を重ねてくれる。純粋過ぎる優しさに付け込む行為はいつか罰を受けるだろう。
肌目の細かな頬を両手で包み込むように触れるとナチャは自分から顔を寄せてくる。それに吸い寄せられるように私は彼女にそっと口付けた。しっとりとして少しだけ冷たい。私は自分の体温を移すようにしばらく唇どうしを合わせたまま動きを止めた。じわじわと私の熱が彼女の唇を侵食し体温が混ざっていく。
ナチャの爬虫類を思わせる瞳はじっと私を見つめていた。キスをするときに彼女は目を閉じない。私が本当にキスで幸せになれるのかを確認しているらしいということに気が付いたのは最近のことだった。
十分に表面が温まった頃合いで私は舌先で唇をつつき、そこ開くように催促した。彼女は素直に隙間を開けたのでゆっくりと口内に侵入する。皮膚に比べると粘膜の方が温かい。柔らかな頬の裏側やざらついた上顎、鋭い犬歯を順番に舐めるとナチャは僅かに声を上げる。湿った吐息はいつもより熱い。
私は一度身を引いて唇を離す。いつの間にかナチャの両手は私の肩を掴んでいた。黒く彩られた爪先が服の布地に立てられている。
「これで本当に幸せなの?」
ため息のように言葉を零すナチャはやはりどこか不安げにこちらを見ていた。不思議な色合いの瞳を飾る睫毛は微かに震えている。
「なら、私をよく見ていて」
視線を合わせたまま、薄く開いたナチャの唇に再び食い付く。白くて小さい真珠のような歯を舌で押し開いて彼女のそれに絡ませる。少しだけ奥に逃げたようだったが、彼女の舌は私よりも長いため狭い口内に逃げ場などない。わざと音を出すように舌先を扱いて、根本に触れて、そして思い出したように時折やさしく歯を立ててみる。口の中は時間とともに濡れていき、少しの動きでも粘着質な水音を出すようになった。唇を合わせたままの呼吸の間に私とナチャのくぐもった声が溶け合う。
唇も口内も、どちらの体温かわからない。粘膜を介した触れ合いは確実に体温を上昇させている。私とナチャは、私たちが新たに生み出した熱を感じているのだ。
私の熱を与えて彼女を温めて、その先の行為でさらに熱を生み出す。これが幸せでないというならば一体何を幸せと呼べばいいのだろう。
混ざった唾液を啜るように強めに舌を吸って、名残惜しいけれど口を離した。じんじんと熱を帯びたままの舌先はまだ続きを求めている。
ナチャはやや呼吸を乱しているものの、その目はしっかりと私を見つめていた。普段より潤んだ瞳が迷子のように揺れている。
やはり、いくら私がこうして気持ちを伝えようとも彼女には届かないらしい。受け取り方も分からず、受け取れなかったことにすら気がつけないのだろう。それはたぶん悲しいことだ。けれど私が解決できる領分でもない。
いつか彼女が自分が取りこぼしてしまったものに気付ける日が来たとして、その温もりが少しでも体に残っていることを願う。あわよくば私のことを思い出して欲しい。私にとってはそれも幸福のひとつだ。
だから私は今日も彼女にキスをする。back>
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