サンクチュアリ
病院はいつでも死の気配がある。
清潔な白い包帯やガーゼに滲む赤、消毒液や薬品の匂い、壁越しに聞こえる患者の呻き声。
ベッドの上で目覚めるたびに私はまだ自分が生きていることに安堵し、それと同時にこの苦痛に満ちた現世から逃げられていないことに絶望する。もうどこにも行けはしない自分が最後に向かう場所は分かりきっていた。今はただ、その日が来るのを先延ばしているに過ぎない。
開いたカーテンの向こうの空に昇る太陽の位置は高く、もう昼が近いことを知らせていた。陽の光の眩しさは今の私には強すぎる。けれど起き上がってカーテンを閉める気力も余力もない。生命維持のための最低限の体力しか私には残されていない。
太陽の熱が目を焼いてしまいそうだったので瞼を下ろす。薄い皮膚越しの陽光はそれでも私の眼球を刺激する。のろのろとした緩慢な動きで掌で顔を覆う。骨ばかりが目立つようになった手は冷たくかさついていた。
私はこのまま枯れ木のように死んでいくのだ。
「入りますよ」
扉の向こうからの声に私は小さな声で許可を出す。私の口から発せられた言葉はあまりにも弱々しく一メートル先にも届きはしないだろう。それでも部屋の外にいる彼女は私の返事を拾ってくれたのだと思いたかった。
ゆっくりと扉が開き彼女が軽やかな歩調で部屋へと入って来た気配がする。私は顔を覆ったまま無言で待つ。そうしているとベッドの脇に人がやって来たのが分かる。
「今日はお天気がいいですね。少し眩しいですか?」
柔らかな口調のその言葉のすぐ後にカーテンが閉まる音がした。とたんに部屋に注ぐ光量と熱量は減る。私はようやく掌を顔から離すことができた。しばらく目を閉じていた私にとってはいつもの病室もひどく眩しく感じる。内装が白なので尚更だろう。目を慣らすように瞬きをしながら視線を動かした。
看護師である彼女はいつものように手元のバインダーに目を向けながら何かをさらさらと書きつけている。私もいつものようにその血色のいい顔を見つめた。艶のある髪や光を放つようなはりのある柔らかな皮膚は生気に満ち溢れ、彼女の温和な佇まいも相まって春の芽生えを思い起こさせる。冬の終わりを告げる神話の女神はきっと彼女のような姿形をしているに違いないと常々私は考えていた。
「気分はどうですか」
あらかた私のバイタルをチェックし終えた彼女は私に問いかける。数値が示すことが全てであると分かりきっていてもこうしてわざわざ話しかけて時間を割いてくれることは私にとっての幸いだった。
「少し、寒いです」
そう言って私は針金のように細くなった手を彼女に伸ばす。すると彼女は手袋を外して両手で私の手を握る。かさついて冷たい私の手と対照的に、彼女の手はしっとりとして温かい。筋肉があり、脂肪があり、水分を多く含んでいる指は瑞々しい果実のようでもあった。その果汁をすすれば私にも生気が満ちるのではないかと錯覚しそうになる。
「アンさん」
「はい」
私は彼女の慈愛に溢れる瞳と目を合わせる。それだけで温かいと感じる。彼女の一途な思いやりがほとんど死んだ私の心に息を吹き込む。
「明日は、起こしに来てくれませんか」
「あら、じゃあ何時にしましょう」
微笑む彼女に対して私も出来る限り明るく返した。
「いつでもいいです。きっと明日の私はとびきり寝坊しますから」
するとアンさんの指に少しだけ力が入り、より私のそれと皮膚が密着する。そういえば他人と素手で握手をすると分子レベルで皮膚が混ざり合うのだとどこかで聞いた覚えがある。彼女の生きた細胞のひとかけらでも私の中に入ってきてくれたかもしれない。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
私の手を握る暖かな両手が離れ、それを名残惜しく思う暇もなく抱きしめられた。薄い背中に手が添えられ、彼女の顔が私の顔のすぐ横にある。湿った吐息はやはり温かい。
「ちゃんと起こしに来ますからね、お寝坊さん」
私は安心して目を閉じると返事の代わりにアンさんの背中に両手を回す。
ああ、私の春の女神様。
冬が終わった次の春に会える日を待っています。back>
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