海辺で
おうじたくみとおんな
「たくみ?」
落ち着いた猫撫で声が鳴る。部屋を一瞥するが目当ての男はおらず、返事もなかった。
かわりに大窓が開いていて、波の音が聞こえている。
濡れ縁に置かれたラタンチェアに腰掛けた男に寄ると、眼鏡にはばまれた瞼がおりているのがわかる。指で弦を持ち上げそっと引くと、掛かった前髪が落ちた。目覚める様子がない。ガラステーブルの上に、畳んでそっと置く。薄い唇は微かにひらかれ、呼吸している。赤ん坊みたいに吸い付いたりしないかと、試してみるが微動だにしない。潮騒が吐息の音をかき消していた。
膝に乗ろうとしたところで、膝上で休止した手元の文庫本は、まだ途中なのか指で開かれているが、ページがはらりと潮風でめくれてゆくのが目に入る。そっと本をとりあげ、丁度彼が読みかけのところを読むと、それは知らない実験の伝記のように思える。数行読んだところで、それもテーブルに置いた。
片膝に腰掛け、胸元に頬を寄せると、ようやく男の発する音が耳に届く。己の早鐘の合間に聞こえる心音はゆったりとしている。
「たくみ」
「なんだい」
はっと見上げると黒色の瞳とかち合う。同時に指で髪をなでられ、彼はそのまま耳にかけた。
「起こしちゃった?」
「そのつもりだったんだろう?」
彼の首輪のようなアクセサリをいじくりまわしながら擦り寄って甘えると、男は応答するように項から伸びた髪を指で梳く。しつもんのこたえになってないよ、とむくれて見せると、彼はほんの短く笑う。
「起こしていないよ。ずっと起きていたからね」
落ち着いた声音で、ゆっくりと話す彼が声を出す度に、胸元が震えた。
「いじわる」
改めて鼻で笑うだけでなんの弁明も返ってこなかった。腕を伸ばして触れた男の黒髪は潮風に晒されてぱさついて軋む。指に絡まるそれに苦闘していると男は首を振って指は開放された。
「シャワー浴びるね」
膝から下りずにいると、「いたずらっこで、だだっ子なんだね」と、子供をいなすように、微笑んだ。仕方なく、下りると、男は本と眼鏡を片手で回収して部屋に入る。
「寝た振りすることだって、いたずらだよ」
二度目のなじりにも男は反応せず、持ち物を着替えに持ち替える。
「恋人と来てるのにすぐ寝ちゃうから」
浴室へ入ろうとする背中に投げかける。ドアノブを回す手を止め、体をこちらへ向けるのがわかった。廊下の電気は消えていて彼の顔は見えない。
「寝た振りをして待っててみるかい?」
パタンと閉じられた浴室からの水音と、窓から入り込む潮騒が聞こえる。少し冷えるが、いちまい、にまい、と脱ぎ捨てて男が出て来るのを待つことにした。