死者の檸檬
ともびきはじめとたくみ
日常に過去は少しずつ溶けていく。音をなくし、色を失い、形を消して、最後に匂いも。最後に残った檸檬の香りがいまだに一人の人間がいた、ということをまれに思い出させる。しかし、どんな声色だったか、どのような手触りで、どんな面構えだったか、霞の外に沈んでいく。
***
小学校最後の夏休みだ。透明な小川に足首までつけると、頭のてっぺんまで溜まった熱が放出されていき、足裏やくるぶしをくすぐる水草が気持ちいい。玉砂利の敷き詰められた河川敷は同い年くらいの子供たちが飛び跳ねて、水浴びしながら遊んでいる。両親や友人や大人を振り返ると手を振った。だれかがカメラを構えているのがわかってにっこり微笑んだ。向きを変えると木々が河川を沿って深々と並んでいる。木陰になっているところはさらに冷たくなっていた。吹きぬける風にはためくスカートの裾をそっと束ねあげてせせらぎの中腹まで来る。穏やかに流れ続ける水は丁度膝下をくすぐった。両脚の間を小魚が飛ぶように抜けていく。
「ぼくのこと、忘れちゃうんだね」
ふと声をかけられ顔を上げた。男性の、しかし柔らかく軽やかな声だった。太い木の枝に腰掛け、膝から下を冷水に浸している。ひやりとした水面から風が吹く。
先程まで火照っていた頬に冷たく心地よかったが、四肢のつま先がすこし凍てついているのを感じた。
「……だれ?」
忘れるも何も、しらないひとだ、と感じた。知らない人とは、むやみに、話しちゃいけないと言われていた。怪しい人かもしれない。しかし、好奇心が勝っていた。優しげにも見え、反射する水面の光で丁度見づらいが、口元は言葉と裏腹に楽しげだった。
「きみは、おもいだせないだけで、ぼくのこと、しってるよ」
おとこの人は肩より少し長い髪を耳にかけ手顔を見せて微笑みかけた。だれかのお父さんだろうか?あるいは、親戚のうちの誰かだろうか?、でも父にも母にも似ていない、顔立ちだけでなく、雰囲気のようなものがもっと、冷たい気がした。
「ちかくでみたら、おもいだしてくれるかな」
男性は、よいしょ、と短くわざとらしく発して、木の枝からとぷんと川中に降り立った。
波立つことなく、川中をゆったりと進んでくる。水面を滑るように、あるいは波間を縫うようにして少しずつ。きらりと目の奥を刺すような反射光がおとこの人の表情や顔立ちを見えづらくする。
「きみもよくみて」
甘えるような、哀しむような、それでいてどこか楽しむような表に、すっと細められた真っ暗闇のような目に吸い込まれそうになって、自分の脚がながれに押されておとこの人に近づいていくことを感じた。差し出された手を掴もうと、こちらも手を伸ばした瞬間に、緑と群青の空が見えた。届かない指先が、伸びている指先を掠めて空を切る。悲鳴をあげるより早く、視界はあぶくだらけになり、思わず目を瞑る。天地が逆転したのか、どちらが左か右かもわからず、もがき、足掻いても何に触れることもない。まとわりつく水流に引きずり込まれそうで溺れていることを察知したが、そこからどうすれば分からず、声もあげられず、あげようとしたそばから砂利と水が口と鼻にめいっぱい流入してきた。
***
子供のうちのひとりが、あっと声を上げてから次の瞬間に、その視線先で女の子が水中へずるりと落ちていった。
あたまで考えるより先に体が走り出し、川辺で遊ぶ子どもたちに母親の方へいくように叫んだ。同じ岸から男性がひとり同じようにかけてくる。まな!と、短く叫んで駆けつけた。バシャバシャと暴れている子供は少し深くなっているところで溺れているが、大人なら膝丈の水位だった。男性より早く駆け付けたので、すくいあげて抱える。「救急隊員です、お父さんですか」女の子はぐったりとしている。
男性が首肯したのを横目に聞こえてくる「医師です」という言葉を聞きながら応急処置を施すと、少女は水を吐き深く咳き込むと自分と父親の顔をみてわっと泣き出した。どうやら大事には至らなかったようだ。
***
タオルケットをもってきてくれた母親と、それで丹念に水気を拭いてくれた父親がいて心底安心し、助けてくれたひとにも感謝しながら、同時にとても恐ろしくなった。
あの、わたしを呼んだおとこの人はどこにもいなかった。すぐに助けられるはずだったのに、見当たらない。
「まなちゃんだいじょうぶ?」「あたたかいものもってくるわね」「いちおう救急車呼びましたので」「ありがとうございます」「いえ、こちらも応急処置をたすけていただき」
まだ耳の中に水が残っているのかくぐもったように聞こえる周りの声、曇ったように見えづらい視界で、そっと肩に手を掛けられる、
「おもいだして、くれないんだね」
「わすれちゃうんだね」
ひやりと首元を撫でるては無骨で大きく背筋が凍りつくようで、耳元で一際おおきくきこえる囁き声が頭を沸騰させているようだった。さっきのひとだと、直感して振り返るが誰もいない。不意に腹部に重さを感じると、スカートのひだを受け皿にして黄緑と黄色のまだら模様をしたレモンが転がっている。ざわざわとした周りの声が戻ってくる感覚で、一瞬どこか遠い別のところでおとこの人と二人きりになってしまったようで恐ろしくなった。そして同時に悔しさを覚えて、じわりと目尻があつくなった。
***
妻を救急車に乗せて娘を任せてから自分は車で追うべく荷詰めをしていた。娘の友人やその親達は心配そうにしているが、楽しむよう伝え、娘の学友達には、娘は無事だからまた遊んでくれるよう伝える。
園崎一は今は平静を取り戻していた。
「手伝いますね」他の親や子供たちがゴミなどを集めてくれたので、早めに片付きそうだ。
「これはどこに置けばいいかな」
差し出されたものを見ればタオルケットだった。
「それは」
言いかけて何か言いしれない寒さを覚える。差し出される手、タオルケットを掴む指先、肌の色、華奢にみえる手首、骨ばった指先。ゆるりと顔を上げると丁度逆光で表情が見えない。影を落とすその顔は無表情のようにも感じるし、寂しそうにかすかに微笑むようにも見える。肩口にちらばる髪の毛先がひやりとした風に揺れていて、肩幅から男性だとわかる。
どこかで聞いたことのある声がした。
「きみも、わすれたんだね」
「…………はじめ」
冷えきった声音だった。どさり、と足元で音がする。タオルケットとそれに包まれていた檸檬の実がごろごろと出てくる。今日の荷物にこんなものは入れていない。
「マナちゃんのパパ、これ落ちたよ」
地面にちらばる若い実に視線を奪われていた瞬間に気配が消えていた。しゅわしゅわとなく蝉と、さらさらと流れるせせらぎが耳に届く。
「ありがとう、」
にっこり微笑んで受け取った果実は傷がついてしまったのかふわりと柑橘の香りがのぼってきた。