オメガバ

2019/06/07

はじたく
園崎一はキャリーケースを傍らに立たせると階数のボタンを押した。帰りに配布された土産袋がカサリと音を立てる。京都での学会を経て、三日ぶりの帰宅だった。明日は夜勤入りだったことをスマートフォンのスケジュールが示している。家に転がり込んできた王路巧に風呂に湯を貯めるように連絡したのは新幹線に乗った頃だったが、到着したいまも返答はなかった。
重たい玄関扉にキーをかざすとカチャリとロックが回る音がした。
「ただいま」
言い切るや否や、みぞおちから背筋まで引きつけを起こしそうな鼻につく匂いを感知し思わず眉間に皺を寄せた。思わず口元を覆わせるその芳香は、決して悪臭ではなかったが、それなりに疲労した身体では嫌悪感すら抱く濃厚さだった。
バスルームは綺麗なもので、洗濯物ひとつ落ちていなかったが、湯も張られていなかった。短く溜息をつくと、給湯器を操作する。軽く手と顔を洗うとジャケットを脱ぎ、洗濯カゴの中に放り投げた。
洗濯物ひとつ無いのはおかしなことではなかったが、奇妙ではある。同居人の衣服も下着も1枚もないのだから予感は募った。

リビングに入ると、匂いは数段と濃密さを増していた。全ては綺麗に片付けられ、しんと静まりかえった部屋はそれが確信犯的行為であることを語っている。澱んでいるというのが正しく、そして内臓から掴まんばかりの無言の引力が働いている。閉じられたカーテンを開けると空は夕刻の淡い紫をしていた。窓を開けて換気をすると、外の清廉な空気でいくらか芳香は緩和される。同時に、いかに濃厚な香りを放っているか、また、放っている本人がどんな状態かを明白にしていく。乗るか、そるか、疲労感がある体が休みたいと述べているが、匂いに刺激された本能が意思を揺らがせる。そのままベランダに出て一服すると、昂りつつあった本能が落ち着きを取り戻したので、頭を抱えつつ寝室に向かった。
***
耳にかすかに届いたのはなにかの機械音だったか、王路巧は濁流に似た意識の中で微かに息継ぎするようにしてほんの一瞬、我に返ったようだった。しかし、口元にあてがった同居人の香りが瞬時に意識を惑わせる。手繰り寄せた衣服や下着はもはや己の移り香で、元の持ち主の匂いを薄くしていた。もっとしっかり味わいたい、ほしい、感じたいと、日頃から調整と抑圧を繰り返す身も蓋もない情欲が、いまは手綱を失って、違う布を手繰り寄せさせた。頭の中で、まぶたの裏で、身体の輪郭を思い描き、口の中でその名を唱えるようにして、身体をまさぐった。嗅いでも、慰めても、熱は収まらず、かえって昂り、焚かれた香木のようにさらに芳香を濃密にしていく。
***
寝室は片付いた別の部屋と打って変わって酷い有様だった。ひとつのベッドにはありとあらゆる己の衣服が固めて山積みにされていた。湿度すら感じるまとわりつく空気と匂いが漂っている。園崎一はぐらりと腹部が煮立つのを感じた。それは、この空気に当てられて乱暴に誘発されているせいか、自分の衣類がシワだらけにされているせいか、両方か。頭の片隅で、この繭の中身が気を失っていることを祈っていた。
オメガの巣ごもりであることは明白で、この巣ごもりがあまりにひどいとオメガ自身は酸欠で意識を失うこともある、それで運び込まれる症例があったな、とどこか冷静に思い返す部分がわずかに理性を留まらせている。

1枚ずつ、卵の殻を割り剥ぐようにくたびれた衣服を取り払う。絡まったもの、伸びているものを手に取る度どう落とし前をつけさせてやろうか、苛立ちがこみ上げる。同時に、その苛立ちをこのままぶつけてやればいいのだと本能がそそのかす。

汗を滲ませた背が、隙間から覗いた時だった。

 
homo 
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