リビドーの混沌 - 春風
露呈と邂逅は唐突に

松岡凛

──オメガ。聞いたことはあるが、自分がそうだという人間に出会ったのは初めてだ。

況してやこんな場面に出くわしたことなんて今までに一度もなかった俺は、どうすればいいのかと内心酷く躊躇っていた。
取り敢えず踏み込むべきなのか、それとも無難に先生を呼びに職員室まで走るか。恐らくだが、似鳥は今のその姿を俺に見られるなんて分かったら、嫌な思いをするに決まっている。それに、幸いなことに職員室はこのトイレからは近いし、俺が全力を出せば数十秒で辿り着くことができる。

「(こーゆーときは…誰呼べばいいんだ?まずは担任と…保健教員でいいのか?)」

しかし。


「…ッ!?」

ズダダダッというこちらに迫って来る廊下に響き渡るくらいの重く荒々しいまるで地鳴りのような足音を、俺の耳が拾い取った。

反射的に音のした方向を振り返ると、猛スピードでこちらに迫り来る人影。そこには──その特徴的なグレーをした猫目を鷹のように光らせた生徒がいた。
見たことのない顔だから、恐らく二年ではないはずだ。


「ッ、お、おい!お前…!」
「──俺は、大丈夫です」

てっきり似鳥の匂いに惹きつけられてここへと辿り着いた生徒かと思いきや、それはどうやら全くの検討違いであることが、そのはっきりとした返答とこちらへと向けられた鋭く咎めるような瞳を見て漸く分かった。


すると、その男は騒ぎの中心へと大きく一歩を踏み出し、まるで夢遊病の如く似鳥への距離を縮めようとしていた男子生徒の内の一人の肩をがっしりと掴む。すると、その肩越しに似鳥の涙で濡れた瞳が虚を突かれたように彼を見て、直ぐに安堵の色を浮かべたのが分かった。

男たちが戸惑って体をビクつかせたその隙にソイツは、羽織っていた白ランを脱ぎ、頭上へ殆ど放り投げるようにしてバサリと被せる。


「──愛に、触るな」

幾らか薄まった甘い匂いと、行動を静止する硬い声にハッと我に返ったらしい男たちは、声の元を見るなりその目を剥いて、大きく体を仰け反らせた。

「コイツ、空手部の…!」
「わ、悪かった!魔が差しただけで、ワザとじゃねーんだ…!」

男たちはまるで蟻の子を散らすかのように、ドタバタと逃げるように走り去って行った。その場はあっという間に静寂に包まれた。


**********

「あ…。愛の先輩、ですよね」
「お、おう…」

俺が知らないだけで、どうやらコイツはかなり知られた男らしい。理由は分からないけれど、それが恐らく男たちが言っていた空手部に関係していることは何となく察しが付いた。
するとソイツは、愛の側へとしゃがみ込みその背中へそっと手を伸ばして、撫でた。

「……泉ッ!ぼく、僕…!」
「愛、無理に喋るな。薬はあるのか?」
「…ッ、あの人たちに、っく、踏み潰されて…」
「分かった。おいで、俺の頓服を飲めばいい」

そう言って軽々と似鳥を抱き上げたその男は、最初の印象に反して小柄ななりをしていた。けれど、その体躯はこれ以上ない程にまで強靭に鍛え上げられている。背こそ高いとは言えないが、薄手のシャツの短い袖口から伸びる似鳥を抱き上げたその腕は、がっちりとした筋の張った力感の溢れる筋肉を盛り上げている。
──なるほど、これじゃ有名にもなるはずだ。この拳に殴られでもしたら、どれだけガタイの良い男でも悶絶するに違いない。


「俺は愛をつれて保健室に行くので。…先輩はどうされますか」
「…俺だってコイツと同室だ。放っておけるかよ」
「なら、コイツの担任と部活の顧問に伝えてもらってもいいすか」
「ああ、分かった」

既に俺の頭は色々と大混乱だ。タダでさえ水泳のことで頭がいっぱいにされているのに、これ以上他の面倒なことに容量を裂くなんて真っ平御免だと思っていたはずなのに──似鳥を抱くなり優しい色を湛えたあのグレーの瞳が、頭から離れない。少しの違和感と、似鳥に対しての会話と…極め付けは、その匂い。


「(──アイツも、オメガなのか)」


似鳥の匂いは発情期が来たために当然甘く芳しいものであったが、あの男のそれは更にその上をいっていた。
オメガは総じて華奢だと思っていたが、どうやらそれはとんでもない勘違いだったみたいだ。

- 3 / 5 -
春風