わたし



麦藁菊(永久の記憶、いつも覚えていて)





 そろそろ思い出したか? というのが、ここ最近の友人の口癖であった。
 朝昇降口で出会い、教室で出会い、弁当をつつく時も部活に向かう時も帰る時も。
 顔を合わせれば、機械のようにその台詞を紡ぐのだ。
「ミツヨシさん、そう一日に何度訊ねたところで結果は変わらないのですよ」
「やってみないとわからないだろ!」
 とは言うものの、その結果はこれである。棒アイスにかじり付きながら何で思い出さねえんだ、とごちるミツヨシを横目にアステールは短く溜息を吐いた。
 ――物心ついた頃から、『彼女』は男として育てられていた。名家に産まれた一人娘。後継ぎが必要な父親が取った行動は、彼女を『男として育てる』事であった。
 ミツヨシの隣を歩く白い肌はブレザーとスラックスに包まれている。本来は遠くではしゃぐ少女達のように短いスカートで踊っていたのだろうか、最もお嬢様である彼女にそんな行動は想像もつかないのだけれど。
「ミツヨシさん」
「ん?」
「貴方の知っている『僕』の話を聞かせて下さい。貴方の話はユニークで、僕は例えそれが夢の中の話だとしても何度でも聞いてみたい」
「夢じゃなくて現実だったんだっての! んーと……前は何の話したっけなァ」

 ――ミツヨシ曰く。自分達はかつて知り合いで、ヒトではなくイカとして生きていたらしい。人類が滅んだ後の世界の話で、そこでは海洋生物が知能を得て進化し、ヒトのカタチとなってナワバリバトル、と呼ばれる競技に没頭していたそうだ。
 何でもただのイカではなく、インクが身体の主成分で、そのインクを補給しあるいは放つ事で攻撃や回復に使用しただとか……聞けば聞くほど謎が深まるばかりだが。
 それでも一生懸命話すミツヨシを邪険に扱う気はこれっぽっちもないのだ。彼は単純で無邪気でアステールとはまるで性格も違うが、良い友人だと認めている。
「それでな、その時アステールが飛んできてさ! 一気に3キルして、すげーだろ!」
 きらきらとしたミツヨシの声に、ふと現実に引き戻される。いけない、彼の声を聞いていないといけないのにまた微睡んでいたらしい――
 右手に持ったアイスが溶けて指を伝うのをどこか他人事のように見つめながら、ひたすらにミツヨシの話に、彼に意識を向ける。
「アステール?」
「はい」
 今度は大丈夫だ。返事も出来た。
「アイス、溶けてるぞ」
「ああ……本当ですね、勿体ない」
 ハンカチを取り出そうとして立ち上がりかけて、しかしそれが出来なかった。
 不意に手を掴まれたかと思うと、それはそのままミツヨシの口許へ吸い込まれていく。
「――」
「ん、甘いな」
 事もあろうにミツヨシは、落ちかけたアイスを彼女の指ごと口に含んだ。細い指先に触れる舌が、やけに熱を持っている気がしてアステールの肩が強ばる。
 ――鳴り響く蝉の声も、ゆらゆら躍る蜃気楼も。この瞬間だけ切り離されたみたく、それは完成された世界だった。
「な、にを」
 口を離したミツヨシをただ呆然と見つめながら、そう返すのがやっとで。
 熱くなる顔に意識しているのがまるで自分だけのようで悔しくもあった。
「何って、アステール食わなかったから」
「は…………」
「勿体ないだろ」
 あまりにあっけらかんと笑う彼は悪びれた様子もなく、ただただ純粋に、心からそう言ったのだ。勿体ない。その通りなのだが、
「ほ……他にもあったでしょう、やり方が」
「えー、でも落ちそうだったら咄嗟に口に入れるだろ。あれと同じだよ」
 ミツタダが小さい頃もよくやってさあ! 今やったら怒られるんだけどな、なんて声を上げる彼は楽しそうだ。――いつも、彼はとても楽しそうなのだ。
 熱を誤魔化すように、手を洗ってきます、と立ち上がったアステールは今度こそ引き止められなかった。


"あー、アステールアイスアイス! 溶ける!"
"え? あ――"

 いつかもそんな事があった。
 溶けると言いながらアステールの手ごと口にくわえて、彼女を動揺させた。
 そんな印象的な出来事を、忘れるはずがないじゃあないか。


 戻ってきたアステールが目にしたのは、何かしら考え込んでいるミツヨシの姿だった。
 すぐに彼女に気付くと、ぱっと顔を上げて手を振る。
「おかえり」
「戻りました。……難しい顔をされていましたね」
「ん? うー……ん。なんかさ」
「はい」
「前も、さっきみたいな事あった気がして」
「…………さっき、というのは」
 言わずもがなアイスの件だろう。
「あったと思うのでしたらあったのかもしれませんね」
「なー! ここまで来たらさあ! お前も思い出さねえ!? おればっかアステールアステール、って言ってんのに!」
 初対面の時もそうだった。俺の事憶えてるか、と抱きしめてきた彼は相変わらず人目をはばからなくて。
「ミツヨシさん」
 だけれど、その声は落ち着いていた。
 彼の知る記憶のまま、彼女はそこに在った。
「思い出さなくても、僕達は親友です。それで良いじゃないですか」
「――」
「思い出せないのであれば、大した記憶では無いのです。困らないのでしょう。現に僕は困っていません」
「そう、かな」
「ミツヨシさんは困りますか? 僕が思い出せないと、昔の話が出来ないと」
「…………あのさ」
「はい」
 こわい。それ以上言葉を紡がないでほしい。アステールがほしいのは、はいと頷いてくれる対応なのだ。ミツヨシの手をそっと握り、力無く浮かぶ笑顔に残りかすみたいな希望を乗せて。
 震える自身の声音が告げる。それを聞いてはいけない。それを赦してはいけない。
 それを、思い出してはいけない。

「アステール、ずっと泣いてるんだよ。それって、思い出さなくていい事なのか」



 覚えていません、というのが、ここ最近の彼女の口癖であった。
 友人の言葉を否定し続けて、知らないふりをするのはひどく疲れる気がした。
「思い出さなくていいんです」
 覚えていなくていい。思い出す必要もない。思い出せないのは、大した意味を持たないのだ。
 そして、それに『彼』は納得した。
 明日は思い出せよ、と笑う彼に、明日も忘れていて下さいと彼女は心の中で笑うのだ。
 アステールは忘れてなんていない。ミツヨシが語る事も、『過去』の話も、一言一句思い出せる程に大切なのだから。
「彼は、それを忘れているのが正解なんです」
 だからアステールも『忘れている』のだ。アステールが思い出せば、彼は思い出すだろう。それは望まない事だ。覚えているのはアステールだけでいい。
 ミツヨシの笑顔を消してしまった出来事を、過去を、抱えていくのは自分がいい。彼が覚えていてくれた自分を大切にする為にも、泣くのは自分だけで良かったのに。

"泣くなよ、アステール"

 彼が自分の隣で泣いている。涙を流す友人に泣くなと、泣きながら声をかけている。

"泣く時は一緒だって言っただろ"

 アステールの中のミツヨシは、何一つ変わっていない。必死に大事な物を抱え込んだ彼女に大変だろうから半分持つと言い張り、泣けば一緒に涙を流す。
 だから守っていたかった。現実から逃げて、選択を繰り返した。



「……アステール?」
 はっ、と目を覚ます。また微睡んでいたのか、心配そうに覗き込むミツヨシに胸が痛んだ。
「ごめんなさい……夢を……」
 夢を、見ていたんです。
 アステールの笑顔に、ミツヨシが夢? と惚けた声で反芻した。
 そう、これは夢だ。永遠に繰り返すゆめ。愚かな箱庭の、永久に行われる現実。
 アステールが見続ける、ミツヨシと他愛もなく思い出す思い出さないと盛り上がるだけの、白昼夢。
「最近寝不足で、すみません、君の話を……きちんと聞いていなくて」
「いいよ、別に」
 気にするな、と笑う声は明るい。
 やかましく合唱する蝉の声にかき消されるかどうかの声音で、ミツヨシの笑顔は言葉を吐き出した。
「――今の台詞、今日で304回目だな」






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おしまい。意味深オブ意味深。中身はあるようでないようであるかもね*