無知な青にさらわれた



 この国は基本的には平和だ。シビュラシステムが提示してくれることに基本従っていれば大体がなんとかなる。就職先も良くしてくれる優しい人たちばかりだし友人にも恵まれた。普通に生活していれば色相だって濁らない。きっとそのうち結婚相手だって見つかるのだろう。それが良い人生なのかどうか聞かれると正直よくわからないけれどそれでも楽だし平和が一番な私としてはこの与えられている幸福を享受していた。

 けれどイレギュラーというものは時に起こる。それが今だ。ニュースで報道されていた連続婦女暴行事件。若い女性が拉致されているというおぞましい事件に私は不運にも巻き込まれてしまった。普通に家に帰ろうとしていただけだったのに気が付いたら目隠しをされて腕を拘束されていたのだ。

 自分が今どんな状況かなんていうのは全然わからない。とりあえず身体を少し動かして自分がまだ服を着ている事、特に目立った外傷などもないことだけは確認できた。とはいっても"まだ"されていないだけでこれからかもしれないと考えると正直怖かった。このままだと私は死ぬんだろうか。万が一生き残れたとしても色相が濁って施設送りになるんだろうか。どっちも嫌だな。私はいつも通りの生活に戻りたい。普通に過ごせればそれだけで良いのに。

「(誰か、誰か助けて)」

 腕も足も縛られていて動けないが体勢を動かすことだけはなんとかできたので身体を丸く縮こませる。背中に感じる冷たい壁にもたれてこの状況をどうにかしてくれと誰かもわからない相手に求めた。

 ガタン、と部屋の施錠が外れる音が聞こえる。身体が強張った。誰だろう。私を攫った人なのか、それとも助けなのか。目隠しをされているけれど目をぎゅっと閉じてさらに身体を丸める。緊張で息が浅くなっていて苦しくなってきた。

「もう大丈夫だ」
「・・・ぁ、」

 低めの声なのにやけに安心感のある声に私は顔をあげた。最初こそそれが誰からなのかはわからなかったけれど私の顔に手が添えられてはらりと目隠しをとられる。おそるおそる目を開けてみると薄暗くはあったがなんとなく声の主の輪郭を捉えることができた。綺麗な碧眼が私をじっと見ている。日本人には思えないくらいに顔が整った男性が私の様子を窺っていた。

「苗字名前で間違いないか」
「…はい」
「俺は君を助けに来た」

 手早く身分を説明するために身分証を提示してくれる。監視官の炯・ミハイル・イグナトフという人らしい。和名だけでなく洋名が入っているところからして帰化日本人だろうか。外人の公務員なんてめずらしい。

 イグナトフさん(と呼べばいいのだろうか)は私の拘束具を解く処理を始める。その間はとにかく気持ちを落ち着かせたいから余計なことを延々と考えていた。まさか監視官なんて職業の人と関わることになるなんてな、とかこの人顔が綺麗だけど何処の出身なんだろう、とかそういう本当にどうでもいいこと。段々呼吸も落ち着いてきたので大きく深呼吸をするとちらりとイグナトフさんが私を見た。

「色相は少し濁っているが問題はないだろう。念のため出たらメンタルケアを受けれる手筈を取っておく」
「ありがとうございます…助かります」
「これも仕事だ」

 私と話しながらも手は止めないイグナトフさんは数分経たずに手足の拘束具を解いてしまった。公安の人ってすごいな…なんでもできるんだろうか。

「歩けるか?」
「…っ、ごめんなさい、」
「いや。考えなしに言ってしまった。…失礼」
「わ、」

 イグナトフさんが手を差し伸べてくれたのに私はなかなか立ち上がれなかった。腰が抜けてしまっているようだ。私の状況をワンテンポ遅く察知したイグナトフさんはデバイスで誰かと何かを話した後に私の膝裏に腕を通すとひょい、と軽々抱き上げてしまった。バランスをとるために咄嗟に彼の首に腕をまわす。

「あ、あの!」
「暫くは我慢してくれ」
「うう…はい」

 歩けない以上は文句は言えない。彼の気遣いにむしろ感謝を持たねば。しかしなかなか気持ちというものは切り替えがうまくいかず、なんとか落ち着かせたはずの私はイグナトフさんを至近距離で見ることに逆にそわそわしていた。

 私を抱き上げているのに速いペースで通路を進んでいく。イグナトフさんの通信機より時折聞こえるルートの指示に従って進んでいると少し離れたところから大きな音が聞こえはじめた。

「…大丈夫だ。必ず俺が守る」
「っ、」

 どこかで戦闘が起こっているのだろうか。聞き慣れない見慣れない現実に戸惑っているとイグナトフさんが気を遣ってくれる。ありがたいな、とその優しさに浸っていると突然階段の上から人が転がってきて踊り場に倒れてきた。スーツなどを着ておらず見た目から悪そうな人だ。犯人の一人だろうか。

「監視官!どいてろ!」
『犯罪係数・オーバー300・執行モード・リーサルエリミネーター』

「! 耳を塞げ!」
「は、はい!」

 上の階から若い男の人の声が聞こえる。イグナトフさんの仲間だろうか。その声に反応したイグナトフさんは私を咄嗟に降ろしてからぎゅっとその大きな胸元に私の身体を収めた。暗くなる視界。私は言われた通り耳をしっかりと塞ぐ。少し遠くで何かがはじけるような音が聞こえたような気がするが、聞いてはいけないものだというのを直感して私はひたすらイグナトフさんの胸の中で大人しくしていた。

「そのまま目を瞑っておけ。指示をするまでは決して開けるな」

 耳を塞いでいる私に聞こえるように耳元でイグナトフさんが声をかけてくれる。その言葉に一度頷いて目をぎゅっとつぶればイグナトフさんは再び私を抱き上げると駆け足で階段をあがっていった。血の匂いがすごい。これだけでも十分気分が悪くなりそうだ。絶対に目を開けるものかと目元に力をいれてイグナトフさんの指示までひたすら見えない聞こえないを貫いた。


***



 トントンと肩を叩かれて私はおそるおそる目を開ける。ちらり、と頭上にあるイグナトフさんの顔を見ると彼は一度首を縦に振ったので視線を横へとずらすとすでに外に辿り着いていた。

「直に護送車が到着する。先ほど言った通りメンタルケアを受けてくれ。その後少し話を聞くことになる」
「本当にありがとうございます…」
「君こそよく耐えたな。…頑張った」

 イグナトフさんはずっと怖い顔をしていたがその時だけフッと口元を緩めて私の頭をそっと撫でてくれた。その手が思っている以上に温かくて、優しくて。ずっと奥に溜まっていた何かがぶわりとあふれてくる。ぽろぽろとそれが涙となって落ちていくのをイグナトフさんは何も言わずに受け入れてくれた。

「あの、イグナトフさん」
「…何だろうか」
「今度、お礼をさせてくれませんか。お仕事だから当然のことをしたって思われてると思うんですが…それでも。何か、」

 そこまで言ったところで車が到着して救急の人たちが降りて担架を押して私の元へやってくる。まだ話したいのに。思わず彼の服の裾を握るがイグナトフさんは私を担架に寝かせると私の手をゆっくりと離して救急隊員に私を車内へ連れて行くように指示をした。

「ま、待って、」
「…落ち着いたら聞きにいく。だから今はケアに専念するといい」
「!」

 離れる前にイグナトフさんは私に話を聞くという約束をしてくれた。助けてくれたことに対してでもあるが話を聞いてくれるということも含めてお礼を述べれば彼はまた表情を柔らかくして私を送り出してくれる。

 これは決していい経験ではないしどちらかというともう二度とこんな目には遭いたくないとは思う。それでもあの人に出会えたことだけは私の中でいい経験としてインプットされた。今はあの手帳に記されていた名前くらいしかわからないけれど次に会う時はもう少しだけあの人の事を知れるといいな。



20200331 何も知らないからこそ一目惚れできる