欲しいとすら願えなかった



 今日の仕事は午後出勤というのもあって空いた時間を使って美容院に行き髪を切った。とはいっても、結べない中途半端な長さに切ると鬱陶しいと思うので数センチ。ぱっと見だとそんなにわからない程度の微々たるものである。

 けれど美容院に行くというのは結構すっきりするもので久しぶりにしてもらったトリートメントや丁寧なブローは張り詰めていた気持ちを少し楽にしてくれた。いつもよりも上機嫌での登庁だ。

「おはよ、名前」
「お疲れ様です、灼さ・・・慎導監視官」
「まだ出社してないんだから気にしない気にしない」

 エレベーターで刑事課のあるフロアに行こうとした時にちょうど捜査から帰ってきたのか灼さんが駆け込んできた。間に合ってよかったあ、と灼さんは言いながら入口方面を見ているので誰かがまだ乗り込んでくると気付いた私は延長ボタンを押す。しばらくすると予想通り駆け足で一人の男が乗ってくる。一係で灼さんの元に就いている入江一途執行官だ。ぱちりと目が合うと「どーも」と挨拶をされたので会釈をする。

「行先はどちらですか」
「同じだよ」
「わかりました」

 灼さんも刑事課に戻られるようなので別の行先ボタンは特に押さずに閉のボタンを押す。ゆっくりと扉が閉まりエレベーターは動き始めた。

「今日は当直?」
「はい」
「そっか。あんまり根詰めすぎないように」
「しっかりケアは怠ってないので問題ないです」
「確かに綺麗なクリアカラーだ。偉い偉い」
「か、髪乱れます!」

 いつの間にか私の色相をチェックした灼さんはわしゃわしゃと私の頭を撫でてきた。灼さんに撫でられるのは嫌いじゃない(むしろ好きだ)けれどせっかく美容師さんにセットしてもらったのが崩れるのはちょっと気になってすかさず抗議をいれる。

 灼さんはむ、と何かに気付いたようにわしゃわしゃとしていた手を止めて今度はするりと私の結んでいる髪をなぞった。

「美容院。行ってきた?」
「え」
「髪、さらさらしてる。いつもと違う匂いもするし。ぱっと見だけどちょっとだけ切ったのかな」
「セクハラっすか、監視官」
「おれは褒めたんですからハラスメントになりませんって」

 にやにやとする入江執行官に突っ込まれた灼さんは苦笑しつつもさらりとそれを躱す。ハラスメントになるかならないかは私が決めることなんだけど灼さんは私が嫌がることは絶対にしてこないからわかってやっている。だから私はちらりと見てきた灼さんに「嫌じゃない、です」と小さく呟いた。

「え、アレですか。苗字監視官は慎導監視官とそういう関係で?」
「ち、ちがいます!慎導監視官は同期ですが学生時代の私のあこがれの人で!ええと、あの、」

 入江執行官がからかって質問して来ているのはわかってはいたのに余計なことまでぺらぺらと喋ってしまう。ああもう、こんなはずじゃなかったのに。

 私が慌てている様が面白くなってきたのか入江執行官がさらにあれこれと質問してくる。弄っていいタイプだなって判断されてしまった。ちょっとだけ困っているとちょうどいいタイミングでエレベーターが刑事課のフロアに到着した。

「はい。行きますよー入江さん」
「ちょ!監視官!押すなって!」
「名前、少し気になる案件があるから後で相談乗ってよ」
「え、あ、はい・・・」
「じゃあまた後で」

 体格差はだいぶあるのにグイグイと入江執行官の背中を押して先に降りる灼さん。スムーズに相談の約束だけ取り付けるとそのまま一係のオフィスへ入江執行官を連れて行ってしまった。

 降りるのをすっかり忘れかけていたが扉が閉まりそうになったので慌てて私もフロアに降りる。

「(やっぱり灼さんには適わないなあ)」

 トリートメントのおかげでさらさらになった髪に触れる。気付いてほしかったことも言ってほしかった言葉もすべて与えてくれる。逆に怖くなるくらい。ちゃんとお世辞じゃなくて本心も混ぜて言ってくれているのはわかっているからつい嬉しくなってしまう。
 
 あの人とそういう関係になるなんて恐れ多くてできないな。

 入江執行官の言葉を思い出しながら私も二係のオフィスへと向かう。なれたらいいのにな、なんていう願望はしっかりと奥に押し込んでからオフィスの扉をくぐった。



20200202