優しくて普通のひと



 週に何度かは体力をつけるためにトレーニングを行っている。
 外に出る時は執行官を引き連れて行くことが多いので基本的に監視官は指示をする側だ。といってもいざという時はそんな自分も戦闘要員として動かなければならない。そうなった場合はある程度戦う技術や体力が必要となってくる。それを培うためだ。

 二係に配属される前に入所していた研修所でやっていたトレーニングメニューをこなしていく。バランスよく組まれているから続けるだけでも基礎体力の向上に繋がるからだ。追々新しいメニューを取り入れていくべきだとは思うがまずはこれを終えてから。次に行うランニングマシンを使ったトレーニングのためにマシンの設定をいじっているとトレーニングルームの扉が開いた。

「精が出るな」
「こんばんは。炯さん」
「お疲れ、名前」

 ゆっくりと動き出したマシンに合わせて走り始めると声をかけられた。横を向けば炯さんがいつものかっちりとしたスーツではなくトレーニングウェアを着てそこに立っていた。
 炯さんは母国で軍事訓練を受けているのでこの仕事に入る前から戦闘技術に長けている。身体もしっかりできていて正直トレーニングなんてしなくてもどうとでもなりそうなのにこうしてトレーニングルームに足を運んでいた。此処にどれくらいの頻度で通っているかまでは聞いたことがないけれどそれでも私は此処で炯さんに両手で数えられないくらいの回数は会っている。すごく努力家の人だ。

「あの、格闘訓練付き合ってくれませんか?」
「わかった。俺で良ければ付き合おう」
「炯さん強すぎるから頑張り甲斐あります」

 研修所の時から彼とは何度か手合わせをしているが未だに勝ったことがない。体格差や経験の差があるので当たり前といえば当たり前なのだがこういう手練れの人をいつか相手にする日がくるかもしれないのでそれは言い訳にできない。私は私なりに小柄な身体を活かした戦い方を身に着けるためにも炯さんに挑むのは為になる訓練のひとつだ。

 炯さんは以前私がこういった話を相談したことがあるからか私がこういう無茶な訓練をお願いしても断ることはしてこなかった。むしろ訓練の後に気付いたことや戦い方のアドバイスをくれる。ありがたいことだ。

「もう少しでこのメニュー終わるのでその後よろしくお願いしま、すっ!?」
「! 危ない!」

 喋りながらやっていたから気が抜けていたのかもしれない。靴ひもが解けていたことに気が付かなくてそれを思いっきり踏んでしまった私は体勢を崩して倒れかけた。このままランニングマシンの上で倒れたら危ないと思った炯さんが反射的に手を伸ばして私をランニングマシンの上から引っ張って倒れるのを防いでくれる。しかしその時もランニングマシンの端で躓いてしまい炯さんのいる方向に倒れ込んでしまった。どたん、と派手な音が部屋に響く。

「いったーい…」
「それは俺の台詞だ」
「で、ですよね!ごめんなさ…あ」
「む」

 勢い余って倒れた際にそのまま炯さんの上に思いっきり乗っかってしまった。おかげでぶつけたのは膝くらいで済んだけれど炯さんは思いきり尻もちをついたようでちょっとムッとしていた。慌ててどくために身体を動かそうとしたがむに、と胸部が何かに掴まれて驚いて身体が固まる。胸元を見ると私の身体を支えるために咄嗟に出していた炯さんの手が綺麗に私の胸を鷲掴んでいた。炯さんの指は細長いし大きいからすっぽりと収まっている。…なんて現状を観察している場合じゃない。

「〜〜〜っ!?」
「すまない。支えようとしてつい手が出てしまった」
「え、あ、いや!仕方ないです私が元々悪いので…こちらこそ…」

 助けて貰ったのに申し訳ないが思わず彼の身体から逃げるように後ずさってしまう。炯さんもいつもの表情を崩してはいなかったがそれでも驚いてはいたようで自分の手をじっと見つめていた。いや何考えてるんだ。今の胸なのか?とか思われてたら。そりゃあ私のはお世辞をいっても大きくないし触り心地もきっと良くないだろうけど。…なんだか自分で考えていて恥ずかしくなってくる。

「(というかどうしよう。めっちゃ気まずい)」
「怪我はないか」
「な、ないです…」
「なら良かった。―――ほら、」

 炯さんは立ち上がってから私に右手を差し出してくれる、その手がさっき私の胸に触れていたことを思い出すと正直気恥ずかしさしかなかったが手を借りないのは何だか申し訳なくておずおずとその手をとった。ぐい、と力強く立ち上がらせてもらってから私は乱れた身なりを軽く整える。別に変な事してたわけでもないのに。なんだこの落ち着かなさは。

「先にストレッチをしてきていいだろうか」
「は、はい!」
「…次は転んでも助けられないからな」
「わ、わかってます!そこまで何度も転びません!」

 私がちゃんと立ちあがったのを確認してから炯さんは少し離れたスペースで身体を動かし始める。表情はいつも通りに戻っていた。

 対して私の心臓はバクバクとしたままで変にざわついている。いくら相手が炯さんとはいえこういった事故が起こると変に意識してしまっていた。本当よく考えろ、私。こんなのただの事故じゃないか。

 大きく深呼吸をしてとにかく気持ちを落ち着けようとする。炯さんは表情を崩すことなくストレッチを終えたしそのまま格闘訓練もしっかり付き合ってくれた。いつも通り的確なアドバイス付きだ。ここまで通常運転だと本当に気にしてないんだろう。なんかそれはそれでどうなんだ。私一応女なんだけどな。

「名前」
「ありがとうございました。また時間があるときよろしくお願いします」
「構わない。…あと、少しいいか?」

 トレーニングを終えて着替え終わった私に炯さんが声をかけてくれる。特に用事もなかったので炯さんに着いていくと自販機で大量のオレンジジュースを私に買って押し付けてきた。この行為の意味が最初はわからなかったので理由を訊ねてみるとほんのり照れた表情をみせてくれたから何だかんださっきのことを気にしてくれてたのだな、と察して少しだけ笑ってしまった。

 このことは灼さんに教えたらきっとからかわれちゃうだろうから内緒にしておこう。



20200330 Twitter掲載SSを加筆修正