キスしないと出られない部屋

「うーわ」

 見覚えのある光景にナマエは思わずため息を吐いた。
 指定された行動をしないと出口が現れず、外に出ることができない。そんなふざけた仕組みの部屋にどうしてかまた閉じ込められた。前回はピッコロと一緒だったが、今回は自身の弟と課題に挑まなければならんようだ。
 なんだここ、と不思議そうに、警戒した様子で周囲を窺っている悟空に事情を説明し、ナマエはテーブルの上に置いてある紙切れを手に取った。
 裏返しておいてあったそれを摘まみ上げてひっくり返す。書かれていた文言を理解すると同時にくしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。

「えぇっ!?なんて書いてあったんだよ!オラまだ読んでねえぞ!」

 床に転がったゴミくずを拾って皺を伸ばす悟空を見ているのが気まずくなり、目を逸らす。
 キスしないと出られない部屋、と憎たらしいほど綺麗な筆致でそう綴られていた。
 前は「相手の好きなところを言う」だったのに、いきなり上がったハードルに悪意を感じてナマエはぎりりと苦虫を嚙み潰したような顔をした。
 キスとは、つまり接吻で、口づけである。ぐるぐると頭の中を回る単語に頭をかかえるナマエに、内容を確認した悟空が歩み寄る。
 いつまでもこんなところにいたくないし、うだうだ言っても状況は変わらないし。やるしかない、やらねばならぬ。
 悲壮な覚悟を決め、兄がそろりと顔を上げると、弟は少し困ったように頭を掻いた。

「兄ちゃん、キスってなんだ?」
「う、うそだろ……」

 実践より先に説明が必要になるとは。
 なけなしの気合も風船の空気が抜けるようにしぼんてしまい、いっそバカバカしさを覚えてナマエはひくりと乾いた声で笑った。
 悟空は妻子ある身である。二児の父なのだから、子供を授かるためにそういった行為はしてきているはずなのにキスのひとつもしてこなかったとは。我が弟ながら呆れてものも言えない。彼女も大変だな。義理の妹を思い浮かべてナマエは頭の中で手を合わせた。愚弟がどうも苦労をかけてすみません。「全くだ」とイマジナリー弟嫁はぷりぷり怒っていた。

「えーっと、つまりキスっていうのは好きな人同士でするもので、特に家族や恋人と行うもんだ。付き合っている人や夫婦だったり。親子だったりだな」
「へぇ、オラ今までチチといっぺんもしたことなかったなあ」
「……帰ったらやってあげるといい。愛情表現だから」
「んー、そういや、悟飯がちっこい時にチチがあいつのおでこに口くっつけてたなあ。おやすみのきす、とか言ってたっけ」
「そうそうそれだよ……あ」

 そうだ。唇を合わせるだけがキスってわけじゃない。あの紙にも具体的な指示は示されていなかったのだから、おでこや頬でも問題ないはずでは。
 視界が開けるような天啓にナマエは椅子を引き倒す勢いで立ち上がった。そのまま机に乗り上げ対面に座る弟の顔を両手で包み、ぐいと顔を近づける。

「っ!お、おい」

 額に口づけた後、以前出口が現れた空間に顔を向ける。真っ白な壁があるだけで扉は影も形もない。

「ダメかぁ」
「兄ちゃん……なあ、ちょっと」
「あ、ごめん。ごめんついでにもう一回」

 ちゅ、と頬にも唇を寄せてみてもうんともすんともしない部屋に困ったように眉を下げ、ナマエは今度こそ悟空の顔から手を離した。

「急にこんなことされて嫌だったろ?あの紙にキスとしか書いてなかったからこれで出れると思ったんだけど、参ったな」
「嫌じゃなかったけどさあ。おでこやほっぺじゃダメなんかな」
「うーーん、他の場所かー……」
「どっかあるのけ?」
「う、んーー……。そうだな、ちょっと、わかんないな」

 ナマエは逃げに走った。
 この歳で性経験どころかファーストキスもまだなのですっかり日和ってしまった。おでこと頬は挨拶という認識だったから恥もなにもなかったが口はなんだか特別な気がしたのだ。拗らせている自覚はある。それに弟だって、嫁ともまだなら誰ともしてないだろうし、初めてが兄なのは可哀そうだという気持ちもあった。

 そんな感じで1日が経ち、2日目の夜である。月光差し込む薄暗い部屋でベッドに横になりながらナマエは悶々としていた。
 さすがにこのままはまずい。
 ナマエには仕事があるし、悟空も畑や修行がある。初日は妙に緊張してわからないふりをしてしまったが、それぞれの生活と天秤にかけるほど大層なことでもなかったなと考えを改めていた。弟は特に焦る様子もなく自主トレをしたり、望むものが出てくる謎のキッチンを楽しんでいるが、ふと遠くを見つめている瞬間があるのでやはり外がどうなっているのか気がかりなのだろう。
 よし。明日ここを出よう。
 そう心を決めた翌日。ナマエが口を開くより先に悟空が声を上げた。

「亀仙人のじっちゃん家で見たことがあるんだけどさ、口と口をくっつけるのもキスになるんじゃねえかな」
「お、おおう」

 マジか。よもや、そういったことにとんと疎い弟の方からそんな話題を振ってくるとは。ていうか武天老師さまは何を見せてんだ。
 背中に宇宙を背負いかけたナマエはハッと正気に戻り頷いた。せっかく弟の方から乗り気になってくれているのにここで話の腰を折るわけにはいかない。

「そうだな。試してみるか」
「よし、そんじゃ今度はオラからする」
「えっ」

 待てと制止する間もなく、兄がしたことを真似るように両手でナマエの顔を包み、少し上を向かせた悟空はそのまま顔を寄せた。

「うっ、む」
「んん……」

 ぐっと閉じた口に触れるむにむにと柔らかな感触。
 情緒もへったくれもなくこちらを見つめる黒曜の瞳が恥ずかしくてナマエはぎゅっと目を瞑った。
 仕方ない、帰るためだから。そう納得させて羞恥に耐えていると、カチャン、と鍵の開く音がした。記憶にある出口が現れた時の状況を思い出し、これでようやく帰れるとナマエは悟空の背中を叩く。

「?……っう!?」

 離れる様子のない弟を不審に思い、そろりと瞼を持ち上げた。
 その瞬間を狙ったように、ナマエの唇をぬるりとした熱がなぞる。驚き、わずかに開いた隙間にねじ込まれた肉厚の舌に歯列を、上顎を撫で上げられて、ぞわりと鳥肌が立った。離れようと肩を押し返しても、目の前の男は意にも介さず、それどころか頬に触れていた右手を後頭部へ回しさらに密着させてくる。

「ッ!?んっ、ゃ、う゛……っ、ッぁ、ぅ、んん゛っ……んぇ、う゛……!」

 咥内の奥で縮こまっていた舌を絡めとられ吸い上げられると、びりびりと頭から背中へ痺れるような感覚が走った。
 あの爺さん一体どんなもんを見てたんだ。悟空も初めてじゃなかったのかよ。
 ぐるぐると考えが浮かんでは霞のように散らされていく。頭の中ではずっと警告音が鳴り響いているのに打開策を考えようにも思考がままならない。唇の間から漏れる吐息や、唾液が顎を伝う感覚にすら身体が震えてしまう。未知の快感の前にナマエは成す術がなく、ただ流されていった。

「ぁ、は、ッ……、ん、ン」
「、ふ……」

 涙で滲む視界に映る、よく見知ったはずの瞳が、別人のようにどろりと熱く濡れている。初めて見た弟の雄の部分に、逃げようと反射的に体を捻れば背中と腰に腕を回され、囲われて、身動きが取れなくなる。抵抗のために肩に置いた手はもはや指先が道着に引っかかっているだけになっていた。無意識に伸ばした舌先で男の舌の裏にちょんと触れればじゅうと啜り上げられる。下唇を甘噛みされるだけでびくりと腰のあたりが疼く。じゅるじゅると音を立ててむしゃぶりつかれて、ナマエは自分がこのまま食われるのではないかと錯覚しそうになった。このまま、どろどろに溺れさせられて溶かされてしまうのではないか。きつく抱き締められた肉の檻の中に恐怖はなく、甘やかな悦楽に身を任せてしまってもいいのかもしれないと、頭の芯からとろけそうな茹る熱の中で、ほんの少しだけ、そんなことを思った。


「おー!出れた出れた!」
「よかった、ほんとによかった……」

 きらきらとした満面の笑顔の悟空とげっそりとした面持ちのナマエ。対照的な2人の姿はあの部屋に囚われる直前までいた、ナマエの家にあった。時間は巻き戻らないらしく現実でも3日経っているが、幸いにも悟空はナマエの家に泊まる手筈になっていたので家族や仲間たちから心配されることもないだろう。

「今日はもう帰んな」
「ああ、また来る」
「や、しばらく来なくていい……」

 よろりとリビングテーブルの椅子に座り込んだナマエに促されるように悟空は玄関に向かおうとしてナマエの肩をつついた。
 なんだと項垂れていた頭を上げたタイミングで触れるだけのキスをした悟空はニコーっと幸せそうに顔を綻ばせた。

「キスって気持ちいいんだな」
「そうですか」
「兄ちゃんも気持ちよかったろ?」
「……、ん」
「またやろうな」
「もう結構ですぅ!嫁さんとしろ!!」