厚い雲と、小雨と煙が混ざった霧。うず高く積み上がった、どこまでも続くゴミの山。それが目を覚まして最初に見た景色だった。
茫洋とした様子で灰色の空を見つめていた男は、やがてゆっくりと自身の置かれた状況に思考を広げていく。
たしか、自分は会社に向かっていたはずだ。通勤ラッシュの電車は、前日の夜から降り続ける雨のせいで普段にも増して人が多くて。憂鬱な朝だった。それがどうして地面に横たわっているのだろう。思い出そうとしたが、まるで切り取られたかのように、不自然な記憶の欠落があった。
排気ガスや香水といった人工物の匂いから打って変わって、雨に濡れた土と食べ物が腐ったような、よくわからない刺激臭が鼻をつく。肌に当たる砂と泥混じりの感触はアスファルトとは明らか違っていた。
体を起こした男はふらふらと歩き始めた。雨の中でもそこかしこのゴミ山から上がる煙に、ゴミ処理場にでもきてしまったのか、と推測してみる。何があれば出勤途中にこんな所にやってきてしまうのだろう。ありえないとわかっていて、しかし理解を超えた状況を無理やり飲み込みこみたくて、帰る手立てを探し始めた。
出口を見つけるか、人がいたらここから出してもらおう。とにかくこの酷い匂いから早く解放されたかった。しかし体が思ったように動かない。進みの遅い足と視界の悪さに苛立ちを覚えた時、ふと、水たまりに映る自分の姿に目を見開いた。ぺたぺたと体を触って、目の前に広げた手のひらの大きさに自身の体が縮んでいる事に気付く。奇妙なことに、瞳の色だけが覚えのない色に変化していた。
あまりのことに動けないでいると横から衝撃が来た。受け身も取れず瓦礫の上を転がって、尖った破片で腕を切った。痛みに呻いて、自分を吹っ飛ばした何かを見上げれば、不機嫌を顔いっぱいに表した大きな男が立っている。
どうやら男の進路を塞いでいたことが原因らしい。
苛立ちを隠さない声で何か言いながら、腕を振りかぶる大男に慌ててその場から駆け出した。
蹴り飛ばされた腹はじんじんと鈍く痛みと熱を持っている。
人がいれば、と考えていたが、あの男はどうしたって話が通じるように思えなかった。
その後も似たような事を何度か繰り返して、自分が異世界に身一つでほっぽり出されたことを知るまでにそう時間はかからなかった。
何もかもが自分の知っているものとは違う。さらに、言葉と文字がわからないことが最悪に拍車をかけた。自分以外の人間が話していることが全く理解できない。そのへんに転がる空き缶に書かれた文字が読めない。文字の形は英語に近い気がするのに、頭の中で言葉として結びつかなかった。パッケージに書かれた魚のイラストから魚の缶詰だったのだろうと想像する程度だ。
ここにやってくる直前の自分が何をしていたのか。ここはどこで、どうして体が縮んでいるのか。教えてくれる人も、助けてくれる人もいない。帰る方法なんて見当もつかない。
不確かな物の終着駅と呼ばれる、世界から掃き捨てられたモノが行き着く果てのその場所では、人間の価値もゴミ屑のように扱われる。日々の暮らしもままならないほどに飢えて、追い詰められた人間は、他人から奪うことに躊躇しなくなっていく。そうしなければ自分の身が持たないからだ。自分より弱く小さな者だろうと容赦なく暴力は振るわれた。
村のはずれにある、今は使われていない古びた大きな風車の中で、ルフィはそれと出会った。
ボロ切れみたいな布に身を包み、廃材の隙間に潜り込んでいた真っ黒な塊を人間と認識するまで時間がかかったのは無理もない。泥と血と汗で張り付いた髪の間から覗く暗く濁った瞳が、窓から差し込む夕日を受けて反射していなければ、きっと気付かなかったろう。
声をかけても身動きひとつせず、声も発さない幽霊のような生き物に薄気味悪さを覚えた。骨と皮ばかりの体は傷だらけで、ひと呼吸の後に息絶えてしまいそうだ。
目を背けたくなる有様だったが、自分と同い年くらいの子どもを放っておけず、何より同年代の子がいるのが嬉しくて、ルフィはそれを連れて帰ることにした。
やんちゃ坊主として知られる少年が半ば引きずりながら背負って帰ってきたものに大人たちは騒然とした。すぐに村の診療所に運び込まれ、体を清められ怪我の治療が行われた。包帯まみれでベッドに横たえられ、点滴パックから薬液が落ちる様子を眺める子どもに医師がいくつか質問をしたが、少年は声を発したもののすぐ困った様子で口をつぐんでしまう。
筆談も試みたが、少年が書くミミズが這ったような文字を読み解ける人間はいなかった。
「言葉がわからないのかもしれんな」
「見た感じ、ルフィと同い年くらいだろ?四歳かそこらで、何もわからないってことは……」
「教えてくれる人が誰もいなかったんだろう。むしろ、よくこれまで生きてこれたものだ」
身体中痛いだろうに、泣くこともなくぼんやりと天井を見つめる幼い子どもに、村人達はかける言葉が見つからなかった。難しい顔をする村人達の足元で不意に高い声がする。
「なあ、そいつ元気になった?」
声のした方に顔を向けると、蚊帳の外にされていたルフィが痺れを切らして部屋に入ってきていた。大人たちの間をするすると通り抜けて自分が拾ってきた生き物を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「人だったのか〜!臭いし汚いし喋らないから、てっきりお化けかと思った!」
散々な物言いだったが、言葉がわからない子どもには自分と同じ大きさの人間が突然話しかけてきた事しかわからない。蔑みも哀れみでもない、裏表のない笑顔を向けられる事はこの世界にきてから覚えている限りではじめてのことだった。
名前は?
どこから来たんだ?
なんであんな場所にいたんだ?
矢継ぎ早に話しかけるルフィに、成り行きを見守っていたマキノが声をかける。
「この子には名前がないみたいなの。だからルフィ、あなたが新しい名前をつけてくれる?」
「そうなのか。じゃあ、えーっとな……」
むむ、と頭を捻るルフィにマキノは微笑んだ。
ルフィの口ぶりと少年の身なりから、おそらくコルボ山と森を抜けた先のグレイ・ターミナルから辿り着いたのだろう。ゴミと病の吹き溜まりのような場所だ、と酒場の客から聞いたことがある。身につけていた物に身元がわかるものはなく。自分の名前すら答えられない。産み捨てられたのか、口減らしか。人攫いに遭ってどこか遠い場所から連れてこられたのかもしれない。どのような経緯であれ、きっと幸せではなかっただろう。
元気になって、帰りたい場所があるのなら送り出すつもりだが、行く当てがないのならこの村にいればいい。この子はそんな事望んでいないかもしれない。余計なお世話かもしれない。けれど、自分の置かれた環境が辛く、苦しいものだということすらわからないこの子に、人生には楽しいこともあるのだと知ってほしい。読み書きを覚えて、たくさん笑って、泣いて、怒れるようになって、いつか自分の足で好きなところに歩いていけるように。この村で育てよう。
決意を瞳に滲ませたマキノの姿に村長も頷く。村の住人たちも思いを同じくした。
「じゃあ、目が青いから、ナマエ!」
横たわる少年を指さしてルフィは宣言した。悩んだわりに安直な名付けに小さく笑い声が聞こえてくる。沈んでいた部屋の空気が明るくなるようだった。
目を覚ますと消毒液の匂いがする部屋で、清潔なベッドに寝かされていた。
文明を感じられる空間なんていつぶりだろう。人間らしい扱いを受けて、冷たく固まっていた心が少しづつ解けていくようだった。明るく元気な声で話しかけてくる子どもの声に、ああ、もう大丈夫なのだ、と強張っていた体から力が抜けていく。
村の人たちに助けられ、読み書きを教わるようになってから、これまでが嘘のようにこの世界の言葉がわかるようになった。あれだけ理解しようとして簡単な言葉ひとつ覚えられなかったのに、と思わないでもないが、意思疎通ができる事は嬉しい。ゴミ山で散々試したが、一縷の望みをかけて自分の名前や日本語を書いたり口にしてみたが、やはり誰もわからないようなので、こちらの世界にいるうちは村の子に付けてもらった「ナマエ」という名前を使っていこうと思う。
なにより驚いたのが、その名前をくれた子がモンキー・D・ルフィということだ。元の世界でこの名を知らない人はそういないだろう。いろんなコラボだったりテレビCMなどで興味の有無に関わらず広く周知されているあの作品のことは、自分も知っている。子どもの頃は漫画を集めていたし、アニメも見ていた。
同姓同名か、親が熱心なファンなのかと考えたのも束の間。村の名前がフーシャ村だったり、海賊、海軍などの単語が村人の会話の中で自然と出てくることがわかるようになると、ひとつの仮説が浮かび上がった。
――もしやここ、ワンピースの世界なのでは。
思い当たった仮説の突飛さに乾いた笑いこみ上げる。そして、おそらくそれが正解だろうことに空を仰いだ。
異世界に飛ばされたことはどうにか受け入れたが。
いやいや、まさか。そんなこと……。
…………。
否定しようにも材料がなく、むしろ納得できるくらい状況証拠が揃いすぎている。
現実から逃げるように空を流れる雲を眺めていると遠くから声が聞こえてきた。
「おーい!ナマエ〜!一緒に釣りしよう!ナマエー!どこだー!」
「ハーイ。ここにいますデス」
「はは!また変な言葉になってんぞ」
「そう?」
こちらの心境などつゆ知らず、今日も元気に駆け回るルフィに呼ばれてゆっくりと歩き出す。折れた骨や怪我はほとんど治ったが、走るにはまだ体力が足りないからと医者に釘を刺されているのだ。リハビリも兼ねてルフィについて回る日々はのんびりとしていて居心地がよかった。
とんでもない場所にやってきてしまった、とうらぶれていた心もじんわりと癒されていく。
まあ、まだ夢オチの可能性もあるし。
明日になったら元居た場所に帰ってるかもしれないし。
仕事と家の往復ばっかりで休日出勤もザラで、正直めちゃくちゃ疲れてたし。
……うん、降って湧いた休みと思うことにしよう。
サビ残のし過ぎで気が狂ったとかでは断じてない。
衣食はみんなで出し合うとして、住居はどうするか。
少年が迎え入れられた当初、大人たちの間で行われた会議で最も難航した議題だった。
村人たちはさほど裕福ではなく、生活に必要な最低限の広さの家や家具しか持っていなかった。押し付け合うわけではなく、ただ受け入れるだけの余裕がない。数日泊めるくらいならできるが、住まわせるには部屋が足りない。
回復した本人は言葉が話せない代わりに身振り手振りで雨風が凌げればいいと、ルフィと出会った古びた風車で暮らすことを提案してきたが、廃墟然としていて風呂もトイレもベッドもない、隙間風が吹き込むような場所に幼い子ども一人で住まわせるなど受け入れられるはずがなかった。
そのあたりの情操教育もしなくては、と心優しい村民たちは決意を新たにした。
あーでもないこーでもないと頭を悩ませる中、声を上げたのは酒場の主人であった。
「なあマキノ、今日泊まってもいいか?」
丸椅子の上に登ってこちらの様子を伺うルフィに、マキノと呼ばれた女性はにこやかに頷いた。
マキノが営む酒場の倉庫にしていたスペースを整理してナマエの部屋を作り、生活を共にするようになってから、たまにルフィがマキノの家に泊まりに来るようになった。目的は言わずもがな。最近できた友達である。
「風呂入ろ!」
「一緒に寝よ!」
「いっぱい食べろよ!」
そういってナマエの手を引くルフィは、いつにもまして楽しそうにしている。
自分のお気に入りの場所を教えたり、村の中を案内したり。最近読み書きを覚え始めたばかりのナマエがたどたどしく話しかけたり、言葉に詰まっても、急かしたりせずにじっと待っている。ナマエが文字の練習にと手紙を書いて渡せば、ルフィはうっかり破いてしまわないように大切に大切にしまっていた。
年の近い子どもが身近にいなかったから、よほど嬉しいのだろう。
「この子はね、わからないことがたくさんあって、これから少しずつ覚えていくの。だからルフィ、よかったらナマエのお友達になって、困っていたら助けてあげてね」
怪我と汚れにまみれて真っ黒だった子どもが清められ、清潔な衣服を着せられて、手当てされている間にマキノはルフィにそんなことを言った。
いつもなら夕食を済ませている時間なのに、ナマエが治療されている部屋の扉の前で腹の虫を鳴らしながら。そわそわと落ち着かなく待っていた子どもはこっくりと大きく頷いた。
きっと誰かが言わなくても、この少年たちは良い関係を築けていたのだろう。
ちょこちょこと動き回る小さな姿がまるで兄弟のようで微笑ましい。マキノはゆるりと眦を細めた。
大人たちは仕事があるからずっと一緒にはいてくれない。
親は知らない。
じいちゃんはたまにしか帰ってこない。
穏やかな村の中、毎日同じような事を繰り返す人々。平和なことは素晴らしいが、退屈だった。周りの人たちは優しいが、ルフィは独りだった。
ナマエと出会って、これまで感じてきたものが寂しさだったのだと知った。
隣に誰かがいると安心することも。繋ぐ手の温もりも。舌足らずな発音だったナマエがはじめてルフィの名前をきちんと呼べた時なんて、今でも思い出しては唇が緩んでしまう。言ったことの半分も伝わらなかったのに、最近は少しゆっくり話せばちゃんと会話ができるようになった。
友達がいると毎日が色鮮やかに華やぐことを知った。早く明日がくればいいのにと思いながら眠りにつくわくわくを知った。
知ってしまったら、もう戻れない。
1人だと胸に穴が空いてしまったかのように冷たい風が吹くのだ。寒くて、切なくて。どうしても我慢できない時はマキノに頼んで泊めてもらうようになった。
まだまだ話したいことがたくさんあったのに、もう寝なさい、と布団に押し込まれたらとろとろと瞼が下がってくる。
せっかく一緒にいるのに眠ってしまうのがもったいなくて。それでも意識は睡魔の波にさらわれて今にも溶けていきそうだ。
抗うように布団の中でナマエへ手を伸ばせば、暖かいものに触れた。指を絡ませるように握りこめば、控えめに握り返される。
夢の中なら、この村の外へ、海の向こうへだって飛んでいけるかな。
見たことのない景色を見て、美味いものをたくさん食べて。その時に隣にナマエがいてくれたら、きっととても楽しいに違いない。
同じ夢が見れたらいいのに。そこまで考えて、ついにルフィは眠りに落ちた。
フーシャ村のはずれにある森の中、鬱蒼と茂る木々が開けて海が見える草原に、一人の少年の姿があった。
「海兵になれ」と言い聞かせる祖父に、いつものように反発して、いつものように頭に拳骨を落とされて。誰かに敷かれたレールを歩むのはまっぴらだ、とルフィは痛みの残る後頭部を抑えていた。そんなむくれた顔の少年に近づく小さな影がひとつ。
「またガープさんにげんこつされたのか」
「ナマエ!てつだいはもういいのか?」
振り返ってぱっと笑顔を見せる友人に、りんごを差し出してナマエと呼ばれた少年は頷いた。お手伝いの駄賃にと八百屋の店主から渡されたものだったが、1人で食べきれる量ではなかったので差し入れついでに消費してもらおうという魂胆である。
あっという間に平らげたルフィは、未だひとつのりんごに齧り付く幼馴染の隣でころりと横たわる。ゆったりと翼を羽ばたかせて大空を渡るカモメを見上げて、ルフィは独り言のように呟いた。
「おれはいつか、この村を出て、すっげーことをするんだ」
「ふぅん」
ナマエはなにも言わない。肯定も、否定も、応援もしなかった。
祖父や村長をはじめ周りの大人たちは、自分がやること、やりたいことに何かと口を挟んできては、あれはダメだとか、こうしなさい、なんて言って窮屈に押し込めようとしてくる。心配してくれているということはわかるが、どうにも息苦しくて嫌だった。マキノのような話の分かる人から「頑張って」と言われるのは悪い気はしなかったけれど、どうにも子ども扱いをされているのがもどかしい。
だが、ナマエはそんな彼らとは違った。ルフィが怪我をすれば救急セットを持ってくるし、悪ふざけが過ぎれば叱ることはあれど、彼はルフィが夢について話す時はただ頷いて耳を傾けた。
好きにすればいい、と態度から伝わってくる。投げやりではなく、無関心でもなく、自分を信じてくれているから何も言わないのだと。それが心地よかった。出会ってまだ一年くらいなのに、もうずっと昔から一緒にいたような、ほっとする気持ちになる。
「――あ」
海から吹く風が優しく肌を撫で、髪を揺らす。
野原の草がさわさわと擦れる音に誘われるまま船を漕ぎ始めたルフィは、ナマエの小さく驚きを含んだ声で瞼を持ち上げた。
目を擦りながらむくりと上体を持ち上げて、一点を見つめる幼馴染の視線を追って海に顔を向けると、一隻の船が目に留まる。黒い旗にドクロを掲げた大きな帆船は悠々と海原を進んでいて、その進路はどうにもこの村の港に向いているらしかった。
「……海賊船?」
「……だな」
「おれ、みてくる!」
立ち上がった勢いのまま村へ駆け出したルフィ。ナマエはそのあとを追うように腰を持ち上げた。
海賊王への夢、そのきっかけになる出会いは目前だった。
幼馴染に少し遅れて港に着くころには船はすでに錨を降ろしていた。
ガープさんの戦艦とどっちが大きいんだろう。なんて、オレが呑気に構えてられるのはこの海賊たちが一般人に手を上げないということを知っているからである。こちらの世界に来る前の記憶に、この世界を舞台にした創作物があった。漫画やアニメというフィルター越しの平面の世界を見るのと、実物を前にするのとでは当たり前だが迫力が違う。田舎の船着場には明らかに不釣り合いな巨大な船を前に、ぽかんと口を開けて見上げるばかりだ。
「この村に変なことしたら、ただじゃおかないからな……!」
突然やってきた海賊に困惑と恐怖で固まる大人たちや、”本物”に圧倒されるオレをよそに、緊張でこわばる体を奮い立たせて啖呵を切ったルフィに、赤い髪の男が歩み寄る。
「なにもしやしないさ。しばらくの間、この村を拠点にこのあたりの海を巡ろうと思ってな」
よろしく頼む。そう笑いかける海賊を威嚇するように睨むルフィは、けれどきっとすぐに彼らと打ち解けるんだろう。
歴史的な瞬間に立ち会ってしまった。
スマホがあればこっそり動画を撮っていたかもしれない。
そんな野次馬精神で内心興奮していたナマエは、村長と話をしようと視線を上げた赤髪の男が目を見開いたことに気付かない。小さく掠れた声で呼ばれた名前は、彼の目の前にいたルフィにすら届くことはなかった。
フーシャ村の酒場は今日も賑やかだ。赤髪海賊団の貸切状態になっている店内では、そこかしこから乾杯の音頭や、航海の自慢話、見つけた財宝など、男たちが思い思いの話題で盛り上がっている。店主であるマキノは矢継ぎ早に寄越される注文も笑顔で淀みなく捌いていた。村の子どもとして面倒を見てもらっていて、現在はマキノの家に身を寄せているナマエも料理や酒を運んだりしてお手伝いに精を出している。
両手に皿とマグカップを持ってちょこまかと動き回る小さな姿が微笑ましいのか、オーダーを取ったりテーブルに食事を持っていくたびにわしゃわしゃと少し荒い手つきで頭を撫でられるので、ナマエの髪はあちこち跳ねてしまっていた。最初は手櫛で整えていたが、あまりにも頻度が多いので途中で諦めている。
「船に乗せてくれ!」
腹を空かせた男たちの胃袋がほどほどに満たされてきた頃、幼くもよく通る声が響いた。
皿洗いをしていたナマエが視線を向けた先には、いつの間にかやってきていた少年がシャンクスの隣の椅子によじ登って腰掛けている。「海賊になりたいんだ」と口癖のように話すルフィは、その憧れを体現するシャンクスが酒場にいる時はいつもそうやってじゃれついていた。本人は至って本気だが、周りの大人たちは「まぁた言ってるよハハハ」と笑いのタネにして取り合わない。
一瞬の判断やその場の運が生死の分かれ目に繋がる広い海は、年端もいかぬ子が冒険できるほど甘くない。熱意や夢だけで渡っていける世界ではないことをよく知っている悪い大人たちは「海はいいぞ海賊は自由だ」などと純粋無垢な子どもを唆しながら、しかし船に乗ることは許さなかった。
だからといってルフィも簡単に諦めるような聞き分けの良いお子さまではない。出港前の船に隠れて密航しようとしていたこともある。ウタに見つかって降ろされたのだが。
「入団テストしてくれよ!」
「またか」
「今日こそ合格してやる!」
「どうだかな」
密航は諦めたのか正規の船員となって海に出ようと意気込むルフィに、にやりと揶揄うように口角を上げるシャンクスはカウンターに置かれた空のマグカップを3つ引き寄せた。
「残念だったなァ!」
「ずりー!!」
べ、と出した舌の上に乗っているコインを見せて笑うシャンクスにルフィが地団駄を踏む。このやりとりも慣れたもので、そろそろ両手の指では足りないくらいになっていた。
泡のついた皿を水で流していたナマエはルフィの悔しそうな声を聞いて思わず苦笑した。
試験の内容はコイン当てゲーム。はたしてこれが本当に入団テストなのか疑わしいところだが、受かれば船に乗れる、と信じているルフィはシャンクスに会うたびこのゲームをせがんでいた。
そうしてシャンクスに構われているルフィを快く思っていないのがウタだ。大好きな父親を取られると思っているのか、「シャンクスに近づくな」と頬を膨らませる娘に、シャンクスは「フーシャ村をウタに見せてやってくれ」とルフィに頼み二人を送り出した。
海賊という立場上、基本的に海上で生活をしていると人間関係も限定されてしまう。島に降りたとしても身分が割れれば遠巻きにされるか、通報されるか、同業者に誘拐される可能性があって交流もままならない。人も治安も穏やかなこの島にいる間くらいは同じ年頃の友達とのびのび遊んでほしい。そんな親心だった。
子ども達を見送って、コインをしまおうとしたシャンクスはふと動きを止めた。そして皿洗いを終えて陽気な男たちの輪の端にちょんと引っ掛かるように佇むナマエを視界に入れると、手をあおいで呼びよせる。
素直に近づいてきたもう1人の少年に赤髪の大人はにっこり笑った。
「お前もやるか?」
「オレはいいよ、海賊になりたいわけじゃないし」
「まあまあ、そう言うなって!一回だけだから!」
最初からやらせる気だった船長は、相手の言葉をスルーして伏せたマグカップにコインを隠し、どこにあるかわからないように動かした。
うきうきとした様子で「コインはどこだ?」と聞く姿はどちらが子どもかわからない。その場の流れで見守る船員たちの好奇の視線を受けながらナマエはひとつのマグカップを指さした。
どれにコインが入っているかなんてさっぱりわからない。どうせ自分もからかわれているのだろう。そんな投げやりな気持ちで適当に選んだマグカップの下には、鈍く光るコインがあった。
「お見事!」
「やるなぁ!」
「ルフィが見たら悔しがるだろうな!」
ピュウッと指笛がなり、野太い歓声が上がる。
当たっちゃったよ、と肩を落とす当人を置いて周囲の大人は大盛り上がりだ。だいぶ酒も入っているのだろう。今ならきっとフォークが落ちるだけで笑いが起きる。笑いの沸点が駄々下がりだった。
「テストは合格だ。どうだ、おれの船に乗るか?」
手元のコインを見つめているとシャンクスの声が問いかけてくる。
これがルフィなら即答したのだろうが、ナマエは別に船に乗りたいわけではなかった。きっと自分が本気にしたところを「なーんちゃって!冗談に決まってるだろ」などと笑い飛ばすつもりだろう。子どもっぽいな。そんな少し呆れた気持ちでナマエは顔を上げて、息を呑んだ。
シャンクスは、いつものからりとした笑顔ではなく小さく微笑みを浮かべてこちらを見つめている。
「海は良いぞ。どこへでも行けるし、なんだってできる。戦闘の時はウタと一緒に部屋で待機してりゃいい。どんな危険からもおれが必ず守ってやる」
声を詰まらせるナマエに追い打ちをかけるようにシャンクスは言葉を紡いだ。
相手がオレじゃなければ熱烈な口説き文句だったろうに。
テーブルに集まっていたギャラリーは既に各々のテーブルに戻ったり歌ったりと騒々しい店内で、ここだけが切り離されたみたいだ。本気か嘘かわからない表情で話すシャンクスに、ナマエはおずおずとコインを差し出した。
「ごめん」
ロマンを求めているわけじゃない。変わらない毎日が、平穏な日々が続くだけで満足している。たまに退屈に思うことがあっても、結局は現状維持で充分だと思うくらいには。それになにより、フーシャ村に居たい理由がある。
「この村に助けられた。今もたくさん助けてもらってる。だから恩返したいんだ。海に出たいとは思わない」
「……わかった」
「ごめん、ね」
「いいさ。半分冗談だ」
半分本気だったんかい。
くしゃりと格好を崩したシャンクスは、この話題は終わりとばかりに、最近の航海について語り始めた。わざと話を逸らしたとわかっていたが、これ以上乗る乗らないで言い合ったところで平行線を辿るだけなので乗っかることにした。
半分冗談は嘘だ。全部本気だった。
ルフィみたいに目を輝かせて「海賊になる」と一言、頷いてくれたなら。
そんな望みをかけてゲームに誘った。乗り気じゃないことはわかっていたが酔っ払いの絡み酒を装ってゴリ押ししたし、三つのカップ全部にコインを仕込むなんてズルまでした。我ながら必死だな、と内心で呆れたりなんかして。
それでも、みっともなくてもいいからこの手を取ってくれたなら。
しかし、ナマエは首を横に振った。
こうなることはわかっていた。こいつがフーシャ村にいる経緯は村の人間から聞いていたし、義理堅いナマエは村の為に人生を使うつもりなのだろう。子どもが少ないということは、将来村の担い手が不足するということだから。
だが、その通りにいかないことを、おれは知っている。ナマエはいずれ海に出て海賊になるだろう。
――十年くらいしたらまた会えるかもな。
もう随分と朧げになった声の主を思い出す。今のナマエより幾分か低い声の青年がそんなことを言っていた。夕日を背に笑顔を浮かべる彼を見上げていた、幼い記憶。擦り切れるほど思い返してなお脳裏に焼き付くあの青い瞳におれがどれほど焦がれてきたか。お前は知らないだろう。やっと会えたと思えば娘より小さくなっているし。最初に見た時なんて、あの野郎子どもこさえてやがる、と気が遠くなる思いがした。
けれど、その名前が、面影が、なによりあの瞳がオレの望んでいた人であると確信させた。そうして、全て繋がった。
今のお前がおれを知らなくても、いい。
いつまでも待っててやるから。
「シャンクスがあんなかっこ悪い奴だったなんて、がっかりだ」
「何回同じこと言うんだよ。ため息ばかり吐いてないで。おやつでも食べな」
「いいのかー!ありがとう!」
カウンターに顎を乗せてむくれた顔のルフィにガラス容器が差し出してやる。艶々としたカラメルがかかったプリンを中心にホイップクリームや果物が彩り豊かに飾られたプリンアラモードを前に、しかめっ面の子どもの顔がぱっと明るくなった。
料理の練習で作った試作品だったが、スプーンいっぱいにプリンと果物を掬って頬張るルフィは先ほどまでとは打って変わってご機嫌に足を揺らしている。単純な奴め。片付けもひと段落して客もいないので、休憩がてらルフィの隣に座って口元に付いたクリームを指で拭ってやった。
おやつを食べ終わってしばらくするとまた思い出したのか、ぶーたれるルフィにマキノさんがシャンクスの行動の方がかっこいいと返すも、「わかってない」と納得がいかない様子だ。山賊に酒をぶっかけられた一件から、ルフィは憧れの海賊像が裏切られたように感じているらしくずっとこんな調子でいる。
「ナマエはどう思う?」
「オレも挑発に乗らない方がかっこいいと思ったけどな」
「でも……バカにされて、舐められっぱなしはかっこ悪ぃよ……」
赤髪海賊団が航海に出てから結構経つのでそろそろ戻ってくる頃だろう。シャンクスが帰ってきたらこの拗ねたお子様と仲直りをしてくれたらいいんだが、などど呑気に構えていたオレはこの後に何が起きるのかすっかり忘れてしまっていた。
「シャンクス! シャンクスッ……!」
いつも誰かが出迎えてくれるはずなのに、港に人の気配が全くないことを不審に思った赤髪海賊団が桟橋から陸に上がったところで、見知った子どもが息を切らして駆け寄ってきた。
シャンクスの足に抱きつくようにして止まったナマエに目線を合わせる為しゃがんだ船長は、少年の左頬が腫れていることに眉を顰める。事情を聞こうと口を開く前に手を取って誘導するように引っ張る姿は尋常ではない。
「早くきて! ルフィがころされる!」
「すぐ行く。場所はどこだ?」
「マキノさんの酒場! 急いで……!」
走りだそうとする子どもの震える手を取り抱き上げると、後ろに控えていたホンゴウに手当てを任せ、シャンクスは村へ続く道を急いだ。
はらわたが煮える思いを抑えながら、怒りを面に出さないようにあくまで平静を装って。
のどかな村で流血沙汰は起こしたくない、だが大切な友人に、この村に、あいつに、手を出したのなら、落とし前はつけてもらおう。
ルフィは助かるとわかっていた。だから、わざわざ港まで行くこともなかったのに、オレはなにをしているんだろう。
作品の中でも屈指の名シーンとして必ず上がるエピソードだ。あの出来事があったから、ルフィは海賊王への夢を強く思い描いて海へ旅立っていくのだから。
知っていたけれど、実際に目の当たりにすると圧倒されてしまった。
泣きじゃくる少年と、左肩の付け根から先を失った男。どよめき悲鳴を上げる村人に、医療器具を取りに船に走る船医。設備を貸し出せるようにと診療所へ駆け出す医者。
立ちすくむオレに、戻ってきたシャンクスが笑いかけてきた。
「怪我、たいしたことなさそうでよかった」
オレなんかよりシャンクスの方がよっぽど重傷だろうとか、死なないことはわかっているんだから心配いらないよな、なんて考えがぐるぐる巡って、結局頷くことしかできなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。実感が湧かない。オレにとってこの場所は夢みたいなものだった。ルフィも、シャンクスも、マキノさんも、村や海賊団のみんなも、オレの中では漫画の登場人物にすぎない。死にかけていたところを助けてもらって、与えられる優しさに感謝こそすれ、いつか覚める夢であれと信じているはずだった。
仲間たちに連れられていくシャンクスを見送ることしかできなかった。心臓がやけにうるさい。抱き着いてきたルフィから移る海水と涙の濡れた感触と、山賊に殴られた頬の痛みが、これは現実だと訴えているようで。
翌日、ダメ元でお見舞いに行ってみればあっさり船に乗せてもらえた。
それでいいのか大海賊。ガキひとり入れたところでなんの問題も無いんだろうけど。
ルフィは、村長をはじめとした大人たちにこってり絞られて謹慎という名目で療養している。
ベックマンに案内されて通された船長室のベッドには目的の人物が座っていた。
「帰りは送っていくから声かけてくれ」
そう言い残して、扉を閉めた副船長の足音が遠ざかるのを聞きながら、ベッドに近づいた。
「わざわざ来てくれたのか?」
「……うん。おみまい。あとで食べてね」
花より食べ物の方が喜ばれると思って果物を持ってきたが、ちょうど食事中にお邪魔してしまったらしい。
バスケットを近くの机において、ベッド脇に置いてある椅子に腰掛けた。上半身に何も身に付けていないので左腕がよく見える。やはり、腕の付け根から先が綺麗に失くなってしまっていた。
「まだ痛い?」
「まあ、ちょっとだけな。ホンゴウが診てくれてるしすぐ良くなるさ」
嘘つけ。なにがちょっとだけだ、すごく痛いに決まってるのに。
気丈に振る舞うシャンクスをじっとりとした目で見つめれば、何を思ったのか右手で頭を撫でられた。海風に煽られた髪を梳くようにするすると滑る指先が、気遣うようにオレの頬に貼られたガーゼに触れて離れていく。
「でもまあ、利き手が使えなくなったからな。色々不便ではある」
飯を食うのも一苦労だ、と困ったように笑う姿に、ベッドの上に置かれた食事に視線を向けた。トレーに乗せられた皿には患者とは思えないガッツリした料理が並んでいる。片手でも食べやすいように切り分けられているが、口に運ぶ時に皿から落としてしまうのか、トレーにおかずが落ちているのが目に付いた。
「食べさせてあげようか?」
「え、……いいのか?」
「? うん。口開けて」
皿の上に置かれたフォークを手に取って、タレにまみれた肉を刺す。シャンクスの口元まで持っていくのに、ぽけっとしたままこちらを見ているから口を開けろとせっつく羽目になった。
早くしてくれタレが落ちるだろ。ていうかなんで重傷患者がこんなスタミナ飯食ってんだ。顔も赤いんだけど、もしかして酒飲んでる?あとでホンゴウさんにチクってやろ。
「ほら、あーん」
「あ、あー……」
「……」
「……」
なんだこの沈黙。急に黙らないでほしい。気まずいんですけど。
さっきまでにこにこしていたのに、肉を噛むシャンクスはなにやら神妙な顔をしている。どうせなら娘がよかったなぁ、とか思ってるんだろうか。でもその娘に音楽学ばせるためにどこぞの島へ預けたのはシャンクスらしいのでオレで我慢してほしい。
「……美味い」
「よかったな。あとでルゥさんにお礼言ったげなよ」
「ん」
普段の賑やかさが鳴りを潜め、差し出す食事をもくもくと噛み締めている。様子のおかしいシャンクスが気にならないでもなかったが、ひとまずここに来た目的を伝えることにした。
「ありがとう。ルフィを助けてくれて」
腕を失ってまで友達を助けたのはこの人が自ら選んだ行動だ。オレがお礼を言うのはお門違いかもしれない。それでも、ルフィはオレにとっても、仲良くしてくれる友達だから。ちゃんとお礼を言っておきたかった。
「あのバカは山賊相手に喧嘩売るし。相手は大人で武器持ってるし。本当に、こわくて……」
すぐ助けにきてくれると思ってたシャンクス達はなかなか現れないし。どのタイミングで何が起きるかなんて覚えてなくて。もしかすると、このまま殺されてしまうんじゃないか。そんな考えが頭をよぎったら体が震えて動けなかった。
「お前達が無事なら、それでいいさ」
俯くオレを励ますようにシャンクスは優しく肩を叩いてくれた。
「あ〜、なんか甘いもんが食いたいな〜。そこの果物なんか美味そうなんだけどな」
しんみりしてしまった空気に呑気な声が溶けていく。いかにもわざとらしいリクエストに応えてあげようと目元を擦った。
「……りんご剥こうか?」
「ああ。うさぎにしてくれ」
「しょうがないなぁ」
丸窓から陽気が差し込む昼下がり、遠くに聞こえる海鳥の鳴き声と波の音を聞きながらりんごの皮にナイフの刃を滑らせる。
明日はゼリーでも作ってこよう。
麦わら帽子を手にした少年は、港から離れて行く海賊船をいつまでも見つめていた。豆粒ほどに小さくなって、水平線の向こうに消えていくまで見送ると、大切に抱えていた帽子を被りつばを引き下した。
夕日を受けて輝く海原はあの人の髪みたいだ。多分、もう会うことはないだろう。広い世界を航海する海賊にとって、小さな村にいた子どものことなどすぐ忘れてしまうに違いない。帽子を託していった友達は別として。
「絶対海に出て、海賊になる」
いつも騒がしいルフィも今日ばかりはしおらしかった。けれど、隣にいてやっと聞き取れるくらいの呟きには、揺るがぬ決意が滲んでいた。
シャンクス達が旅立ってからというもの、ルフィから勧誘を受ける毎日だ。セールスですかってくらいしつこく同じことを言われ続けるので、最近じゃもう聞き流すようになっている。
「一緒に来いよー!」
「行かない」
なぜ頷くと思うのか。行くわけがないだろう。
山賊の件で思い知った。架空だの夢だのと言い訳をしてきたが、殴られれば痛いし、いつまで待っても覚める気配がない。信じがたいが、これは現実なんだ。
そして、フーシャ村という穏やかで平和な場所ですら、森を抜けた先にはグレイ・ターミナルなんて治安最悪地帯が広がっている。新聞には戦争や海賊が起こした事件といった物騒な記事が日々紙面を賑わしている。そんな世界にオレが出て行ったって死ぬだけだ。実際一度死にかけているのだから、次はないだろう。
ここが漫画の世界なら、紛れ込んでしまったオレは異物に違いない。
余計で余分なものだ。真っ白な紙に落ちたインクの染みだ。いつ修正液で塗りつぶされて消えたっておかしくない。いるはずのない者なのだから、背景に描かれた顔のないモブキャラ以下である。
だから彼らの活躍を遠くで見守りながら、できるだけ危険から遠い場所で細々と生きていきたい。痛いのも怖いのもご遠慮願いたい。今の生活に満足しているのにわざわざ危険に身を投じたくない。
「海に出よう!」
「やだ」
行く行かないの押し問答の末、あまりのしつこさに耐えかねて「そんなに連れて行きたきゃ無理矢理船にでも乗せるんだな」とつい口走ってしまったために、十年後、船出の時に拉致られることになる。
あー、元の世界に帰りたい。
全部夢ならよかったのに。